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2024年8月9日金曜日

マタニカウ川河口で頓挫した日本軍戦車の中から、日本軍兵士の死体と遺骨を引きずり出し、アメリカ軍兵士は死体に泥を塗って、タバコで歯を作って、死体をもてあそんだ。

ガダルカナル島の戦いのマタニカウ川河口で頓挫した日本軍戦車の中から、日本軍兵士の死体と遺骨を引きずり出し、アメリカ軍兵士は日本軍兵士の死体に泥を塗って、タバコで歯を作って、死体をもてあそんだ。海兵隊員が日本軍の戦車乗組員の頭部と骨を、撃破された日本軍の戦車の上に展示した。戦車は火炎放射器で放火され、アメリカ軍海兵隊は切断され焼けただれた日本人の頭を支えて弄んだ。戦車戦の高炉の中に閉じ込められ、日本軍兵士は生きたまま焼かれた。戦車への貫通により、自分を守ってくれると信じた戦車ので生きたまま火葬された。

 太平洋戦争のガダルカナル島の戦いに、1942年8月7日にアメリカ軍が上陸した後に、アメリカ軍海兵隊はマタニカウ川の東側まで侵攻した。ガダルカナルの戦いの初期の数ヶ月の間に、マタニカウ川はガダルカナルのアメリカ軍の境界線の西端を形成し、日本軍は川の西側を占領し、アメリカ軍の戦線に対して東に向かって攻勢をした。

 1942年10月23日の夕方に、日本軍はマタニカウ川沿いのアメリカ軍境界線に対し、砲撃に続いて戦車に支援された歩兵連隊による攻撃を開始した。マタニカウ川の東側を守るのはアメリカ軍海兵隊の第1海兵隊第3大隊であった。1942年10月24日の早朝までに、日本軍の攻撃は失敗し、河口の砂州を渡ろうとした日本軍の戦車は、アメリカ軍砲撃によって全滅して、放棄された。

 1942年10月31日夜間に、アメリカ軍の海兵隊はマタニカウ川を渡り、西岸に前哨基地を設置した。アメリカ軍の第1工兵大隊はマタニカウ川を渡る3つの歩道橋の建設を急いで、1942年11月1日までに完成させた。その後に、橋は拡張し、改良された。1943年初頭には、河口から内陸に自動車用の1車線橋が建設された。

 マタニカウ砂州はマタニカウ川の河口の東に位置した。1942年10月24日、日本軍の独立戦車第1連隊の陸軍九七式中戦車チハ7両が東進するも、海兵隊によって運行不能にされた。その後、6両の戦車は日本軍の防御陣地として使用を防ぐため、海兵隊によって解体された。7両目の九七式中戦車チハは部分的に水没した。




2024年6月19日水曜日

ガダルカナル島の戦いで、日本軍の増援部隊が乗船した多数の戦艦が、ガダルカナル島の周辺海域で、アメリカ軍により撃沈されて、太平洋に海没して戦死した日本軍兵士の死体が、海岸の砂浜に漂着して散乱した。

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、日本軍の増援部隊が乗船した多数の戦艦が、ガダルカナル島の周辺海域で、アメリカ軍により撃沈された。むなしく撃沈されて太平洋に海没して戦死した日本軍兵士の死体が、海岸の砂浜に漂着して散乱した。ガダルカナル島に増援部隊や物資を運ぶ日本軍の駆逐艦と巡洋艦による輸送作戦は夜間に行われて「鼠輸送」と呼ばれた。

 日本軍は、1942年7月6日にソロモン諸島南部のガダルカナル島に上陸して、航空基地の建設を開始した。アメリカ軍は8月7日にガダルカナル島に上陸し、8月8日夕までに飛行場、トゥラギ港等を占領した。8月8日から9日夜に、日本軍の巡洋艦と駆逐艦は、4隻のアメリカ軍の巡洋艦を撃沈した。8月23日から25日には東部ソロモン海戦で、日本軍は軽空母、駆逐艦、潜水艦が撃沈されて、アメリカ軍は駆逐艦1隻を撃沈された。9月15日には日本軍の潜水艦が空母ワスプを撃沈した。

