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2024年11月11日月曜日

朝鮮戦争直前の1950年4月13日に、北朝鮮の朝鮮人民遊撃隊の指導者である李昊濟は、韓国軍警察部隊による討伐隊との戦闘中に戦死して、李昊濟の死体から頭部が断頭された。

朝鮮戦争の直前の1950年4月13日に、北朝鮮の朝鮮人民遊撃隊の指導者である李昊濟(イ・ホンジェ, 이호제)は、韓国軍の警察部隊による討伐隊との戦闘中に戦死した。その時に、李昊濟の死体から頭部が断頭された。1949年8月には、李昊濟の朝鮮人民遊撃隊は38度線に近い五台山で、小規模の野山隊を取り込んで、遊撃隊は約400人の部隊となり、慶州の北方の宝峴山まで侵攻した。韓国軍警察部隊による討伐それて、李昊濟の朝鮮人民遊撃隊は1949年12月頃に崩壊していた。

 李昊濟は、アメリカ軍による朝鮮半島の統治期初期の1945年12月に、北朝鮮の全朝鮮青年団体総同盟中央委員長として、清銃を率いた。その直後に北朝鮮の金日成の社会主義青年同盟の前身の南朝鮮民主青年同盟の委員長として、左翼青年運動の指導者として活動した。左翼活動が韓国で違法化される過程で、北朝鮮に脱北して、工作員養成機関である江東政治学院長になった。

 江東政治学院は、北朝鮮の工作員である朝鮮人民遊撃隊を養成する機関として、南朝鮮労働党の軍事的基盤となった。李昊濟は1948年4月3日に勃発した済州島四・三事件に参入した。麗水・順天事件にて、1948年10月19日に勃発して、軍隊が反乱して、民間人が殺害された。李昊濟は、1949年6月には、北朝鮮の祖国統一民主主義戦線の命令を受けて、江東政治学院で養成した遊撃隊員の360余人を率いて太白山脈に沿って南下した。麗水の軍隊反乱軍の一部を取り込んで、38度線に近い五台山地区を陣地としていた。






2024年11月7日木曜日

1921年から1922年にかけて南ロシアの飢饉により、男性が家族2人の餓死した死体を引きずり、埋葬または火葬のために運んでいた。生存者は死者を埋葬したが、時には食べることを余儀なくした。

1921年から1922年にかけて南ロシアの飢饉により、男性が家族2人の餓死した死体を引きずり、埋葬または火葬のために運んでいた。生存者は死者を埋葬したが、時には食べることを余儀なくした。ロシア内戦の混乱により引き起こされた南ロシアの飢饉と伝染病により、1921年から1922年にかけて数百万人が餓死して命を落とした。この飢饉は、レーニン・スターリン体制が引き起こした最初の飢饉による巨大な人災の犠牲者であった。その後にも、1929年から1933年の集団化と飢饉、1936年から1939年の大粛清によって数百万人が殺害されて命を落とした。これは20世紀の歴史において、いかなる国においても国家政策によって引き起こされた最大の悲劇の連続であった。

 1921-1922年のロシアの飢饉は、1921年の春先に始まり1922年まで続いたロシアにおける深刻な飢饉であった。この飢饉で推定500万人が死亡して、主にヴォルガとウラル川地域が被害を受けた。飢えた人間が他の人間の肉や内臓を食べるカニバリズムの行為または実践が発生した。さらにコレラやチフスなどの伝染病が飢饉による死因となった。1918年から1921年にかけてのロシア内戦にて、食料を栽培者から食料を奪い取り、軍隊や支持者に与えた。

 他の大規模な飢饉は同様に、推定値にはかなりの幅がある。1920年代初頭のソビエトの公式出版物では、1921年に飢饉と関連疾患により約500万人が死亡したと結論づけた。数字は教科書にも引用されている。20世紀に戦争、飢饉、テロによって数千万の犠牲者が出たと示唆された。

 他の大規模な飢饉と同様に、推定値には幅がある。1920年代初頭のソビエトの公式出版物では、1921年に飢饉と関連疾患により約500万人が死亡したと結論づけ、教科書にも引用された。20世紀に戦争、飢饉、テロによって数千万の犠牲者が出た。深刻な干ばつと不作、1914年以来の継続的な戦争、ソ連当局による強制的な農場の集団化、農民からの穀物や種子の徴発、連合国によるソ連の経済封鎖もすべて、飢饉の犠牲の一因となった。




2024年10月28日月曜日

1982年3月に、エルサルバトル政府軍兵士が首都サン・サン・バトルの貧民街のサン・アントニオ・アバドで銃撃戦で殺害したゲリラの戦闘員の死体をトラックに載せた。

1982年3月に、エルサルバトルの首都サン・サン・バトルの近郊の貧民街のサン・アントニオ・アバドで内戦の銃撃戦が勃発した。政府軍とゲリラ側の双方で約15人が殺害された。エルサルバトル政府軍兵士が、銃撃戦で殺害したゲリラの戦闘員の死体をトラックに載せた。エルサルバドル政府軍兵士は、集めたゲリラの死体を無造作に、まるで荷物のようにトラックに投げ込んだ。死体を引き上げる兵士の手にはするどうナイフが握られ、ヘラヘラ笑っていた。兵士が銃撃を打ち込んだ路地では、兵士が殺害したゲリラの死体を引きずっていた。

 さらにサン・アントニオ・アバドでは、路地の奥には、が胸をナイフでえぐられて殺害された若い女性ゲリラ死体があり、横の水たまりが赤く血で染まった。政府軍兵士は、民家のドアを蹴破り、1組の夫婦を引っ張り出して暴行して尋問した。首都サン・サン・バトルの近郊の貧民街のサン・アントニオ・アバドはの貧民街は、ゲリラの拠点となり、政府軍との内戦に巻き込まれた。

