第二次世界大戦の太平洋戦争のサイパンの戦いにて、サイパン島のタナバク付近の海岸にて、日本軍兵士がアメリカ軍に対して「バンザイ突撃」をした。バンザイ攻撃に対して、アメリカ軍が日本軍兵士を殺害して全滅した。アメリカ軍は1944年7月12日に、海岸に散乱した日本軍兵士の死体の検死と死後処理をした。
日本にとり絶対国防圏の死守のためは、サイパン島は譲れない要衝だった。サイパン島はアメリカ軍の猛攻により、わずか10日で陥落した。第1次世界大戦後に日本の委任統治領となったサイパンは準国土だった。サイパン島が戦場となり、市民が戦火に巻き込まれ、サイパンをアメリカ軍の基地とするB29爆撃機による日本本土に爆撃を許した。
1944年6月11日に、サイパン島に対するアメリカ軍機動部隊の空襲が始まった。日本軍の対応は遅れて、地上部隊主力は1カ月前に配置されて、航空隊も内地部隊の転用で準備不足であった。6月15日未明にアメリカ軍の海兵隊8000人が、サイパン島のチャランカノアから上陸開始して、6月18日にアスリート飛行場を占領した。6月19日・20日のマリアナ沖海戦で、日本軍は大敗北となった。6月25日にサイパン島中央部のタポーチョ山をアメリカ軍が占拠して、日本軍はほぼ戦闘不能状態となる。
7月5日に大本営はサイパン島の全日本軍兵士に玉砕の訓辞を伝達した。7月6日に日本軍の3少将が自決した。7月7日午前3時に「星に七夕」を合言葉に、日本軍の生存兵士約3000人が最後のバンザイ突撃を試みて、ほぼ全滅した。サイパン島の最北部に逃れた市民も、多くがバンザイクリフの断崖から太平洋の海に投身し、あるいは手榴弾で自決した死者が約1000人にも達した。
7月9日にアメリカ軍総司令官がサイパン島占領を宣言した。兵力総計はアメリカ軍が12万7571人、日本軍は4万3582人であった。アメリカ軍は3,225人が戦死して、日本軍の戦死者は4万1244人、市民の死者も1万人を超え、玉砕も、実際には1062人の日本群兵士が生き残り降伏した。サイパン陥落は直後に国民に知らせずに、 9日遅れで大本営は7月18日に玉砕を発表して、東条内閣が総辞職した。