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2025年2月28日金曜日

スパルタシストの蜂起で、1919年9月3日にベルリンでドイツ政府軍とスパルタシストの間で、街頭での公共の場で戦闘が起こり、死者や負傷者や死者が路上に倒れ込んだ。

1919年9月3日に第一次世界大戦でのドイツの敗戦後に起こったスパルタシストの蜂起の際に、ベルリンでドイツ政府軍の治安部隊とスパルタシストの間で、街頭での公共の場で戦闘が起こった。通りでは銃撃により射殺されて、街路路には死体が散乱した。多数の死者を出した戦闘により、死者や負傷者や死者が路上に倒れ込んだ。  

 1919年1月、スパルタクス革命は決定的かつ暴力的な展開を見せた。ベルリンでスパルタクスの反乱が起こり、SPDとUSPDの連立政権が崩壊した後に、首都ベルリンで反乱が燃え上がった。1月5日に、スパルタクス同盟は革命的労働者と兵士らを反乱に扇動して、人民代議員会の解散を宣言した。左翼過激派の革命家たちはベルリンの出版社を占拠して、革命委員会を結成した。人民代議員会との交渉が決裂した後に、ヴァイマール共和国の国防相グスタフ・ノスケはドイツ帝国軍に反乱鎮圧を命じた。ドイツ内戦のような無慈悲な街頭戦闘が続いて、帝国軍は自らの地位を強化した。スパルタクスの反乱の暴力は敗北だけで済まなかった。政治的掃討作戦として、ヴァイマール軍隊と自由軍団は、ベルリンの労働者階級地域をくまなく捜索して、革命的労働者を見つけ出して強制収容した。

 掃討作戦後により、スパルタシストの指導者であるローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは逮捕して、尋問して、銃殺した。ドイツ全土で反乱が鎮圧された。共産党の軍事力はドイツ国内では壊滅的な打撃を受けた。左右両派の反乱や脅威にもかかわらず、エーベルト政権と後継のワイマール政権は1930年代まで続いて、ナチズムのファシストが台頭した。






2025年2月22日土曜日

イスラエル・パレスチナ戦争にて、パレスティナのガザ地区で、2024年12月15日のイスラエル軍の空爆で、アルジャジーラのジャーナリストであるアフマド・ベイカー・アルルー(右)と3人の市民防衛隊員が殺害された。

イスラエル・パレスチナ戦争にて、パレスティナのガザ地区で、2024年12月15日のイスラエル軍の空爆で、アルジャジーラのジャーナリストであるアフマド・ベイカー・アルルー(右)と3人の市民防衛隊員が殺害された。アルルーはヘルメットをかぶり、プレス用のウエストコートを着用していた。 ガザ地区のヌセイラットで12月16日に挙行された葬儀にて、弔問客が前日のイスラエルの空爆で死亡したの死体の前で祈りを捧げた。

 アルジャジーラによると、アフマド・ベイカー・アルルー(39歳)は、以前の爆発で負傷した家族の救助活動を記録している最中に殺害された。国際ジャーナリスト連盟が先週に発表した報告書によると、2024年に殺害された104人のジャーナリストとメディア関係者の半数以上がガザで死亡した。アル=アクサ殉教者病院の報告によると、同病院の現地責任者を含む3人の市民防衛隊員もこの攻撃で殺害された。ハマスが運営する政府は、ガザの主要な救助組織である民間防衛を監督している。イスラエル軍によれば、空爆は民間防衛組織の本部内にある司令部にいるイスラム聖戦とハマスのテロリストを標的にした。ガザにいるジャーナリストの同僚は、アルルーがイスラム聖戦のメンバーの容疑を非難にして反論した。

  パレスチナ保健当局は、12月16日にガザ地区の死者数を45,028人に更新した。戦争が始まって以来、106,962人が負傷して、何千もの死体が瓦礫の下に埋もれて、衛生兵が近づけない場所にあるため、本当の犠牲者数はもっと多いと警告した。同省の数字は戦闘員と民間人を区別していないが、死者の半数以上を女性と子供が占めている。何の証拠もないまま、イスラエル軍は17,000人以上のテロリストを殺害したと主張している。死者は、戦前のガザの人口230万人強の約2%であり、イスラエルとハマスとの間の紛争として最悪の人数である。













Warning: Mourners pray in front of the body of Al Jazeera journalist Ahmad Baker Al-Louh (R) and members of the Civil Defence, who were killed in an Israeli strike the day before, during their funeral in Nuseirat(AFP)


2025年2月22日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    
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2025年1月13日月曜日

1995年にロベール・デナール傭兵団を打ち破り、モハメド・ディジョール政府を復権させるために、フランス軍はアフリカのコモロ諸島に介入した。フランス側の死傷者は無く、ロコモ側が4人死亡して、9人が負傷した。

1995年にロベール・デナール傭兵団を打ち破り、モハメド・ディジョール政府を復権させるために、フランス軍はアフリカのコモロ諸島に介入した。ロコモは、アフリカ南東部の3つの島からなる群島国家である。フランス側の死傷者は無く、ロコモ側が4人死亡して、9人が負傷した。

 1995年9月28日に、デナールと傭兵がロコモでクーデターを発生した。デナールが再び、別の支援者グループを率いてコモロ軍を破り、ジョハールを追い落としてタキを大統領に据えた。前大統領のアフメド・アブラダが関与した。即座にフランス政府は、デナール傭兵団に対抗して糾弾した。デナールは直ちに警護軍部隊を結成した。コモロとの防衛協定(1978年)を背景に、フランス政府は特殊部隊にロコモ諸島の奪還を命じた。フランスは、1995年9月28日から10月3日に、400人のフランス海兵隊員と200人の特殊部隊を派遣した。

 10月3日に、フランス警察軍部隊がロコモに上陸した。直ちにロコモの傭兵部隊と警護軍部隊を侵攻した。10月4日にデナールは降伏した。10月5日に、ロコモ傭兵団を制圧して、デナールを逮捕してフランスの刑務所に強制送還した。ジョハールを復権させた。ロコモでは20回以上ものクーデターが発生した。




2024年10月30日水曜日

アフガニスタンのチャリカール近郊の空港にて、タリバンの砲撃で死亡したアフガニスタン人の死体を、北部同盟のアフガニスタン人の兵士達が砲弾の跡を取り囲み見詰めた。

アフガニスタンのチャリカール近郊の空港にて、タリバンによる砲撃で死亡したアフガニスタン人の死体を、北部同盟のアフガニスタン人の兵士達が砲弾の跡を取り囲み見詰めた。タリバンの攻撃で破壊された建物からは死傷者を運び出していた。

