1931年9月18日に勃発した満州事変は、次々に中国の満州の奥地に戦線が広がった。満州の奥地で、戦死した日本軍兵士の死体は、奥地で埋められた。冬季になると地面下2メートルまで凍る荒野となった。日本軍兵士は、悲嘆しながら担架上の戦友の死体を満州の荒野に埋めて訣別した。
1931年9月18日深夜に、奉天(現瀋陽)郊外の柳橋湖近くにあった南満州鉄道会社の線路が、満州駐留の帝国陸軍の一部である関東軍の将校によって爆破された。鉄道の所有者である日本軍は、この事件を中国の民族主義者の容疑にして、報復として満州に侵攻する契機とした。しかし、爆弾は日本軍将校が、その後の軍事行動の口実を作るために仕掛けたと推測する者もいた。数カ月という短期間のうちに、日本軍は満州の地域を制圧した。ほとんど訓練を受けていない中国軍の抵抗は少なく、日本軍は資源の豊富な満州地域の支配を強化していった。日本軍はこの地域を満州国という新したな自治国家にすると宣言した。新しい国家は実際には現地の日本軍の支配下にあった。
1932年1月14日に国際連盟の調査団が訪中して、10月2日にリットン委員会の報告書が公表された。満州における紛争の責任を中国の民族主義と日本の軍国主義に等しく帰した。報告書は、満州国の樹立は中国の領土保全に違反するとして、新国家を承認しないことを明言した。1933年3月27日に、国際連盟でリットン報告書が批准されると、日本代表団は退席して、盟約者団理事会に戻ることはなかった。日中両国は休戦協定に調印したが、その協定は日本が満州を完全に支配したままであった。