2021年6月11日金曜日

高層ビルから自動小銃で狙撃されて、トルコのタクシム広場のカザンチの丘から逃げる大群衆が、装甲車で遮断されて約25人が民衆に押しつぶされて圧死した。

トルコの首都イスタンブールのタクシム広場に、国際労働者の日であった1977年5月1日の休日に、約50万人の労働者らのトルコ市民がメーデーに集まった。その周辺の高層建物の屋上から、突然と狙撃手の銃から弾丸が発砲し始めた。この日タクシム地区では、約34人が死亡して、約126人が負傷した。虐殺事件では約2,000発近くの弾丸が発射された。5人が銃創により殺害された。この虐待と虐殺事件は、タクシン広場の虐殺(Taksim Square massacre)から血の5月1日(Bloody 1 May 1977)などと呼称された。
 死亡した約34人のうち約28人が、パニックになった群衆同志により圧死した。タクシム広場から最も近い出口があったカザンチの丘を下って逃げようとする群衆が、治安部隊の装甲車により逃げ道を遮断された。トルコ市民をさらに怖がらせるために、再びサイレンや爆発物を使って騒いだり、圧力のかかった放水を浴びせた。そのうち約25人がカザンチの丘で押しつぶされて圧死した。その他には治安部隊の装甲車に襲撃されて轢かれて死亡した。
 約500人以上のデモ参加者が治安部隊により拘束されて、そのうち約98人が裁判にかけられた。裁判起訴状では、デモの目的は「人々の間に脅迫、恐怖、パニックを引き起こすこと」であると訴追された。しかし犯人は一人も捕まらず行方不明となった。カウンターゲリラ(Counter-Guerrilla)関連の右翼グループが疑われたが、約20人の狙撃手が治安部隊に拘束されて警察に引き渡された記録が紛失されていた。
 革命的労働組合総連合(DISK)は、イスタンブールのタクシム広場でメーデー・デモを1977年5月1日に開催した。デモ隊は広場を埋め尽くし、群衆は周辺地域へと流れた。会長がメーデーの演説をする頃には、地域に通じるすべての道路が行進する人々でいっぱいになった。最後の一団がタクシム地区に到着したのは、午後7時近くになってからでした。
 DISKの会長が演説を終えたとき、約3発の銃声が響いた。静まり返った直後から、約50万人の群衆はパニック状態と大混乱に陥った。会議場周辺の高層ビルから、自動小銃で群衆に銃弾を浴びせた。治安部隊の装甲車が出動して、騒音弾と自動小銃の発砲で、集会場は突然に戦場化した。何千人もの人々がその場に横たわり、逃げよる人々は角に押し込まれ、装甲車に押しつぶされた。さらに自動小銃が、カザンチの丘を逃げ惑う数千人の人々に向けられた。狭い道の真中に停められたトラックが道を塞いでいた。逃げ惑う人々は押し合いへし合い、重なり合って、窒息したり、圧死する者が続出した。この虐殺事件で、トルコ国内だけでなく、世界中の報道機関に大きな衝撃を与えた。約36人が殺害されて、数百人が負傷し、約453人が逮捕された。
 裁判の法廷で提出された証拠によって、警察は、無差別に逮捕した約98人を、虐殺の責任者として起訴した。彼らは誰も関与しておらず、全員が無罪となった。裁判長は、捜査の再開と真の責任者の起訴を当局に求めたが、軍部を中心とする歴代政権はこの事件を弾圧した。1977年5月7日に、後に首相となるブレント・エセビットが、イズミルの会合で5月1日の血事件には反ゲリラの指があったと発言して注目を集めた。トルコ刑法(TCK)第102条で、この事件は20年が経過した時点で時効により消滅した。虐殺事件は、意図的に時効で消滅された。トルコではそれ以来、本事件を5月1日に記念しているが、1977年以降にタクシム広場をメーデーのために使用させなかった。1980年9月12日のトルコの軍事クーデターの後に、軍事政権が樹立して、約8年間にわたりメーデーの運動が禁止された。