 1980年にゲリラ闘争をした5つの左翼グループがファランド・マルチ民族会報戦線(FMLN)を結成した。1981年にFMLN側が攻勢するも、アメリカの後方支援を受けたエルサルバドル政府軍が圧倒的な軍事力でゲリラ掃討を展開した。10年間にわたる内戦で、約50万人が住居と仕事失って、約7万人が死亡した。極右の暗殺部隊によるテロで、改革派を大量虐殺した。1979年10月15日から1992年1月16日にわたる12年間にわたる内戦で、約50万人が住居と仕事失って、約7万人が死亡した。極右の暗殺部隊によるテロで、改革派を大量虐殺した。政府軍は約10,360人が死亡して、FMLM側は約12,274人から20,000人が死亡して、民間人は約65,161人が死亡した。約55万人が国内避難して、約50万人が国外難民となった。1992年1月16日に調印されたチャプルテペック和平協定で、サルバドール内戦が終結した。この条約は、サルバドル政府とFMLNの間の和平を確立して、FMLNは政党として1994年から大統領選挙に参加した。





2024年10月3日木曜日

ローデシアのソールズベリーにて、モザンビークとの国境に近いイニャンガ山脈で活動する民族主義ゲリラは、27人の茶園労働者を1976年12月19日遅くに一網打尽に銃殺した。27人の妻や家族は、親族の亡骸を見詰めた。

アフリカのローデシア戦争におけるテロリストの標的の一つは、白人が所有する農園で働くアフリカ人労働者であった。アフリカ人労働者は裏切り者とみなされて、1976年にはモザンビーク国境近くの紅茶農園で、27人の労働者が一斉に捕らえられて、銃殺された。アフリカ人労働者の家族らは恐怖に震えて見詰めた。ローデシアのソールズベリーにて、モザンビークとの国境に近いイニャンガ山脈で活動する民族主義ゲリラは、27人の茶園労働者を1976年12月19日遅くに一網打尽に銃殺した。無残にも銃殺された27人の妻や家族は、親族の亡骸を見詰めた。ローデシア治安部隊によると、民族主義ゲリラが茶園労働者を別の茶園に連れて行って、そこで殺害した。

 ローデシア・ブッシュ戦争(Rhodesian Bush War)は、1964年7月から1979年12月にかけて、国連の未承認国であるローデシアで起こった内戦である。この内戦では3つの勢力が対立する紛争が勃発した。イアン・スミスが率いるローデシア政府軍、ロバート・ムガベ率いるジンバブエ・アフリカ民族同盟の軍部であるジンバブエ・アフリカ民族解放軍、ジョシュア・ンコモのジンバブエ・アフリカ人民連合のジンバブエ人民革命軍と、3つの勢力が互いに対立して紛争した。この内戦とそれに続く1978年にスミスとムゾレワが調印した内部和解により、1979年6月に普通選挙が実施されて、ローデシアにおける少数派の白人支配は終わりを告げた。黒人多数派政府の下でジンバブエ・ローデシアと改名された。しかし、この新秩序は国際的な承認を得ることができず、内戦は継続した。

 1979年12月、ジンバブエ・ローデシア政府、イギリス政府、ムガベとンコモの統一「愛国戦線」の交渉がロンドンのランカスター・ハウスで行われ、ランカスター・ハウス協定が調印された。一時的にイギリスの支配下に戻り、1980年3月にイギリスと英連邦の監督の下で新たな選挙が行われた。この選挙でジンバブエ・アフリカ民族解放軍(ZANU)が勝利し、ムガベは1980年4月18日にジンバブエの初代首相となり、国際的に承認され独立を達成した。ローデシア政府の統計によると、1964年から1982年の間に、ローデシア軍兵士2,000人以上、ゲリラ15,000人以上、黒人市民10,590人、白人市民1,247人を含む、合計20,000人から30,000人が殺害された。




2024年10月2日水曜日

中国国民党の保安隊は、1948年2月に中国共産党のゲリラ指導者である42歳の丁西山の首を城壁に吊るして公開した。共産党ゲリラの死体の周りに無言の群衆が集まっていた。

中国国民党の保安隊は、1948年2月に中国共産党のゲリラ指導者である42歳の丁西山の首を城壁に吊るす準備をした。保安隊はゲリラのリーダーであった丁西山の首を切り落として、城壁に吊るして公開した。丁西山など共産党ゲリラの死体の周りには無言の群衆が集まっていた。共産ゲリラ部隊の一部が捕らえられて銃殺されて、死体が上海の城壁の外の川の浜辺に公開された。国民党による中国共産党員の処刑を撮影した写真である。

 1948年2月13日に中国人民解放軍は、蘇州・浙江国境地帯のゲリラ隊長の丁西山が60人以上のゲリラを率いて南下した。上海市奉賢県前橋の胡佳ドックに到達した時に、裏切り者の密告により国民党軍に包囲された。丁西山大尉が率いる共産党率いるゲリラ部隊は、上海の松江県庁所在地への武力攻撃に失敗した。ゲリラは捕らえられて、主要メンバーは松江駐屯の保安隊によって死刑で殺害された。リーダーの丁西山は公衆の面前で斬首されて、頭部は城壁に吊るされて公開された。上海解放後に、丁西山の遺骨は上海龍華烈士墓地に埋葬された。

 1927年に、中国国民党の蒋介石は党内掃討の名目でクーデターを起こして、共産党員を追い詰めて殺害し始めた。1940年7月15日には日本軍の傀儡の王景偉政権がクーデターを起こし、共産党との協力体制は完全に崩壊して、両者の長い内戦が始まった。1945年の日本軍に対する抵抗戦争終結後に、中国共産党と再び内戦状態に陥った。相互の敵対期間中に、国民党は何度も中国共産党員を逮捕し、公開処刑して殺害した。中国内戦の中国共産党革命で国民党に勝利した中国人民共和国の毛沢東は1949年10月1日、正式に中華人民共和国を宣言した。




