2021年6月2日水曜日

スペイン内戦にて戦争写真家のロバート・キャパは、塹壕の中から35ミリカメラで至近距離から共和国軍民兵であった『崩れ落ちる兵士』の著名な戦争写真を撮影した。

スペイン内戦が勃発して約1ケ月が経過した1936年9月5日午前10時30分コルドバにて、フランコ反乱軍のバレラ将軍の指揮下にあるブルアガ隊のコロナル・サエンスに所属するレギュラーズ・タボルのモロッコ人精鋭狙撃手が、丘の斜面を駆け下りる共和党軍民兵を狙撃した。塹壕に潜伏していたモロッコ人精鋭狙撃手が引き金を引くと、モーゼル銃の口径約7×57mmのマウサー弾が上昇気流に乗って秒速約730mで無慈悲に発射された。アリカンテ出身の無政府主義者であるアナキスト軍民兵であるフェデリコ・ボレル・ガルシアは、セロ・デ・ラコハの斜面を走っている最中に心臓を貫通されて即死した(上)。狙撃兵の左手数メートルにいた戦争写真家のロバート・キャパは、塹壕の中から35ミリのライカIIIを使って至近距離から著名な『崩れ落ちる兵士(The Falling Soldier)』戦争写真を撮影した。1996年にモーゼル銃で撃たれて後ろ向きに倒れている民兵の正体が判明した。心臓を貫く銃弾で即死した民兵の右手に、セロ・デ・ラコハ丘の東側の斜面で、小さな渓谷の始まりに近い山が見える。その他にもう一人のラ・コハの丘で狙撃されて殺害された第2共和国軍民兵の正体は今日まで知られていない(下)。
 1936年7月17日にフランコ将軍とイベリア半島の将軍たちは、2月6日の総選挙で民主的に成立した共和国政府に対抗して反乱して、スペイン内戦が勃発した。ロバート・キャパの本名はエンドレ・エンレー・フリードマンで、ブダペスト生まれのユダヤ系ハンガリー人写真家である。1935年にデプトエージェンシー社は、ドイツ雑誌に掲載する写真の撮影のため、キャパにスペインへの渡航を命じた。キャパは、1936年にフランス人民戦線の勝利後の集会などを撮影した。1936年にスペイン内戦が勃発すると、フランスの高級写真雑誌『Vu』が、スペイン内戦の撮影を命じた。1936年9月23日に
「死の瞬間の人民戦線兵士」と『Vu』に掲載された。

  1936年8月5日バルセロナに到着したキャパは、バルセロナで反乱軍が敗退して、労働者や無政府主義者の武装民兵が権力を掌握していた。何千人もの民兵がアラゴン戦線に向かう列車に乗り込んだ。共和国軍が大攻勢をかけたグアダルキビル高地の州都コルドバの北近郊のセロ・ムリアーノに到着した。
 1936年8月20日約5,000人の共和国軍は、反乱軍に防御されたコルドバを侵攻した。激しい戦闘が繰り広げられ、反乱軍はアフリカのモロッコ人専門兵の射撃により、共和党軍民兵に多大な死傷者を出した。約1万人の共和国軍がコルドバ州の村々に分散して、セロ・ムリアーノ村周辺は、2週間後に共和国軍は堅固な防御陣地を敷いた。
 反乱軍は工業地帯を避けて、アンダルシア地方とエクストレマドゥラ地方に侵攻した。アフリカ軍も属する約2万人の反乱軍は準備と武装が整っていた。9月5日に反乱軍もモロッコ軍民兵もコルドバの北近郊の共和国軍を壊滅した。約1ヶ月半前に初めてライフルを手にした大多数の市民や労働力者などの共和国軍民兵は、コルドバ北側のセロ・ムリアーノ村で、アフリカ軍の正規軍と反乱軍に突撃した。両軍は、大砲や機関銃などあらゆる武器で撃ち合った。多数の死傷者が出始め、兵器の撃ち合いの後、戦闘は熾烈を極めて、1936年9月5日に反乱軍は、共和国軍民兵を完全に圧倒した。