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2024年8月29日木曜日

イギリス・エジプト軍は、スーダンに侵攻して、1898年にマーディの反乱を弾圧した。ハルトゥームの対岸でオムドゥルマンで戦死したカリフのアブドゥツラーの死体である。

イギリス軍のゴルドン将軍が1885年に敗北し斬首された後に、イギリス軍は約10年ちかく、スーダンの制圧を諦めた。やがて、キッチナー将軍は、鉄道をしきながら侵攻して、1898年に徹底的にマーディの反乱を弾圧した。手前は、ハルトゥームの対岸オムドゥルマンで戦死したカリフのアブドゥツラーの死体である。マフディーの反乱は、1881年に勃発して1898年に鎮圧されたスーダンにおけるエジプト政府に対するイスラムの反乱である。イスラム教の終末論的な一派であるマフディズムは、ムハンマド・アフマドが、導かれし者と呼称されたマフディーが地上にて、イスラムの栄光を回復する思想を洗脳した。

 1822年に、ハルツームがエジプト占領下のスーダンの首都となり、オスマン帝国の遠い前哨基地となった。エジプトによるスーダン支配は、高率の課税の賦課、現地住民から奴隷の収奪、生活と土着の慣習を破壊するスーダン貿易を絶対的な支配を伴った。スーダン人の徴兵の過程で、スーダンの内陸部からエジプトのアスワンまでの行軍で、何万人ものスーダンの男女が命を落とした。1863年、新しいエジプト総督イスマイルの反奴隷キャンペーンが始まり、人身売買が不可欠なスーダン人に動揺が激化した。スーダンのアラブ人指導者たちは、イギリスの取り組みを、イスラム教徒によるアラブ支配を弱体化させると見なした。

 1881年6月29日、スーダンのイスラム聖職者ムハンマド・アフマドは、自らをマハディと名乗った。数十年にわたるエジプト支配への幻滅とイギリスに対する新たな憤りから、アフマドはすぐに、宗教的な政治運動に変えた。1882年までにマフディスト軍はハルトゥーム周辺地域を完全に支配した。1883年に、ウィリアム・ヒックス大佐により英国軍の指揮下にあった英・エジプト合同軍事遠征隊が、マフディスト軍に対する反撃を開始した。戦闘は長く続いた包囲戦で、ハルツームを防御したイギリス・エジプト軍は1885年1月28日に、ついにマフディスト軍に制圧された。イギリス・エジプト軍の指揮官チャールズ・ゴードン将軍は反撃で斬首された。

 1885年6月、マフディを自称していたアフマドは死去した。マフディ主義運動は、指導権を主張する対立候補の間で内紛が勃発して、すぐに解散した。1898年9月2日、カラリでの最終決戦でマフディストの11,000人が死亡して、16,000人が負傷した。1899年11月にマフディスト国家は正式に終結した。10年前のチャールズ・ゴードン将軍の死に対する復讐として、キッチナーはアフマドの死体を掘り起こし、爪を引き抜いた。




2024年6月18日火曜日

1904年に、アフリカ南西部のナミビアの地面にヘテロ族の数体の死体が横たわった。ヘレロ族の反乱軍は建設中のオタヴィ鉄道を攻撃して、ドイツ帝国軍によってヘレロ族の鉄道建設労働者が大量虐殺された。

1904年に、アフリカ南西部のナミビアの地面にヘテロ族の数体の死体が横たわった。ヘレロ族の反乱軍は、彼らの地域を通る建設中のオタヴィ鉄道を攻撃した。その後に、ドイツ帝国軍によってヘレロ族の鉄道建設労働者が大量虐殺された。

 ドイツ帝国のカイザー・ヴィルヘルム2世は、1884年11月15日のベルリン会議のアフリカ分割協定で植民地の分配支配国となった。その数年前に、アドルフ・リューデルディッツのドイツ人のタバコ商人が1881年にナイジェリアの町ラゴスに到着した。その後にナミビア沿岸のアングラ・ペケーナ町にて、その領土の一部を略奪した。フォン・ビスマルクが1884年8月7日にナミビアをドイツ保護国に宣言した。

 アフリカ南西部のナミビアにてヘレロ族の族長サミュエル・マハレロは、1896年に反乱を蜂起した。その後に1904年1月11日にヘレロの反乱で、ドイツ軍と入植者に攻撃を仕掛けた。その結果、123人のドイツ人の入植者が殺害された。ドイツ軍に、残酷極まりないローター・フォン・トロサ将軍が任命された。ドイツ占領した国境で発見されたヘレロ族は、ライフルの有無、家畜の有無にかかわらず、子供や女性も射殺すると宣言した。危機に瀕した南部のナマ族も反乱に加わった。約14,000人のドイツ軍が、ヘレロ族とナマ族の反乱を大量虐殺で鎮圧した。ヘレロ族とナマ族は、銃殺され、木に吊るされ、砂漠で飢えと渇きで定量虐殺された。リューデリッツ湾のシャーク島に設置した強制収容所には反乱者の約12,000人が収容された。ナミビアのヘレロ族の人口の約80%が一掃された。ヘレロの反乱の後、約6万人のヘレロ人と1万人のナマ人が絶滅して、ナミビアの土地から追放された。第一次世界大戦に敗れたドイツは、1919年にヴェルサイユ条約に調印して、すべての植民地を失った。

 ナミビアの大虐殺は、帝国ドイツ軍が1904年から1908年にかけて、ナミビアの先住民族であるヘレロ族とナマ族を残虐に弾圧した20世紀の最初の大量虐殺であった。2004年に、ドイツ政府はナミビアの大虐殺を公式に謝罪して、2019年にはドイツ議会がジェノサイドと表現した。2021年5月には、ナミビア被害者の損害を修復する協定が結ばれた。




2024年6月11日火曜日

ルワンダのツチ族の反政府軍であるルワンダ愛国戦線(RPF)が、1994年7月4日に首都キガリを解放した後に、至る所にフツ族のルワンダ政府軍兵士の死体が転がって散乱した。

ルワンダのツチ族の反政府軍であるルワンダ愛国戦線(RPF)が、1994年7月4日にルワンダの首都であるキガリを解放した後に、至るところにルワンダ政府軍のフツ族兵士の死体が転がって散乱していた。4月から6月にRPFはルワンダの北部から攻撃を開始し、ルワンダの大部分を徐々に支配下に置いた。キガリを包囲して補給路を断ち、6月中旬に首都キガリをめぐって戦闘を開始した。ルワンダ政府軍がキガリでの戦いよりも大量虐殺に集中したために、RPFは7月4日にキガリを制圧した。