 アフガニスタン紛争の当時は、アフガ二スタン内情勢の報道はとても少なかった。報道写真家集団の「マグナム」のクリス・スティール=パーキンスは、1994年から国境なき医師団の活動で、アフガニスタンと関わり始めた。1994年から1998年までの約5年間に4回にわたり、当時タリバン政権下のアフガニスタンを記録した貴重な白黒の写真を残した。至近距離でアフガニスタンの日常を見詰めた写真は稀少である。マグナムは、約50年以上にわたり歴史に残る戦場写真を提供し続けた。しかしその50年間で一度も、戦争の勃発を無なくならなかった。

 荒廃したアフガニスタンの国土を戦車や兵士が行き来した。死者と負傷者が、あちこちに溢れた。紛争の緊張のなかで、瓦礫の日常の光景を丹念に象徴した。平和とは何か、世界から孤立すると何かを、問いかける写真である。2007年から2021年の間に推定7万3000人のアフガン軍と警察官が死亡して、数万人のタリバン戦闘員も死亡した。アフガニスタン内戦で約4万7000人の民間アフガニスタン人が死亡し、

 アフガニスタンのタリバンは1990年代初頭に設立されたスンニ派イスラム民族主義者で親パシュトゥーン勢力である。1979年にアフガニスタンに侵攻したソ連軍が、支援した政府が1992年に崩壊した。その後に、タリバンが1996年から2001年10月までアフガニスタンの大部分を支配した。タリバンが政権を取ってから,市民は見捨てられ、冷たい路上に放り出され,物乞いするか,ゴミを漁るか,あるいは死んでいった。孤児院では,就労禁止を拒否され、女性達はタリバン兵に虐待された。2001年9月11日の同時多発テロ後に、アメリカ軍は2001年10月にはテロ組織であるアルカイダを支援するタリバンを撃墜した。しかしその後に、タリバンは2021年8月にアフガ二スタンでの政権を奪還した。
















2024年10月30日  
Japan No War  (JNW)
日本平和市民連盟  
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2024年10月8日火曜日

第4次中東戦争にて1973年にイスラエル軍に対抗するパレスチナ人テロリストは、ゴラン高原を越えてイスラエル軍に持ち込んだ爆発物が誤って爆発した際に死亡した。

第4次中東戦争にて1973年にイスラエル軍に対抗するパレスチナ人テロリストは、ゴラン高原を越えてイスラエル軍に持ち込んだ爆発物が誤って爆発した際に死亡した。砂漠上にパレスチナ人の死体が散乱した。1972年の夏に、パレスチナ人のテロリストがミュンヘン・オリンピックに潜入して、11人のイスラエル人選手を殺害した。パレスチナのテロリスト集団が中東以外のイスラエルを標的とした大規模で注目度の高い攻撃力を示した。1970年代から80年代に、1974年のマアロット学校襲撃事件、1978年の海岸道路虐殺事件、1985年のアキレ・ラウロ号ハイジャック事件などが勃発した。

 第4次中東戦争は、ユダヤ教で最も神聖な日であるヨム・キプール(贖罪の日)に1973年10月6日に、イスラエル軍に対して、エジプトとシリアが率いたアラブ諸国連合が奇襲した。イスラエル軍は、1973年10月10日までに北部のシリア軍を撃退し、シナイ半島に駐留するエジプト軍を食い止めた。スエズ運河の橋やシリア・エジプト軍を攻撃する際には、ソ連製ミサイルには脆弱性があったが、イスラエル軍の戦闘機は、当時はエジプト軍とシリア軍の空軍を自由に攻撃できた。シリア軍に対して強力な反攻が開始されて、シリア軍の防衛線は押し戻された。シリアの後援者であるソ連が参戦する懸念があったために、シリアの首都ダマスカスへの脅威は回避された。

 シリア軍の戦力を減弱化したイスラエル軍は、次にスエズ戦線に向けて全力を傾けた。エジプト軍の戦車部隊は東進し、特にミトラ峠を確保しようとした。イスラエル軍の戦車と戦闘機による大規模な戦車戦でエジプト軍は撃退された。この勝利は、普段は意見が一致しないイスラエル軍の将軍たちを勇気づけ、決定的な反撃を開始させた。その狙いは、ビター湖の地域でスエズ運河を渡り、状況を一変させることだった。いくつかの困難にもかかわらず、スエズ運河の東側で予想外に強力なエジプト軍の抵抗に遭遇したが、橋頭堡を確保し、徐々に拡大していった。その結果、エジプト第3軍はほぼ孤立状態となった。エジプトが全面的な敗北に直面したことを理解したソ連代表団は、アメリカとソ連の支援を受けて、国連安全保障理事会は1973年10月24日に停戦を決定した。

 アラブ諸国は、1973年10月の初期の成功によって正当性を感じた。一方イスラエルは、第4次中東戦争の成果にも関わらず、将来のイスラエル軍による支配の不確実性を認識した。第4次中東戦争の影響からイスラエルとパレスチナの和平プロセスに貢献した。イスラエルがシナイ半島をエジプトに返還した1978年のキャンプ・デービッド合意にから、アラブ諸国として初めてイスラエルを承認したエジプト・イスラエル和平条約につながった。




 

2024年10月5日土曜日

イスラエル軍がレバノン南部のエイン・デルブを2024年9月末に空爆した。その週末に多数の死傷者が出て、女性が2024年10月1日に開かれた集団葬儀で慟哭して嘆き悲しんだ。

イスラエル軍がレバノン南部のエイン・デルブを2024年9月末に空爆した。その週末に多数の死者が出たことを受け、女性が2024年10月1日に開かれた集団葬儀で嘆き悲しんだ。レバノン省庁は、9月29日のイスラエルに軍よるアインデレブ攻撃により、死者数が45人に達したと公表した。

 イスラエル軍は2024年10月1日から、国境を越えてレバノン南部に侵攻して、イランに支援されたイスラムシーア派過激派組織ヒズボラに対する地上攻撃を行った。ヒズボラ軍をイスラエル国境から遠ざけることを目的とした。まず、イスラエル国防軍は、レバノン南部のヒズボラ・テロリストの標的とインフラに対する地上空襲を開始した。イランの支援を受けたレバノンの民兵組織で政党であるヒズボラは、2023年10月7日のテロ攻撃以来にイスラエルと戦争状態にあるハマスを支援するため、10月8日にイスラエルへの発砲を開始した。

 イスラエルとレバノンの紛争の歴史は、1978年3月11日に、リタニ作戦でイスラエル軍は、テルアビブ近郊の民間バスを襲撃して35人を殺害、71人を負傷させたパレスチナ解放機構(PLO)の過激派を追ってレバノンに突入した。イスラエル軍兵士はレバノン南部でおよそ1週間を費やし、PLOをレバノンのリタニ川の北に追い出した。1982年に、イスラエル軍はレバノン南部に侵攻し、レバノンを拠点とするPLOを再び追い出した。戦争で派生したヒズボラは1997年以来、アメリカが指定したテロリストで、イランから資金援助を受け、イランの最高指導者ハメネイ師に忠誠を誓った。シーア派民兵組織は1980年代初頭にイスラエル軍に抵抗する目的で結成された。イスラエルは2000年にレバノン南部から撤退して、ヒズボラは人気を博した。2006年8月、両国の間で1ヶ月に及ぶ戦争が行われ、空爆と地上攻撃の両方が勃発した。34日間の紛争で、レバノンでは約1,200人、イスラエルでは43人が死亡した。その後17年間、両国はは国連安全保障理事会決議1701に従い、国境線での敵対行為を最小限に抑えた。















