2025年12月29日月曜日

パルク海峡で漁業に従事中だったタミル人漁師たちがスリランカ海軍によって虐殺された遺体が散乱した。これらはスリランカ治安部隊もしくはタミル人抵抗勢力によって行われた100件以上の虐殺の犠牲者である。

パルク海峡で漁業に従事中だったタミル人漁師たちがスリランカ海軍によって虐殺された遺体が散乱した。これらはスリランカ治安部隊もしくはタミル人抵抗勢力によって行われた100件以上の虐殺の犠牲者である。タミル人はスリランカ人口の12.7%を占めて、タミル統一解放戦線(TULF)から、主要ゲリラ組織であるLTTE(タミル・イーラム解放の虎)が台頭した。

 インドのタミルナドゥ州とスリランカ北部州マンナール県との間にあるパルク海峡では、スリランカ内戦(1983年~2009年)を通じて、2025年まで継続して、タミル人漁師を巻き込んだ虐殺や暴力事件が頻発する現場となった。スリランカ内戦中に、スリランカ治安部隊によるタミル人民間人への虐殺は100件以上に及んだ。2009年のムリヴァイカル虐殺までタミル民間人の死者数は、4万人から10万人以上と推定された。

 パルク海峡の大虐殺には、マンダイティヴ海虐殺事件(1986年6月10日)で、スリランカ海軍兵士がマンダイティヴ沖で33人のタミル人漁師を襲撃して、犠牲者の多くは拷問を受け、眼球を抉り取られたり腹部を切り裂かれ、32人が死亡し、生存者は1人のみであった。クムディニ号虐殺事件(1985年5月15日)では、フェリークムディニ号に乗船していたスリランカ・タミル人少なくとも23人が、デルフト島とナイナティヴ島間の航行中にスリランカ海軍兵士によって斬殺された。ジャフナ・ラグーン/キラリ虐殺事件(1993年1月2日)では、スリランカ海軍による攻撃で、35人から100人のタミル人民間人が殺害された。ムラティヴ漁民虐殺事件(1984年12月9日)では、スリランカ内務省警備隊により18名のタミル人漁民が殺害された。 




2025年12月28日日曜日

1921年3月にドイツの労働者の闘争が勃発して、警察は恣意的に労働者を連れ出し、サイロの前で殴ったり銃殺した。50人以上の労働者が、サイロの中や前で残虐に殺害された。

1921年3月に何十万人ものドイツの労働者の闘争が勃発して、ドイツの労働者たちは、血みどろの敗北を喫した。警察は、恣意的に労働者を連れ出し、サイロの前で殴ったり、銃殺したりした。50人以上の労働者が、サイロの中や前で殺害された。シポによって労働者たちは、残虐に殺害された。140号棟の大きなサイロは、2000人のレウナ鉱夫たちにとって、何日も続く恐ろしい監獄となった。シポはゲシュタポと刑事警察で構成され、保安局(SD)の一部であった。

 レウナはドイツ最大の化学工業団地の一つであった。サイロの食器はわずか160セットしかなかった。最初は外出は禁じられていた。その後には、警備隊による屈辱的な行進が課せられるようになった。捕虜たちは批判や攻撃の格好の的だった。1921年3月29日に、レウナ工場の前にあるドイツ国防軍の大砲が、6時50分に、ロイナ工場に砲撃が開始され、8時頃に、レウナ工場にシポの襲撃が始まった。レウナ工場の労働者は激しい抵抗するも、弾薬不足によりレウナ工場の労働者の抵抗は崩壊した。

 シポとドイツ帝国国防軍が、無防備な捕虜となった労働者たちに無数の殺害を犯した。レウナ工場では、42人の労働者が治安警察によって殴殺された。シュラプラウの石灰採掘場では、無関係な6人の労働者が銃殺された。公式の調査、72人の労働者が殺害されたと報告された。一方、労働者側は、地主ヘス氏1人だけを射殺した。住民防衛隊が家屋から労働者部隊を背後から銃撃した。住民の銃撃者らは、労働者たちに平手打ちや拳で殴られるだけで済んだ。レウナ工場占領後は、散発的な戦闘しか発生しなかった。労働者は孤立して消耗し尽くした。労働者はゼネストにほとんど応じなかった。