 日本軍が6,000人以上のガダルカナル守備隊を増強して、8月20日から21日と9月12日から14日にアメリカ軍のビーチヘッドを攻撃した。9月18日にはアメリカ軍の増援部隊が到着して、10月中旬には約2万2,000人の日本軍が、2万3,000人のアメリカ軍を迎え撃った。エスペランス岬とサンタクルス諸島の海戦で、日本軍の巡洋艦2隻と駆逐艦2隻が撃沈された。アメリカ軍は空母1隻と駆逐艦2隻が撃沈された。10月20日から29日に日本軍は地上部隊を増援する攻撃は失敗した。

 10月以降に、さらにアメリカ軍の戦力が増強された。11月13日から15日のガダルカナルの戦いでは、日本軍は戦艦2隻、駆逐艦3隻、巡洋艦1隻、潜水艦2隻、輸送船11隻を撃沈された。アメリカ軍は巡洋艦2隻と駆逐艦7隻を撃沈された。11月30日、8隻の日本駆逐艦がタッサファロンガの戦いで撃退され、駆逐艦1隻が沈没して、連合軍は巡洋艦1隻が沈没した。

 1943年1月5日までに、ガダルカナルの連合軍は約44,000人、対する日本軍は約22,500人であった。日本軍はガダルカナル島から撤退を決定して、2月上旬に約12,000人の兵士を駆逐艦の出撃で運び去った。地上戦での日本軍の損害は、ガダルカナル島の戦いで約24,000人以上、アメリカ軍の損害は死者約1,600人、負傷者4,250人であった。 





2024年1月2日火曜日

カダルカナルの戦いにて1942年8月21日のテナル川の戦場にて、アメリカ軍衛生兵が、負傷した日本軍兵士は戦場で応急処置した。散乱した日本軍兵士の死体は、担架で搬送して集積した。

太平洋戦争のカダルカナルの戦いにて1942年8月21日に、テナル川河岸の戦場にて、日本軍は壊滅した。アメリカ軍海兵隊の衛生兵が、生存した日本軍兵士は戦場で応急処置して後送した。散乱した日本軍兵士の死体は、担架で搬送して一カ所に集積した。

 アンディ・ポリーニ上等兵が2人の日本軍兵士の負傷を発見し、4人の仲間を迎えて傷の手当てをした。日本軍兵士の1人が突然横転してアメリカ軍兵士を負傷させ、ポリーニは直ちにライフル銃で2人の日本軍負傷兵を殺害した。日本軍兵士の負傷者を助けようとして、手榴弾を引いた負傷した日本軍兵士に殺害されたアメリカ軍衛生兵もいた。ヴァンデグリフト将軍は、日本軍の救援活動をすべて中止し、負傷兵はその場で射殺するように命じた。残酷な戦闘を生き延びた海兵隊員は「死んだジャップだけが良いジャップだ!」と警告した。

 太平洋戦争のガダルカナル島の戦いにて、1942年8月21日午前1時30分に、アメリカ軍海兵隊はテナル川の対岸からぞろぞろと急ぐ日本軍の足音を聞き、砲撃開始の命令を下した。同時に、対岸から日本軍の砲身から一斉射撃が行われた。直後に、日本軍兵士が銃剣を持ってココナツ林からあふれ出し、万歳!と叫びながら砂州に向かって突撃した。走りながら手榴弾を投げて、河口全体をあっという間に埋め尽くした。最初は約500人の日本軍兵士兵が突撃した。アメリカ軍の猛烈な砲火を浴びて、日本軍部隊は丸ごと一網打尽にされた。生存した日本軍兵士の一人は、「まるでハエがカメを襲って、ハエはカメに対してまったく無力だった!」と表現した。一木先遣隊は、中洲からの襲撃が成功する見込みがないと判断して、午前3時10分にテナル川の横断を命じ、アメリカ軍陣地の右翼に突撃した。猛攻の中で、アメリカ軍の陣地に侵攻したのはわずか8人であった。日本軍兵士は、手榴弾を頻繁に投げてアメリカ軍の照明を破壊した。一夜の激戦の末に、一木先遣隊の半数が死傷して、将校もほとんど戦死した。一木先遣隊は、それでも夜明けまで退却しなかった。