Warning: A woman mourns during a funeral Tuesday for people killed over the weekend in Israeli strikes on Ain Deleb in southern Lebanon. (Amr Abdallah Dalsh / Reuters)

2024年10月3日木曜日

ローデシアのソールズベリーにて、モザンビークとの国境に近いイニャンガ山脈で活動する民族主義ゲリラは、27人の茶園労働者を1976年12月19日遅くに一網打尽に銃殺した。27人の妻や家族は、親族の亡骸を見詰めた。

アフリカのローデシア戦争におけるテロリストの標的の一つは、白人が所有する農園で働くアフリカ人労働者であった。アフリカ人労働者は裏切り者とみなされて、1976年にはモザンビーク国境近くの紅茶農園で、27人の労働者が一斉に捕らえられて、銃殺された。アフリカ人労働者の家族らは恐怖に震えて見詰めた。ローデシアのソールズベリーにて、モザンビークとの国境に近いイニャンガ山脈で活動する民族主義ゲリラは、27人の茶園労働者を1976年12月19日遅くに一網打尽に銃殺した。無残にも銃殺された27人の妻や家族は、親族の亡骸を見詰めた。ローデシア治安部隊によると、民族主義ゲリラが茶園労働者を別の茶園に連れて行って、そこで殺害した。

 ローデシア・ブッシュ戦争(Rhodesian Bush War)は、1964年7月から1979年12月にかけて、国連の未承認国であるローデシアで起こった内戦である。この内戦では3つの勢力が対立する紛争が勃発した。イアン・スミスが率いるローデシア政府軍、ロバート・ムガベ率いるジンバブエ・アフリカ民族同盟の軍部であるジンバブエ・アフリカ民族解放軍、ジョシュア・ンコモのジンバブエ・アフリカ人民連合のジンバブエ人民革命軍と、3つの勢力が互いに対立して紛争した。この内戦とそれに続く1978年にスミスとムゾレワが調印した内部和解により、1979年6月に普通選挙が実施されて、ローデシアにおける少数派の白人支配は終わりを告げた。黒人多数派政府の下でジンバブエ・ローデシアと改名された。しかし、この新秩序は国際的な承認を得ることができず、内戦は継続した。

 1979年12月、ジンバブエ・ローデシア政府、イギリス政府、ムガベとンコモの統一「愛国戦線」の交渉がロンドンのランカスター・ハウスで行われ、ランカスター・ハウス協定が調印された。一時的にイギリスの支配下に戻り、1980年3月にイギリスと英連邦の監督の下で新たな選挙が行われた。この選挙でジンバブエ・アフリカ民族解放軍(ZANU)が勝利し、ムガベは1980年4月18日にジンバブエの初代首相となり、国際的に承認され独立を達成した。ローデシア政府の統計によると、1964年から1982年の間に、ローデシア軍兵士2,000人以上、ゲリラ15,000人以上、黒人市民10,590人、白人市民1,247人を含む、合計20,000人から30,000人が殺害された。




2024年9月26日木曜日

朝鮮半島の慶尚北道の安東地方の検察庁前の掲示板に、みせしめの首を切断された義兵の写真と義兵に対する懸賞金が掲示された。警察分遣所に、義兵の「指名手配」写真と罪名を書いた指名手配者名簿を掲げた。

朝鮮半島の慶尚北道の安東地方の検察庁前の掲示板に、みせしめの首を切断された義兵の写真と義兵に対する懸賞金が掲示された。警察分遣所に、義兵の「指名手配」写真と罪名を書いた指名手配者名簿を掲げた。義兵は、正義の兵士または義のために立ち上がった兵士を示唆した。

 1910年8月29日に韓国併合条約が発効されて、日本は景福宮に日章旗を掲げ、朝鮮半島の日韓併合による国権奪取を象徴した。義兵は、自発的に痛ましい朝鮮民族の苦難を阻止して、滅びゆく朝鮮国に身を捧げた。第1次抗日義兵は、1895年の乙未事変で、日本軍が景福宮に侵入して明成皇后を暗殺した直後に、魏正斥邪派の柳仁錫の指揮下で全国の義兵抗争が1896年まで勃発した。1894年高宗の甲午改革後に、金弘集の親日内閣が発足すると、義兵が発足した。

 第2次抗日義兵は、1905年の乙巳保護条約後に、元參判閔宗植の指揮の下、江原道洪川で1906年3月16日に義兵は起兵した。日本軍と警察に対する義兵闘争を皮切りに全国で野火のように義兵抗争が展開された。京釜線鉄道が開通した2日後の1905年1月3日に、日本軍は鉄道破壊陰謀という濡れ衣を着せ、義兵を公開処刑した。1906年5月に、全国的に広がった義兵闘争を鎮圧するために、日本軍は全国12ヵ所に警務分遣所を設置した。日本軍と警察は、朝鮮半島各地で義兵を捕まえると、裁判もなく、無差別に現場で首を吊って公開処刑を行った。 

 義兵の下層部の一般義兵は、同族、洞契の遊生、家奴、農地で結ばれた農民、同じ村や近隣の村民が一般義兵を構成した。敗残兵と官軍兵士、避難民の浮浪者が加わった。官軍に所属する義兵は戦場を転戦して、一般義兵は郷里の防衛にとどまった。郷土防衛を主な目的として、居住地を中心にその周辺地域で活動した。装備の普及も官軍に比べて劣化した。民間人の義兵に武器を与えて暴徒化すると手に負えないので、武器の補給はさらに困難であった。




2024年9月10日火曜日

1991年12月5日に、トーゴの首都ロメの死体安置所に、軍事クーデター未遂事件の犠牲者が横たわった。12月3日にトーゴ軍が官邸を襲撃して、首相を拘束した。

1991年12月5日に、トーゴの首都ロメの死体安置所に、軍事クーデター未遂事件の犠牲者が横たわった。1991年11月にトーゴ共和国最高評議会(HCR)がエヤマデ大統領の政党(RPT)の解散を決議した後に、12月3日にトーゴ軍が官邸を襲撃して、首相を拘束した。エアマデは1967年から2005年死亡するまでアフリカ史上最長の大統領となった。

