2025年2月26日水曜日

ソ連赤軍はフィンランド湾に浮かぶコトリン島の要塞のクロンスタットの反乱軍に対する戦闘が繰り広げられ、白兵戦となった。3月18日朝に、島は赤軍の支配下に置かれた。

1921年3月16日から17日の夜に、5万人のソ連赤軍により3月7日に勃発したロシアの港湾都市のクロンスタットでの反乱に対する最後の攻撃が始まった。トロツキーの赤軍主力部隊が南のオラニエンバウムとペテルスブルクから突撃した。守備隊の数は1万2000人から1万4000人で、そのうち1万人は水兵で、残りは歩兵であった。赤軍はフィンランド湾に浮かぶコトリン島の要塞に近づき、戦闘が繰り広げられ、白兵戦となった。3月18日の朝までに、島は共産主義勢力の支配下に置かれた。数百人の反乱した捕虜が虐殺された。敗北した反乱軍の一部は、指導者も含め、逃亡した。

 戦艦ペトロパブロフスクと戦艦セヴァストポリの乗組員は、整備士学校、魚雷分遣隊、通信部隊の士官候補生と同様に、最後まで戦い抜いた。6,528人の反乱軍が逮捕され、うち2,168人(33%)が銃殺され、1,955人が強制労働の判決を受けて、うち1,486人が5年の刑となり、1,272人が釈放された。1935年から6年の反乱の統計調査では、逮捕者数は10,026人とされた。反乱軍の家族は国外追放となり、シベリアが唯一の適切な追放地域と見なされた。

 ソ連軍はクロンシュタットの襲撃で1万人以上の死傷者を出した。反乱軍の死者数や、チェカに射殺され収容所に送られた人数は、不詳である。反乱の敗北の直後に、4,836人のクロンシュタットの船員が逮捕され、クリミアとコーカサスに追放された。レーニンは4月19日に彼らは強制労働収容所に送られた。8000人の水兵、兵士、民間人が氷上をフィンランドに逃れた。フィンランド政府はその後に、凍った湾の上に横たわっていた数千の死体を撤去するようにソ連赤軍に要請した。