 8月21日未明に、12機のドレッドノート急降下爆撃機が、一木先遣隊が潜伏したココナッツ園を繰り返し爆撃した。アメリカ軍がテナル川の上流を渡り、一木先遣隊の南部を包囲して、日本軍残党を海岸沿いの狭い地域に閉じ込めて、海兵隊が一人ずつ殺害した。8月21日夕暮れ時、一木先遣隊の最後の瞬間が近づいた。海兵隊は砂州を越えて突撃するのを援護するため、軽戦車小隊を派遣した。戦車はヤシの木をなぎ倒し、日本軍防衛兵を殺害して、絶望的な日本軍兵士を崩壊した。戦車は死傷兵の上を走り回り、足跡に血と肉がこびりついた。一木先遣隊は戦死したココナッツ畑で玉砕した。

 ココナツ林に残った日本軍兵士はほんの一握りで、重傷を負った一木を取り囲み、軍旗の焼却を命じた。アメリカ軍の戦車が残った日本軍兵士の集団を発見した時に、すでに日本軍の軍旗は燃えた。日本軍兵士は一人、また一人と殺害された。一木清直は殺害される直前にサーベルを抜いて腹切をした。負傷兵のうち8人だけが残存した日本軍部隊に逃げ帰った。テナル川の河口での戦闘は約16時間続いて、8月21日午後17時頃に終結した。日本軍兵士は約777人が死亡して、アメリカ軍の死者34人、戦傷者75人で終結した。




2023年9月19日火曜日

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いのテナル川の戦い後に、日本軍兵士の海岸とココナッツ林に死体が散乱した。一木分遣隊の約917人のうち約800人が戦死した。

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いのアメリカ軍側の別称であるテナル川の戦い後に、日本軍兵士の海岸とココナッツ林に死体が散乱した。ガダルカナル島に一部派遣された一木分遣隊は、8月21日に飛行場周辺のテナル川の戦いで上陸したアメリカ軍に突撃した。ガダルカナル島のテナル川の戦いは、日本軍にとり最初の大規模な陸上攻撃であった。一木分遣隊は、アメリカ軍のガダルカナル上陸を受けて、飛行場の奪還の任務を帯びてガダルカナル島に派遣された。日本軍は、上陸したアメリカ軍を過小評価して、大東亜共栄圏各地から集められた日本軍の予備兵員を断片的な投入を繰り返した。

 一木分遣隊は、日本軍の本来の別称であるイル川渡河戦にて、夜間にアメリカ軍陣地への正面攻撃を行った。アメリカ軍の砲撃と機関銃の猛攻により、ほとんどの日本軍兵士はイル川の砂州を渡る際に殺害された。アメリカ軍は戦車を投入して、一木分遣隊を包囲してココナッツ林に追い込んで壊滅した。一木分遣隊の約917人のうち約800人が戦死した。8月21日午後3時に終結するも、負傷した日本軍兵士から銃撃されないように、すべての日本軍兵士の死体に銃撃して、銃剣で刺殺して絶命した。

  太平洋戦争のガダルカナル島の戦いは、雨期にソロモン島をめぐる血なまぐさい長期の戦いは、1942年8月7日に勃発した。部分的に建設された日本軍の飛行場が運用可能になる前に占領するために、アメリカ軍が上陸を実行した。8月9日未明に、日本軍戦艦三河が、サボ島沖の戦いでアメリカ軍の掩護部隊を奇襲し撃破した。8月10日には、日本軍の空襲を警戒して、アメリカ軍の戦艦も積荷の輸送船も撤退した。上陸したアメリカ軍は、8月20日までは予備兵力と補給物資を失って非常に脆弱となった。

 ガダルカナル島に上陸後の数ヶ月間に、ヘンダーソンフィールド飛行場の滑走路を攻防のために、多くの絶望的な悲惨な陸戦が繰り広げられた。アメリカ軍は、次第に予備兵力と補給物資を補強して、徐々に境界線を拡大した。敗走する日本軍兵士は降伏を拒否して、日本軍兵士は戦場で死にかけても、アメリカ軍兵士を殺し続けようとした。




2023年5月16日火曜日

アメリカ軍海兵隊員は1942年11月に太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、ポイント・クルーズの軽機関銃の塹壕から、殺害された日本軍兵士の死体を引張り出して検死した。

アメリカ軍海兵隊員は1942年11月に、太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、ポイント・クルーズ付近の塹壕から、殺害された日本軍兵士の死体を引きずり出した。アメリカ軍兵士は、太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、戦死した多数の日本軍兵士の死体を、日本軍の軽機関銃の陣地から引張り出して検死した。 