2024年9月13日金曜日

1980年5月に、韓国人女性が光州蜂起で殺害された親族の遺体安置所で、お棺に抱きついて嘆き悲しんだ。その右側のお棺には「不明」と書かれていた。

1980年5月に、韓国人女性が光州蜂起で殺害された親族の遺体安置所で、お棺に抱きついて嘆き悲しんだ。その右側のお棺には「不明」と書かれていた。

 韓国南西部の光州蜂起は、1980年5月17日に全斗煥による軍事クーデターにより、戒厳令の施行に対抗した光州蜂起が5月18日に勃発した。戒厳令第10号は大学を閉鎖し、政治活動を禁止し、報道機関を規制した。戒厳令に反対するデモを行った全南大学の学生たちが韓国軍に発砲され、殺され、強姦され、殴られ、拷問されたことから勃発した。光州市民の一部は武装して、民兵を結成した。一部の光州市民は武装して民兵を結成して、地元の警察署や武器庫を襲撃した。韓国軍兵士が再侵入して蜂起を鎮圧する前に、光州市内の大部分を制圧した。学生など全ての民主化運動の指導者は、反逆者や反政府犯罪者と容疑されて、囚人に扱われた人々の罪状は、残酷であった。

 5月21日午後1時頃に、韓国軍が全羅南道庁舎前に集合した群衆に発砲し、多数の死傷者が出た。 一部のデモ隊は予備軍の武器庫や近隣の警察署を襲撃し、M1ライフルやM1/M2カービンで武装した。それまでに、最大20万人の人々が、10万人の軍隊と戦った。韓国政府はこの光州蜂起の虐殺で165人が死亡したと発表した。近年、この虐殺数に関して、学者たちは600人から2300人の犠牲者が出たと推定した。光州蜂起は、一握りの外国特派員だけが報道できた。5月27日に、戒厳司令部は抗議デモを鎮圧した。




 

2024年6月4日火曜日

スペイン内戦中の1937年に、スペインのカタルーニャ地方にて、共和派の銃殺隊は、反乱軍のスパイ容疑者を、銃殺によって死刑に処する直前である。

スペイン内戦中の1937年に、スペインのカタルーニャ地方にて、共和派の銃殺隊は、反乱軍のスパイ容疑者を、銃殺によって死刑に処する直前である。バルセロナの共和国政府に対する最初の反乱軍の反乱を、自治政府と労働者民兵が敗北させた。カタルーニャは共和国陣営に制圧された。1936年7月に共和主義派の民兵と共和国軍が、カタルーニャの国民党軍を打ち破って、アナキストを中心とする労働者の自衛民兵が街頭の実権を握った。カタルーニャではファシストや右翼シンパに対する厳しい弾圧が始まった。

 両陣営は、戦線の "反対側 "で捕まった約5万人以上の人々が、暗殺されるか、あるいは即座に処刑された。スペイン内戦は、イデオロギー上の敵対者を根絶しようと躍起になった交戦国は、大量残虐行為の温床となったり、内戦で約50万人が命を落とした。国民党派と共和党派は、それぞれの領土を整理し、反対派や反対派と疑われる勢力を弾圧した。共和派の暴力は主に法治が回復する前の戦争初期に起こったが、国民派の暴力は意識的な恐怖政策の一環であった。

 スペイン内戦(1936-1939)は、1936年7月17日に、首都マドリードでの出来事に端を発したモロッコでの軍事蜂起によって勃発した。数日のうちに、スペインは2つに分裂した。一方は第2スペイン共和国からなる共和主義派または忠誠主義派である。他方は、最終的にはフランシスコ・フランコ将軍の指導下にある民族主義派の国民党の反乱軍である。両陣営の虐殺行為が勃発した。ソビエト連邦は共和主義派の共和党を支援して、ファシストのイタリア・ドイツは民族主義派を支援した。




2024年5月30日木曜日

バルカン戦争のクロアチア・セルビア内戦において、クロアチア軍兵士によるヴォイノヴィッチの兵舎への攻撃の際に、連邦軍のセルビア人兵士が殺害された。

バルカン戦争のクロアチア・セルビア内戦において、クロアチア軍兵士によるヴォイノヴィッチの兵舎への攻撃が成果を収めた。その攻撃の際に、連邦軍のセルビア人兵士が殺害された。その死体が路上に放置された。1992年に、クロアチアがクロアチア、スロベニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナからなるユーゴスラビア連邦から分離独立した後に、ミロシェヴィッチセルビア大統領は、残る2つの国家であるセルビアとモンテネグロからなる新ユーゴスラビア連邦を宣言した。

 クロアチア独立戦争は、1991年から1995年にかけて、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRY)からの独立を宣言したクロアチア政府に忠誠を誓うクロアチア軍と、セルビア人支配下のユーゴスラビア人民軍(JNA)と現地のセルビア人勢力との間で戦われた武力紛争であり、JNAは1992年までにクロアチアでの戦闘活動を終結させた。

 クロアチアは、1980年代末の東欧諸国の民主改革が進む中、1990年4月、戦後初めての複数政党制による選挙が実施された。共産主義者同盟の政権が敗退し、民族主義的傾向の強いクロアチア民主同盟(HDZ)が圧勝して政権の座についた。新政権設立後に、1990年12月に民族主義的性格の濃い新憲法が採択されて、ユーゴスラビア連邦から離反の動きは加速した。1991年5月、独立を問う住民投票で94%が旧ユーゴからの独立を支持して、議会は独立宣言を採択した。セルビア人は住民投票をボイコットした。これを起点にクロアチア人勢力とセルビア人勢力との間で戦闘となった。1992年1月に一旦停戦合意が成立し、国連保護軍が展開した。欧州諸国を皮切りに各国がクロアチアの国家承認を行った。但し、同停戦合意は守られず、その後も多数の停戦合意がなされたが、戦闘は1996年初頭まで継続した。1995年、クロアチアはセルビア勢力より国土の一部を奪還して、残された東スラボニア(クロアチア北東部)では1996年から国連暫定統治機構による統治が行われたが、1998年1月に撤退したことにより、クロアチアは全領土に主権を回復した。