2025年12月27日土曜日

中ソ国境紛争にて1969年3月2日に、ソ連軍はダマンスキー島の中国大隊の陣地を攻撃した。中国軍の陣地は崩壊して、中国軍兵士の死体が雪上に散乱した。

中ソ国境紛争にて1969年3月2日に、ソ連軍はダマンスキー島の中国大隊の陣地を攻撃した。中国軍の陣地は崩壊して、中国軍兵士の死体が雪上に散乱した。3月2日の戦闘で、中国軍側はは中国軍の死傷者は29人、ソ連軍側は死傷者58人と報告した。ソ連軍側は、島上と凍った河川上で248人の中国軍兵士が死亡したと報告した。ソ連国境警備隊は32人が死亡、14人が負傷した。紛争は1969年3月2日から1969年9月11日まで継続した。

 1969年3月の中ソ国境紛争は、主にダマンスキー島のウスリー川にて深刻な武力衝突が勃発した。両共産主義大国間の冷戦緊張が頂点に達した。核戦争寸前までエスカレートした事態が続いた。1969年3月2日に、中国軍が珍宝島(ロシア語:ダマンスキー島)でソ連国境警備隊を待ち伏せ攻撃し、数十名のソ連軍兵士を殺害した。紛争は1960年の北京条約の解釈の相違に端を発した。3月15日には、大規模な血みどろの戦闘が発生した。重砲火を伴い、数千の兵士が関与し、双方に多大な犠牲者(各軍側に約70人)が出た。ソ連は核報復をほのめかし、中国は新興の核戦力を最高警戒態勢に置いた。戦闘中に、中国軍はソ連製T-62戦車を鹵獲し、後にこれを逆設計して中国の69式戦車を開発した。 

 中ソ国境紛争の危機は1969年9月までに外交的に収束した。紛争は中国の指導者である毛沢東と周恩来と、ソ連のニキータ・フルシチョフ書記長のに脅威が現実と確信させた。中国の戦略的転換を大幅に加速させて、アメリカへの秘密の接触へと導くき、最終的に1972年のニクソン大統領の訪中につながった。中国が奇襲攻撃を想定して核戦力を初めて唯一に全面動員した。






















2025年12月27日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟  
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2025年12月26日金曜日

第一次世界大戦の西部戦線にて、1917年7月31日のパッシェンデールの戦いで、塹壕の残骸の中で戦死した3人のドイツ軍兵士の死体が散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線にて、1917年7月31日のパッシェンデールの戦いで、塹壕の残骸の中で戦死した3人のドイツ軍兵士の死体が散乱した。土塁の塹壕に至るまで、ドイツ軍兵士の死体が地獄の激流のように絡み合い、結びついた。泥まみれの塹壕にて混乱の塊の中に埋もれた。障壁には、他の死体の中に固定され死体、突き刺さった別の死体が陰鬱な場所に散乱した。

 パッシェンデールの戦い(第三次イープル会戦)は、第一次世界大戦の西部戦線にて、1917年7月31日から11月6日までに連合軍とドイツ軍の双方ともに甚大な犠牲を払い、泥と血の凄惨な戦状に陥った。1917年、連合軍は戦争を決定づける突破口を開くために、1914年以来連合国が占領していたイープル突出部を突破する攻勢を計画した。それはイープル周辺の制高点を占領し、さらに東方の重要鉄道の分岐点を掌握した上で、ドイツ軍が占領するベルギー沿岸の港湾へ侵攻する作戦であり、港湾はUボート作戦にとって極めて重要であった。パッシェンデール地方の戦闘は、100日以上も続いて、その間、連合軍はわずか約8km前進しただけで、連合軍32万5千人、ドイツ軍26万人の兵士が戦死、負傷、または行方不明となった。連合軍の犠牲者のうち、3万8千人がオーストラリア軍、5,300人がニュージーランド軍、1万5,600人以上がカナダ軍兵士であった。

 7月31日に開始されたパッシェンデール会戦は、絶え間ない砲撃が粘土質の土壌をかき乱し、排水システムを破壊した。数日以内に、30年で最も激しい雨が土壌を泥沼と化し、銃を詰まらせ戦車を動けなくする濃厚な泥を生み出した。やがて泥は深くなり、兵士や馬が溺れるほどになった。両軍数十万の兵士が、建物や自然の遮蔽物がほとんどない灰色の開けた地形で、爆発する砲弾、飛び散る榴散弾、機関銃の弾幕と容赦ない激しい雨の中、ぬかるんだ粥のような泥地を攻めて、反撃を繰り返した。