 エヤデマに忠誠を誓ったトーゴ軍は、政府が給与の支払いを怠ったため、10月1日にロメの国営放送を占領した。トーゴ軍はHCRの辞任を要求したが、エヤデマにより兵営に戻るよう命じられた。この騒乱で約5人ほどが死亡した。その1週間後に、今度はエヤデマの異母弟の指揮下にあった大統領警護隊が、首相兼HCR代表のジョセフ・コクー・コフィゴーを逮捕しようとした。逮捕はさらなる死者を出し、エヤデマの異母弟と他の数名の将校を逮捕する結果となった。

 委員会が新憲法を起草して、エヤデマとコフィゴーの支持者の間の抗争は、1991年秋まで続いた。1991年11月にはトーゴ軍が出動して抗議活動を鎮圧した。首都ロメには、夜間外出禁止令を出した。暴力の発生は1992年の初めまで続いた。1992年5月上旬、オリンピオ暗殺未遂事件は、トーゴ軍の仕業とされ、首都ロメでは2日間のゼネストが勃発した。騒乱が続いたため、1992年から1993年にかけて、選挙が実施されなかった。1992年3月、エヤデマが居住したロメの軍事キャンプが襲撃されて、オリンピオ支持者の犯行とされた。1992年4月、6月の大統領選挙が発表されたが、1992年5月に政府側と野党側の標的を狙った爆弾テロが相次いで、選挙は延期された。新たな選挙は1994年1月に予定されたが、エヤデマの軍事基地が再び武力攻撃されて、オリンピオとガーナ政府の責任とされて、選挙は1月まで延期された。

 選挙の結果、野党連合が勝利した。国を悩ます政治的暴力の解決には至らなかった。10月には、国の主要産業を管理する政府機関であるトーゴのリン鉱石局が襲撃された。野党連合がエヤデマ党への離反によって崩壊した後に、動揺が続き、トーゴの民主主義への移行に支障をきたした。1997年5月に首都で約10万人の野党支持者による集会が開かれ、エヤデマは政治システムの操作を非難された。抗議行動の平和的な性質と、トーゴ軍がそれを許したという事実は、トーゴが実行可能な民主主義国家として成熟しつつあるも、政治的・民族的な問題は多く残った。




2024年8月28日水曜日

1947年にインドのイギリスの植民地支配からの解放により、ヒンズー教徒とイスラム教徒の間の野放図な憎しみが血なまぐさい衝突を引き起こし、両者の死体が散乱した。

1947年にインドのイギリスの植民地支配からの解放により、ヒンズー教徒とイスラム教徒の間の野放図な憎しみが血なまぐさい衝突による犠牲者を引き起こした。道ばたに両者の死体が、散乱した。インドとパキスタンの分離独立時には、いたるところで流血の紛争が勃発した。

 1947年に、インド・パキスタン分割条約の調印により、1858年からのイギリス領植民地のインドは解体されて、8月16日にインド連邦と8月15日にパキスタン自治領がそれぞれ成立した。インド独立後のインド会議派は、世俗主義国家の樹立という政策を選択して、憲法に信教の自由、宗教差別の禁止、宗教教育の自由に関する多くの条項を明文化した。一方で、パキスタンは、イスラム教の国教化を宣言した。しかし、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が終わったわけではなく、むしろ新たな苦しみと犠牲の連鎖が始まった。数百万人のイスラム教徒が西パキスタンと東パキスタン(現在バングラデシュ)に向かい、数百万人のヒンドゥー教徒とシーク教徒が反対方向に向かった。インドの西パキスタンと東パキスタンの国境に接するパンジャブ州とベンガル州では、虐殺、放火、改宗の強要、集団拉致、野蛮な性的暴力が特に激しかった。

 インドとパキスタンの分割当時は、現在のパキスタンにはイスラム教徒が、インドにはヒンドゥー教徒が多数派を占めていた。実は両国では数千年前から混血現象が続いていた。突然の分割は、インドからの人々の未曾有の移住と難民を引き起こした。分割計画が性急に発表され、独立の日になって初めて両国の国境が発表された。多数の人々がやみくもに走って難民となり、この間にヒンズー教徒とイスラム教徒の無数の衝突、暴動、虐殺、復讐が起った。50万人以上が巻き込まれて命を落とし、1200万人以上が家を追われた。現代のインドにヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間に癒しがたい溝を作った。何百万人ものインド人が尊敬する独立運動の指導者マハトマ・ガンジーでさえ、この流血のさなか、両者の調和的共存を唱えたというだけで、過激なヒンドゥー民族主義過激派によって1948年1月30日に暗殺された。




2024年8月22日木曜日

1921年5月21日のアイルランド共和国軍はダブリンで税関庁舎を焼き討ちした。17歳のダン・ヘッドが鉄橋の柱の陰に隠れ、イギリス王室軍の車両に手榴弾を投げた。ダブリンの波止場でイギリス王室軍に射殺された。

1921年5月21日のアイルランド共和国軍(IRA: Irish Republican Army)のダブリンで税関庁舎を焼き討ちした。ベレスフォード・プレイスでは、IRA志願兵の若干17歳のダン・ヘッド(Dan Head)が鉄橋の柱の陰に隠れていた。彼は攻撃の好機として、イギリス王室軍の車両に手榴弾を投げつけて、死傷者を出した。その後に、ダンヘッドはダブリンの波止場でイギリス王室軍に射殺された。

 1921年5月25日に、アイルランドにて約300人のIRA共和国軍が、ダブリンでイギリス行政の象徴である税関庁舎を焼き討った。イギリス王室具は装甲車を伴って、IRA共和国軍が占拠していたダブリン税関に接近した。イギリス王室具は激しい銃撃の中、税関を取り囲んだ。補助隊と装甲車の機関銃からの砲火が税関の窓に浴びせられた。IRA共和国軍は激しく応戦し、イギリス王室軍と絶望的な戦闘が繰り返された。税関庁舎の建物から出てきた最初の一団は3人で、うち1人が死亡、2人が負傷した。

 税関庁舎が炎上する中、IRA共和国軍は建物から撤退し、貨物車、装甲車、徒歩のイギリス王室軍と銃撃戦を繰り広げた。5人の義勇兵のうちの1人が死亡した。その他の者は、パディ・オライリー大尉、その弟のスティーヴン・オライリー中尉、トミー・ドリンズ義勇兵、シアン・ドイル義勇兵であった。銃撃戦では4人の市民も死亡した。IRA志願兵の約80人が逮捕された。

 ダン・ヘッドは未熟なIRA志願兵で、秘密のパレードや訓練だけだった。その一人、ダン・ヘッドは、北部インナーシティのバリーボーに住む17歳の失業中の少年だった。イギリス王室軍を見るなり、ダン・ヘッドは手榴弾を作り出し、に投げつけた。両側から四方八方に銃声が響く中、ダン・ヘッドはアビー・ストリートを駆け下った。ダン・ヘッドは銃殺された。1781年に設計した税関庁舎の建物は、5日間燃え続けた。武力衝突は1921年7月11日に終結し、同年12月に英アイルランド条約を結ぶ交渉が開始された。