 ボスニア・ヘルツェゴビナでは、1992年4月、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)からの独立を巡ってムスリム系、クロアチア系、セルビア系住民の間で大規模な紛争が勃発した。各民族がボスニア全土で覇権を争って戦闘を繰り広げ、その結果死者20万、難民・避難民220万と言われる戦後の欧州で最悪の紛争となった。その後、1995年12月、デイトン和平合意の成立により戦闘は終息し、ボスニアはムスリム系、クロアチア系住民を主体とする「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」、セルビア系住民を主体とする「スルプスカ共和国」という2つのエンティティから構成される一つの国家となった。上級代表事務所(OHR)、NATO中心の多国籍部隊SFORが民生面及び軍事面での和平履行を担った。




2024年5月3日金曜日

1946年8月28日にヒンドゥー教徒とシーク教徒が多く住むカルカッタのボワニポールでカルカッタ暴動が起きた。特にイスラム教徒の犠牲者が多く、死体が十字路に横たわり、鳥が群がり、何日間も路上に放置された。

1946年8月28日にヒンドゥー教徒とシーク教徒が多く住むカルカッタ南部のボワニポールでカルカッタ暴動が起きた。特にイスラム教徒の犠牲者が多かった。その死体が十字路に横たわり、死体に鳥が群がった。死体は何日間も路上に放置されて、その周りに命が流れ出て喪失した。地域の住民の人々の生活は継続していた。

 1946年8月16日にインドでカルカッタ暴動が勃発して、直接行動の日と呼称された。ムスリム連盟のムハンマド・アリー・ジンナーは、ムスリムのイスラム教徒による全国的な抗議行動を呼びかけた。1946年にインド指導部への権力移譲を計画する内閣訪印団は、中央、州グループ、州別という3層構造を提案した。その構造では、州グループにムスリム連盟のムスリム多数派地域における独立国家の要求を受け入れた。ジンナーと同僚たちは、インド国民議会派がこの計画に不誠実と疑って、1946年7月にムスリム連盟は計画への同意を撤回した。ジンナーは8月16日にゼネストを呼びかけて、インドのイスラム教徒に独立した祖国を求める要求を押し通した。大規模な暴動はカルカッタのみで、72時間以内に約4,000人以上が死亡し、約10万人の住民が家を失った。8月17日の日中に、最悪の虐殺が行われた。ヨーロッパ人が攻撃されず無傷であった。

 カルカッタをはじめとする当時の未分割ベンガル地方で大規模な共同体の暴動が発生した。それからインドはわずか約11週間で分割されて、ヒンドゥー教徒が多数を占めるインドとイスラム教徒が多数を占める東西のパキスタンの独立国家が誕生した。何百万人ものイスラム教徒が西パキスタンと東パキスタン(現在バングラデシュ)に移住した。何百万人ものヒンズー教徒とシーク教徒がインドの新しい国境を越えて移動して、史上最大規模の集団移住となった。




2024年4月15日月曜日

スペイン内戦にて、カステリョンの通りで1938年8月8日に、母親が殺害された息子と思われる死体を悲痛に見つめた。アラゴン戦線で共和国軍を打ち破った国民党軍は南下し、1938年4月からバレンシア攻略をした。

スペイン内戦(1936年7月17日-1939年4月1日)にて、カステリョンの通りで1938年8月8日に、母親が殺害された息子と思われる死体を悲痛に見つめた。国民党軍がカステリョン州の州都であるカステリョン・デ・ラ・プラーナに進軍する前には混乱期があった。退却する国民党軍兵士たちは、解放者だと信じて挨拶をしようとした人々に対して、早まって数百人を殺害した。殺害された息子は、その犠牲者の一人であった。

 スペイン内戦中に、アラゴン戦線で共和国軍を打ち破った国民党軍は南下し、1938年4月から7月にバレンシア攻略を試みた。1938年4月25日から7月24日に勃発したレバンテ攻勢で、フランシスコ・フランコ率いる国民党軍が、共和国軍の支配するバレンシアを占領しようとした。国民党軍は数日間の戦闘の末に、6月13日にバレンシア北部のカステリョン州を占領した。悪天候と共和国軍のXYZ防衛線での執拗な抵抗により国民党軍の攻勢は頓挫した。国民党軍はカステリョン州を占領したが、バレンシアの占領には失敗し、多くの死傷者を出した。共和党軍は5,000人の死傷者に対して、国民党軍は約20,000人の死傷者を伴った。

 国民党軍によるアルゴン攻勢は、1938年3月7日に開始し4月19日に終結した。アラゴン攻勢は1938年4月15日に、国民党軍は地中海沿岸のビナロスの町を占領し、共和国領を二分して、カタルーニャは中央地区から孤立させた。共和国軍に致命的な打撃となり、もはや完全に回復できなかった。国民党軍のアルゴン攻勢は、バレンシアとカタルーニャの町や都市に対する集中的な空爆作戦を伴った。戦略的目標を達成して、民間人を恐怖に陥れた。




2024年4月12日金曜日

アイルランド内戦にて、自由国軍の医療部隊によって、1922年7月30日のキルマロックの周辺のブルリーの戦いによる反条約軍の攻撃による犠牲者らを手当てした。

アイルランド内戦にて、自由国軍の医療部隊によって、1922年7月30日のキルマロックの周辺のブルリーの戦いによる犠牲者らが手当てされた。1921年12月6日にイギリス・アイルランド条約の調印を起点に、1922年6月28日から1923年5月24のアイルランド内戦で約1000人以上のアイルランド人が命を落とした。条約賛成派である自由国軍は、イギリス支配国の地位を受け入れた。反条約派である反条約軍は、妥協案を裏切りと見なした。

 キルマロックの戦いは、1922年7月25日から8月5日にかけてアイルランドのリムリック州で、アイルランド内戦における最大級の戦闘が勃発した。戦闘は、周辺の田園地帯で10日間に戦闘が繰り広がった。リムリック州から南下した自由国軍は、ブルフ、ブルリー、パトリックスウェルの村々の戦闘は、反条約軍の撤退と自由国軍によるキルマロックの占領で終結した。

 最初は反条約軍が優勢だったが、7月23日、自由国軍はブルッフを占領し、キルマロックへの進撃を開始した。反条約軍の抵抗で2度撃退された。7月24日、反条約軍は反撃でブルッフを奪還し、76人の捕虜を奪った。挫折で、自由国軍は進軍を中止して、増援を待った。