2025年12月25日木曜日

無法地帯の保安官であったワイルド・ビル・ヒコックにより殺害された二人のアメリカ陸軍の兵士の死体が、カンザス州ヘイズの歩道に倒れ込んだ。

無法地帯の保安官であったワイルド・ビル・ヒコックにより殺害された二人のアメリカ陸軍の兵士の死体が、カンザス州ヘイズの歩道に倒れ込んだ。カンザス州のヘイズでは、1867年から1873年の間に30件の殺人事件が発生した。酒場での銃撃戦により、アメリカ陸軍の砦であったフォートヘイズの兵士の死亡事件も含まれた。町の北にある墓地は「ブート・ヒル」として知られ、1885年までに約79人の無法者の死体が埋葬された。カンザス州郡庁所在地ヘイズシティは鉄道の終着駅として、ギャンブラー、乱闘者、兵士、バッファロー狩り、売春婦、ガンマンが悪名高い町だった。

 ワイルド・ビル・ヒコックは、南北戦争で偵察兵の経歴を通じて、1867年から1870年まで、副連邦保安官を務め、後にヘイズシティやアビリーンといった無法地帯の保安官を務めた。ヒッコックの銃撃戦の評判と秩序維持への取り組みから、伝説的な地位を築いた。1876年に、サウスダコタ州デッドウッドでポーカーをプレイ中に致命傷を負った。1876年8月2日に、地元の酒場でポーカーをしていたワイルド・ビル・ヒコックを、ジャック・マコールが後頭部から銃殺した。

 20世紀の西部における銃規制と常備警察部隊が、暴力の抑制に効果があった。拳銃使いが存在したが、いずれの牛牧場町でも年間5件を超える殺人事件は発生しなかった。牛牧場町で殺害したのはハーディンとアープだけである。ハーディンは酔った勢いで、宿泊するホテルの壁を貫通して発砲し、いびき男を殺害した。アープは法執行官として、誤って2人、そのうち1人は特別警察官を殺害した。牛牧場町の年間平均殺人件数はわずか1.5件となった。




2025年12月13日土曜日

1914年12月のリマノヴァの戦いは山岳地帯の森林等に覆われた地域で殺伐とした白兵戦が繰り広げられた。モルダルカ近郊リマノヴァの森にある集団墓地で、ロシア軍はロシア兵の死体を掘り起こした。

第一次世界大戦の東部戦線で、1914年12月のリマノヴァの戦いは山岳地帯の森林等に覆われた地域で殺伐とした白兵戦が繰り広げられた。モルダルカ近郊リマノヴァの森にある集団墓地で、ロシア軍はロシア兵の死体を掘り起こした。ハンガリー軍兵士らは、銃の銃床を棍棒に使ってロシア兵たちと激闘を繰り広げた。壊れた銃が転がって、頭蓋骨を砕かれたロシア兵の死体が散乱した。

 ロシア第3軍は西部へ猛進して、オーストリアの重要な要塞都市であったクラクフに迫った。オーストリア=ハンガリー軍は、劣勢を挽回する大胆かつ危険な作戦をして、第4軍と第3軍の間に隙間を作り、ロシア軍を誘い込んだ。ロシア軍が西部に集中している隙に、南側からロート兵団を投入し、ロシア軍の左側面を奇襲して包囲・撃滅した。

 リマノヴァの戦いは1914年12月1日〜13日に、ポーランド南部のリマノヴァとワパヌフ周辺で激しく戦闘が展開された。12月1日〜5日には、オーストリア=ハンガリー軍は、ドイツ軍の増援されて、リマノヴァに進撃を開始した。ロシア軍は側面からの脅威を軽視して、クラクフへの正面攻撃に固執した。12月6日〜10日でロート兵団がロシア第3軍の側面を突き、激しい戦闘が始まりました。

 オーストリア=ハンガリー軍は、オーストリア人、ハンガリー人、そしてポーランド独立を目指すポーランド軍団など、多民族からなる部隊で構成され、地形が険しく、多くの騎兵が馬を降りて歩兵として参戦した。12月11日〜12日にヤブウォニエツの丘の死闘が勃発した。

 戦闘の終結は、リマノヴァ近郊のヤブウォニエツの丘で訪れた。ロシア軍の予備兵力が到着し、オーストリア軍の前線が崩壊寸前になった。ハンガリーのフサール部隊と第9、第13連隊などがロシア軍に白兵戦を挑んで、多大な犠牲を払い、ロシア軍を押し返して、丘を死守した。12月13日からのロシア軍は撤退で、側面を脅かされ、補給線が断たれるので、ロシア軍は、ついに撤退を命令して、クラクフへの脅威は去った。