 ルワンダ愛国戦線は、1959年から1962年にルワンダ・フツ革命で起こったルワンダ人フツ族の暴力に対して、ウガンダに亡命したルワンダ人ツチ族によって1987年12月に設立された。1990年に、RPFはフツ族が支配した政府を転覆するためにルワンダ内戦が勃発した。その後、1994年にツチ族に対するジェノサイドが発生して、7月4日にRPFが全土を制圧して終結した。RPFが制圧後の数ヶ月間に、RPF兵士はジェノサイドに参戦して、多くのルワンダジェノサイドを支援した人々を殺害して、死者数は10万人に上った。それ以降、RPFは、一党独裁国家としてルワンダを統治して、2000年からはRPFの指導者であったポール・カガメがルワンダ大統領に就任した。

 ルワンダ内戦は、1990年10月1日から1994年7月18日まで、ルワンダ政府軍と反政府勢力であるルワンダ愛国戦線(RPF)との間の大規模な内戦となった。RPFのゲリラ戦が1992年半ばまで続いて、どちらも優勢に立てなかった。和平交渉は1993年8月4日にアルーシャ合意に調印して、一時的に終了した。国連ルワンダ支援ミッション(UNAMIR)は1993年10月5日から1996年3月までルワンダに駐留して、アルーシャ合意の履行を監督するも、1994年4月7日から7月19日までのルワンダ大虐殺のジェノサイドに軍事介入できなかった。4月6日にフツ族のハビャリマナ大統領が暗殺された翌日に、和平合意は破棄されて無政府状態となり、フツ族のルワンダ政府軍が、約50万人から80万人のツチ族と穏健なフツ族を殺害した。




2024年3月15日金曜日

1994年7月21日に、ザイールのゴマ郊外約10kmにある難民キャンプで、ルワンダの難民の少女ちが、両親の死体のそばで泣いた。ルワンダにてツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF)からフツ族が逃れてきた。

1994年7月21日に、ザイールのゴマ郊外約10kmにある難民キャンプで、ルワンダの難民の少女ちが、両親の死体のそばで泣いた。ルワンダにてツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF)からフツ族が逃れてきた。何千人ものフツ難民が、難民キャンプにたどり着くも、コレラ等の流行で多くの命を落とした。

 ツチ族のポール・カガメは1994年の5ヶ月の間に、何百万人ものフツ族のルワンダ人をコンゴ民主共和国、ブルンジ、ウガンダ、タンザニア、ケニアの国境に追いやった。数百万人のフツ族のルワンダ人が、5ヶ月の間にすでに殺害されていた。ポール・カガミ下のルワンダでは、5ヶ月の間に、ルワンダ人の死体が千の丘の尾根に散乱していた。ポール・カガメは、5ヶ月の間に、ルワンダのフツ族の男性をアガフニから逃避しないように、ルワンダ全土に道路封鎖を設置した。5ヶ月の間に、何百万人ものフツ族のルワンダ人がすでに国を失い、両親を失い、叔父を失い、親戚を失い、姉妹を失い、兄弟を失い、祖父を失った。

 ポール・カガミ下で1994年り5ヶ月の間にルワンダはジャングルと化した。ポール・カガミは、インテルハムウェ民兵でさえ敢行できない殺害命令を下した。宗教指導者と難民を攻撃することを、ポール・カガメとツチ族が結成したルワンダ愛国戦線はそれを実行した。ポール・カガメは、カブガイ大聖堂に避難した3人のカトリック司教の虐殺を命じた。カガミは、彼らがバントゥー人である理由だけで、彼らの抹殺を命じた。補佐司教、司祭、修道女、兄弟、信徒の教会指導者、青少年指導者などの聖職者も虐殺された。悲惨な母親のエスペランス・ムカシェマは一緒に教会に避難した4歳のツチ族の男の子であるエスペランス・ムカシェマは、ツチ族によるジェノサイドのフツ族の生き残りで、4歳の息子は、ガクラのカソリック聖職者全員と一緒に殺された。

 ルワンダ虐殺は、フツ族の過激派により1994年4月7日から7月15日までツチ族の虐殺が勃発した。フツ族によるジェノサイドで107万4,017人が殺害され、その94%がツチ族であった。7月4日にツチ族のルワンダ愛国戦線が、ルワンダ全土を制圧して終結した。1994年以降のルワンダにおいてツチ族によるジェノサイド統治された。ルワンダ愛国戦線の勝利後に、約200万人のフツ族が、報復を恐れて近隣諸国、特にザイールの難民キャンプに逃れた。





2023年9月26日火曜日

アルジェリア戦争中に、フランス軍外人部隊が多くの民間アルジェリア人、女性、子供を虐待して、虐殺した。フランス軍外人部隊の一団が、虐殺して散乱したアルジェリア人の死体の前で集合写真を撮った。

アルジェリア戦争中に、フランス軍外人部隊が多くの民間アルジェリア人、女性、子供が虐待して、虐殺した。フランス軍外人部隊の一団が、虐殺したアルジェリア人の死体の前で集合写真を撮った。痩せて骨ばったアルジェリア人の犠牲者の死体が、虐殺現場に散乱した。

 1954年11月1日に、アルジェリアの独立を求めて戦闘するアルジェリア民族解放戦線(FLM: Front de Libération Nationale)が、フランスの植民地統治に対して武装抵抗を開始した。11月1日早朝に、ゲリラは軍事施設、警察署、倉庫、通信施設、公共施設などを複数襲撃した。民族解放戦線の軍隊は民族解放軍と呼称されて、わずか数百人の武装要員で始った。1957年までに約4万人近くの軍隊に拡大した。1956年から1957年にかけて民族解放戦線は、より武装したフランス軍との戦闘を避けて、待ち伏せと夜襲に重点を置いたひき逃げゲリラ戦術を採用した。

 1956年までに、フランスはアルジェリアに約40万人以上のフランス軍を投入した。民族解放戦線を攻撃する戦闘任務は主に植民地の精鋭歩兵空挺部隊とフランス外人部隊によって遂行された。フランス正規軍には約17万人のアルジェリア系イスラム教徒が軍務に就いて、ほとんどが志願兵であった。1950年代後半には、フランスは反乱軍への支援を阻止するため、約200万人以上のアルジェリア人を山地の故郷から平地の強制収容所に強制移住させた。

