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2024年5月1日水曜日

満州事変が1931年9月18日に勃発して、関東軍は、奉天の郊外の柳条湖事件に呼応して、長春の寛城子、南嶺の中国国民党軍兵営を奇襲攻撃した。関東軍は激戦の戦闘末に占領して、戦死傷者の犠牲者の処置をした。

満州事変が1931年9月18日に勃発して、関東軍の第3旅団第4連隊兵士たちは、奉天の郊外の柳条湖事件に呼応して、長春の寛城子、南嶺の中国国民党軍の兵営を奇襲攻撃した。関東軍は中国国民党軍から占領した。中国国民党軍による頑強な抵抗を受けた関東軍は、激戦の戦闘末に占領して、戦死傷者の犠牲者の処置をした。

 1931年9月18日の夜、中国東北部に進駐していた日本の小軍団関東軍は、まず夜の闇に乗じて、瀋陽市の籐湖の近くに自力で建設した南満州鉄道の線路を密かに爆破した。そして、この犯罪を当時駐留していた中国軍のせいにした。これを口実に中国東北軍北陣を砲撃し、中国内外に衝撃を与えた九・一八事件(満州事変)を引き起こしたのである。

  翌日9月19日に、日本軍は瀋陽に侵攻し、東北三省を次々と侵略し始めた。それ以来関東軍は、中国を完全に侵略しようとした。関東軍は中国国民党と約14年に及ぶ長く険しい日中戦争が勃発した。1931年9月18日の九一八事件から1945年8月15日の日本の降伏までの約14年間で、中国と日本の市民の血と涙、火と水をくぐり抜けて、日中戦を戦って、数え切れない中国腎と日本人の息子や娘たちは、英雄的とされて命を犠牲にした。

 満州事変の翌日1931年9月19日に、関東軍司令官本庄中将が布告を出した、その内容は、中華民国東北辺防軍の一部の部隊は、大胆不敵にも満鉄線を爆破して日本に敵対行動をとったため、我が軍はやむをえず対抗手段をとった布告であった。

 陸軍中央部からは、「満州事変の処理に関しては、必要度を越えないように閣議決定した」ことを伝達した。朝鮮軍司令部からも、参謀総長により増遣部隊を差し止められしにより(略)と戦局の拡大を極力抑止する方向で展開せよと示唆した。陸軍中央部は9月19日午後6時頃に第一五号電報で訓令を発した。関東軍司令部は、第二師団主力に対して、次なる作戦準備として長春に集結するように命令を下した。

 9月20日早朝、関東軍の独立守備第二大隊は、関東軍司令部からの命令で、四平街、昌図付近の張学良軍を攻撃した。昌図の紅頂山にあった張学良の第20旅団の激しい抵抗に遭遇するも、張学良軍を西南方に潰走させた。その後、長春に帰還して、以後、長春―吉林間を結ぶ鉄道と長春警備の任に当たった。







2023年10月18日水曜日

コロ島を出港したその夜から、絶命して息をひきとる満州からの引揚者があいついだ。死体は、毛布やコモでつつまれて、みんなに見守られるながら、引揚船の後部から海に降ろされて、水葬にされた。

日本の博多港を間近にして、父親が亡くなった。残された二人の子供とともに、母親は父親の死体が沈んだ海面をいつまでも見つめつづけた。毛布にくるまれた父親の死体が海に投げ込まれて消えた。「どうぞ安らかに」と引揚者のみんなが合掌した。

 ここまで来たのに。コロ島を出港したその夜から、安心のあまり気がゆるんだのか、絶命して息をひきとる満州からの引揚者があいついだ。乗船する前に死んだ子供を、日本へ連れてて帰りたい一心で、毛布に子供の死体を包み隠した母親もいた。死体は、毛布やコモでつつまれて、みんなに見守られるながら、引揚船の後部から海に降ろされて、水葬にされた。「ボーッ」「ボーッ」「ボーッ」と悲しみに満ちた低く長い汽笛を鳴らしながら、死体が沈んだ周りを、引揚船は大きく旋回した。一回、二回、三回と旋回をくりかえすと、引揚船はその海場を離れて行った。「せっかく博多港のここまで帰って来たのに」。遺族の無念さがこみあげてくる。 

 中国の葫芦島(コロ島)の埠頭の倉庫の下に約5百から6百人の引揚者が、日本に引き揚げる乗船を待機した。銃剣を持った中国軍兵士が、引揚者の荷物を刺しては検閲した。1946年7月16日午前7時から、乗船の許可が降りて、日本への引揚者は「白竜丸」に乗船した。その一週間も前から軒下で待機していた引揚者の数名が絶命していた。コロ島から約4日目の朝に博多港付近まで引き揚げた。

 葫芦島在留日本人大送還は、連合国のポツダム宣言に付随した協議により、中国国民政府(陸上輸送部分)とアメリカ(海上輸送部分)の責任にて、葫芦島(コロ島)からの日本人難民の送還事業であった。アメリカ軍はブリーガー作戦の一環であり、中国では「葫芦島日僑大遣返」と呼称した。1945年10月の中国国民政府とアメリカとの1回目の上海会議で日本民間人人の帰還移送が決まった。遼寧省の錦州の西南に位置するコロ島は、アメリカ海軍の拠点から近く、国民・共産両勢力の境界付近に位置した。1946年5月11日に、アメリカ・国民・共産の3者の協定が締結され、コロ島が確保された。葫芦島からの引き揚げは1946年5月7日から開始され、1946年末までに約101万7549人(うち捕虜1万6607人)、1948年までに総計105万1047人の在留日本人が日本へ送還された。満州から引き揚げできずに、約24万人が死亡した。




2023年10月3日火曜日

1931年11月18日の江橋付近の激戦の後で、中国軍の大量の砲撃により、日本軍に戦死傷者が出た。日本軍兵士は、担架に戦死傷者を掲載して、後方の陣地に搬送した。

1931年9月18日に中華民国の奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破した事件が勃発して、1932年2月18日に関東軍による満洲(中国東北部)全土の占領をした。1931年11月18日の江橋付近の激戦の後で、中国軍の大量の砲撃により、日本軍に戦死傷者が出た。日本軍兵士は、担架に戦死傷者を掲載して、後方の陣地に搬送した。