 日本陸軍第4歩兵連隊は、ガダルカナル島のポイント・クルーズ地区を防御した。日本軍第4歩兵連隊は戦死者や負傷者、熱帯病、栄養失調のために疲弊した。アメリカ軍は1942年11月1日から攻撃を開始して、11月3日までにポイント・クルーズ地区を防御した日本軍を壊滅した。そのマタニカウ攻勢にて、アメリカ軍はマタニカウ川を渡り、ガダルカナル海岸北部のポイントクルーズまでの日本軍部隊を1942年11月1日から4日まで攻撃した。アメリカ軍は約71人が死亡して、日本軍兵士は約400人以上が死亡した。11月1日にアメリカ軍海兵隊は、戦艦の支援を受けながら、マタニカウ川を渡って侵攻を開始した。

 11月2日にアメリカ軍は、ポイントクルーズの西海岸に到達し、日本軍を包囲した。日本軍の防御陣地には、ポイントクルーズの西海岸沿いの小道、珊瑚、土、丸太の壕、洞窟や狐穴があった。アメリカ軍砲兵は11月2日の終日に、日本軍陣地を砲撃して、日本軍守備隊には甚大な死傷者を出した。北部の日本軍には固定銃剣の正面攻撃を行って、日本軍の防衛隊を制圧して殺害した。

 11月3日には、アメリカ軍はポイントクルーズを越えて侵攻した。11月3日に、日本軍一部が塹壕の脱出を試みたが、海兵隊に殺害された。アメリカ軍は、小銃、迫撃砲、爆薬、直接・間接砲火を使用して、ポイントクルーズ付近の日本軍陣地の破壊した。ヤシの木の間に約300人ほどの若い日本軍兵士の引き裂かれ、粉々になった死体がずらりと並び、生存者は一人もいなかった。

 ガダルカナル島の激戦は、1942年8月7日から1943年2月3日まで継続した。陸・海・空で戦闘が繰り広げられた。ガダルカナルの戦いでは、次第に食料が枯渇して、日本軍兵士は戦争で殺害されるよりも、栄養失調にて餓死あるいは病死する兵士数が急増した。日本軍は約31,000人、アメリカ軍は約7,100人の兵士、船員、飛行士、海兵隊員が犠牲になった。




2021年12月3日金曜日

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いの終盤で、日本軍とアメリカ軍がアウステン山での戦闘が勃発して、ジャングルの中で9人の日本軍兵士が殺害されて死体が散乱した。

太平洋戦争で1942年8月7日から勃発したガダルカナル島の戦いの終盤で、日本軍とアメリカ軍がアウステン山での戦闘が勃発した。ジャングルの中で9人の日本軍兵士が殺害されて、死体が散乱した。日本軍の陣地内では、ほぼ全員が戦闘態勢のまま死亡した。補給も途絶えて形成不利となり、1943年1月23日午前2時30分に最後の特攻を指示された日本軍兵士は、約100人が戦死した。アウスティン山周辺だけで、日本軍兵士は約400人が戦死して、アメリカ軍兵士は約112人と戦傷者は約268人に及んだ。

 1942年12月15日から1943年1月23日に、ガダルカナル北部のマタニカウ川付近の丘陵地帯で、主にアメリカ軍と日本軍の戦闘が勃発した。アメリカ軍兵士は、ソロモン諸島の先住民にも支援されて、丘や尾根の上で要塞化された日本軍陣地を攻撃した。最も目立つ丘は、アメリカ軍によってアウステン山、ギャロッピング・ホース、シーホースと呼ばれた。アメリカ軍はガダルカナルの日本軍の防御陣地を崩壊した。双方ともに、戦地の鬱蒼としたジャングルや熱帯の環境の中での戦闘は非常に困難で悲惨であった。アメリカ軍の多くは、初めての戦闘に参加した兵士であった。日本軍はほとんど補給を受けることができず、栄養失調と病気に苦しんだ。苦戦の末に、アメリカ軍はアウステン山の奪取した。その過程で日本の山地地帯であるギフ(岐阜)と呼ばれる強固な防御陣地や、ギャロッピング・ホース、シーホースなどを占領した。12月31日に大本営ではガダルカナル島からの撤退が決定された。日本軍はガダルカナルの放棄を決定し、ガダルカナル島の西海岸のエスペランス岬に撤退した。1943年2月の第1週に、生き残った約12,682人の日本軍兵士は無事に撤収した。