  アルジェリア戦争により、約30万人から150万人のアルジェリア人、約25,600人のフランス軍部隊、約6,000人のヨーロッパ人が死亡した。フランス軍は約8,000以上の村を破壊し、約200万人以上のアルジェリア人を強制収容所に強制移住させた。1962年のアルジェリア独立と同時に、約90万人のヨーロッパ系アルジェリア人が、民族解放戦線の復讐を恐れて数ヶ月にフランスに避難した。フランス政府は膨大な難民を受け入れる準備ができずに、フランス国内は混乱した。特にフランス軍として戦ったアルジェリア人兵士であるハルキ教徒は、裏切り者とみなされ、多くの者が民族解放戦線によって、リンチ集団によって、拉致され拷問を受けた後に殺害された。約9万人がフランスに脱国した。

 1954年11月1日、フランス系キリスト教入植者とベン・ベラが率いる民族解放戦線との間で戦闘が勃発した。当初は劣勢でも、十分に武装したフランス軍と植民地軍の残虐な行為により、すぐに民族解放戦線は農民大衆の支援がもたらした。民族解放戦線はゲリラ攻撃を1956年末にアルジェに拡大した。その結果、フランス第4共和制政府は入植者に対する制御を失った。第四共和制の崩壊を引き起こして、第五フランス共和国を創設するド・ゴールが復帰した。ド・ゴールは直ちに、サランの軍事秘密組織の抵抗して、彼の個人的権威によりアルジェリアにフランス軍の忠誠を再確立した。ド・ゴールは民族解放戦線に和平交渉を呼びかけ、1962年3月18日にレマン湖畔でエビアン協定を締結して、戦闘は停止した。アルジェリアの独立は1962年7月3日に宣言された。




2023年9月1日金曜日

アフリカ北東部の第2次マサワの戦いで、1990年2月にエリトリアのマサワの路上に、エチオピア軍の大破した戦車BMP-1とエチオピア軍兵士の死体が放置されて散乱した。

アフリカ北東部の第2次マサワの戦いにて、エリトリア人民解放戦線(EPLF)は、エチオピア軍に対するフェンキル(Fenkil)作戦にて  1990年2月10日から17日にかけて、紅海の港湾都市のマサワをめぐる1週間にわたる戦闘が勃発した。エリトリアのマサワの路上には、エチオピア軍の大破した戦車BMP-1とエチオピア軍兵士の死体が放置されて散乱した。戦車は、ソ連からデルグ政権に供与された戦車であった。

 フェルキン作戦により、1990年2月8日から2月10日の3日間の激戦の末に、エリトリア人民解放戦線(EPLF)は、エチオピア軍から港湾都市マッサワの解放をもたらした。EPLFによるフェンキル作戦で、エリトリアにおけるエチオピアの植民地主義の終焉を告げた。エチオピア軍は、数百人のマッサワ住民を人質に取り、穀物の袋を隠れ蓑として降伏を拒否した。EPLFは海と陸の連携して攻撃した。マサワがEPLFの手に落ちた後に、エチオピアのデルグ政権は、人的・物的資源の残骸と撤退しながら、マサワの民間住民に対してナパーム弾とクラスター爆弾を10日間にわたり無差別空爆をした。マサワに多くの死者、負傷者、トラウマを残して、地面に破壊されたインフラが散在した。

 1988年3月に、エチオピア軍はソ連の軍事顧問ともに、エリトリア北部のアルファベットの戦いで、EPLFに敗北してアルファベットは陥落して撤退した。ソ連はエチオピアとの関係を事実上終わらせて、ソ連の軍事機構は引き揚げた。エチオピアの空軍は約30年もの間、エリトリアを摂氏800度から1200度の温度を発生するナパーム弾で空爆し続けた。ソ連軍の引き上げてから、エチオピア軍は、ファラーシャ(エチオピアのユダヤ人)とイスラエルのクラスター爆弾の取引を始めた。クラスター弾は、爆発と同時に小さな爆弾粒を放出し、広範囲に拡散して、エリトリア市民に壊滅的な打撃を与えた。

 エチオピア・エリトリア国境紛争は、1998年5月6日から2000年6月18日まで勃発した。発端は国境紛争ではあるが、互いの首都を空爆して、規模は極めて大きく、犠牲者も多かった。第二次世界大戦以降に勃発した国家間紛争のうち、死者数が10万人を超えたのは、朝鮮戦争、インドシナ戦争、ベトナム戦争、イラン・イラク戦争、エチオピア・エリトリアとロシア・ウクライナ戦争のみである。




2023年7月13日木曜日

第一次チェチェン紛争で、首都グロズヌイの路上で、チェチェン女性がロシア軍の射撃を受けて死亡した。ロシア軍が、チェチェン人女性を容赦なく射殺して虐殺した。飼い猫が、女性の血みどろの死体を側で見守った。

第一次チェチェン紛争で、首都グロズヌイの路上で、チェチェン女性がロシア軍の射撃を受けて死亡した。ロシア軍が、チェチェン人女性を容赦なく射殺して虐殺した。飼い猫が、女性の血みどろの死体を側で見守った。

 第一次チェチェン紛争は、1994年12月11日から1996年8月31日に、ソビエト連邦の崩壊後のロシアが、チェチェン独立運動の鎮圧する紛争であった。第一次紛争はロシア軍の屈辱的な敗北に終わり、チェチェンは壊滅的な打撃を受けた。人口約105万人のチェチェン共和国は、約4万人から約8万人が死亡、20万人が負傷し、数十万人が移民や難民となった。都市、町、村は消滅し、チェチェン市民は、ロシア軍とチェチェン反乱軍や武装派閥などによる広範な残虐行為にさらされた。グロズヌイのチェチェン系住民の大半は、家族と繋がる田舎に逃げ、主にロシア系民族は行き場を失い、市内に残された。

 第一次チェチェン紛争は、ソビエト連邦崩壊後の不安定な情勢から、少数派民族の民族共和国が独立を主張した。チェチェンでは、1943年と1944年にソ連がチェチェン人を中央アジアに大量に強制送還した。旧ソ連空軍大将のジョハル・ドゥダエフが権力を掌握し、1991年にチェチェン共和国の独立を宣言した。チェチェン政府が、1994年11月29日のエリツィン大統領の最後通告に従わず、ロシア軍はチェチェン奪還を命じられた。第一次チェチェン紛争は、1994年12月11日にロシア軍の空爆作戦で始まり、地域の町や都市が攻撃された。

 第一次紛争では、約25,000人のロシア軍が1994年12月11日にチェチェンへの三方面から侵攻した。ロシア軍は山岳や森林地帯で、チェチェン軍による待ち伏せや戦術的撤退に遭遇した。首都グロズヌイに到達するのに12月25日まで要した。ロシア軍はグロズヌイへ大晦日に悲惨な略を進めた。ロシア軍は市街に入るや否や壊滅して、約60時間で約2,000人が死傷した。ロシア軍部隊は撤退中に放棄された。