2024年8月1日木曜日

2004年にネパールのバビア村に隣接する芋畑への灌水をめぐって、23歳の男性が、近所の人と争った末に殺害された。水不足は、地域や地方レベルでの紛争を引き起こした。

2004年にネパールのバビア村に隣接する芋畑への灌水をめぐって、23歳の男性が、近所の人と争った末に殺害された。水をめぐる紛争が将来の戦争の原因となることが懸念された。 水不足は、地域や地方レベルでの紛争を引き起こした。水は人間の生活に不可欠な要素であり、人間の活動は水の利用可能性と水質と密接に関係した。

 水に関する紛争のほとんどは、淡水をめぐって起こる。 水資源は人間の基本的な欲求に必要であるも、希少、汚染、利用者間の水配分が不十分である。水不足は、飲料水、灌漑、発電やその他のニーズ競争のため、水紛争を悪化させる。淡水は重要であるも、偏在した天然資源であり、利用可能性が、生活や経済状況に影響を与える。中東地域では、費用対効果の高い水供給がないので、水危機の他の要素の中で、水利用者に厳しい圧力をかけ、緊張や侵略につながる可能性がある。解決されない水紛争は増加し、大部分は国家レベルで、水がより不足し、気候変動が地域の水資源を変化させ、世界人口が増加すると、紛争はより危険となる。

 水紛争は、歴史上で世界で1634紛争が勃発して、その内で2004年のみを抜粋した。1)2004年に、中国、警察がダム抗議者を殺害した。中国四川省の大渡河に建設される普溝ダムに反対する数万人の農民が座り込みを行う。 暴動鎮圧のため機動隊が出動し、1人が死亡。 目撃者によると、多数の住民が死亡したとのこと。2)2004年に、コートジボワール、水不足をめぐる刑務所での暴動が勃発した。コートジボワールのアビジャンにある主要刑務所で水不足による暴動が発生。3)2004年に、コンゴ民主共和国の停電と水不足で学生が暴動。コンゴ民主共和国の停電と水不足で学生が暴動 4)2004年に、インドで警察が水の抗議者を殺害した。パキスタンと国境を接するスリ・ガンガナガル県で、インディラ・ガンディー灌漑用水路の水の配分をめぐる農民の抗議行動が続き、10月に4人が死亡、11月には30人以上が負傷。 当局はガルサナ、ラオラ、アヌープガルの町に夜間外出禁止令を発令した。5)2004年に、インドでテロリストが水道管を爆破した。アナントナグ県カナバル地区での「対反乱作戦」中、地下水道管に仕掛けられた簡易爆弾により、インド治安部隊12人が死亡。6)2004年に、イラクのキルクークで上下水道局員4人が誘拐される。イラクのキルクークで、市の上下水道局に雇われていた技術者3人と請負業者1人が誘拐された。 誘拐の詳細な結果については報告されていない。7)2004年に、イラクのモスルで水プロジェクトに従事していた宣教師が襲撃される。イラクのモスルで給水プロジェクトに従事していた米国からのキリスト教宣教師4人が襲撃され、4人が死亡、他の1人が重傷を負う。8)2004年に、土地と水の紛争で民兵が村を襲撃。ボラン族の民兵がエチオピア国境近くのガブラ村を襲撃。 この攻撃は、土地と水をめぐる長期にわたる紛争に関連している。9)2004年に、公共水道の警備員が作業中に銃撃される。コソボ、コソフスカ・ミトロビツァの公共給水ポンプ場の警備員に向けて銃弾が発射された。 当局はアルバニア過激派による攻撃と非難している。10)2004年に、メキシコの農民、春をめぐる決闘で撃たれる。メキシコの2人の農民が、ピワモという町の近くにある小さなトウモロコシ畑の灌漑に使われる小さな泉の水利権をめぐって何年も争っていた。 そして3月、この2人の農民は互いに撃ち殺す。11)2004年に、サハラ以南のアフリカで、学生たちが水不足に抗議。13)2004年に、ダム工事中の中国人技術者が誘拐され、1人が死亡した。パキスタンのワジリスタンでダムと運河の建設に携わっていた中国人技師2人が、パキスタン人仲間6人の解放を求めてパキスタンの武装勢力に誘拐された。 救出作戦の最中、2人のうち1人は射殺され、もう1人は無事救出された。14)2004年に、パキスタン、テロリストの水を狙う。アルカイダやウズベキスタン・イスラム運動などのイスラム・テロリストを狙った軍事行動により、パキスタンで家屋や学校、井戸が損壊・破壊される。15)2004年に、米国、ガザでの水事業を中止。米国は、2003年10月に発生した米国外交団襲撃事件の犯人逮捕に失敗したパレスチナ自治政府への懲罰として、2つの水開発プロジェクトを中止する。16)2004年に、南アフリカのプリペイド式水道メーター設置問題でデモ隊が道路を封鎖。ソウェト電力危機委員会のメンバーが、各家庭にプリペイド式水道メーターが設置されたことに抗議し、市内の道路を封鎖。 警察はスタンガンで鎮圧。17)2004年に、スーダンで反政府勢力が地元水道会社の事務所を破壊。スーダンで反政府勢力が家屋数棟と地元警察、水道局の事務所を破壊。18)2004年にスーダンで民兵が井戸を破壊。スーダンのジェベル・マラ地域で、ジャンジャウィード民兵が井戸を破壊し、食料と種子を燃やしている。 彼らはまた、いくつかの井戸に死体を投げ込んだと言われている。19)2004年に、ソマリアの水井戸をめぐりムルサドとドゥドゥブルのサブクランが衝突。ムルサデ氏族とドゥドゥブル氏族が井戸をめぐって衝突し、23人が死亡。 これとは別に、ヘラアレの水と放牧地の支配権をめぐってディール氏族とマレハン氏族が争い、10月に死者が出ている。20)2004年に、コートジボワール北部で政府が電気と水の供給を停止。11月4日、軍は「威厳作戦」を決行し、反対勢力の拠点であり北部最大の都市であるブアケを奇襲攻撃、1年半の停戦を打ち砕いた。 政府は攻撃の前日に北部への電気と水の供給を停止。 約1週間は停止されたままである。21)2004年に、コートジボワールで水不足をめぐる暴動が発生、囚人が死亡。11月初旬、コートジボワールのアビジャンの主要刑務所であるLa Maison d'arrêt et de correction d'Abidjan(MACA)で、囚人が殺害される事件が2件発生した。 最初の事件は長期の水不足に端を発し、囚人たちはわずかな飲料水の配給を除いて5日間水を飲まなかったとされる。 この暴動で少なくとも7人の囚人が死亡、30人が負傷した。 国連の人権担当者は、暴動について調査中であり、最終的な死者数は言えないと述べた。



