2025年12月13日土曜日

1914年12月のリマノヴァの戦いは山岳地帯の森林等に覆われた地域で殺伐とした白兵戦が繰り広げられた。モルダルカ近郊リマノヴァの森にある集団墓地で、ロシア軍はロシア兵の死体を掘り起こした。

第一次世界大戦の東部戦線で、1914年12月のリマノヴァの戦いは山岳地帯の森林等に覆われた地域で殺伐とした白兵戦が繰り広げられた。モルダルカ近郊リマノヴァの森にある集団墓地で、ロシア軍はロシア兵の死体を掘り起こした。ハンガリー軍兵士らは、銃の銃床を棍棒に使ってロシア兵たちと激闘を繰り広げた。壊れた銃が転がって、頭蓋骨を砕かれたロシア兵の死体が散乱した。

 ロシア第3軍は西部へ猛進して、オーストリアの重要な要塞都市であったクラクフに迫った。オーストリア=ハンガリー軍は、劣勢を挽回する大胆かつ危険な作戦をして、第4軍と第3軍の間に隙間を作り、ロシア軍を誘い込んだ。ロシア軍が西部に集中している隙に、南側からロート兵団を投入し、ロシア軍の左側面を奇襲して包囲・撃滅した。

 リマノヴァの戦いは1914年12月1日〜13日に、ポーランド南部のリマノヴァとワパヌフ周辺で激しく戦闘が展開された。12月1日〜5日には、オーストリア=ハンガリー軍は、ドイツ軍の増援されて、リマノヴァに進撃を開始した。ロシア軍は側面からの脅威を軽視して、クラクフへの正面攻撃に固執した。12月6日〜10日でロート兵団がロシア第3軍の側面を突き、激しい戦闘が始まりました。

 オーストリア=ハンガリー軍は、オーストリア人、ハンガリー人、そしてポーランド独立を目指すポーランド軍団など、多民族からなる部隊で構成され、地形が険しく、多くの騎兵が馬を降りて歩兵として参戦した。12月11日〜12日にヤブウォニエツの丘の死闘が勃発した。

 戦闘の終結は、リマノヴァ近郊のヤブウォニエツの丘で訪れた。ロシア軍の予備兵力が到着し、オーストリア軍の前線が崩壊寸前になった。ハンガリーのフサール部隊と第9、第13連隊などがロシア軍に白兵戦を挑んで、多大な犠牲を払い、ロシア軍を押し返して、丘を死守した。12月13日からのロシア軍は撤退で、側面を脅かされ、補給線が断たれるので、ロシア軍は、ついに撤退を命令して、クラクフへの脅威は去った。




  

2025年12月6日土曜日

1943年5月13日に、ドイツ軍医師たちが、連合軍捕虜たちに、国際カティンー調査にて、カティンの森でソ連軍による犠牲者の解剖を視察させた。

1943年5月13日に、ドイツ軍医師たちが、連合軍捕虜たちに、国際カティンー調査にて、カティンの森でソ連軍による犠牲者の解剖を視察させた。左側は、カティンの虐殺調査委員長のドイツ人法医学者である。1940年3月5日、ソ連当局は、ソ連によるポーランド侵攻後に捕虜となった21,000人以上のポーランド国民を銃殺する決定を下した。ソ連の政治警察であるNKVDによって行われた。

 1943年4月11日、カティンの森における集団墓地の発見が発表された後、ヴァン・フリート・ジュニア中佐はオフラグIX/AZにおいてスチュワートおよびフランク・パーカー・スティーブンソン中佐と共に選抜され、カティンの森における国際カティン委員会の遺体発掘作業に参加した。連合国側捕虜は1943年5月13日、国際カティーン委員会活動に参加し、多くの展示物を視察し、検視を目撃した。

 カティンの森での虐殺には25,000人以上のポーランド人が含まれていたことが判明した。その内訳は、将校8,000人、警察官6,000人、そして司祭、ラビ、貴族、専門職を含む民間人8,000人であった。また、14人の将軍、1人の提督、24人の大佐、79人の中佐、17人の海軍大尉、3,000人の下士官、民間人、公務員、知識人、そしてポーランド軍初の女性飛行士であるヤニナ・レヴァンドフスカを含む200人のパイロットも犠牲となった。




2025年12月1日月曜日

1983年10月9日にラングーン爆破テロ事件がビルマ(現ミャンマー)のアウンサン霊廟で、北朝鮮の爆破テロにより、死者は韓国側17人(閣僚4人)とビルマ側4人の20人超、負傷者は47人以上の大惨事となった。​

1983年10月9日にラングーン爆破テロ事件がビルマ(現ミャンマー)のアウンサン霊廟で、北朝鮮の爆破テロにより、韓国の閣僚が死亡して、全斗煥大統領は間一髪に、危機を逃れた。夜首都ラングーンで、北朝鮮工作員による爆弾テロであった。ビルマを公式訪問中だった韓国の全斗煥大統領一行の暗殺を狙った。韓国側閣僚を含む多数が死亡し、事件はビルマと北朝鮮の国交断絶に発展した。​

 事件当時、韓国の全斗煥政権は軍事独裁体制への国内外の批判を受けつつも、対北朝鮮強硬姿勢を続けていた。北朝鮮は、全斗煥暗殺を含む対南テロ工作を進め、ビルマ訪問中の要人暗殺計画が立案された。​北朝鮮軍所属の工作員3人は、貨物船でビルマに入国し、在ビルマ北朝鮮大使館員の支援を受けながら、ラングーン市内で犯行準備を行った。10月7日夜、彼らは国父アウンサン将軍の墓所であるアウンサン廟の屋根裏に遠隔操作式の爆弾を設置し、9日の公式参拝に合わせて爆破する計画を整えた。​

 全斗煥大統領一行より先に到着した韓国側要人らが廟前に整列した現地時間午前10時25分ごろに爆弾が爆発し、建物の一部が崩落した。爆発で韓国側では複数の閣僚を含む多数が死亡し、ビルマ側の閣僚や政府関係者も犠牲となり、最終的な死者は韓国側17人(閣僚4人)とビルマ側4人の20人超、負傷者は47人以上の大惨事となった。​

 全斗煥大統領は爆発時にはまだ廟に到着しておらず、わずか数分の差で暗殺を免れた。韓国政府は同日中に緊急閣議を開き、事件を「北朝鮮による組織的な陰謀」と断定し、軍と警察に非常警戒態勢を発令した。ビルマ当局は逃走した工作員の追跡を行い、銃撃戦の末に1人を射殺、2人を負傷捕虜として拘束した。工作員はキム少佐死刑執行、カン上尉終身を執行した。北朝鮮の関与が明確になり、ビルマ政府は「建国の父」アウンサンの墓所をテロの舞台にした行為に強く反発し、同年11月4日に北朝鮮との国交を断絶、国家承認も取り消した。ラングーン事件は、冷戦下の朝鮮半島対立が第三国の国際テロにまで拡大し、北朝鮮はテロ支援国家を一層強める結果となった。