 ロシア軍は1995年1月に約40,000人を増強してグロズヌイへの再攻撃した。空爆と大砲でグロズヌイを地区ごとに組織的に破壊した。1月4日の砲撃開始後に、ロシア軍の侵攻は遅延した。チェチェン反乱軍が都市ゲリラ戦術で、小部隊が壕から出てロシア軍を待ち伏せ攻撃した。最後のチェチェン人戦闘員を都市から追い出すのに2月8日まで要した。約5週間の紛争中にグロズヌイだけで、約27,000人の民間人が死亡して、全市民の約6%に相当した。

 ロシア軍は、チェチェン全土で侵攻して、町や村を組織的に消滅した。1995年4月までにチェチェンの約90%がロシアの支配下に置かれた。征服した領域では、ロシア内務省MVD部隊が、反乱軍や反乱支持者の容疑のある村落の浄化作戦で、残虐行為が行われた。強制収容所が設置され、広範な虐待とともに、民間人が集団拘束された。 

 1995年6月、チェチェン共和国のテロリスト集団が、隣国ブディョンノフスクの病院を占拠し、約1,500人の人質をとった。病院を襲撃したロシア軍の試みは何度も失敗し、約150人の人質が犠牲になった。交渉によって停戦が合意されて、第一次紛争は終結した。チェチェンの反乱は1995年10月に停戦を終了させ、第二次反乱期を開始した。ロシア軍は、チェチェンゲリラ襲撃を受けて、ロシア軍の死傷者の大半はこの段階で発生した。ロシア軍は守勢に回ったため、重爆撃戦略を頻繁に利用できなくなった。強制収容所や浄化作戦は続いた。ロシアのメディアはソビエト崩壊後に紛争の悲惨な映像を流し、ロシアの世論を急速に戦争に反対させた。

 1996年8月6日、1,500人のチェチェン人戦闘員がグロズヌイに潜入し、約12,000人のロシア人守備隊に奇襲攻撃を仕掛けた、大胆なチェチェン人によるグロズヌイを襲撃した。ロシア軍部隊は孤立した集団に追い込まれ、チェチェン人の数は効果的な防御態勢を敷いた増援部隊によってすぐに増強された。ロシア軍の反撃が撃退された後、ロシア軍は市街を包囲し、8月19日にチェチェン人に対し、市街から退去する48時間の最後通告を与えた。閉じ込められた約30万人の市民が大パニックに陥った。8月20日に砲撃が開始され、逃げ惑う多くの市民を襲った。ロシア軍は1996年8月22日にチェチェンからの撤退を命じられ、痛烈な敗北を喫した。8月31日までに、正式にロシア軍が撤退して、チェチェンの事実上の独立を認めるハサヴ・ユルト協定が調印された。





2023年5月8日月曜日

1900年12月30日に、ボーア戦争にてイギリス軍兵士が、南アフリカのドルトレヒトにて、同じ仲間の戦死傷者に水筒から最後の一滴の水を与えた。戦場の写真の映像から、「最後の一滴」と表現された。

1900年12月30日に、ボーア戦争にてイギリス軍兵士が、南アフリカのドルトレヒトにて、同じ仲間の戦死傷者に水筒から最後の一滴の水を与えた。戦場の写真の映像から、「最後の一滴」と表現された。イギリス軍医師が、ボーア戦争のモンテ・クリストの戦いで、銃剣傷を負った被害者のボーア人兵士の手当てをした。加害者のイギリス軍兵士は、被害者に気がついた。「被害者のボーア人兵士の具合は悪いのですか」とイギリス軍医師に尋ねた。「はい、かなり悪いです」と医師は返事をした。「まあ、できる限り優しくやったよ。実際、ボーア人に銃剣を押し込むよりも、銃剣を引き出して傷ついた!」と、加害者のイギリス軍兵士のコックニーは言った。「その後、ボーア人に水筒から飲み物を飲ませたんだ。被害者のボーア人が私に出会ったのは、ちょっとした幸運だったと思わないか」

 ボーア戦争にてハイデルベルク近郊で、2人の特殊隊員がイギリス軍将校を驚かして重傷を負わせた。特殊隊員は、イギリス軍将校の傷の手当てをして、最も近いイギリス軍キャンプに連れて行った。特殊隊員の人道的行為は非常に高く評価された。キャンプを出る前に夕食と風呂が与えられた。ボーア戦争後に、将校の両親は、息子であるイギリス軍将校の命を救ったことに感謝するため、特殊隊員の一人であるレナード・ビュイスを訪問した。

 ボーア戦争にてメシュ―エン将軍は、まともな状態でボーア軍に捕らえられた唯一のイギリス軍の将軍であった。逆に致命傷を負ったペン・シモンズ少将は、ダンディーで一時的にボーアの捕虜となって死亡した。デラリー将軍は、トウィーボッシュの戦いで大腿部を負傷し、同じダンディーで捕らえられた。デラリー将軍は抗議にも関わらず、クラークス・ドロップのイギリス病院に送り込まれた。戦後、メシュ―エンとデラリーの二人は友人となり、1915年にデラリーの死亡を聞いたメシュ―エンは「戦争では勇敢な敵のボーア人を、平和では真のイギリス軍の友を失った」と言った。

 ボーア戦争のゲリラ段階にて、ボーア人は重態の死傷者をイギリス軍の救急車に残した。イギリス軍の農場焼き討ちや民間人狩りなどの残酷な行為の中で、1つだけ救われる点があった。イギリス軍兵士が、将校も男性も、ゆるぎない人道的な態度をとっていた。傷病者を部隊の慈悲にためらいもなく委ねた。人道的な態度が、戦争の厳しいさを和らげた。

  ボーア戦争は1899年10月11日から1902年5月31日まで、約50万人のイギリス軍は南アフリカでボーア人を相手に厳しい植民地戦争であるボーア戦争(Anglo-Boer War)を繰り広げた。多勢に無勢とはいえ、約88,000人のボーア人は熟練した強い敵だった。最初の挫折と長いゲリラ戦の後に、イギリス軍は最終的に勝利を収めて南アフリカを占領した。イギリス軍は約2万人以上、ボーア軍は約1万4千人以上が戦死した。