2024年7月5日金曜日

1921年の中国北部の深刻な干ばつによって、数万人の子供が餓死した。農民の子供たちが、道端で餓死して、死体が散乱した。途中で餓死した者は、誰も埋葬されなかった。死体は荒野にさらされていた。

1921年の中国北部の深刻な干ばつによって、数万人の子供が餓死した。農民の子供たちが、道端で餓死して、死体が散乱した。村や町の人影もまばらで、朽ち果てた状態の家屋が立ち並んでいた。飢饉から逃れてきた難民は最低限の生活を維持することもできず、逃げ回った。高齢者、病人、障害者、子供たちの生命はさらに不安定となった。統計によると、1921年5月中旬までに12,377人の子供が餓死した。人身売買された人の数は約5,057人であった。その料金は安く、子供1人につき最低1元から最高50元であった。

 1921年5月中旬までに、張作霖による中国東北部3省を統合して豊かにする政策を是正する武装政策の結果として、子供たちらが餓死した。1921年5月19日付の『宣言』によると、1921年の春以降に、干ばつが続いた結果、中国北部の飢饉が深刻化した。唐山、内連など5県の飢饉は特に深刻となり、子供が1元で人身売買された。どこに行っても、行く先々で木の樹皮を剥がされて、きれいに食べられた。途中で餓死した者は、誰も埋葬されなかった。死体は荒野にさらされていた。野原では、収穫物は枯れ果て、緑の跡形もなかった。

 1920年から華北地方で発生した干ばつにより、被災者約2000万人、犠牲者約50万人の華北大飢饉が勃発した。広大な地域の農村が大飢饉に陥った。中国が政治的に統一されず、地方に軍事政権が介在していた。北京政府内部では、1920年7月14日から7月19日に大飢饉の被災地を舞台として、直皖戦争が勃発した。他方で広東軍政府も分裂していた。中国の北京政府の主導権を巡って、華北地方で安徽派の段祺瑞と直隷派の曹錕が戦った。直皖戦争で安徽派は大敗して、段祺瑞の政権は崩壊した。直隷派(曹錕)と奉天派(張作霖)が、結局政権の主導権で内部対立して、1922年4月の第一次奉直戦争で、直隷派が奉天派を破って直隷派の単独政権を樹立した。1924年9月15日の第二次奉直戦争で、張作霖は北洋政府を掌握した。1928年6月4日に、日本の関東軍が満州を支配するために張作霖爆破事件で暗殺した。




2024年6月6日木曜日

1965年1月22日に仏教徒がアメリカ大使館に向けて抗議デモを強行した。ベトナム政府の警官と特殊部隊はアメリカ大使館を取り囲んで、仏教徒のデモ隊に射撃して、デモ隊は大混乱して、多数の逮捕者と死傷者が出た。

ベトナムの仏教徒蜂起により、仏教徒を弾圧するベトナム共和国政府のチャン・バン・フォン首相の内閣をアメリカ政府が支持するのをやめろと訴えるために、1965年1月22日に仏教徒がアメリカ大使館に向けて抗議デモを強行した。ベトナム政府の警官と特殊部隊はアメリカ大使館を取り囲んで、仏教徒のデモ隊に射撃して、デモ隊は大混乱して、多数の逮捕者と死傷者が出た。1965年1月に、フォンはアメリカからの援助金と装備品を使って軍事費を拡大し、徴兵条件を拡大して軍隊の規模を拡大した。

  仏教徒危機により、1963年5月から11月にかけて、南ベトナム政府による一連の仏教徒に対する弾圧行為に対して、主に仏教僧が主導した市民抵抗運動が勃発した。1963年6月11日に、僧侶のクァン・ドゥックが、南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権の仏教徒の迫害に抗議して、カンボジア大使館前で焼身自殺した。僧侶の焼身自殺が世界報道写真賞となり、ゴ・ディン・ジェムの暗殺の起点となった。

 南ベトナムのゴ・ディン・ジェム初代大統領が1963年11月2日に暗殺された後に、南ベトナムは1年半の間に、複数のクーデターやその他の反乱の失敗が多発して、持続的で深刻な不安定期が継続した。上級将校間の個人的な対立とは別に、内紛は宗教的な圧力運動間の対立によってもかき立てられた。仏教徒は、ゴ・ディン・ジェム政権の親カトリック政策の撤廃を働きかけた。カトリックに改宗するゴ・ディン・ジェムの政策を精力的に実行して急速に出世した将校たちも親カトリック政策の撤廃を求めた。一方で、ゴ・ディン・ジェムの暗殺後に、特権が後退させられたカトリック教徒は、グエン・カーン将軍の政権が、仏教徒のために自分たちを迫害していると非難した。この時期には宗教暴動が勃発することもあった。




2024年5月30日木曜日

バルカン戦争のクロアチア・セルビア内戦において、クロアチア軍兵士によるヴォイノヴィッチの兵舎への攻撃の際に、連邦軍のセルビア人兵士が殺害された。

バルカン戦争のクロアチア・セルビア内戦において、クロアチア軍兵士によるヴォイノヴィッチの兵舎への攻撃が成果を収めた。その攻撃の際に、連邦軍のセルビア人兵士が殺害された。その死体が路上に放置された。1992年に、クロアチアがクロアチア、スロベニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナからなるユーゴスラビア連邦から分離独立した後に、ミロシェヴィッチセルビア大統領は、残る2つの国家であるセルビアとモンテネグロからなる新ユーゴスラビア連邦を宣言した。

 クロアチア独立戦争は、1991年から1995年にかけて、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRY)からの独立を宣言したクロアチア政府に忠誠を誓うクロアチア軍と、セルビア人支配下のユーゴスラビア人民軍(JNA)と現地のセルビア人勢力との間で戦われた武力紛争であり、JNAは1992年までにクロアチアでの戦闘活動を終結させた。

 クロアチアは、1980年代末の東欧諸国の民主改革が進む中、1990年4月、戦後初めての複数政党制による選挙が実施された。共産主義者同盟の政権が敗退し、民族主義的傾向の強いクロアチア民主同盟(HDZ)が圧勝して政権の座についた。新政権設立後に、1990年12月に民族主義的性格の濃い新憲法が採択されて、ユーゴスラビア連邦から離反の動きは加速した。1991年5月、独立を問う住民投票で94%が旧ユーゴからの独立を支持して、議会は独立宣言を採択した。セルビア人は住民投票をボイコットした。これを起点にクロアチア人勢力とセルビア人勢力との間で戦闘となった。1992年1月に一旦停戦合意が成立し、国連保護軍が展開した。欧州諸国を皮切りに各国がクロアチアの国家承認を行った。但し、同停戦合意は守られず、その後も多数の停戦合意がなされたが、戦闘は1996年初頭まで継続した。1995年、クロアチアはセルビア勢力より国土の一部を奪還して、残された東スラボニア(クロアチア北東部)では1996年から国連暫定統治機構による統治が行われたが、1998年1月に撤退したことにより、クロアチアは全領土に主権を回復した。