 1931年11月18日の朝から、日本軍は三望峰の中国軍に対して総攻撃を開始した。日本軍が陣地の前線に1時間砲撃し、中国軍は大砲で応戦した。大砲の音が鳴り響き、朔北の荒野全体を震撼させた。8時、日本軍は中央を突破して包囲して総攻撃を開始した。10時、中国軍は陣地を維持できず、安康渓の地域に退却した。日本軍は戦闘機約12機、戦車約12両、大砲約30数門を追加し、激しい砲撃ですべての塹壕を破壊した。中国軍は、丸一昼夜、米も水もなく、空腹で、叫びながら、殺し合いの戦いを続けて、全旅団が半数ずつ死傷し、安康渓に撤退した。中国軍は3日間戦い続けて、約3000人以上の死傷者を出し、約2000人以上が死亡した。

 三望峰の戦いの最中、中国軍は各方面に援軍を要請した。北京からの指示は皆無であった。道安路の戦い以来、弾丸はすべて黒竜江省の古い在庫で、カビで濡れて使い物にならなかった。一昼夜の激戦で、中国軍兵士は10分の9を使い果たして、丸腰では戦争できない。多くの死傷者を出し、弾薬と食料を使い果たし、助かる見込みもなく、馬占山は中国軍部隊に撤退を命じた。日本軍は虹慶子から中国軍の後を追った。馬占山は省都を克山に移動するよう命じて、約500人の衛兵と700人の騎兵を率いて倫沙を保持した。

11月19日朝、日本軍の主力は省都から約24km離れた玉樹屯を占領し、激しい砲撃で省都を砲撃した。約5000人以上の日本軍兵士が斉斉哈爾に侵入し占領した。馬占山は軍隊を斉斉路から克山、八泉、海崙に撤退して、江橋の戦いは終結した。日本軍側は、11月4日から11月19日までの江橋抵抗戦にて、馬占山軍により、戦死は約31人、戦傷は約104人、行方不明は約13人、さらに約300人の凍傷患者が発生した。中国軍の損害は、不詳であるも約1,000から約3,000人と推定した。馬占山は、11月21日夕方に、海倫に到着した。望奎、海倫、克山、訥河の陣地に分駐した。




2023年9月7日木曜日

満州事変後に、日本軍の関東軍は1931年11月5日に大興付近の激戦にて、日本軍兵士が戦死した死体を収容した。関東軍は、日の丸の国旗を掲げて死体を取り囲んで検死した。

満州事変の直後に、日本軍の関東軍は1931年11月5日に大興付近の激戦にて、日本軍兵士が戦死した死体を収容した。関東軍は、日の丸の国旗を掲げて死体を取り囲んで検死して見詰めた。大興高地にて関東軍は、チチハルの攻略を侵攻するために、中国軍に破壊された嫩江鉄橋の修理の援護を名目に、11月1日にチチハル南の大興に出兵した。1931年11月4日に中国軍とは大興にて激突した。中国軍の激しい抵抗に合って、11月5日には関東郡は全滅の危機に瀕した。日本軍歩兵大16連隊の支隊長は、切腹を部下に止められた。日本軍の増援部隊が派遣された11月5日に危機を脱した。

 1931年9月18日の満州鉄道を爆破した柳条湖事件を発端として,1933年5月31日の塘沽停戦協定まで、満州事変が勃発した。その後には日中戦争の起点となる1937年7月7日に蘆溝橋事件の勃発によって、日中戦争が全面化した。満州事変が勃発すると、中国軍の黒竜江省軍は嫩江の鉄道橋を破壊して、チチハルから洮南を経て四平街に通ずる鉄道は不通となり輸送が途絶した。日本軍の関東軍は、満州鉄道を修復する名目のために、大興付近に派遣された。チチハルは、中国の黒竜江省省都ハルビンの北西約270kmに位置した。

 11月2日に大興駅を中心に中国軍は陣地を構築されていた。11月4日に、関東軍は大興駅南方にて、川岸台上陣地から中国軍との戦闘が発生した。11月5日には、関東軍は弾薬や弾丸が欠乏して、戦線は膠着して死傷者が続出した。関東軍は、側方や腹背から中国軍の攻撃を受けて、戦線は動揺して前線から後退した。11月5日午後3時に関東軍は援軍の派遣を伝令された。夜になっても、中国軍の攻撃は止まず、戦傷者が続出して悲惨な戦場となった。11月6日には関東軍の増援から、中国軍は続々と北走して撤退を開始した。関東軍は追撃をして大興北地区を制圧した。




2023年8月30日水曜日

日露戦争の遼陽会戦にて、日本軍部隊は遼陽の付近の戦場で殺害された日本軍兵士の死体を捜索して検死した。1904年8月30日と31日に日本軍の再攻撃はロシア軍に撃退されて、多大な損害を受けた。

日露戦争の遼陽会戦(Battle of Liaoyang)において、日本軍部隊は遼陽の付近の戦場で殺害された日本軍兵士の死体を捜索して検死した。1904年8月30日と31日に日本軍の全面的な再攻撃は、ロシア軍の大砲と広大な要塞により、日本軍は撃退されて多大な損害を受けた。8月30日から、遼陽付近の戦場で日本軍兵士の死体を埋葬した。

 日露戦争において、初めて遼陽の戦場で、日本軍兵士は約127,360人とロシア軍兵士は約245300人もの主力の大軍が激突した。遼陽会戦は、日本軍が1904年8月26日から侵攻した。8月30日から全線で一斉に遼陽市街にて戦闘が勃発した。約5日間にわたり、苛烈な攻防が繰り返した。遼陽に布陣するロシア軍は、強固な防衛陣地を構築した。8月28日に遼陽前面の首山堡は悲惨な戦況となり、ロシア軍の主力が、日本軍を撃破した。遼陽南部では、両軍が白兵戦を取り広げて、戦場は凄惨を極めた。遼陽会戦に参戦したロシア軍は約224,600人で死傷者は約20,000人と日本軍は134,500人で死傷者は約23,533人に及んだ。公式には、日本軍の死者は約5,537人、ロシア軍の死者は約3,611人、日本軍の負傷者は約18,063人、ロシア軍の負傷者は約14,301人であった。後にソ連の研究では、日本軍の死傷者の総数は約23,615人に対し、ロシア軍の死傷者数は約15,548人とされた。