  

2025年12月6日土曜日

1943年5月13日に、ドイツ軍医師たちが、連合軍捕虜たちに、国際カティンー調査にて、カティンの森でソ連軍による犠牲者の解剖を視察させた。

1943年5月13日に、ドイツ軍医師たちが、連合軍捕虜たちに、国際カティンー調査にて、カティンの森でソ連軍による犠牲者の解剖を視察させた。左側は、カティンの虐殺調査委員長のドイツ人法医学者である。1940年3月5日、ソ連当局は、ソ連によるポーランド侵攻後に捕虜となった21,000人以上のポーランド国民を銃殺する決定を下した。ソ連の政治警察であるNKVDによって行われた。

 1943年4月11日、カティンの森における集団墓地の発見が発表された後、ヴァン・フリート・ジュニア中佐はオフラグIX/AZにおいてスチュワートおよびフランク・パーカー・スティーブンソン中佐と共に選抜され、カティンの森における国際カティン委員会の遺体発掘作業に参加した。連合国側捕虜は1943年5月13日、国際カティーン委員会活動に参加し、多くの展示物を視察し、検視を目撃した。

 カティンの森での虐殺には25,000人以上のポーランド人が含まれていたことが判明した。その内訳は、将校8,000人、警察官6,000人、そして司祭、ラビ、貴族、専門職を含む民間人8,000人であった。また、14人の将軍、1人の提督、24人の大佐、79人の中佐、17人の海軍大尉、3,000人の下士官、民間人、公務員、知識人、そしてポーランド軍初の女性飛行士であるヤニナ・レヴァンドフスカを含む200人のパイロットも犠牲となった。




2025年12月1日月曜日

1983年10月9日にラングーン爆破テロ事件がビルマ(現ミャンマー)のアウンサン霊廟で、北朝鮮の爆破テロにより、死者は韓国側17人(閣僚4人)とビルマ側4人の20人超、負傷者は47人以上の大惨事となった。​

1983年10月9日にラングーン爆破テロ事件がビルマ(現ミャンマー)のアウンサン霊廟で、北朝鮮の爆破テロにより、韓国の閣僚が死亡して、全斗煥大統領は間一髪に、危機を逃れた。夜首都ラングーンで、北朝鮮工作員による爆弾テロであった。ビルマを公式訪問中だった韓国の全斗煥大統領一行の暗殺を狙った。韓国側閣僚を含む多数が死亡し、事件はビルマと北朝鮮の国交断絶に発展した。​

 事件当時、韓国の全斗煥政権は軍事独裁体制への国内外の批判を受けつつも、対北朝鮮強硬姿勢を続けていた。北朝鮮は、全斗煥暗殺を含む対南テロ工作を進め、ビルマ訪問中の要人暗殺計画が立案された。​北朝鮮軍所属の工作員3人は、貨物船でビルマに入国し、在ビルマ北朝鮮大使館員の支援を受けながら、ラングーン市内で犯行準備を行った。10月7日夜、彼らは国父アウンサン将軍の墓所であるアウンサン廟の屋根裏に遠隔操作式の爆弾を設置し、9日の公式参拝に合わせて爆破する計画を整えた。​

 全斗煥大統領一行より先に到着した韓国側要人らが廟前に整列した現地時間午前10時25分ごろに爆弾が爆発し、建物の一部が崩落した。爆発で韓国側では複数の閣僚を含む多数が死亡し、ビルマ側の閣僚や政府関係者も犠牲となり、最終的な死者は韓国側17人(閣僚4人)とビルマ側4人の20人超、負傷者は47人以上の大惨事となった。​

 全斗煥大統領は爆発時にはまだ廟に到着しておらず、わずか数分の差で暗殺を免れた。韓国政府は同日中に緊急閣議を開き、事件を「北朝鮮による組織的な陰謀」と断定し、軍と警察に非常警戒態勢を発令した。ビルマ当局は逃走した工作員の追跡を行い、銃撃戦の末に1人を射殺、2人を負傷捕虜として拘束した。工作員はキム少佐死刑執行、カン上尉終身を執行した。北朝鮮の関与が明確になり、ビルマ政府は「建国の父」アウンサンの墓所をテロの舞台にした行為に強く反発し、同年11月4日に北朝鮮との国交を断絶、国家承認も取り消した。ラングーン事件は、冷戦下の朝鮮半島対立が第三国の国際テロにまで拡大し、北朝鮮はテロ支援国家を一層強める結果となった。