 自由国軍は増援の到着後に、すぐにブルッフを奪還した。反条約軍の戦況は悪化し、反条約軍の拠点攻略は進まず、死傷者も増加した。7月30日に、自由国軍はブルリー奪取のための攻撃を開始した。自由国軍のダブリン衛兵隊は、装甲車と野砲に支援され、南東からブルリー町を攻撃した。自由国軍がブルリーを確保に、約13人の自由国軍兵士と9人の反条約軍兵士が戦死して、さらに多くの負傷者が出た。

 反条約軍は、キルマロックの防衛にブルリーの重要性から、3両の装甲車、塹壕迫撃砲、機関銃にて、奪還する作戦を立案した。8月2日に、反条約軍はリムリック南方のパトリックスウェルを占領した。装甲車が自由国軍を奇襲してブルリーを攻撃した。装甲車が鉄道ホテルにあった自由国軍の司令部を攻撃した。2台目の装甲車は、別の駐屯地に突入し、中にいた25人の反条約軍を説得して降伏させた。

 装甲車と自由国軍に援軍が到着すると、反条約軍の反撃は停滞した。自由国軍の司令官は援軍を率いて、装甲車から部隊を指揮した。ブルリーの降伏を確保できなかった反条約軍は撤退した。アイルランド内戦は最終的に自由国軍が勝利して、2023年8月下旬までにすべての都市中心部を占領した。




2024年3月28日木曜日

1909年4月28日にメキシコ人の3人の囚人は、独裁者のポルフィリオ・ディアスがメキシコ革命を目前の黄昏時に警官を殺害した容疑で、チャルコで一斉に射殺された。 

1909年4月28日に、メキシコ人のアルカディオ・ヒメネス、ヒラリオ・シルバ、マルセリーノ・マルティネスは、独裁者のポルフィリオ・ディアスがメキシコ革命を目前に控えた緊迫した黄昏時に警官を殺害した容疑で、チャルコで一斉に射殺された。 

 メキシコ革命は、1910年から1917年に勃発した革命で、ディアス独裁政権の打倒や民主化、農地改革、社会構造・経済構造の変革を目指す民主革命であった。内戦を経て1917年の新憲法によりメキシコの基盤が構築された。メキシコ革命の内戦による戦傷者から、飢饉、病気、盗賊などで約90万人が命を落とした。敵対する政権軍の一隊は、荒廃した経済の中で失業した新兵を求めて都市を捜索した。絞首刑や銃殺部隊が、許可なく囚人や民間人を始末した。頻繁に行われた絞首刑と囚人処刑は、住民への恐怖となった。1915年には首都メキシコ市の飢餓の年により、飢えで死ぬよりも政権兵士として徴兵登録した。 

 メキシコのチャルコでは、1909年4月28日に第10農村旅団兵士が、3人の囚人を捜索して刑務所に入れた。3人の囚人はバリオレの足場に運ばれて、アヨツィンゴとチャルコの司祭の精神的支援を受けた。アドベの家の壁に石灰で3本の線が引かれ、死刑に服する死刑囚人が整列した。死刑囚人たちが壁にたどり着くと、親族たちが別れを告げた。女性たちの悲しげな顔、囚人たちの諦念、意味不明な子供たちが写った。

 チャルコの政治的幹部は逮捕されたアルカディオ・ヒメネスのもとを訪れ、彼の最後の望みであった彼の目に包帯を巻いた。しかし、ヒラリオ・シルバとマルセリーノ・マルティネスは、目で見て死ぬことを望んだ。殺害される前に、震える声で、警察と司法の代表者に向かって、「この世のすべてに別れを告げる」といった。司祭が彼らに祝祭を与えた後に、ムニョス・デ・コッテ中尉は、処刑を準備した政権兵士に命令した。銃剣を振り上げ、銃剣をしっかりと振り下ろし、射殺にて心臓の破裂して容疑者たちの命を絶った。医師が死亡を確認と証明した。




2023年12月28日木曜日

スペイン内戦にて1936年9月6日に、共和派の農民がスペイン北部のバスクの都市イルン郊外の農場を国民党軍から防御した。傍らには戦死した同志の共和派農民の死体があった。

スペイン内戦にて1936年9月6日に、共和派の農民がスペイン北部のバスクの都市イルン郊外の農場を国民党軍から防御していた。その傍らには戦死した同志の共和派農民の死体があった。反乱軍の国民党軍は、8月9日のイルンの戦いの最初の攻撃は失敗に終わった。8月27日に再攻撃を試みて、約9日間にわたる激戦の末に、9月5日にモラ軍がイルンを占領した。その1週間後にはサン・セバスティアンを制圧した後、戦線は数ヶ月間静寂に包まれた。

 スペイン内戦は1936年7月17日に、右翼将軍のグループがスペインの民主的に選出された共和国政府を転覆させる軍事クーデターが勃発に端を発する。クーデターはスペインの多くの都市で国民党軍部隊によって侵攻された。しかし、マドリード、バルセロナ、ビルバオといったスペインの大都市のいくつかは、依然として共和国政府の支配下にあった。

 クーデターから数日のうちに、ヒトラーとムッソリーニは反乱軍将兵の側に介入した。ソ連は共和国軍のロイヤリストを支援した。イギリス、フランス、アメリカは中立を維持し、共和国への武器売却を禁じた。スペインの覇権をめぐる戦いは、3年近く続く凄惨な大惨事となった。写真報道という新しいメディアは、世界中の人々に内戦の恐ろしい映像をもたらした。国際的連帯を示すために、50カ国から約35,000人の志願兵が国際旅団に参加し、共和国を守るために生命と身体を危険にさらした。