 ボスニア・ヘルツェゴビナでは、1992年4月、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)からの独立を巡ってムスリム系、クロアチア系、セルビア系住民の間で大規模な紛争が勃発した。各民族がボスニア全土で覇権を争って戦闘を繰り広げ、その結果死者20万、難民・避難民220万と言われる戦後の欧州で最悪の紛争となった。その後、1995年12月、デイトン和平合意の成立により戦闘は終息し、ボスニアはムスリム系、クロアチア系住民を主体とする「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」、セルビア系住民を主体とする「スルプスカ共和国」という2つのエンティティから構成される一つの国家となった。上級代表事務所(OHR)、NATO中心の多国籍部隊SFORが民生面及び軍事面での和平履行を担った。




2024年5月4日土曜日

ロシア・ポーランド戦争にて、ウクライナの首都キエフに侵攻するポーランド軍は、1920年4月7日にボリシェヴィキのロシア軍を攻撃して、ポーランド北東部のベイ・グロドノでロシア軍兵士を殺害して、戦死したロシア軍兵士の死体が戦場に横たわった。

ロシア・ポーランド戦争にて、ウクライナの首都キエフに向けて侵攻するピウスツキのポーランド軍は、1920年4月7日にボリシェヴィキのロシア軍を攻撃した。ポーランド軍が反撃中にポーランド北東部のベイ・グロドノでロシア軍兵士が殺害された。戦死したロシア軍兵士の死体が戦場に横たわった。

 ヨゼフ・ピウスツキ(1867-1935)によって、ロシア軍を追放するためにポーランド軍団がガリシアに設立された。ピウスツキのポーランド軍団は、ロシアの支配から祖国ポーランドを解放するために、ドイツ軍とオーストリア軍に対して武器を取った。ピウスツキのポーランド軍団はガリシア作戦の最前線に立ち、戦闘ではロシア地域に最初に侵入した。

 第一次世界大戦後のブレスト=リトフスク条約後に、ロシア軍からポーランドは解放された。ヴェルサイユ会議の条件に従って、ポーランドは単一政府を樹立した。ポーランド共和国の初代大統領はヨゼフ・ピウスツキとなった。ピウスツキは長年に抑圧されたロシア(現ソ連)との国境を越えて、ポーランドの反撃は1919年2月9日から始まり、広大な領土を軍事占領した。

 ピウスツキは、ポーランドとソ連の間に2つの緩衝国として、ミンスクを首都とする白ロシアと、キエフを首都とするウクライナを想定した。1920年4月7日に、ポーランド軍はアタマン・ペトリュラ率いる独立コサック軍を支援しながら、ウクライナの首都キエフに進軍して、同市を征服した。その後にキエフは、ソ連赤軍のブディエンヌイのコサック騎兵隊が奪還した。ソ連軍の大部分に続いてコサック騎兵隊はリヴォフに照準を合わせた。「反プロレタリア戦争」の偏見から、ポーランド軍は西欧諸国から妨害を受けた。1920年8月13日までに、ロシア軍はポーランドの首都ワルシャワに迫った。

 ロシア軍の大砲がワルシャワ郊外で炸裂した。ポーランドの若い農民、学生、女性たちは志願兵として、死傷者を乗せた路面電車が横切る中で、ロシア軍の侵略者に対して熱狂的に抵抗して、ついにポーランド国軍が反攻を開始した。シコルスキ将軍は予備軍を北からソ連赤軍の右翼を攻撃した。ピウスツキ元帥は義勇軍をソ連赤軍の南から左翼を攻撃した。奇跡的に、ソ連赤軍は解散して、ロシア軍は混乱して国境に向かって逃走した。シコルスキはリトアニアに侵入し、ヴィリニュスを占領した。

 休戦協定は1930年10月に調印された。ポーランドは、ヴォルヒニア、ポレジエ、ポドリアをポーランドを併合した。ソ連はウクライナとベラルーシを併合し、ソビエト共和国に編入した。しかし、ワルシャワ政府が編入した地域は、常にトラブルの種となった。紛争は、奪還を渇望するソ連によって煽られ、1939年末にヒトラーのドイツ軍とソ連軍によりポーランドを分割する際にポーランドは占領された。




2024年4月25日木曜日

1953年6月23日に、西ドイツのシェーネベルク市庁舎前で、6月16日から勃発した東ドイツ蜂起のソ連軍による民間犠牲者が葬儀され、西ドイツ側でしか追悼できなかった。

1953年6月23日に、西ドイツのシェーネベルク市庁舎前で、東ドイツ蜂起のソ連軍による犠牲者が葬儀された。蜂起の犠牲者は西ドイツ側でしか追悼できなかった。1953年6月16日の建築現場の労働者のデモから東ベルリンから勃発した東ドイツ蜂起で殺害された犠牲者は、西ドイツ側でしか追悼できなかった。東ベルリンでの蜂起は6月17日には、東ドイツ政府と社会主義統一党に対する広範な蜂起に発展し、全国約700の地方で100万人以上が参加した。東ベルリンの蜂起は、東ドイツ在留のソ連軍の戦車と東ドイツ陸軍憲兵隊によって6月17日に暴力的に弾圧と鎮圧された。ソ連軍は6月17日午前10時にベルリンに到着し、ドイツ民主共和国の他の地域では6月17日正午から午後に到着した。ソ連軍の戦車の到着で東ドイツ蜂起が急速に勢いを失った。

 1953年3月5日のヨセフ・スターリンの死後に、1953年の東ドイツ蜂起は自由の代わりにソ連軍から弾圧を受けて、団結の代わりに東西ドイツ分裂だけが深まった。連行された東ドイツ民主共和国の市民は、4年から10年の懲役刑が言い渡された。ソ連の軍事法廷によって下された判決の結果、どれだけの市民が警務所の塀の中で虐殺されたかは、まだわかっていない。

 蜂起関係者の多くにとって、最も痛烈な失望は西側の無策だった。連合国は火に油を注ぐようなことを避けた。ソ連軍の戦車が東ベルリンを走り抜けても、アメリカ軍、イギリス軍、フランス軍は、誰ひとりとして指一本触れなかった。アメリカ政府のドワイト・D・アイゼンハワー大統領とジョン・フォスター・ダレス国務長は、「ソ連軍を封じ込めるのではなく、追い返す」の宣言は、少なくとも東ドイツ民主共和国には無策であることが判明した。

 第3次世界大戦への恐怖から、誰もが麻痺状態に陥った。6月17日にウィーンにいたエルンスト・ロイター西ベルリン市長は、西ベルリンに戻るのに、アメリカ軍機の搭乗する座席さえ拒否された。西ベルリンでは、連邦全ドイツ問題担当大臣のヤコブ・カイザーが、東ベルリン市民に冷静さを保つよう呼びかけた。警察部隊は西側地区の境界線を守り、西ベルリン市民がデモに参加するのを防ごうとした。その時、西ドイツがいかに無力であったかを示唆した。





