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2024年10月21日月曜日

ファシストによりイタリアを戦争に引きこんだベニート・ムッソリーニの脳味噌が、1945年4月30日にミラノ中心部のきたないロレート広場の汚泥の上に流れ出た。

ファシストによりイタリアを戦争に引きこんだベニート・ムッソリーニの脳味噌が、1945年4月30日にミラノ中心部のきたないロレート広場の汚泥の上に流れ出た。午後にアメリカ軍は死体を撤去して、銃弾の跡だらけのムッソリーニ等のひどく損傷した死体をミラノの死体安置所に運ぶように命じた。アメリカ軍は、ムッソリーニと愛人クラ・レッタペタッチの死体を互いに並ばせて、不気味なポーズをとらせて撮影した。

 第二次世界大戦にて連合国軍は北アフリカで勝利した後に、1943年夏にシチリア島へ上陸した。イタリア半島を首都ローマへ向かって攻めのぼった。1944年6月5日に首都ローマを解放した。1922年以来に絶対的権力を握ってきたイタリア・ファシスト党の独裁者ベニート・ムッソリーニは、シチリア陥落後政権の座を追われて監禁された。

 1943年後半に、ナチス・ドイツ軍の降下部隊が、アペニン山脈のスキー場に幽閉されたムッソリーニの救出に成功した。ムッソリーニはイタリア全土の権力者に再びに返り咲けなかった。当時イタリア政権はすでに方針を転換して、連合国側で戦っていた。ムッソリーニはヒトラーに命令のままに、北イタリアにイタリア社会共和国を樹立して傀儡の元首におさまった。

 1945年に第二次世界大戦の戦況が、ナチス・ドイツ軍は著しく戦況が不利になるにつれ、ムッソリーニを支える余力はなかった。1945年の4月末に、ムッソリーニの一行はミラノの拠点を脱出した後に、反ファシストのパルチザンがムッソリーニーを追った。極右の指導者たちに対して長年の戦争犯罪を償わせる指令が出された。1945年4月27日にスイス国境近くのコモ湖畔の路上で、ムッソリーニと愛人クラ・レッタペタッチはともにパルチザンに捕まった。翌日の4月28日午後でヒトラーが自殺する2日前に、2人は略式裁判により機関銃で銃殺された。ミラノのロレート広場に運ばれたムッソリーニとペタッチと、14人のファシストの死体は、群衆の暴徒により文字どおり殴る蹴るの暴行を加えられた後に、ロレート広場のガソリンスタンドで逆さ吊りにされた。それは、ナチス・ドイツの親衛隊によりファシストが、8月前に15人のパルチザンを処刑して死体を公開したロレート広場であった。




2024年4月1日月曜日

1934年にメキシコにある製糖工場の若い男性労働者が、ストライキ中に銃声がして暗殺された。労働者の死体は地面の路上に横たわり、頭と顔からは血の川が流れた。

1934年にメキシコにある製糖工場の労働者がストライキが勃発した。それに対して突然に銃声がして、ある若い男性労働者が暗殺された。労働者は地面に横たわり、頭と顔からは血の川が流れた。引き伸ばした手は緩やかに握られた拳を解いて、シャツのひだ、フレームの隅の旗、こぼれた血、すべてが殺された男の労働者の死体であった。労働者の顔の見えない目は冷静に天を見つめていた。

 メキシコのマニュエル・アルバレス・ブラボ(Manuel Alvarez Bravo)の写真家が、偶然に労働争議に遭遇して、ストライキ中に暗殺された労働者の死体を写真撮影した。人間の生と死のはかなさを暗示した。メキシコの製糖工場での労働争議中に射殺された労働組合の幹部を映し出した。目尻の血だまりに光が反射した労働者の目に閃光が残存した。ブラボは死の表現から、政治的動機に基づく殺人の写真にと変貌した。労働者の端正な顔立ちや威厳を否定せずに、路上に倒れて暗殺された血だらけ労働者を捉えた。英雄でも殉教者でもなく、ただ犠牲者として写真は示唆した。 

 1934年にメキシコでは、永続的な政治機関である制度的革命党(PNR)は、ミチョアカン出身の革命将軍ラサロ・カルデナスを大統領候補に選んだ。しかし、カルデナスが大統領就任直後から、カルデナスと元大統領(1928年から1934年)であったプルタルコ・エリアス・カレスの対立が始まった。カルナンデスは労働組合への支援、特にストライキへの寛容さと支援した。カジェスは暴力的な手法とファシストを組織した。特に共産主義者、ユダヤ人、中国人に嫌がらせをしたニコラス・ロドリゲス・カラスコ将軍率いる金シャツ団と親密にした。