2023年3月16日木曜日

アフリカ中部のザイール(現コンゴ)にて1992年2月16日に、民主化を求めて平和的なデモ行進する人々に、ザイール軍が卑劣な銃撃をして、約19人が殺害された。

アフリカ中部のザイール(現コンゴ)にて1992年2月16日に、民主化を求めて平和的なデモ行進する人々に、ザイール軍が卑劣な銃撃をして、約19人が殺害された。犠牲者の中には、わずか10歳の少年も巻き込まれた。約100万人ものザイール人のキリスト教徒が、希望の行進を首都キンシャサの通りを挙行して、国民会議の再開を要求した。モブツ大統領の治安部隊は殺人的な武力で対抗して、少なくとも約30人のデモ参加者を殺害して、数百人が負傷した。他の都市の抗議活動でも死傷者が出た。国際的な反応により、モブツは主権国民会議を4月初旬に再開させた。モブツ政権と国民会議とは激しい交渉が行われた。8月3日に妥協合意に至り、野党連合のチセケディが大統領に就任した。モブツとチセケディの間の権力闘争は続いた。10月4日に、モブツに忠実な軍隊が、約2週間も銀行と国会議事堂を取り囲った。ザイールは、長年にわたる内紛、独裁政治、経済的衰退を経て、1996年には瀕死の状態で、1997年5月17日から周辺諸国の侵攻を受けて第一次コンゴ戦争が勃発した。 

 アフリカのザイール(現コンゴ)は、1990年4月24日に、内外の圧力によりザイールの一党独裁のモブツ大統領は複数政党制を導入した。1990年5月に、モブツの民主化から2週間後に、ルブンバシ大学の学生たちは、モブツ政権に反抗するデモを行った。学生らは治安部隊に攻撃されて、不特定な人数が殺害された。大虐殺により内部の反対と国際的な圧力が、主権国民会議の招集を余儀なくした。

 会議は1991年8月に初めて開催されるも、1か月以内に崩壊した。9月には、首都キンシャサにてザイール軍兵士が深刻な略奪をした。モブツ大統領の任期が満了直後の12月初旬に会議が召集された。1992年1月19日に、ングズ首相が政権交代のない会議を中断した。会議の中断は反対派を刺激して、1月22日の夜にザイール軍兵士たちが反乱して国営ラジオ局を占領した。モブツ政権は反乱をクーデター未遂と公表した。野党を容疑者として一斉検挙した。数日間、参戦したザイール軍兵士のうち11人は、3月に見世物の裁判にかけた。軍事裁判所は11人のうち9人に懲役刑を宣告した。その他の残余の兵士は、政府から逃亡者として不在で死刑が宣告された。





2022年12月29日木曜日

第二次エチオピア戦争にて、ゴンドランド社の宿舎の地上には、1936年2月13日に帝国エチオピア軍の襲撃で殺害されたイタリア人の男性労働者の死体が散乱した。

第二次エチオピア戦争にて、ゴンドランド社の宿舎の地上には、帝国エチオピア軍の襲撃で殺害されたイタリア人の男性労働者の死体が散乱した。そのうちの何人かの死体は性器を切断されて去勢された。ゴンドランドの虐殺(Gondrand Massacre)は、1936年2月13日にアフリカのエチオピアにて、ゴンドランド社のイタリア人の男性労働者が襲撃されて虐殺された事件である。ファシスト・イタリア当局は、エチオピアの征服を正当化するプロパガンダのために公表した。

 ゴンドランドの虐殺事件は1936年2月13日に、エチオピア北部の町マイ・ラーラ(現ラマ)付近で発生した。当時に、道路建設に従事していた物流会社ゴンドランドの民間イタリア人労働者の宿舎が、ラス・イムルの命令を受けた帝国エチオピア軍によって夜明けに襲撃された。建設現場には約15丁のマスケットが備え付けられ、イタリア人労働者も作業道具を防衛用武器として使用した。帝国エチオピア軍の奇襲に虐殺された。1936年2月10日から19日にかけて、マイ・ラーラの南約200kmで行われたアンバ・アラダムの戦いとほぼ同じ時期にゴンドランドの虐殺事件が勃発した。

 約130人の労働者のうちで、約68人のイタリア人が殺された。そのうちの約17人の死体は、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエの「敵の死体を切断するな」という命令に反して帝国エチオピア軍は去勢した。他の27人は負傷し、約4人が行方不明となった。このうち約2名は後に捕虜となっていた。攻撃で約40人の帝国エチオピア軍兵士が死亡したが、その多くはゲルグナイトの貯蔵所の爆発で殺害された。この攻撃の後、イタリア軍兵士によるエチオピア市民への報復する虐殺が行われ、数え切れないほどの死者を出した。

  第二次エチオピア戦争(1935年10月3日から1936年5月5日)にイタリア王国とエチオピア帝国との戦争である。約15,000人のイタリア人と約275,000人のエチオピア人が殺害された。第一次エチオピア戦争(1894年12月15日から1896年10月23日)で敗れたイタリアは、再度エチオピアの植民地化を意図して侵攻を行って、短期間の戦闘をもって全土を占領した。敗れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は退位を拒み、イギリスにてエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。イタリアはエチオピア全土を占領した状況を背景に、アルバニア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を皇帝とする東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)を建国した。国際紛争の解決にて大国の利害に左右された国際連盟の無力さが露呈した戦争でもある。国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が唯一行われたが、イタリアに対して実効的ではなかった。イタリアは孤立して、ドイツおよび日本と枢軸国を形成する道をたどった。




2022年7月22日金曜日

コンゴ動乱で、首都レオポルドビルは、激しい戦闘の末に反撃した反乱軍から奪還された。反撃した反乱軍は1965年11月に全滅して生存していた捕虜は一人もいなかった。

アフリカの脱植民地化にて勃発したコンゴ動乱が、1960年代の旧ベルギー領コンゴ(現ザイール)を荒廃させた。1960年にベルギーが速やかにコンゴ共和国から撤退した後に、一連の地方反乱が勃発した。国連軍は首都のレオポルドビル政府を支援して、事態の収拾に苦慮した。1964年に、モイーズ・カペンダ・チョンベ首相は、中国に学んだ元内閣大臣ピエール・ムレレの弓矢で武装した彼の信奉者の反乱軍に遭遇した。コンゴ動乱で、首都レオポルドビルは、激しい戦闘の末に、シンバ反乱軍の反撃から奪還された。反撃したシンバ反乱軍は1965年11月に全滅して生存していた捕虜は一人もいなかった。ピエール・ムレレは直前に首相を解任されて、ジョセフ・デシレ・モブツが11月24日に軍事クデーターで、長期独裁の大統領に就任した。

