2024年12月3日火曜日

ベトナム戦争の終末直前の1975年3月に、ベトナムの重要な南北物流のライフラインである国道1号線上に、殺害された一人の若いベトコンのゲリラの死体が仰向けになった。

ベトナム戦争の終末直前の1975年3月に、ベトナムの重要な南北物流のライフラインである国道1号線上に、殺害された一人の若いベトコンのゲリラの死体が仰向けになった。国道1号線、正式には国道1Aは、中国とベトナムの国境に近いフー・ギ・クアン国境ゲートからベトナムの主要都市を貫いている。20世紀初頭にフランスの植民者がこの高速道路を建設した。国道1号線の封鎖で、北ベトナム人民軍(PAVN)が、復活祭攻勢中の1972年4月29日から5月2日に、南ベトナムのクァンチーとフエの間にある国道1号線上で、南ベトナムの兵士と民間人の約2000人を殺害した。

 1975年1月6日に、南ベトナム軍は壊滅的な敗北を喫し、北ベトナム軍はフォックロン市とその周辺の州を占領した。この攻撃はパリ和平協定の明白な違反であったが、アメリカ軍からの報復はなかった。

 1975年3月1日に、南ベトナム中部高原地帯で、北ベトナム軍の強力な攻勢が始まる。南ベトナム軍は混乱し、撤退を余儀なくされ、6万人近い兵士が死亡または行方不明となる。1975年3月には、北ベトナム軍の新たな攻勢により、10万人の兵士がクァンチ省、フエ、ダナンの主要都市に侵攻した。強力な機甲部隊と8個砲兵連隊の支援を受けた北ベトナム軍は、クァンチ省を迅速に占領した。3月25日に南ベトナム第3の都市フエが北ベトナム軍に陥落した。

 1975年4月初旬に、北ベトナム軍は作戦開始から5週間後に、目覚ましい進展を遂げた。南ベトナムの12の省と800万人以上のベトナム人が、北ベトナム軍の支配下に置かれた。南ベトナム軍は最精鋭部隊を失って、兵士の3分の1以上、武器のほぼ半分を失った。

 1975年4月29日に、沖合のアメリカ軍の空母から飛び立った海兵隊と空軍のヘリコプターが大規模な空輸作戦を開始した。18時間以内に、1,000人以上のアメリカ市民と7,000人近い南ベトナムの難民がサイゴンから脱出した。1975年4月30日午前4時3分に、サイゴンのタンソンニャット空港でロケット攻撃により2人の海兵隊員が死亡した。彼らはベトナム戦争で亡くなった最後のアメリカ人となった。夜明けとともに、アメリカ大使館を守っていた最後の海兵隊員が撤収した。数時間後に、略奪者が大使館を荒らし、北ベトナムの戦車がサイゴンに進軍し、ベトナム戦争は終結した。約15年間に、北ベトナム軍とベトコンの兵士が100万人近く、南ベトナム軍兵士が25万人死亡して、アメリカ軍兵士が5万8千人が死亡して、数十万人の民間人が命を落とした。