2024年4月24日水曜日

バルカン半島で起こったコソボ紛争にて、ジャヴィツァ村でNATO軍の1991年4月14日の爆撃で殺害されたコソボからのアルバニア難民一家の裂傷した死体が、わずかな荷物を積んだ荷車の横に横たわっていた。

バルカン半島で起こったコソボ紛争にて、ジャヴィツァ(Djakovica)村で、NATO軍の爆撃で殺害されたコソボからのアルバニア難民一家の裂傷した死体が、わずかな荷物を積んだ荷車の横に横たわっていた。1999年4月14日午後1時29分から2時間にわたり、NATO軍によるユーゴスラビア空爆中に、NATOがアルバニヤから5キロ離れたジャコヴィツァ村を爆撃した。多数の難民が殺害されて死体が散乱した。NATOは4月14日にコソボ西部の難民に対する空爆で、少なくとも64人が死亡し、20人が負傷したことを認めた。

 1999年4月14日の昼間の時間帯に、NATO軍機がコソボ西部のジャコヴィツァとデチャニの間の19kmの道路で、アルバニア難民の移動を繰り返し爆撃した。ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)が記録しただけでも、73人の市民が死亡し、36人が負傷した。攻撃は午後1時29分に始まり、約2時間にわたって続いた。ビストラジン、グラディス、マダナジ、メジャの村近くの車列ルート上の多数の場所で民間人に死者が出た。当初、NATOは戦闘機が軍用車両を標的にしたと発表した。その後、アメリカ軍は、F16パイロットが軍用トラックと思われるものに爆撃したと報じた。NATOは "深い遺憾 "を表明した。攻撃で3人のセルビア人警官も死亡した。

 コソボ紛争は、1998年2月28日から1999年6月11日までコソボにて武力紛争が勃発した。ユーゴスラビア軍とコソボ・アルバニア解放軍が戦闘した。北大西洋条約機構(NATO)は、コソボ紛争中にユーゴスラビア軍に対して空爆作戦を実施して、空爆は1999年3月24日から6月10日まで続いた。コソボからのユーゴスラビア軍を撤退して終結した。ユーゴスラビア軍によるアルバニア人の民族浄化に対抗した。NATOは、国連の承認もなく、人道的介入とした。ユーゴスラビア政府は、NATOの空爆の結果、民間人1,200人以上、最大2,500人が死亡し、5,000人が負傷したと推定した。






2024年4月15日月曜日

スペイン内戦にて、カステリョンの通りで1938年8月8日に、母親が殺害された息子と思われる死体を悲痛に見つめた。アラゴン戦線で共和国軍を打ち破った国民党軍は南下し、1938年4月からバレンシア攻略をした。

スペイン内戦(1936年7月17日-1939年4月1日)にて、カステリョンの通りで1938年8月8日に、母親が殺害された息子と思われる死体を悲痛に見つめた。国民党軍がカステリョン州の州都であるカステリョン・デ・ラ・プラーナに進軍する前には混乱期があった。退却する国民党軍兵士たちは、解放者だと信じて挨拶をしようとした人々に対して、早まって数百人を殺害した。殺害された息子は、その犠牲者の一人であった。

 スペイン内戦中に、アラゴン戦線で共和国軍を打ち破った国民党軍は南下し、1938年4月から7月にバレンシア攻略を試みた。1938年4月25日から7月24日に勃発したレバンテ攻勢で、フランシスコ・フランコ率いる国民党軍が、共和国軍の支配するバレンシアを占領しようとした。国民党軍は数日間の戦闘の末に、6月13日にバレンシア北部のカステリョン州を占領した。悪天候と共和国軍のXYZ防衛線での執拗な抵抗により国民党軍の攻勢は頓挫した。国民党軍はカステリョン州を占領したが、バレンシアの占領には失敗し、多くの死傷者を出した。共和党軍は5,000人の死傷者に対して、国民党軍は約20,000人の死傷者を伴った。

 国民党軍によるアルゴン攻勢は、1938年3月7日に開始し4月19日に終結した。アラゴン攻勢は1938年4月15日に、国民党軍は地中海沿岸のビナロスの町を占領し、共和国領を二分して、カタルーニャは中央地区から孤立させた。共和国軍に致命的な打撃となり、もはや完全に回復できなかった。国民党軍のアルゴン攻勢は、バレンシアとカタルーニャの町や都市に対する集中的な空爆作戦を伴った。戦略的目標を達成して、民間人を恐怖に陥れた。




2024年4月1日月曜日

1934年にメキシコにある製糖工場の若い男性労働者が、ストライキ中に銃声がして暗殺された。労働者の死体は地面の路上に横たわり、頭と顔からは血の川が流れた。

1934年にメキシコにある製糖工場の労働者がストライキが勃発した。それに対して突然に銃声がして、ある若い男性労働者が暗殺された。労働者は地面に横たわり、頭と顔からは血の川が流れた。引き伸ばした手は緩やかに握られた拳を解いて、シャツのひだ、フレームの隅の旗、こぼれた血、すべてが殺された男の労働者の死体であった。労働者の顔の見えない目は冷静に天を見つめていた。

 メキシコのマニュエル・アルバレス・ブラボ(Manuel Alvarez Bravo)の写真家が、偶然に労働争議に遭遇して、ストライキ中に暗殺された労働者の死体を写真撮影した。人間の生と死のはかなさを暗示した。メキシコの製糖工場での労働争議中に射殺された労働組合の幹部を映し出した。目尻の血だまりに光が反射した労働者の目に閃光が残存した。ブラボは死の表現から、政治的動機に基づく殺人の写真にと変貌した。労働者の端正な顔立ちや威厳を否定せずに、路上に倒れて暗殺された血だらけ労働者を捉えた。英雄でも殉教者でもなく、ただ犠牲者として写真は示唆した。 

 1934年にメキシコでは、永続的な政治機関である制度的革命党(PNR)は、ミチョアカン出身の革命将軍ラサロ・カルデナスを大統領候補に選んだ。しかし、カルデナスが大統領就任直後から、カルデナスと元大統領(1928年から1934年)であったプルタルコ・エリアス・カレスの対立が始まった。カルナンデスは労働組合への支援、特にストライキへの寛容さと支援した。カジェスは暴力的な手法とファシストを組織した。特に共産主義者、ユダヤ人、中国人に嫌がらせをしたニコラス・ロドリゲス・カラスコ将軍率いる金シャツ団と親密にした。

 カルデナスは、カレスを政治的ポストから排除し、彼の最も強力な同盟者を追放して、カレスを政治的に孤立させ始めた。カレスは鉄道爆破の共謀で起訴され、カルデナス大統領の命令で逮捕され、1936年4月9日にメキシコ軍兵士と警察官に拘束されてアメリカ合衆国に強制送還された。