 8月31日に遼陽市街のすぐ北を東西に流れる太子河を、日本軍が渡河して、ロシア軍の左側が打撃を受けた。9月1日に日本第1軍の約半数が、ロシア戦線の東約13kmで太祖河を渡った。9月3日に、ロシア軍の総司令官クロパトキンは、遼陽の放棄して、奉天への撤退をロシア軍に命じた。ロシア軍は、旅順要塞を除いて遼陽半島での反抗と満州の防衛は頓挫した。9月4日に、遼陽一帯を日本軍が支配した。奉天に退却したロシア軍は、9月8日に全軍の退却の完了を発表した。

 日露戦争には、多くの外国人特派員を戦闘体験に引きつけた。外国人特派員は安全な位置で、全く日本軍兵士の英雄主義、騎士道精神、献身、犠牲、愛国心、戦闘、戦死傷を目の当たりにできなかった。日露戦争は徹底的に記録され、トップニュースとして報道された。新聞と同様、『コリアーズ(Collier's)』や『ハーパーズ・ウィークリー(Harper's Weekly)』などの一般雑誌も視覚的情報に大きく依存した。日露戦争を可視化し物語化する過程にて、視覚的情報は、不遜で、人目を引き、誇張された。遼陽会戦を、アメリカでは南北戦争を思い浮かべた。日本軍が潜在的に終末的な人種戦争にてアメリカと交戦する構えを見せる脅威を高めた。




2023年5月23日火曜日

中国の清朝末期に、焼き討ち、殺し合い、略奪などの重罪を犯して、民家を襲っては生計を立てていた2人の馬賊が公開された死刑が執行された。

中国の清朝末期に、焼き討ち、殺し合い、略奪などの重罪を犯して、民家を襲っては生計を立てていた2人の馬賊が死刑が執行された。馬賊は重犯罪者として、木の杭に縛り付けられた。野次馬の民衆の面前で公開処刑された。処刑者は将校や兵士ではなく、地元の村人によって組織された民兵集団であった。公開処刑することで他者への犯罪の抑止力の見せしめにもなった。

 重罪を犯した者は、斬首による死刑を宣告されて、民衆に刑罰を広めて、犯罪を抑制するために、民衆に公開で処刑が実行された。見物人の多数の民衆が集合して取り囲んで、処刑による報復に喝采を浴びせた。清朝末期には、治安が悪化して、馬賊が多発した。その撮影された写真に、「銃殺前の馬賊」と添え書きした絵葉書が、済南の愛屋から発行された。

 日本軍が占領した満州には、中国の抗日ゲリラが活動した。民衆自衛抗日軍と呼称して、日本軍は匪賊とか馬賊と呼んだ。満州各地で、日本軍や日本人を襲撃する事件が多発した。1932年9月16日午前1時5分, 平頂山事件が勃発した。撫順炭鉱の事務所、警官派出所、宿舎を抗日ゲリラが襲った。満鉄の職員と家族に死傷者がでた。日本軍は、抗日ゲリラが集結していた平頂山一帯の住民は、抗日ゲリラと通じていると断定した。村の住民約3000余人全員を集め、崖に追い詰めて、機関銃で銃殺した。死体の山に石油をかけ火をつけた後に、崖を爆破して埋めた。満洲国が崩壊した後は、馬賊も衰退していった。その後の国共内戦では、両陣営に取り込まれた。




2023年5月15日月曜日

文化大革命が終結後、元党支部書記であった女性の王守信は、横領の罪で、1980年2月8日に銃殺により処刑された。王守信は雪の地面の上にひざまずいて、処刑執行者に背部から銃殺された。

中華人民共和国の黒龍江省のハルビン郊外の南東約30kmの雪原の野原で、1980年2月8日にトラックから降ろされた。ハルビン郊外に広がる雪の野原に強制連行された王守信は、死刑の執行を待った。文化大革命が終結後、元党支部書記であった女性の王守信は、横領の罪で、銃殺により処刑された。王守信は雪の地面の上にひざまずいて、処刑執行者に背部から銃殺された。




 黒龍江省の党支部書記と賓県燃料公司の社長であった52歳女性の王守信が、約10万ドルの金を横領したと、1979年に文化大革命で迫害されたノンフィクション作家の劉賓雁が人妖の間の暴露記事で告発した。王守信は、文化大革命以前は単なる出納係であった。文化大革命にて造反派を組織して、急進的な政治権力を掌握した。中国全土に蔓延る斡旋収賄と汚職の象徴となる横領犯として裁判された。ハルビンの工人体育館でわずか3日間の公開裁判で、王守信は無実を叫ぶも、拷問して沈黙させた。有罪して死刑の判決を受けた。その他の暴力犯罪と比較しても、あまりにも死刑の判決は重大すぎた。1980年2月8日に、死刑は執行された。

 毛沢東は、1966年から腹心の林彪や四人組の共産党幹部らと、紅衛兵と呼称された若者たちを扇動した。旧来の社会主義に市場経済の導入を図った走資派の政権幹部を暴力的に迫害した。文化大革命をスローガンに、紅衛兵が全中国に暴走して、伝統文化や市民に甚大な被害を伴った。紅衛兵の暴動はしだいに毛沢東にも制御不能になった。1976年に、毛沢東の死と四人組の逮捕によって国家的騒乱が終結した。  

 1966年の秋までに、ほとんどの中国人にとって、毛沢東は生き神様になっていた。毛沢東は、1958年2月に中国を大躍進に導いた毛沢東は、2000万人以上の死者を出す壊滅的な飢饉をもたらして1959年に失脚した。毛沢東は、1966年の文化大革命の最初の数年間、天安門広場で約1100万人以上の紅衛兵を出迎えた。人々は、地主、金持ちの農民、反革命分子、悪い人物という4つの要素に属した市民が非難され、即座に処分された。文化大革命での推定死者数は間接も含めると、総計約2,000万人と推定された。




2023年1月11日水曜日

日本軍はトラックで満州の抗日ゲリラを追って、中国東北部の三江平原を横断した。中国人抗日ゲリラを殺害した日本軍兵士は、死体の周囲に並んで誇らしげに記念撮影をした。

中国東北部の奉天郊外の柳条湖にて、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破した満州事変(9・18事件)が1931年9月18日に勃発した。1934年3月9日には農民が武装蜂起した土竜山事件などから関東軍が抗日ゲリラを武装討伐をした。日本軍はトラックで満州の抗日ゲリラを追って、中国東北部の三江平原を横断した。中国人の抗日ゲリラを殺害した日本軍兵士らは、死体の周囲に並んで誇らしげに記念撮影をした。