 カルデナスは、カレスを政治的ポストから排除し、彼の最も強力な同盟者を追放して、カレスを政治的に孤立させ始めた。カレスは鉄道爆破の共謀で起訴され、カルデナス大統領の命令で逮捕され、1936年4月9日にメキシコ軍兵士と警察官に拘束されてアメリカ合衆国に強制送還された。




2023年12月20日水曜日

大隅重信は、外務大臣の時に1889年10月18日には国家主義組織である玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受けて、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった。

早稲田大学の創設者である大隅重信は、外務大臣の時に1889年10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受けて、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった。来嶋恒喜は、大隅重信を狙撃した後に、現場で自刃して自殺した。赤十字社により、アルコール漬より取り出した右下腿が撮影された。大隈重信は10月18日に内閣より外務省へ帰る途中で、外務省の門前において来嶋恒喜が爆裂弾を投げて、左脚を傷けて、遂にこれを切断するのやむなきに至った。これを機として黒田清隆内閣は総辞職し、次いで一時的に三条実美が総理大臣となった。12月には山県有朋内閣が成立した。右翼国粋主義団体の活動が頻繁に見られはじめた。未だ自由民権運動的な色彩をも加味するものから、急速に国権主義日本主義侵略主義的な運動となった。玄洋社はその代表的な日本で初めて創設された右翼団体であった。 

 1886年7月、猛烈な世論の反対を受けて外相の井上馨の条約改正案は中止となり、井上馨は辞職して首相の伊藤博文が兼摂した。1887年2月に大隈重信は外相となり、条約改正案に当り、11月に改正の趣旨を在外諸公使に訓令した。まずはアメリカの同意を得た。この間に、後藤象二郎を中心とする大同団結運動は、強硬外交を主張しながら華々しく展開した。当の後藤は、1889年2月に黒田清隆内閣 (88年4月成立)に逓相として入閣して、その変節は世人を驚かせた。大隅重信は、日本が江戸時代に締結した不平等条約にて、外国人が在留国にて外国の領事による裁判を受ける領事裁判権を改正を提案した。

 大隈重信の改正案は、1889年4月19日、イギリスの「ロンドンタイムス」に暴露された。外人の内地雑居、外国判事の任用の規定等が、いたく朝野の人士を刺激し、時論は俄かに沸騰して、しきりに反対運動が起った。内は枢密院議長の伊藤博文をはじめ、逓信大臣の後藤象二郎、法制局長官の井上毅等、外は自由民権派、国粋保守派を問わず、反対運動は猛烈を極めた。8月には在野の熊本国権党、福岡玄洋社等保守団体の全国非条約大懇親会が開かれた。10月15日遂に明治天皇の御前会議の開催となった。賛成者は僅かに総理大臣黒田清隆等数人を数えるのみであった。10月18日閣議は改正商議の中止と決した。

 大隅重信の右脚の切断は、直ちに外務省のソファ上で海軍軍医の高木兼寛が処置して、赤十字病院の佐藤勇主任等が切断して、ベルツ博士が支援した。切断手術がすんでから大隅の脚は大きなガラス瓶にアルコール漬となった。「邸へ届けて下さい」と命のままに早稲田の大隈邸へかつぎ込まれた。大隈は元来は酒は余り呑まない方であが、分身たる切断された脚は1月間に6.70円に上るアルコールを必要とした。大名生活の会計係もすっかり音をあげた。アルコールを飲んだくれた脚は、赤十字中央病院に参考品として引取られた。病院の「開かずの部屋」と云う薄気味悪い一室に安置された。




2023年12月19日火曜日

アメリカ軍の海兵隊員は、ハイチにてシャルルマーニュ・マセナ・ペラルテを1919年11月1日に暗殺した。ペラルテの死体は、ヒンチ町のドアに釘で打ち付けた写真を公開した。

アメリカ軍の海兵隊員は、ハイチにてシャルルマーニュ・マセナ・ペラルテ(Charlemagne Masséna Péralte)を1919年11月1日に暗殺した。ペラルテの死体は、ヒンチの町のドアに釘で打ち付けられた。アメリカ軍が死体を撮影して写真を公開して、ペラルテの残存信者の士気を下げようとした。アメリカ軍による処刑後に、カコスの指導者ペラルテの死体が展示された。逆効果で、イエスの十字架からの降下に類似して、ペラルテは国民的殉教者の栄誉を得た。