 アウスティン山の高さは約560mで、ガダルカナル島の尾根や谷間にある一つの丘であった。ジャングルが、熱帯雨林の巨木で、まっすぐな幹を高く伸ばしてから枝を広げ、絶対に日の当たらない屋根を形成した。幹の間の地面には、巨大なシダ類、イバラ類、あらゆる種類のつる性植物やヤシの木のような植物が密集した。オースティン山の戦いで、熱帯条件での負傷感染や病気により兵士は死に続けて、これらの損失に加えて、熱帯病、暑さ、戦闘の士気の低下を伴った。アウステン山の戦い頃から、立つことの出来る人間は、寿命30日間。身体を起して座れる人間は、3週間。寝たきり起きれない人間は、1週間。寝たまま小便をするものは、3日間。もの言わなくなったものは、2日間。まばたきしなくなったものは、明日と生命の予後が示唆された。




2021年10月1日金曜日

日本軍の前線指揮所にアメリカ軍の砲弾が直撃して、日本軍兵士は入口で爆死した死体には、直後から蝿が群がり、蛆虫が湧いて、悪臭がして腐敗した。

ガダルカナルの戦いで、日本軍の前線指揮所は、コカンボナ海岸に近い大きなガジュマルの木の幹の中にできた洞窟の中に置かれた。その指揮所にアメリカ軍の砲弾が直撃した。日本軍兵士は、入り口から半身を乗り出した地点で爆死した。その死体には、直後から蝿が群がり、蛆虫が湧いて、悪臭がして腐敗していた。ガジュマルの中の前線指揮所の洞窟の中には、枕、敷布団、鍋、端、衣服などが散乱した。周囲には、レースの縁のテーブルクロスも残存していた。ガジュマルは、全体的に楕円形の葉を持つ熱帯性の大木で、熱帯雨林、川縁、海岸、沼地、マングローブなどに生息する。

 1942年秋にガダルカナル島のマタニカウ川の戦いが勃発した。アメリカ軍と日本軍が、甚大な犠牲を伴う猛烈な攻防戦となった。日本軍はヘンダーソン飛行場を攻略する陣地を築こうとした。アメリカ軍は、ヘンダーソン飛行場の周囲を十分に拡張して、日本軍が同飛行場を攻撃できないようにした。

 日本軍は1942年10月初旬に、アメリカ軍にマタニカウ川右岸付近で急襲さてれ、大損害を被ってマタニカウ左岸に撤退した。アメリカ軍はさらに11月1日に、マタニカウ川の数箇所を渡河して左岸に侵攻した。海岸沿いに侵攻して、日本軍をコカンボナ付近まで打撃した。その後アメリカ軍の主力部隊がマタニカウ川西岸で攻防した。兵力が増大したアメリカ軍は、1943年1月10日以降に猛撃して、飢餓に苦しむ日本軍をガダルカナル島の西方に追い詰めた。アメリカ軍は11月1日にマタニカウ川を渡り、11月2日に日本軍の残党を取り囲んだ。11月3日に、大砲、迫撃砲、半装軌車から日本軍に発砲した。日本軍は、約28人の将校と約201名の日本軍兵士が殺害され、別の日本軍部隊も全滅した。アメリカ軍は日本軍を突撃して追跡は、山岳地帯や前人未踏の地区に30日間つづけられ、約12回の戦闘で、約400人以上の日本軍兵士が殺害された。

 ガダルカナル島の戦いは、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍との戦いで、日本軍兵力の逐次犠牲を繰り返し、飢餓と想像を絶する悪環境下で半年にわたり戦線をが継続した。弾丸と同じくらいジャングル戦争でマラリアの犠牲者となった。長期間にわたる精神的および肉体的な緊張、戦闘、不十分な食糧などに苦悩した。アメリカ軍に制空権を奪われ、ガダルカナル島に補給が絶たれて困窮の果てに、飢島と呼称された。




2016年7月15日金曜日

酷く痩せ細る餓死者

ガダルカナル島で孤立し玉砕して食糧難となり肋骨が浮き上がり骨と皮まで酷く痩せ細る餓死者。