 9・18事変後に、日本軍は中国東北の白山黒水地域などを侵略した。中国人住民を弾圧して、住民は生活の糧を挫いて、三江平原の中国人は義憤を抱いた。1934年3月9日に、土龍山地区の農民約700人が暴動を起こして、土竜山事件が勃発した。農民武装部隊は警察署を占拠し、傀儡商人の武装団体を没収して、満洲の日本軍兵士の約19人を戦死した。農民武装部隊は、翌日の3月10日には、土龍山西白家溝にて、依蘭から鎮圧に赴いた日本軍を待ち伏せて攻撃した。関東軍兵士ら約45人、満洲国軍の約3人を射殺した。土竜山事件は、国内外に広く知られ、関東軍は3月末に撤退した。

 土竜山事件は、依蘭事件(事変)または謝文東事件とも呼称された。1934年1月に、関東軍は日本人武装移民を入植させ、依蘭・樺川・勃利各県など6県で、可耕地の大規模な強制買収を始めた。強制買収に抗して、地券を出し渋る農民を弾圧した。土竜山の謝文東を総司令として、東北民衆軍を編成して武装蜂起した。総数約6,700人もの大軍の抗日ゲリラとなった。3月9日、東北民衆軍の農民は日本人移民団を包囲し、警察も武装解除させた。

 翌3月10日に日本軍約19名が戦死した。3月末に、土竜山区から撤兵した関東軍は、威嚇と利益誘導、大群で包囲攻撃をする二面作戦から、農民民衆軍を孤立、分化、瓦解させた。7月下旬には民衆軍は約800人まで縮小した。日本の満州移民政策を見直させて、満州の抗日統一戦線の契機になった。1935年7月に満州国政府が、土竜山事件を受けて、日本人移民の政策実施に参与した。

 土竜山事件後に、満州国政府は買収工作、関東軍は武装討伐を行った。1936年9月に、謝らは中国共産党系の東北抗日連軍に合流して第8軍を編成した。1939年3月に、謝らは関東軍の赦免状により、日本軍に謝罪し帰順した。終戦後は国民党に就いて国民党軍中将として中国共産党軍と対決した。1946年末に逮捕されて、漢奸匪賊として依蘭にて斬首刑に処せられた。






2022年11月15日火曜日

日露戦争の旅順攻囲戦にて、日本軍は第三回総攻撃(1904年11月26日から12月6日)の犠牲者に対して、旅順の荒野に緊急埋葬地を設置して戦死者の死体を埋葬した。

日露戦争の旅順攻囲戦(Siege of Port Arthur)にて、日本軍は第三回総攻撃(1904年11月26日から12月6日)の犠牲者に対して、旅順の荒野に緊急埋葬地を設置して戦死者の死体を埋葬した。緊急埋葬地まで添え木で布に巻かれた死体が運搬された。埋葬する前の戦死者の死体に対して、日本軍兵士らが見守った。それまで祭壇に捧げられた犠牲もむなしく、ロシア軍の砦が変わることはなかった。

 日露戦争にて旅順攻囲戦が1904年8月19日から1905年1月1日まで、日本軍は総計で三回の総攻撃によって、ロシア帝国のロシア軍が構築した旅順要塞を攻略して陥落した。第三回総攻撃を11月26日から12月6日に挙行した。11月26日に特別予備隊の白襷隊は、夜間で識別する白襷を着用して、突撃するも約7,000人も犠牲を伴った。11月27日に203高地に攻撃を変更して、ロシア軍は12月1日に203高地を奪還した。日本軍は援軍を得て、12月4日早朝から203高地に攻撃を再開して、12月5日に203高地を制圧した。日本軍は戦死者は約5,052人、戦傷者は約11,884人、ロシア軍は戦死者は約5,380人、戦傷者は約12,000人近くに達した。

 日本軍の旅順要塞に対する第一回総攻撃は1904年8月19日から9月24日、日本軍の第二回総攻撃は10月26日から10月30日、日本軍の第三回総攻撃は11月26日から12月6日挙行した。第一回総攻撃は、ロシア軍の反撃で日本軍の死傷者が続出して、9月24日に中止命令された。日本軍の犠牲は約5,017人が戦死して、約10,843人が戦傷して、ロシア軍の犠牲は、約1,500人が戦死して、約4,500人が戦傷した。第二回総攻撃では、日本軍は旅順要塞までの坑道掘作して一時的に小型の要塞陣地を攻略するも、ロシア軍に逆襲で退却した。日本軍の犠牲は、約1,092人が戦死、約2,782人が戦傷した。ロシア軍の犠牲は、約616人が戦死して、約4,453人が戦傷した。 

 その後にロシア軍は東北面の主要な保塁が占領されて、1905年1月1日16時半に日本軍へ降伏を申し入れた。1月5日に旅順近郊の水師営で両軍の幹部が会見した。旅順攻囲戦の降伏によりロシア帝国の威信は失墜して、サンクトペテルブルク市民は1月22日に冬宮殿での請願デモに、ロシア軍が発砲した血の日曜日事件が勃発して、ロシア革命の起点となった。




2022年7月12日火曜日

日露戦争で摩天嶺の戦いが勃発して、日本軍が捕獲したロシア軍の戦死者の死体のかたわらに、負傷したロシア軍兵士が横たわった。

日露戦争で摩天嶺の戦い(Battle of Motien Pass​)が勃発して、日本軍が捕獲したロシア軍の戦死者の死体のかたわらに、負傷したロシア軍兵士が横たわった。中国の遼寧省の千山山脈にある摩天嶺と呼称した山地である。摩天嶺は、鴨緑江流域と遼河流域の分水嶺にあたる山地の尾根の頂にある。日本軍は1904年7月半ばから8月はじめにかけて、摩天嶺付近で、大石橋付近で、遼陽東部で、次々とロシア軍を破り圧迫した。アメリカの報道週刊誌「コリアーズ」から日本軍に派遣された記者が従軍して日露戦争の写真記録した。