 イタリア軍とモロッコ軍の支援を受けた国民党軍は、南部と西部の拠点から北上し、禁輸措置で弱体化した共和国軍の都市を占領した。バルセロナとその他カタルーニャ地方は1939年初めに陥落し、フランコ軍は3月28日にマドリードは陥落して、4月1日にフランコは内戦の終結と勝利を宣言した。スペイン内戦で共和国側と国民党側で50万人もの戦闘員と民間人が殺されたと推定した。両陣営で残虐行為が行われて、フランコ将軍率いる国民党軍は、戦後にさらに数千人を処刑した。紛争中、10万人以上の男女が処刑され、無名の墓に埋葬されたと推定されている。スペイン内戦戦で、共和党の親左派勢力が、国民党の勢力に敗北し、スペインにおけるフランコ将軍の長期独裁時代が始まり、1975年11月20日に死亡するまで継続した。




2023年12月27日水曜日

1934年2月12日勃発したオーストリア内戦にて、ウィーンの「カール・マルクス・ホーフ」の段差に、銃殺された政府軍や警察官と労働者らの犠牲者たちの死体が横たわった。

1934年2月12日勃発したオーストリア内戦にて、ウィーンの「カール・マルクス・ホーフ」の段差に、銃殺された政府軍や警察官と労働者らの犠牲者たちの死体が横たわった。内戦の戦闘は主に、カール・マルクス・ホーフ、ロイマンホーフ、サンドライテン、オタックリング労働者宿舎などで、約3日間にわたり継続した。2月15日に、ドルフュス政権は政府軍の戦死者118人、負傷者486人と公表した。対抗したドイツ親衛隊は、戦死者は196人、負傷者は319人と推定した。イギリス人ジャーナリストは、戦死者は1,500~2,000人、負傷者5,000人と推定した。

 1934年2月12日早朝に、オーストリアのオーバーエスターライヒ州リンツで、社会民主党が所有するビルが襲撃された際に発砲があってオーストリア内戦が勃発した。社会民主労働党の準軍事組織である共和国防衛同盟が、ドルフュス政権に対して蜂起した。ウィーンの社会民主党はゼネストを招集して対抗したが、長年の失業と絶望的な貧困で、労働者が大勢で蜂起できなかった。

 1933年3月5日に、エンゲルベルト・ドルフュス首相のファシスト政権は、はクーデターを実行した。戦時経済実現法により、独裁政治により、報道の自由は廃止され、集会の自由は制限され、陪審裁判は廃止され、多くの産業で刑罰の脅威によりトライキが禁止され、労働会議所が廃止されて雇用保護法は弱体化され、既存の団体協約は修正され、賃金と失業手当は削減され、警察には政治犯罪の管轄権が与えられた。1934年2月12日に戒厳令が布告され、社会民主労働党、自由労働組合、社会民主党のすべての文化団体やその他の組織が解体された。2月14日からの軍法会議で9人に死刑が執行された。



2023年12月27日  
Japan No War  (JNW)
日本平和市民連盟    

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2023年12月8日金曜日

ナイジェリア内戦にて、1968年7月6日にナイジェリア軍はビアフラのイコット・エクペネを解放後に、ナイジェリア軍兵士は、塹壕で救援物資を握りしめたまま殺害されていた。

ナイジェリア内戦にて、1968年7月6日にナイジェリア軍はビアフラのイコット・エクペネ(Ikot Ekpene)を解放した後に、ナイジェリア軍兵士は、塹壕の中で救援物資を握りしめたままで殺害されていた。

 ビアフラ共和国は、1967年5月26日に虐殺されたイボ族を理由に、ナイジェリアからの分離独立を宣言して、1967年から1970年まで存在した。1960年10月1日にナイジェリアがイギリスから独立した後に、一連の民族的緊張と軍事クーデターが発生し、1966年にはイボ族に対するポグロムが勃発した。約3年間のナジェリア内戦にて、ナイジェリア軍による全面封鎖により、約200万人のビアフラ市民が餓死した。ナイジェリア軍は1960年の独立時に、戦闘ではなく市民を鎮圧する国内治安部隊となった。1966年6月から10月には、ナイジェリア北部で約8,000人から約30,000人のイボ族が虐殺されたポグロムが勃発した。1967年7月6日にナイジェリア軍がビアフラに侵攻して、ビアフラ戦争が勃発した。国際的に、ポグロムと飢饉はジェノサイドに分類され、ホロコーストを非難された。1970年1月14日に、ビアフラ共和国が降伏文書に調印して、内戦の終結と分離独立を放棄した。

 ナイジェリア南部のイコット・エクペネは、おそらく他のどの町よりも、ナイジェリア内戦によるビアフリア戦争で深刻な影響を受けた。ビアフリア軍にとってもナイジェリア軍にとっても、戦略的、軍事的、政治的に重要な町だった。この苦い紛争の中で、町とこの地域は少なくとも3回、所有者が変わった。戦争後、新たな再編成と国家構造により、アンナグ族の指導者のほとんどが戦争中に虐殺された。アナング族はナイジェリア内戦で 大虐殺を受けた。戦争は約3年間(1967年〜1970年)続いて、アナング族はかなりの数の人々を失った。















   1967 年にアフリカのナイジェリアで勃発したビアフラ戦争は、2年半の内戦でビアフラ市民は食料補給路を断たれ、餓死を含め150万以上が死亡した。国際赤十字の援助活動に参加していたフランス人医師らは、国際赤十字のルールであった沈黙の原則を破ってナジェリア政府軍によるビアフラ市民への暴力を公に非難して、1971年12月22日、国境なき医師団(MSF: Médecins Sans Frontières)が設立された。

2023年11月28日火曜日

アメリカの南北戦争にて1863年7月5日に、ペンシルベニア州のゲティスバーグに位置するローズ・ウッズ(バラの森)の端に、殺害された南軍の死体を埋葬のために集積した。

アメリカの南北戦争にて1863年7月5日に、ペンシルベニア州のゲティスバーグに位置するローズ・ウッズ(バラの森)の端に、殺害された南軍の死体を埋葬のために集積した。これらの南軍兵士の死体は、1863年7月2日にローズ・ウッズとその周辺で戦った南軍のジョージア連隊あるいはサウスカロライナ連隊兵士の死体と推定された。チャンセラーズビルでの恐ろしい交戦の代償の一部でもある。南軍の最大の損失はストーンウォール・ジャクソン中将であった。何百人もの両軍の戦死兵士の死体が、夜の荒野で燃え盛る雑木林の中で焼かれた。