 コンゴ動乱は、1960年に旧ベルギー領コンゴの独立後に勃発して、1965年まで行われた内戦である。1960年6月にコンゴはカサブブを元首,ルムンバを首相として独立国となった。独立に反対するベルギー軍に対して、全土的な暴動が起こり,ベルギー軍が武力介入した。対応して親ベルギー派のチョンベが、カタンガ州の分離独立を宣言して,内戦となった。7月に国連軍が派遣されたが、内覧はおさまらなかった。民族派のルムンバが、親ベルギー派のチョンベに虐殺された。キンシャサ(旧レオポルドビル)のカサブブ,カタンガのチョンベ,ルムンバ派のギゼンガの3大勢力が抗争をくり広げた。1961年9月に,カタンガの復帰工作に向かうハマーショルド国連事務総長が事故死した。1964年にカサブブとチョンベが手を結び,カタンガ州は合同した。1965年にまた対立して,モブツ将軍の無血クーデタで、カサブブが追放されて,コンゴ動乱は終結した。 

 コンゴ動乱は、コンゴ共和国(現在のコンゴ民主共和国)にて1960年から1965年に勃発した政治的混乱と紛争である。一連の内戦を構成するコンゴ動乱は、冷戦下で対立する派閥間で、約10万人の死者が発生した。1960年6月30日に、ベルギー領コンゴで植民地支配の撤廃を求める民族運動が起こり、独立が宣言された。7月の第1週には、軍隊で反乱が起こり、黒人と白人の民間人の間で暴動が勃発した。ベルギーは逃亡する白人を保護する名目で軍隊を派遣した。カタンガと南カサイは、ベルギーの支援を受けて分離独立した。暴動が続く中で、国連は平和維持軍を派遣したが、ダグ・ハマルスキョルド国連事務総長が、首都レオポルドビルの中央政府が分離主義者と戦うために、国連維持軍を拒否した。最大派閥のカリスマ、パトリス・ルムンバ首相は、ソ連に支援を求め、ソ連は直ちに軍事顧問団を派遣して支援に乗り出した。

 ベルギーからの独立後に、コンゴ民主共和国で一連の政治的騒乱が起こった。1960年1月、ベルギーがコンゴ沿いの広大な植民地を独立させる突然の決定を下して、レオポルドビル(キンシャサ)を統治者とする単一国家が誕生した。5月の議会選挙で部族間の戦闘が始まり、独立時の6月30日にはさらに戦闘が発生した。コンゴ警察は、ベルギー軍将校に反抗し、反乱を起こした。ヨーロッパ人と財産は攻撃され、ベルギー人難民は逃亡した。鉱山が豊富なカタンガ州では、ベルギー軍と白人傭兵の支援を受けたモイゼ・ツオンベが独立共和国を宣言した。政府は国連に治安回復のための軍を要請し、国連事務総長ハンマークヨルドはベルギー軍に代わる平和維持軍を派遣した。クーデターにより陸軍司令官モブツ大佐が政権を握り、急進派のパトリス・ルムンバ首相を排除した政権が誕生した。1961年、ルムンバは敵対部族に殺され、ハンマークイェルドもコンゴ訪問中に墜落死している。戦闘は続き、カタンガ、スタンレーヴィル、カサイでそれぞれ独立政権が樹立された。1965年11月、モブツ率いるコンゴ軍は2度目のクーデターを起こし、モブツは大統領になることを宣言した。



2022年4月15日金曜日

アルジェリア戦争にて、フランス軍が民族解放戦線(FLN)の反乱軍を掃討し、虐殺したアルジェリア人の死体を踏み気取った。

アルジェリア戦争において、フランス軍部隊がアルジェリアの民族解放戦線(FLN)の反乱軍を掃討した。フランス軍兵士は、虐殺したアルジェリア人の死体を踏みつけては気取っていた。捕虜にして無抵抗なアルジェリア人を強制連行した。 

 アルジェリア戦争は、アルジェリア独立戦争とも呼ばれ、フランスからアルジェリアが独立するための戦争(1954-62年)であった。アルジェリア独立運動は第一次世界大戦(1914-18)中に始まり、第二次世界大戦(1939-1945)後に、フランスが約束したアルジェリアの自治権拡大を実現しなかったため、独立運動が勢いづいた。1954年に、民族解放戦線(FLNは、フランスに対してゲリラ戦を勃発した。アルジェリアの主権国家を樹立するために、国連に外交的承認を求めた。アルジェリアの戦闘員は国境沿いを中心に活動した。最も深刻な戦闘はアルジェとその周辺で行われた。FLNの戦闘員はアルジェの戦い(1956-1957)として、一連の激しい都市攻撃を開始した。フランス軍(約50万人にも増員)は、残忍な虐殺手段で何とか支配権を取り戻した。この戦闘の激しさはフランス軍の紛争継続への政治的意思を失わせた。1959年に、シャルル・ド・ゴールは、アルジェリア人は自分たちの将来を決める権利があると宣言した。独立に反対するフランス人やアルジェリア人によるテロ行為や、フランス軍の一部によるフランスでのクーデター未遂などがあった。フランスと1962年に協定が結ばれて、アルジェリアは独立した。

 アルジェリアには、民族主義政党は長年存在したが、独立を達成できず、次第に過激派になった。第二次世界大戦前には、アルジェリア人民党が設立されたが、1930年代後半に頓挫して、1940年代半ばに民主的自由を目指す運動(MTLD)に代わった。より過激な準軍事組織である特別組織(OS)もほぼ同時に結成された。1950年に植民地警察に発見されて、多くの指導者が投獄された。1954年に、元OSのメンバーがMTLDから分裂し、統一と行動の革命委員会(CRUA)を結成した。この組織は、軍事行動に備えて、後にFLNとなった。

 フランスは1830年に北アフリカのアルジェリアに侵攻して、1848年にフランスの一部として宣言した。多くのフランス人がアルジェリアに移り住み、ピエ・ノワールと呼ばれる集団を形成して、大多数のイスラム教徒であるアルジェリア人よりも優れた生活環境であった。第二次世界大戦を経て、インドシナ半島でフランス軍は敗退した。当初は平和的な独立運動を展開したFLNは、1954年に独立のための武装解放闘争を呼びかけた。フランスに独立を拒絶されると、軍や市民を標的にした連続攻撃を行った。アルジェリア戦争は、ゲリラ戦、民間人襲撃、テロ作戦からなる長い闘いであり、特に残虐な大量虐殺の闘いであった。1956年から1957年のアルジェの戦いで、FLNは紛争を都市部にも持ち込んだ。フランス軍と親派は、ますます攻撃的で暴力的な軍事弾圧で対抗した。

