2025年2月27日木曜日

1910年10月に、台湾の高地原住民は台東庁卑南街にて敵の首を離断する「出草」により、青年の壮丁が殺害された。壮丁の死体は、体と首とを離断した。

1910年10月に、台湾の高地原住民は台東庁卑南街にて敵の首を離断する「出草」により、青年の壮丁が殺害された。壮丁の死体は、体と首とを離断した。死体の四肢には、鉄線や鋼線などで縛られていた。日本が統治者の権力をかざし無理やりに抑え込むと、生活習慣が全く異なる台湾の山地原住民が反発して紛争が勃発した。

 台湾の山地原住民は、「出草」と呼称した首狩を執行した。敵を待ち伏せて銃で射殺した。あるいは格闘して敵を討ち取った。その後に、敵の首を蛮刀で離断した。山地原住民は、離断した頭部を集めては、首棚に飾った。数多くの「出草」した山地原住民は、村落では勇敢であると尊敬された。

 1895年に、日清戦争に勝利した日本は、清より台湾を割譲された台湾の領有を開始した。清国時代の分類を基に、日本は原住民を「平埔族」と「高山族」に分類した。原住民は抗日運動のゲリラである土匪ともなった。1907年に抗日事件の北埔事件が起こり、1930年には霧社事件がそれぞれ勃発した。1935年に、秩父宮雍仁親王の要請により高山族は「高砂族(たかさごぞく)」と改称された。日本語は言語が異なる台湾の部族間の共通語として機能した。日本総督府は、蕃人と呼称される台湾原住民には、無主地論により土地収奪、警察権力により同化政策を執行した。

 彼らは台湾の総人口約2,234万人のうち約1.9%(2001年現在)を占める少数民族である。台湾社会は約2,234万人のうち原住民が約1,9%、それ以外の大多数は漢民族の構成になっている。山地原住民は、各民族独自の文化をもって農業や狩猟を主な仕事として山地で生活した。しかし、近年大多数の漢族との共存により、山地開発、資本主義導入による出稼ぎの増加や都市生活への転換等が起こり、そ生活体系や文化に変化が生じている。