 ティモシー・オサリバンとアレクサンダー・ガードナーの戦争写真家が、1863年7月5日あるいは7月6日にローズ・ウッズの端近くで撮影した一連の写真の1枚である。ボルダーに最も近い兵士の死体は浅い墓に横たわった。背景には、写真家たちの暗室ワゴンが見える。ゲティスバーグのローズ・ウッズにいた南軍の死者の写真は、埋葬を待つ複数の男性が伏せた状態で一列に並んで、約3人ほどがうつ伏せになった。

 死体群は南軍が撤退する前に、埋葬するために集積した。腐敗し、肥大化した死体を集めた。腐敗して肥大化した死体を、最後の安置する墓地まで引きずるロープの先には、しばしば曲がった銃剣がフックとして使われた。引きずりの最中に、死体のズボンが下りてきた。南軍兵士が死体を埋葬する直前に、埋葬は未完成のままで、退却するよう突然命令が下された。

 1863年7月1日から7月3日に勃発したゲティスバーグの戦いは、北米で戦われた最大の陸戦となった。ゲティスバーグでは、南軍のロバート・リー将軍が率いる北ヴァージニア軍は約7万5千人であった。北軍のジョージ・C・ミード将軍が率いるポトマック軍は推定9万3千人であった。ゲティスバーグの戦いで、北軍と南軍のおよそ約5万人の兵士が死傷・行方不明の犠牲の結果に終わった。




2023年10月24日火曜日

1922年のロシアのボルガ地方のサマラ市における大飢饉にて、ロシア人が飢えに苦しみ餓死した農民の死体を収集して、荷車でサラマ市の集団墓地まで運搬した。

1922年のロシアのボルガ地方のサマラ市における大飢饉にて、ロシア人が飢えに苦しみ餓死した農民の死体を収集して、荷車でサラマ市の集団墓地まで運搬した。ロシアの農民の問題が、第一次世界大戦とロシア内戦による秩序崩壊によって餓死者が増大した。

 ウラジミール・レーニンが率いたボリシェヴィキが、農民の食料を奪うことで農民の力を削いだ。1921年から1922年まで続いたロシアの大飢饉で、約500万人以上が死亡した。第一次世界大戦による経済危機、5年間続いたロシア内戦、1921年の干ばつにより、約3000万人のロシア人が栄養失調に陥った大飢饉が発生した。最も被害が大きかったのが、ロシア南東部のヴォルガ川とサマラ川の合流点のサマラ市であった。レーニンは飢饉直後の1924年に死去して、後にヨシフ・スターリンがソ連の指導者となった。1920年代にロシアの飢饉は、広大なロシアのヴォルガ川とウラル川流域の約2,500万人が飢餓に陥った。1930年代には、スターリンによる農業集団化と富農撲滅運動により、ウクライナからソ連各地に大飢饉(ホロドモール)が発生した。

 特にサマラ市は、ロシア内戦により、戦争共産主義を進める赤軍部隊に食糧を供給するために、農民の農場から食糧の接収を命じて、窮状が悪化して最も被害の大きかった地域の一つとなった。さらにサマラの5月平均降水量は38.8mが、1921年には0.3mしか降らず、その後に深い霜が降り、数百万人が飢餓に直面した。サマラ市民は、草、土、犬、猫、革の馬具を食べることを余儀なくされた。飢餓が蔓延し、人々は生き延びるために想像を絶する人肉を摂取するようになった。

 スウェーデン生まれの北極探検家であるフリットヨフ・ナンセン(Fridtjof Nansen)は、身分証明書や国籍証明書を持ってないロシア難民に、ナンセン・パスポートを考案した。無国籍者の身分証明書は、約50以上の外国政府によって認められ、ロシア難民が合法的に国境を越えることを可能にした。当初のロシア難民が、他の難民にも適用された。1922年11月にナンセンは、1922年度のノーベル平和賞を受賞した。




2023年10月6日金曜日

ロシア革命後のロシア内戦にて1920年に、白軍の処刑部隊がボリシェヴィキの容疑者2人を射殺し、さらに2人を絞首刑にした。ペトログラード郊外で、白軍のオクラナ野戦師団が捕虜となったソビエト人容疑者を処刑した。

ロシア革命後のロシア内戦にて1920年に、白軍の処刑部隊がボリシェヴィキの容疑者2人を射殺し、さらに2人を絞首刑にした。ペトログラード郊外で、白軍のオクラナ野戦師団が捕虜となったソビエト人容疑者を処刑した。

 暴力が日常茶飯事となり、ボリシェヴィキ化した農民や労働者が支配権を握った地域では、地主や雇用主が強盗されて、拷問され、殺害された。白軍が優勢を保っている地域では、警察や兵士がボリシェヴィキの容疑者を見つけ出し、容疑したところでは、冷酷に虐殺した。白軍の処刑部隊は、ボリシェヴィキの容疑者2人を射殺して、さらにもう2人を絞首刑にした。ツァーリズムの無血打倒として始まったロシア革命は、今や何百万人もの民間人の犠牲者を出した。広大なロシアで、民衆が赤と白に分離していない地域はほとんどなかった。

 ロシアが内戦で引き裂かれた数年間に、赤軍と白軍の双方の残虐行為や暴力は頂点に達した。赤軍も白軍も至る所でテロを起こし、大勢の民間人を銃殺刑や絞首刑に処した。「ブルジョワジーが我らを抹殺することを望まぬなら、今こそブルジョワジーを抹殺すべき時だ」(1918年8月31日)とプラウダ紙は記載した。「我らの街から腐ったブルジョワジーを容赦なく一掃せねばならない。この連中は全員登録され、その中で革命階級の脅威となる者は抹殺されねばならない。今後労働階級の賛歌となるのは憎悪と復讐の歌だ!」。このような状況では、敗者は容赦ない勝者の慈悲を期待して降伏するか、逃げるしかなかった。