 ロシア軍は、遼東半島の真中で、安東と遼陽の間の幹線道路上にある摩天嶺を占領していた。摩天嶺に布陣した約10,900人の日本軍に対して約26,600人のロシア軍が攻撃をしかけて1904年7月10日に勃発した。ロシア軍は日本軍の約2.5倍もの大兵力で摩天嶺の西方から砲撃を仕掛けた。日本軍は既に防衛陣地を構築していたため、頑強に抵抗した。日本軍の黒木為楨司令官はロシア軍に側面攻撃をかけて、ロシア軍は遼寧省北部に撤退した。その直後にロシア軍のフェードア・ケルレル(Fedor Keller) 司令官は日本軍の砲撃に殺害された。摩天嶺の戦いの犠牲者は、日本軍の死傷者約355人とロシア軍は約1,213人に及んだ。その後に、日本軍は摩天嶺の占領に成功して、中国の遼陽への起点を確保した。

 日本政府は、1904年2月4日に御前会議で日露戦争を決定した。2月3日に国交断絶を通告した。2月10日にロシア政府への宣戦布告を行った。2月11日に大本営を設置した。2月23日に大韓帝国と日本軍の補給線を確保する日韓議定書を締結した。2月24日から5月3日まで、ロシア艦隊の旅順閉塞作戦を日本軍は失敗した。6月20日に日本軍の満州総司令部が新設された。1904年5月1日、鴨緑江会戦が勃発した。7月10日に日本軍は摩天嶺を占領した。さらに8月24日から9月まで遼陽会戦が勃発した。




2022年6月22日水曜日

1939年の日ソ停戦協定後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が自軍の戦死者の死体を回収して、悲壮な死体処理と黙祷が撮影された。

1939年の停戦後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が、戦死者の死体を回収して、悲惨な死体処理が撮影された。日本軍兵士の死体が、至るところの荒野や丘に散乱して横たわっていた。ハルハ河・ノモンハン戦争で生き残って、白いシャツを着て担架で運搬した。その後にトラックに積み込んかだ。日本軍兵士の戦死者の死体を素手で回収して、火葬して埋葬した。その後に荒野の埋葬地で、日本軍兵士は取り囲み黙祷した。

 ノモンハン事件と呼称されるハルハ河・ノモンハン戦争が、1939年5月11日から勃発した。日本・偽満州国軍が外モンゴル辺境地域のノモンハン・ブルド・オボー地域のモンゴル軍警備隊を5月11日に襲撃したのが起点となった。5月24日にソ連軍がモンゴルに参入して7月からソ連・モンゴル軍が結成された。日中戦争下において、外モンゴル人が武力によって日本満州軍の侵略に対抗した。ハルハ河・ノモンハンで砲火を焦がして、非常に厳しい戦闘が長期にわたり継続した。武力では優勢でなかったソ連・モンゴル連合軍が反撃した。モンゴルと満州の国境地域であるハルハ河東部で、日本満州軍を撃退した。1940年8月16日にモスクワで日ソ停戦協定が調印されて停戦した。

 日本防衛省史料室は、2013年2月に約2万点のハルハ河・ノモンハン戦争の関連資料を公開した。写真・映像資料は、軍の意図的なプロパガンダを容疑されるが、細部まで鮮明に撮影された写真・映像資料は視覚的な歴史記録であり、臨場感も高く真実に強く迫る。無声の映画資料「日本軍の遺骨,1939年」が、ドキュメンタリー映画「ハルハ河の英雄」の作成元となった。1939年の停戦後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が、戦死者の死体を回収して、悲惨な死体処理が撮影された。日本軍兵士の死体が、至るところの荒野や丘に散乱して横たわっていた。ハルハ河・ノモンハン戦争で生き残って、白いシャツを着て担架で運搬した。その後にトラックに積み込んかだ。日本軍兵士の戦死者の死体を素手で回収して、火葬して埋葬した。その後に荒野の埋葬地で、日本軍兵士は取り囲み黙祷した。

 1939年5月から9月の激闘で、日満軍の戦死者は約18,155人、戦傷・行方不明は約3,534人に上った。ソ連軍は、戦死者は約9,703人、戦傷病者し15,952人に及んだ。モンゴル軍は、死傷者は約990人に上った。 1939年9月15日にハルハ河・ノモンハン戦争に対して、日ソ停戦協定が成立した。9月27日と9月29日、1940年4月27日に、日満軍とソ連モンゴル軍は、捕虜交換した。1941年4月13日に、モスクワで日ソ中立条約が締結された。





2022年4月26日火曜日

日露戦争にて1904年11月から二〇三高地周辺で、ロシア軍兵士は埋葬する前に、ロシア軍兵士の死体から残存した弾丸を回収した。

日露戦争にて、1904年11月から日本軍に狙われた二〇三高地の丘陵地の周辺には、殺害されたロシア軍兵士の死体が散乱していた。生存したロシア軍兵士は、埋葬する前のロシア軍兵士の死者から、死体に残存した弾丸を回収した。旅順要塞の東北正面の周辺に対して、日本軍は1904年8月19日から8月24日に第一次総攻撃、10月26日から10月30日に第二次総攻撃を敢行して、両軍ともに膨大な犠牲を出して、兵員と補給と弾丸が不足していた。第二次総攻撃から壕を掘ってロシア軍要塞に接近する正攻法で、坑道を掘り要塞を爆破した。第二次総攻撃では日本軍は戦死者は約1,092人、戦傷者は約2,782人を出して、ロシア軍は戦死者約616人、戦傷者は約4,453人と犠牲者数は日本軍側より上回った。交戦最中であった12月3日には一時休戦となって、日露軍双方の兵士が死体の搬出と負傷者の救出を行なった。

 ロシア海軍のバルチック艦隊の接近を控えて、日本軍は11月26日から旅順の二〇三高地に照準を絞って変更した第三次総攻撃を敢行した。嵐のロシア軍の銃撃で、欄干の頂上は、散乱した死体で黒くなった。東鶏冠山から日本軍の大部隊が突撃を繰り返すも、犠牲者の死体が山積みとなった。北鶏冠山にも日本軍は殺到して、山嶺で白兵戦が銃撃戦が繰り返した。猛烈なロシア軍の銃撃にて日本軍は鉄条網を突破できずに、欄干の頂上で黒軍服の死体が重なった。