 フランス政府は何カ月も、アルジェリア情勢が制御不能であり、戦争に発展していた。1956年までに、アルジェリアには約50万人以上のフランス軍が駐留した。植民地時代の精鋭歩兵空挺部隊と外人部隊は、攻撃的な対反乱軍に対抗した。約17万人のイスラム教徒のアルジェリア人も、フランス正規軍であるハルキに所属した志願兵であった。彼らは、約30万人ものFLNのパルチザン部隊と、少なくとも4万人の民間人支持者と対決した。アルジェリア戦争は世界冷戦時代(1946-90)の数ある代理戦争となった。




2021年12月23日木曜日

スーダンのウム・ディワカラートにて、イギリス・エジプト軍が手前にカリファ・アブダラ匕首長と右手にアフマド・ファディル将軍を殺害してスーダン軍の死体が散乱した。

スーダンのウム・ディワカラートにて1899年11月24日に、イギリス・エジプト軍が手前に首長のカリファ・アブダラ匕と右手に将軍のアフマド・ファディルを殺害してスーダン軍兵士の死体が散乱した。処刑する戦いとなり、死体は広大な土地に均等に散らばっていた。イギリス軍のレジナルドウィンゲートとエジプト軍は、カリフとコスティの南西にいる約10,000人の軍隊を追い詰めた。その後の戦闘で、カリフは約1,000人の部下と共に殺害された。イギリス・エジプト軍は、わずかに約3人が死亡して、約23人が戦傷した。 

 1896年に、イギリス・エジプト軍がスーダンの再征服を開始した。アブダラヒは2年近く抵抗した。イギリス軍の攻勢により、1898年9月2日に新首都でのオムドゥルマンの戦いで、約52,000人のスーダン軍が壊滅して、撤退を余儀なくされた。イギリス軍の機関銃と一斉射撃により、スーダン軍の約12,000人が殺害されて、約13,000人が戦傷した。イギリス・エジプト軍側は、わずかに約48人の戦死と第382人が戦傷した。スーダン軍の残党を率いて南方に逃亡を続けた。1899年1月のコンドミニアム協定により、スーダンはほぼイギリスの保護領となった。多くのスーダン人はこれに憤慨して、1899年11月24日に、イギリス・エジプト軍がマフディスト残党と交戦して、アブダラヒは殺害された。 

 アブダラヒは、1885年6月にマフディの突然の死後、ムハンマド・アフマドが創設したマフディ派の指導者の地位を継承した。自らをカリファト・アル・マフディ、すなわちマフディの後継者と宣言した。アブダラヒは、1885-1886年、1888-1889年、1891年に数回の反乱を鎮圧し、唯一の指導者になった。当初、マハディヤはジハード国家として、イスラム主義の軍事カリフ制で運営して、裁判はシャリーア法とマハディの戒律で執行した。その後に、アブダラヒはカリファとして、より伝統的な行政を確立した。マハディヤは、スーダン部族間の不和を乗り越えてスーダンを統一するために、自称イスラム主義の軍事カリフ制を維持するために、エチオピアとエジプトの一部にも侵略した。1899年からスーダンは、再びイギリス・エジプトの共同統治となった。1924年から再びスーダンの独立運動が勃発して、1954年に自治政府が発足して、1956年にスーダン共和国が独立した。






2021年11月16日火曜日

イタリア軍兵士はエル・アラメインの戦いにてイギリス軍に殺害され、死体は息子の写真を右手に持ったように撮影された。

第二次世界大戦の北アフリカ戦線の1942年のエル・アラメインの戦いにて、イタリア軍兵士はイギリス軍に殺害された。イタリア人兵士の死体は、息子の写真を右手に持って死んだように撮影された。エル・アラメインの戦い(El-Alamein; 第一次会戦は1942年7月1日〜7月27日、第二次会戦は1942年10月23日〜11月11日)が勃発した。エジプト首都カイロから西に約250kmのエルアラメインにて第一次会戦の膠着状態から第二次会戦で終結した。北アフリカ戦線における枢軸軍の敗退となった。1942年11月2日から撤退を開始したイタリア軍部隊は、自動車の輸送手段がなくイギリス軍に掃討された。

 イタリア軍が、1940年9月13日にリビアからエジプトに侵攻した。イタリア軍が、1948年12月から北アフリカのイギリス軍に大敗を喫した後に、ドイツ軍が1942年1月から参戦して、スエズ運河を奪うためにリビアから北アフリカ沿岸を東侵して、ドイツ軍とイタリア軍は、1942年1月にベンガジからトブルクを占領してエジプトを東侵した。1942年6月30日にエル・アラメインのイギリス軍の陣地に激突した。ドイツ軍は7月1日にエル・アラメインを攻撃したが、イギリス軍が反撃に出て消耗戦になった。7月中旬にもドイツ軍はエル・アラメインに留まり、相互に防戦一方となり第1次会戦は終結した。第一次会戦での連合軍の損害は約15万人の兵士のうち約1万3250人が死傷し、枢軸軍側は約9万6000人の兵士のうち約1万人が死傷した。

 ドイツ軍が守勢に回る中で、イギリス軍は大規模な軍備を整え、第2次エル・アラメインの戦いで攻勢した。イギリス軍は南側のカッタラ窪地に機械化部隊に通行不能のため、エル・アラメインを防衛した。1942年10月中旬までに、イギリス軍はドイツ・イタリア軍の約2倍の兵士と戦車を投入した。イギリス軍は戦場での空中戦が優勢となり、ドイツ軍は戦線に数十万個の対戦車地雷と対人地雷を撒いて防御策を構築した。

 自由フランス軍による南部での陽動作戦と、イギリス軍は海岸近くの北部が主な攻撃して、枢軸軍の攻撃力を消耗させた。10月23日からイギリス軍は、約800門以上の大砲の砲撃をして、イギリス軍の歩兵と戦車は地雷原と戦車砲火で攻勢が頓挫した。オーストラリア軍とニュージーランド軍の侵攻により、イギリス軍が枢軸軍の防御網を突破した。11月2日、ドイツ軍部隊は撤退を開始し、自動車の輸送手段を持たないイタリア軍部隊はイギリス軍に掃討された。11月4日までに、枢軸軍の機動部隊は完全に撤退した。11月8日のイギリス・アメリカ軍の北アフリカ上陸作戦によって枢軸軍は北アフリカからの撃退された。第2次会戦の犠牲者は、約195000人の兵士の連合側は死者約4,800人、負傷者は約9,000人であり、枢軸軍側は兵力110,000人のうち、死者は約9,000人、負傷者は約15,000人、捕虜は約30,000人に及んだ。