 ロシア内戦は、主に赤軍(共産主義者・十月革命側)と白軍(ロシア右派、共和主義者、君主主義者、保守派、自由主義者)の間で戦われた。2大戦闘員は、ウラジーミル・レーニンが率いるボリシェヴィキ主導の社会主義国家の赤軍と、ロシア軍の同盟軍だった白軍は、ボリシェヴィキ支配に対抗した。



2023年9月28日木曜日

アメリカ南北戦争の終盤の1865年4月3日に、北軍に殺害された南軍兵士の死体が、ヴァージニア州ピーターズバーグのマホーン砦の泥だらけの塹壕に横たわった。

アメリカ南北戦争の終盤の1865年4月3日に、北軍に殺害された南軍兵士の死体が、ヴァージニア州ピーターズバーグのマホーン砦の泥だらけの塹壕に横たわった。北軍が市内周囲のロバート・E・リーの防衛線を突破した翌日の4月3日に、トーマス・C・ロシュ(Thomas C. Roche)によって撮影された。約292日間にわたるアメリカ南北戦争終結間近のリッチモンド・ピーターズバーグ作戦の終盤であった。第3次ピーターズバーグの戦いの一環であった北軍の攻撃で、北軍の戦線内にいた南軍兵士が殺害され死亡した。規模がはるかに大きい北軍が、手薄になった南軍に襲いかかった。この戦いで、北軍は約3,936人と南軍は約5,000人以上の兵士が犠牲となった。1865年4月3日に北軍兵士が、リッチモンドとピーターズバーグを占領し、他の北軍兵士は南軍を包囲した。ロバート・E・リー南軍将軍は、アポマトックス・コートハウスの戦いの後に、1865年4月9日に降伏を余儀なくされた。

 1861年から1865年にかけて戦われたアメリカ南北戦争は、アメリカ史上最も血なまぐさい戦争であった。最も死者が出たのは、1863年7月1日から7月3日のペニルバニアのゲティスバーグの戦いだった。この戦いだけで約52,000人が死亡、負傷、行方不明となった。約4年にわたる南北戦争の悲惨な戦場では、死、飢餓、戦場の破壊が展開された。南軍は、病気、飢餓、被曝、処刑を利用して、何千人もの元奴隷を殺害した。1865年4月9日に、南軍のロバート・E・リー将軍は、ヴァージニアで降伏し、血みどろの戦争は終結した。

 アメリカ南北戦争は、1861年から1865年にかけてわずか4年の短期間に約62万人もの命を奪ったアメリカ史上最も血なまぐさい戦争である。死者数は、当時のアメリカ人口の約2%を占めた。アメリカ合衆国が戦った他のすべての戦争を合わせたのとほぼ同数の死者数であった。南北戦争中の死者数は、第一次世界大戦(約116,516人)と第二次世界大戦(約405,339人)の死者数の合計よりも多かった。南北戦争中の静かな死因は病気であった。戦場や負傷で戦死傷した兵士の約2倍以上である。全体として、およそ4人に1人が終戦まで生きられなかった。




2023年8月23日水曜日

1911年10月18日に、辛亥革命の武昌蜂起によって、漢口郊外の六家廟駅付近での戦闘で、反乱軍と清国軍の両軍兵士が殺害された。その両軍の死体が、漢口郊外の六家廟駅付近に散乱した。

1911年10月18日に、辛亥革命の武昌蜂起によって、漢口郊外の六家廟駅付近での戦闘で、反乱軍と清国軍の両軍兵士が殺害された。その両軍の死体が、漢口郊外の六家廟駅付近に散乱した。反乱軍はこの日の戦闘では、清国軍を破った。清朝軍は10月18日の漢口の戦いから11月1日には反乱軍の漢口を、北洋軍が11月27日には反乱軍の漢陽を奪回した。武昌の都市は多数の犠牲者と廃墟と化した。

 1911年10月10日午後8時頃に、湖北新軍の第8鎮(師団)工兵第8大隊が、武昌蜂起が清国の警察隊に第一撃を放った。反乱軍はその後に、チワン台武器庫を占領した。武昌蜂起の勃発後に、郊外の南湖に駐屯していた砲台第8標準(連隊)は武昌の中和門(その後に動乱門と改名)から入城し、総督府攻略戦に参戦した。反乱軍は武州山頂に大砲を運び、虎光総督府を砲撃した。湖南・広東省総督の瑞蕾は漢口の大子門から列車で逃走し、反乱軍はその後、湖南・広東省総督府を占拠した。武昌を占領した後、反乱軍は咸陽の門を厳重に警備し、通行人をチェックした。

 1911年10月11日夜には、漢口にいた新軍第42軍第2大隊の兵士たちは反乱を起こして、楚望台の武器庫を占領して漢口を制圧した。10月11日正午までに、約500人以上の清国軍兵士が殺害された。10月11日に、反乱軍が武昌の全市を占領した。その後に、革命派は旧清国政府の湖北協議局に、中国民国の湖北軍政府を設置した。反乱軍は衛軍都府を設置して、将校の李源紅を軍政府の代表である都督に擁立した。10月31日に、湖北省の軍政機関紙である『人民網報』は、孫文の名で革命の成功を宣言した。孫文が武昌蜂起当時の革命党の指導者であると証明した。

 反乱を受けて、清朝は北洋軍の袁世凱に助力を求めた。北洋軍は武昌へ侵攻して、革命軍側は11月初旬に黄興が武漢に到着して指揮を引き継いだ。その後、北洋軍は革命軍の陣地を攻撃して、清朝軍は10月18日の漢口の戦いから11月1日には漢口を、北洋軍が11月27日には漢陽を奪回した。中華民国は袁世凱と交渉し、清朝廷を降伏させる見返りとして大総統の地位を与えた。1911年12月29日に、中華民国は臨時総統選挙で孫文を総統に選出した、1912年2月12日、隆裕皇太后は、皇帝溥儀の名の下で、清皇帝の退位を発表して、清帝国は終焉した。清朝軍は約8,000人が殺害されて、革命軍は約4,000人が殺害された。