 11月30日に、日本軍は二〇三高地に北西頂上から頂上付近に塹壕を掘り進めて、猛烈な砲撃をした。12月5日に集中砲火して最後の総突撃をした。南西丘陵から砲撃して、ロシア軍の弾薬庫が発火した。砲撃して二〇三高地を孤立させて、約8,000人の日本軍兵士が必死の突撃をしてロシア軍陣地に殺到した。二〇三高地の生存した3人のロシア軍兵士を除いて全員を殺害して占領した。12月6日から日本軍は二〇三高地から旅順要塞の東北正面を砲撃をして、周辺のロシア軍は撤退し制圧した。12月13日から、旅順のロシア艦隊に二〇三高地から猛烈な砲撃をした。




2021年10月21日木曜日

満州事変の直後から関東軍が占領した奉天にて、10月17日に奉天郊外で約8人の関東軍将校らが殺害した約1人の中国人兵士の前で、気取ったポーズで写真撮影をした。

1931年9月18日の満州事変(九・一八事変)の直後から関東軍が占領した奉天にて、10月17日に奉天郊外で関東軍の約8人の将校らが殺害した約1人の中国人兵士の前で、日本刀を捧げて気取ったポーズで写真撮影をした。九・一八事変以降に、関東軍は奉天などで放火、殺人、売春、略奪などの戦争犯罪を行った。9月18日の夜に、関東軍は北大営を砲撃し、火薬庫は廃墟と化した。奉天市和平区の住民の多くの家が砲撃され、家が焼失した。被災した住民は、郊外に集まって避難して、家を出て関州に逃げた。奉天(現在の瀋陽)は、東北地方の最大規模の都市であり、東北地方の経済・文化・交通および商業の中心地であった。関東軍は吉林省の紅頂山に侵攻し、戦闘機が兵舎や民家を爆撃し、火の海が広がった。関東軍は、施設、学校、店、家などを焼き払った。

 満州事変は、1931年9月18日22時20分に、関東軍の約7人の日本軍兵士が、柳条湖の南満州鉄道の一部を爆破した。この爆発を合図に、関東軍は、直後に中国の東北軍の駐屯地である北大営に攻撃を開始した。9月19日午前0時20分、関東軍に、東北各地を攻撃する指令を出した。東北地方の関東軍は、素早く集中して瀋陽市を攻撃する命令をした。9月19日午前6時30分に、日本軍は奉天を占領した。9月19日には長春が、9月22日には吉林が陥落した。

 満州事変は、九・一八事変、奉天事変、柳条湖事変とも呼ばれる。1931年9月18日に、日本の関東軍が中国東北部を武力侵攻するために、奉天を突撃した。関東軍が意図的に起こして中国を武力で征服する中国への侵略戦争が勃発した。1932年2月には、中国東北部はすべて関東軍に陥落した。 その後、日本は中国東北部に満州国の傀儡政権を樹立して、約14年間にわたる中国東北部の植民地支配を確立した。中国東北部の約3,000万人以上の中国人は傀儡国家の奴隷としての辛酸をなめた。 

 九・一八事変は、中国の対日抵抗戦争の出発点であり、第二次世界大戦の太平洋戦争への起点となった。九・一八事変以降に、中国人民の抵抗戦争は、世界の反ファシズム戦争の初発となった。1931年の九・一八事変以降、国民党は無抵抗政策を続け、深刻な国難と救国の抗日運動が全国で展開された。国民党の指導の下、全国の学生、労働者、農民は、ストライキ、市場ストライキを行った。国民党政府に反対する請願やデモを行って、国民党政府の方針転換を要求した。




2021年9月17日金曜日

満州国にて日本陸軍監獄から集団脱獄して、再逮捕された約90人は裁判もなくチチハル市北大営草原で銃殺されて死体が並べられた。

1936年12月31日に、満州国の統治中に約150人の中国人の政治犯ががチチハル(Qiqihar)の日本陸軍監獄から集団で脱出した。刑務所から脱出した中国人を捕獲した。その場で20人の中国人の囚人を射殺した。同時に約90人を逮捕して、血なまぐさい拷問と虐待を行った。彼ら全員は、1937年1月4日に満州国のチチハル市の北大営草原で処刑された。日本軍兵士が列をなして拳銃で中国人を凄惨に撃ち殺した。日本軍は血のにじむ取り締まりを行って、逃亡者20名をその場で射殺し、さらに90名を逮捕して、1932年1月4日にチチーハルの北逓草原で全員を射殺した。処刑された中国人の脱獄者の死体を北大営草原の荒野に並べた。裁判もない厳重処分の人権無視の処刑は、満州各地で頻発した。

  1931年9月18日に、奉天市の北約8kmにある柳条溝で南満州鉄道の線路が爆破されて満州事変が勃発した。日本の関東軍は、満州の軍閥・張学良の仕業と見なし、本拠地である北戴に直ちに攻撃を開始した。9月19日には、関東軍は張学良の軍隊を撃退し、北戴を占領した。関東軍参謀グループが密かに仕組んだ。張学良は、租借権を放棄するなど、満州の日本人居住者を迫害した。反日教育から日本人への攻撃が相次ぎ、7月から9月までの間に約12件もの迫害事件が発生していた。

 満州事変の直前に、特に万宝山事件と中村事件が頻発していた。満州の万宝山村に移住した朝鮮人農民約200人以上が灌漑用の溝を作って、1931年7月1日突然に、公安が工事中止を命じた。中国軍兵士が派遣され、農民の即時撤退と首謀者の逮捕を要求した。日本領事館は、1910年の韓国併合以来、日本の臣民である朝鮮人農民を守るために、武装した警察官を派遣し、7月2日数千人の中国人暴徒を弾圧した。モンゴルへの旅行中の中村大尉と3人の従者が中国の正規軍に虐殺された。挑発事件だけでも、戦争を起こすほど深刻だった。関東軍は、頻発する反日抵抗に対して有効な対策を講じない政府への反発が誘因となった。

 1931年当時、張学良の東北軍は、近代的な兵器を装備した2約5万人の大軍であったが、わずか約1万400人の関東軍に粉砕された。関東軍は、長春、吉林など南満州の主要都市を瞬く間に占領し、11月19日には北満州のチチハルを占領した。わずか2カ月の間に、1万人強の日本軍兵力と韓国軍の援軍で、広大な満州のすべての戦略拠点を占領した。