2021年9月5日日曜日

第二次世界大戦の北アフリカ戦線で、1942年にエジプトの砂漠でフォルクスワーゲン装甲車の横で2人のドイツ軍兵士が戦死した。

1942年にエジプトの砂漠でフォルクスワーゲン装甲車の横で2人のドイツ軍兵士が戦死した。この写真は後に連合国により宣伝に使用され、パンフレットに印刷されドイツの都市に投下された。1942年10月の第二次エルアラミンの戦いで、イギリス軍がドイツ軍のアフリカ軍団に決定的な敗北をもたらした。砂漠は、植物が生えず、水もほとんどない人を寄せ付けない地域である。エジプト西部のメルサ・マトルーからリビアのシドラ湾東岸のエル・アゲイラまで、数少ない町や村を結ぶ主要道路は1本しかない。地中海の南岸には幅の異なる砂漠の海岸線が続いて、内陸部には高さ約150mのリビア高原があり、鋭い断崖絶壁が続いた。車やトラックでも登れるような峠も少なく、台地では薄い砂に覆われた石灰岩の上を防御物も無く、横断する軍用車が射撃された。

 第二次世界大戦の北アフリカ戦線は、スエズ運河と、中東の石油やアジアの連結をめぐる争いだった。北アフリカの紛争は、1935年10月からイタリアが植民地であるソマリランドからエチオピアに侵攻して勃発した。エジプトはイタリア帝国主義を強く警戒して、イギリスとフランス軍は、アレキサンドリアに主要基地を置いた。1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻した際に、イタリアは中立を保った。しかし、1940年6月にドイツ軍がフランスに侵攻した時に、1940年6月11日に、フランスのダンケルクでイギリス軍の撤退から6日後に、イタリアはイギリスとフランスに宣戦布告して、1940年6月25日にフランスが降伏した。イギリス軍とイタリア軍は、リビアとエジプトの国境を挟む西沙漠で対峙した。

 1940年9月13日に、イタリア軍はエジプトに侵攻した。イギリス軍はイタリア軍をエジプトから追い出し、1941年1月3日にはリビアのバルディアを占領した。イギリス軍は、1月22日に重要な港であるリビア東部のトブルクを占領した。ドイツ軍とイタリア軍がリビアに渡り始めた。2月12日から、ドイツ軍のアフリカ軍団が主導権を取り戻し、4月3日にイギリス軍がベンガジから撤退して4月10日にはトブルクを包囲した。ナチス・ドイツ軍が、6月22日に東部戦線のソ連に対してバルバロッサ作戦を開始すると、北アフリカのアフリカ軍団は弱体化した。リビアとエジプトの地域を支配するための攻防の戦いが続き、1942年10月の第二次エルアラミンの戦いで最高潮に達した。イギリス軍によりアフリカ軍団に決定的な敗北をした。その残党をチュニジアまで追撃した。1942年11月の北西アフリカへのイギリス軍とアメリカ軍が上陸して、連合国はチュニジア北部で数十万人のドイツ軍とイタリア軍を包囲して、1943年5月にドイツ軍は降伏した。

 北アフリカ戦線では1940年9月13日から1943年5月13日までにドイツ軍とイタリア軍は約62万人、イギリス軍は約22万人の死傷者を出しました。チュニジアでアメリカ軍の死傷者だけでも約18,500人を超えた。北アフリカでの連合軍の勝利で、約90万人近くのドイツ・イタリア軍を壊滅または無力化した。枢軸国に対する1943年夏からのシチリア島とイタリア本土への侵攻を可能にした。中東の油田やアジア・アフリカへのイギリス軍の補給線に対する枢軸国の脅威を取り除いた。




2021年7月26日月曜日

鉄条網と塹壕で防御していたジャラブブのオアシス村の丘で、オーストラリア軍はイタリア軍を戦闘で殲滅して殺害された兵士たちの死体に墓穴を掘って埋葬した。

第二次世界大戦のアフリカ戦線にて、1941年3月にオーストラリア軍は、サハラ砂漠の北部のリビア国境にて、イタリア軍と植民地軍が駐屯していたオアシス村を攻撃した。イタリア軍は、バルディアからジャラブブまで鉄条網を敷いて、鉄線の高さは約1.7mで、コンクリートの土台から張っていた。鉄条網と塹壕で防御していたジャラブブのオアシス村の丘で、オーストラリア軍によりイタリア軍は壊滅した。戦闘で殺害された兵士たちの死体に墓穴を掘って埋葬した。イタリア軍はオーストラリア軍に包囲されて、白兵戦で約250人も死傷した。

 地中海のバルディア港から約200キロ離れたリビアとエジプトの国境にあるオアシス村ジャラブブ(Giarabub)には、イタリア軍約1,350人、植民地リビア人の約750人の駐屯地が置かれていた。1925年12月まで第一次世界大戦で、イギリスがエジプトにシャラブブをイタリアへの割譲を強制していた。北方でイギリス軍の攻勢が激化していた。1940年12月下旬にオーストラリア軍の小規模な軍事装備連隊が派遣されて、イタリア軍団を包囲した。ジアラブは作戦の主な舞台からは離れていたが、イタリア軍が砂漠を通って対抗する戦術を敢行するには、双方に戦略的な場所であった。

 1940年12月から1941年3月までの間に、イタリア軍の守備隊が防衛を維持するために、空輸による補給が必要であった。1月18日にイギリス空軍により救護団が崩壊した。1941年1月初旬に、イギリス軍は北側のリビアのキレナイカ地方で作戦が勝利した。イタリア軍に降伏を促すビラを撒いたが、イタリア軍側はこれに応じなかった。1941年1月から2月にかけて、オーストラリア軍は継続的に防衛をしていたが、本格的な攻撃を行う戦力はなかった。3月17日にドイツ軍は守備隊にあと数週間戦えばドイツ軍の援軍が到着すると伝令した。

 1941年3月21日に、オーストラリア軍はようやく十分な援軍を得て、ジャラブ奪取のための攻撃が勃発した。2日間の戦闘の後に、オアシス村は攻略された。3月21日にイタリア軍は降伏した。イタリア軍の死傷者は約250人、オーストラリア軍は死傷者約17人、負傷者約77人であった。3月22日に、ドイツ軍はイギリス連邦軍をトブルクを除いてリビアから駆逐した。オーストラリア軍は、イギリス軍と植民地軍の捕獲してエジプトのシワに撤退した。