2021年6月1日火曜日

フィリピンのセブ島で、連合農民組織の21歳のレナート・タバサ・ザバテは、フィリピン国家警察に拉致され虐殺された。死体には約31の擦傷や打撲傷などがあり絞殺された。

フィリピンでは1988年以降に、フィリピン政府や政府を支援する勢力による政治的殺害の犠牲者が550人以上にのぼった。殺害された市民の中には、拷問を受けたり、体を切断された人もいる。乳幼児から高齢者を含む家族全員が虐殺された。女性は刺殺される前に強姦された。1986年2月25日にフェネディナンド・マルコス独裁政権からコラソン・アキノ大統領政権に転覆して、新政権が人権保護のための施策を導入した。しかし、1988年以降にフィリピンにおける超法規的処刑が執行されて虐待と虐殺が継続した。

 フィリピンのセブ島で、21歳のレナート・タバサ・ザバテが1991年9月8日に虐殺された。連合農民組織(UFO)の一員で、国家警察(PNP)の武装集団に拉致されて5日後の1991年9月13日に、セブ州マンダウエ市のカンドマンで死体で発見された。彼の死体には明らかに拷問された痕跡があった。レナートは、9月8日午後1時頃に、友人と一緒に親戚の家を出た。2人が道路を歩いていると、2人の武装した男たちが路上で近づいた。レナートと友人の背中に銃を突きつけた。その後、待機していたジープに押し込まれ、タランバン方面に走り去った。レナートはセブ市のソテロにあるPNPのセブ・メトロポリタン地区司令部に連行された。レナートの死体は、9月13日にセブ市の北約62キロにあるソゴドで小学生が発見した。被害者は電線で縛られ、自分のタオルで猿轡をされた。検死で、死体には擦傷、打撲傷など約31の傷があり、死因は絞殺であった。
 レナートの死は、セブ州の過激な農民組織に属するUFOの組織での活動と関連がある。1990年初頭、UFOなどの地域の労働者組織のメンバーは、新人民軍(NPA)支持者の疑いとして、政府軍や反共産主義の自警団から嫌がらせや脅迫を受けていた。レナートの妻は、親戚もUFOで活動して、セブ市で他の4人と一緒に国家転覆罪に問われた。1987年5月に、レナートは政府軍の捜査官に逮捕・拘留された。彼は他の2人と一緒にセブ市の南西にあるセーフハウスの非公式の拘置所に拘留された。3人は11時間後に起訴されずに釈放された。
 1988年以来、フィリピンでは少なくとも非武装の550人の市民が、フィリピン政府または政府の支援する勢力によって殺害された。フィリピン政府は、武装反対勢力を撲滅するための長期的に正当な犠牲である主張してきた。しかし、現実には、家族全員が、畑で働く村民が銃殺された。女性は殺害される前に兵士にに強姦された。最も非人間的な拷問が、殺害の対象となった人々に加えられた。社会的・経済的に不利な市民や政治的に弱い市民が最も標的になった。武装反対勢力も政治的殺害を行ってきた。犠牲者には、農村地域の住民、労働組合員、政府関係者、軍事容疑者などが含まれる。
 1986年に、フェルディナンド・マルコス大統領に対する人民の力による革命により、コラソン・アキノ氏が大統領に就任した。新政府は、民主主義を復活し、権侵害を断絶することを約束したが、1988年以降に大規模な政治的殺害が執行された。超法規的処刑は、フィリピン陸軍(PA)、フィリピン警察(PC)、統合国家警察(INP)、新設立のフィリピン国家警察(PNP)、市民武装部隊(CAFGU)の民兵部隊、市民自衛組織(CVO)、半官半民の準軍事組織、反共産主義の自警団も含まれた。
 超法規的処刑は、フィリピンにおける深刻な人権侵害である。1986年以来、何百人もの人々が警察や軍の拘束下で失踪して、殺害または拷問された。秘密裏に拘束された人々は、特に殺害や拷問の危険にさらされた。フィリピンのように、警察や軍が処罰を恐れずに違反行為を行うことができる状況では、さらに高まる。1991年には、少なくとも12人の良心の囚人が確認された。数百人の政治犯の中にはさらに多くの囚人がいて、多数の政治的抑留者が拘束されている間に、拷問や不正な扱いを受けた。1990年から1991年には、軍部と政府の幹部が、反乱や破壊行為などの政治的犯罪を含む凶悪犯罪に対する死刑制度を復活させた。労働組合員、人権派弁護士、宗教指導者、農民活動家など、特定の集団の市民が狙われた。政府や政府の支援を受けた勢力によって殺害された85人と、武装野党集団によっても数人が殺害された。
 フィリピンにおける超法規的処刑は、20年以上にわたる政府軍と武装反対勢力との激しい政治的対立を背景に発生してた。最も重要な要因は、フィリピン共産党(CPP)の武装組織である新人民軍(NPA)とモロ民族解放戦線(MNLF)である。フィリピン軍や政府当局は、人権侵害の犠牲者を反乱軍活動に対する正当な標的として、政治的殺害を武力紛争の必然的な副産物として扱った。武装反対勢力の人権侵害を指摘して、超法規的処刑を正当化して、治安部隊の人権侵害の責任を免れた。
 近年、フィリピンの都市部の人口は、農村部から都市部への移住が主な原因で、年に約6%増加している。拡大する不法占拠者のコミュニティを含め、都市部の貧困層を支援する合法的な政治組織が、1970年代から1980年代にかけて登場した。都市の組織は、強制退去に対する抵抗を組織するとともに、ゴミ収集、給水、排水などのサービスを改善するための社会運動を行った。都市の貧困層の活動家は、都市における開発プロジェクトやワークショップを推進してきた。社会活動に参加した市民は、CPP/NPAに関与したと政府軍に訴えられ、治安部隊の一員に殺害された。明確な理由なく逮捕された後に、被害者が警察に拘束されて死亡した。当局は、被害者が逃げようとした、逮捕者から武器を奪おうとした、自殺したとか喧伝する。被害者の弁護士や親族が入手した法医学的証拠は、主張に疑問を投げかけた。