 満州事変の勃発から9月24日に、奉天地方自治保存会(後に遼寧省地方保存会に改組)が設立された。9月27日には、ハルビン特別行政区平和保存委員会が設立された。9月28日には、遼寧省、吉林省、桃南地区が独立宣言を出した。満州各地で新国家建設の運動が活発化した。1932年2月には、「新国家建設のための全満州合同大会」が開催され、東北管理委員会が結成された。3月1日に、満州国は独立を宣言した。11月に天津から旅順に逃れた溥儀は、最高責任者に任命され、後に皇帝にもなった。

 中国共産党の公式見解では、日中戦争は満州事変(1931年)に始まり、盧溝橋事件(1937年7月)、上海戦(1937年8月~11月)、支那事変(1937年~1941年)、大東亜戦争(1941年~1945年)を経て、「日中15年戦争」とされた。満州事変は1931年9月18日に始まり、11月19日のチチハル陥落をもって、満州東北三省の占領はほぼ完了した。1932年1月3日の済州島の陥落で戦いは終わり、3月には満州国が成立した。日本と中国国民政府との間で起きた武力衝突は、満州国の成立によって事実上終結し、1933年5月31日の塘沽休戦協定の締結によって正式に終結した。その後に、盧溝橋事件までは重要な武力衝突はなかった。





2021年6月13日日曜日

熱河省の古北口にて、関東軍は戦車とともに侵攻し、周辺には殺害された国民革命軍の中国人兵士の死体が散乱した。

日本帝国陸軍である関東軍は、1933年2月18日から新たな満州国の軍事行動として熱河作戦を開始して、満州国西部の熱河省から国民革命軍を掃討する作戦に出た。熱河省の古北口にて、関東軍は戦車とともに侵攻した。その周辺には、殺害された国民革命軍の中国人兵士の死体が散乱した。4月21日から4月30日の古北口の戦いでは、関東軍は戦死者約74人と戦傷者約232人が犠牲となった。日本政府は1933年1月13日に、関東軍に万里の長城の北側の国境を越えないを越えない条件下で、作戦を容認していた。5月31日に関東軍は、満州事変による中国東北の占領を国民革命軍側に黙認させた塘沽協定を調印した。
 関東軍は、1931年9月18日の柳条湖事件の勃発から、中国東北地域の満州を侵略戦争を開始した。1932年3月1日に溥儀を満洲国執政として、関東軍が傀儡する満洲国の建国を宣言していた。関東軍は、熱河省は満洲国の一部と認識していた。しかし、熱河作戦が勃発した1933年2月初頭には、国際連盟は関東軍による新たな熱河省の軍事行動を非難する決議を用意した。国際連盟の非難勧告案により、満洲国の占領が否定されて、連盟規約により日本が国際的に経済制裁を受けるに至る。1933年2月24日に国際連盟総会で採決された勧告案は、満洲国の成立を認めず、満洲事変以降の日本の戦争責任を糾弾した。採決の結果は、賛成が42ヵ国、反対は日本のみの1ヵ国、棄権が1ヵ国(シャム、後のタイ)であった。日本の国連代表団は即時に非難勧告案を拒否して、会場から脱会して、日本政府は1933年3月27日に公式に国際連盟の脱退を決定した。国際連盟の脱退により、連盟規約に基づく経済制裁を回避するも、国際的に孤立化した。
 満州事変時の日本政府は、関東軍を賞賛しながら国威を発揚した。4月27日に帰国した国連代表団を英雄に出迎え、国際社会での孤立を光栄とした。明治時代の日本政府は国際的規範を遵守していたが、昭和初期から、国際社会での協調よりも日本の富国挙兵を優先した。関東軍による熱河省に侵攻が、国際連盟の脱退から太平洋戦争へと繫がる重大な危機へと導く危険な起点となった。

 


 

2020年12月19日土曜日

張鼓峰事件による死体を検閲する日本軍兵士は、死体からの強烈な悪臭である死臭を避けるために、ガスマスクを被った。

張鼓峰事件が、1938年7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の琿春市にある張鼓峰で、ソビエト連邦と満州国さらに朝鮮が入り乱れる国境紛争である張鼓峰事件が勃発した。実質的には日本軍とソ連軍の戦闘であり、ソ連側はこれをハサン湖事件と呼んだ。日本軍の占領地である満州国にも、ソビエト連邦軍兵士が殺害された死体が散乱した。その死体を検閲する日本軍兵士は、死体からの強烈な悪臭である死臭を避けるために、ガスマスクを被った。毒ガス戦による死体と想定されたくないので、不許可掲載となった。戦死した死体には、すぐにうじがわいた。みるみる死体は食い荒らされて白骨になっていった。白骨になると頭蓋骨に射撃された穴が表出した。
 1936年11月25日に締結された日独防共協定には秘密文書に対ソ軍事同盟を有して、日本とソ連の国境の緊張を高めた。張鼓峰は満州国領が大日本帝国朝鮮とソ連領の間に食い込んだ領域にある標高150メートルの丘陵であり、西方には豆満江が南流している。国境線に関して、張鼓峰は相互に領有を主張した。1938年7月6日からソ連軍は張鼓峰を侵攻して7月11日に占領した。満州国は7月14日、日本当局は7月15日に、ソ連に対して張鼓峰からの撤退を要求した。7月29日から8月11日まで、日本軍とソ連軍が激突した。日本軍は戦死者約525人と戦傷者約913人に達して、ソ連軍は戦死者約960人と戦傷者約2,752人に及んだ。8月11日の停戦の合意で、ソ連軍は日本軍による張鼓峰頂上を占領を確認して、協定通りに双方部隊は現境までの後退を完了した。その後にソ連軍は空白地域を再占領して、ノモハン事件の伏線となった。

 

2020年6月20日土曜日

日本警察局が満州国のチチハルで、東北抗日義勇軍の趙尚志を虐殺して、頭部の周辺だけを検死して、死体は付近に投げ捨てた。

日中戦争において、日本関東軍が占領して1932年3月1日に建国した満州国のチチハルで、日本警察局が東北抗日義勇軍の司令官である34歳の趙尚志を、1942年2月12に虐殺した。日本警察は、趙尚志の頭部の周辺だけを検死して、死体は付近に投げ捨てられた。日本秘密警察が東北抗日連軍の情報を収集して、東北抗日運動をする満州市民を迫害して弾圧した。日本秘密警官が、東北抗日義勇軍の内部に侵入して、趙尚志の所在を探った。1942年2月12日に東北抗日義勇軍が日本警察署と襲撃した。東北抗日連軍に潜伏した秘密警察に射撃されて重症を負わされた趙尚志は、日本警備隊が包囲して虐殺された。趙尚志は、農民から工業学校で革命思想に感化されて、1925年2月に共産党に入党した。1926年から2回逮捕と投獄されて、1931年9月18日に満州事変が勃発した九・一八事変で脱獄してから抗日逃走の指揮を取った。
 関東軍は、満州国の強制収容所として遼寧省の郊外で撫順戦犯管理所を1936年に設置した。主に中国人の抗日戦犯と愛国主義者などを監禁した。抗日中国人や満州住民らを討伐して、監禁して虐殺した。中国人農民を一箇所に集める郷屯合併して、監禁と虐殺して満州を弾圧した。趙尚志を虐殺した日本警察の署長であった田井久二郎は、日本人戦犯として1945年に極東シベリア地区の捕虜収容所に監禁された。1950年7月14日に中国はソ連から約969人の日本人の戦犯として引き取った。国民党の戦犯約1,300人も監禁された。遼寧省の市郊外の撫順戦犯管理所に連行して監禁した。田井久二郎は、1956年7月に日本人戦犯として懲役15年を判決されるも、わずか約1年間以内の1957年5月の満期の相当前に釈放された。日中戦争中で中国を侵略して、中国人に対する多大な虐待と虐殺を日本人戦犯は容疑された。中国では国際法に違反する犯罪行為の成立に従事した日本人は誰でも、個人の責任を負って、捕虜ではなく、戦犯として処罰された。釈放されず監禁されて生存していた日本人戦犯は1964年3月から日本国土に引き揚げられた。



2020年4月9日木曜日

満州で悲惨にも取り残された孤児らは日本本土に戻れた最初の第一夜を迎えて、両親の遺骨に対して、娘と息子が冥福を祈った。

第二次世界大戦と太平洋戦争の1945年8月15日の終戦日から、約1年4ケ月間を過ぎた1946年12月6日になって、孤児となって悲惨にも取り残された満州よりの引揚げた。孤児らは日本の本土に戻り最初の第一夜を迎えた。両親は残酷に変わり果てた満州の地で死亡して遺骨に変わり果てた。骨箱に入れられて白布で覆った両親の遺骨に対して、2人の女の子と1人の男の子供が、正座をして両手をあわせて一生懸命に冥福を祈った。それから大勢の他の孤児らと一緒に不安な眠りに就いた。
 日清戦争から日露戦争さらに日中戦争によって、広大な中国の満州を日本の関東軍が侵略した。その満州を日本人が占領するために、特に満州事変以後に、日本人が満州を占領するために、開拓移民、多数の満蒙開拓義勇軍から、一般市民、商人から在満会社の労働者と家族が満州に移り住んだ。終戦に向かうほど、関東軍などの主力は太平洋戦争の南方要員として引き抜かれた。1945年7月には、関東軍は満州の占領地域を、満州の東南部の地域に狭めた。南部は朝鮮と満州の境界、東部はソ連との国境付近の境界、西部は大連までに限局した。既に関東軍は青年男子を根こそぎに動員して、満州地方は放棄してそれ以外の在満日本人を見殺しにした。
 1945年8月9日に突如として、ソ連軍が非人道的に在満日本人を虐待と虐殺しながら満州に侵攻した。さらに日中戦争から略奪された中国人と朝鮮人の恨みから悲惨にも報復された。その恐怖と混乱の中を食料も備品もなく、徒歩で逃避行してひたすら朝鮮半島の南端を目指した。飢餓と疫病で幼い子供たちがいち早く死亡して、地獄のような虐待から虐殺に集団自決も勃発した。両親と生き別れて、満州に置き去りなった子供は、中国残留孤児として中国に取り残された。満州からの引き揚げ者の犠牲者は、ソ戦の参戦での死亡者を含めて、約24万5000人にも達した。引揚者は日本人の非戦闘員に対して、復員者は海外からの帰還した日本軍兵士を呼称した。国境を越えたソ連軍に拉致されシベリアに強制連行された在満州の日本人男子は、シベリア抑留者となり復員者の帰国は遠く離れ困難を極めた。


2019年9月30日月曜日

柳条湖事件の鉄道爆破地点の付近に、中国人を容疑とした死体が放置されていた。

柳条湖事件の鉄道爆破地点の付近に、中国人の死体が放置されていた。この事件現場の写真は、1931年9月26日に公表された。中国人が爆薬を仕掛けて、日本軍兵営方向から逃げたように倒れた向きを見せかけたとの示唆もある。しかし、9月18日午後10時20分の爆発は軽微であり、レールの一部が損壊したのみであった。長春からの列車は、損壊したレール上を問題なく通過して、瀋陽に到着していた。
 1931年9月18日午後10時20分頃に、満州の奉天(現在の瀋陽市)の北方約7.5kmの柳条湖の付近で、日本の所有する南満州鉄道の線路の一部が爆破された事件が勃発した。関東軍はこれを中国軍による犯行と公表して、満州に対する侵攻と占領の口実とした。翌日9月19日午前6時30分には、関東軍は約7,000人の中国人兵士が駐屯する北大営を占領して、約300人の中国人を殺害した。日本政府は9月5日から関東軍決行を牽制して、9月19日に不拡大方針を出した。9月24日には関東軍の自衛行為と正当化した。1932年1月には関東軍の忠烈を讃えられた。関東軍が主要都市を制圧した1932年3月に、傀儡政権である満州国を建国した。1931年9月21日に中国は抗議して国際連盟に提訴した。国際連盟はリットン調査団を柳条湖に派遣した。その報告書は関東軍の自衛を非難しつつも、強い制裁措置を取らない融和的であった。しかし日本は不満として国際連盟を脱退し、国際的孤立を巻き込まれた。柳条湖事件から1945年8月15日の終戦日まで、日中戦争は中国全土で15年間も泥沼化した。


2016年7月29日金曜日

匪賊の公開斬首

関東軍は満州における中国人の匪賊によるゲリラ反乱を鎮圧するために公開の首切り処刑をした。