 ペラルテはハイチの民族主義指導者で、1915年のアメリカ軍によるハイチ占領に抵抗した。カコス(Cacos)と呼ばれるゲリラ戦闘員を率いて、ハイチに駐留するアメリカ軍に挑戦を叩きつけた。深刻な内紛が始まり政府が再び転覆したハイチに、ウッドロー・ウィルソン米国大統領は、1915年7月にアメリカ海兵隊を派遣して、ハイチを侵攻した。アメリカは1915年から1934年までハイチを占領した。ペラルテはレオガン市軍司令官だった。1918年9月に強盗事件の逮捕から逃亡して、ペラルテはハイチ北部に臨時政府の樹立を宣言した。数千人の農民非正規兵を動員して、1919年10月7日にポルトープランスを含むアメリカ軍の軍事施設を攻撃した。ペラルテは将校の一人であるジャン=バティスト・コンゼの裏切りに遭い、変装したアメリカ海兵隊軍曹ハーマンH.ハンネケン(後にその功績により少尉に昇進)とウィリアム・バトン伍長を率いて、グラン=リヴィエール=デュ=ノールは、変装して夜陰にまぎれてグラン・リヴィエール近くの反乱軍キャンプに侵入した。1919年11月1日にペラルテは至近距離から背中の2発から心臓を撃たれて暗殺された。ハンネケンとその部下たちは、ペラルテの死体をロバに縛り付けて逃走した。

 殺害されたペラルテの遺体はヒンチェで公開された。ハイチ住民からの反政府勢力の支持を思いとどまらせるため、アメリカ軍はペラルテの死体をドアに縛り付けた写真を撮影し、国内で配布した。しかし、それは逆効果となり、十字架刑に似たその画像はレジスタンスの象徴となり、ペラルテを殉教者として定着させた。1934年には世界恐慌の影響や、ニカラグアでのサンディーノ軍への苦戦などもあって、ルーズベルト米国大統領の善隣外交政策により、ハイチからも海兵隊が撤退することになった。




2023年9月14日木曜日

ライハルト・ハイドリヒ総督を暗殺した容疑者が、1942年6月18日にチェコスロバキアのプラハのキュリロス・メトディオス教会にドイツの国家秘密警察であるゲシュタポに追い込まれた。親衛隊が突入した直後に暗殺者と容疑者ら全員が銃殺された。

ライハルト・ハイドリヒ総督を暗殺した容疑者の集団が、1942年6月18日にチェコスロバキアの首都プラハのキュリロス・メトディオス教会にナチス・ドイツ軍の国家秘密警察であるゲシュタポに追い込まれた。カール=ヘルマン・フランクの命令を受けた親衛隊(SS)が突入した。その直後に暗殺者と容疑者ら全員が銃殺された。その後に、教会から死体が外地に引きずり出され、秘密警察や親衛隊が取り囲んで見下した。

 1939年9月に、ハインドリヒはナチ警察の部署を統括して、強力なテロ機関である国家保安本部(RSHA)に変貌させた。1941年12月27日にハイドリヒは、プラハの総督に赴任した。12月15日に、プラハ聖堂横の広場で、抵抗運動者を機関銃で公開処刑した。ハイドリヒは、プラハの虐殺者と呼称された。チェコ首相のアロイス・エリアスを、1942年6月6月19日に死刑を執行した。

 1942年5月27日に午前10時32分にプラハの地下グループは、クビスの所持していた爆弾が、ハイドリヒの乗用車を爆破した。ガブツィクのステン銃は作動しなかった。トラックの荷台で、負傷したハイドリヒが搬送された。6月4日にハイドリヒは負傷による感染症で死亡した。8人の暗殺者と抵抗運動者は、ギリシア正教のキュリロス・メトディオス教会の地下室に潜伏していた。6月18日に親衛隊の戦闘部隊が、地下室に突入した。銃撃された血まみれの死体や自害した死体が散乱した。

 ゲシュタポは、ハイドリヒ暗殺事件後にチェコスロバキア全土に戒厳令が施行され、ゲシュタポは、ハイドリヒの暗殺に対するチェコ市民に復讐するために、約13,000人を大量逮捕して、そのうち約600人を武器の不法所持で処刑した。プラハ北西のリディツェ村は6月10日に、男性と15歳以上の少年を合わせて約199が処刑され、女性はラーヴェンスブリュックの強制収容所に送還された。6月24日に、レジャキ村が破壊され、成人の33人の男女全員が射殺された。






2023年9月6日水曜日

1925年8月20日、48歳の廖仲凱と32歳の陳秋林は、国民党中央党本部に会議に行く途中に、廖仲凱は車から降りたとたんに顔面を撃たれて死亡した。厳重な警備が敷かれた国民党中央党本部の前で暗殺された。

1925年8月20日に、中国の民主主義の革命家である廖仲凱が、広州で国民党右派に暗殺された。1921年4月に孫文は広東革命政府を樹立し、廖仲凱は財政副大臣に任命した。1924年に国民党が改造された後に、孫文によって中央実行委員会の常務委員に選出された。労働者部と農民部の部長、黄埔仕官学校の国民党代表、広東省の省主席、財政長官、軍需総監などを歴任していた。蒋介石は廖仲凱の暗殺に乗じて、広東国民政府の軍事的、政治的権力を掌握した。中央党本部の正門を警備していた警官もなく、暗殺犯は跡形もなく逃げ去った。暗殺された廖仲凱が死亡後に、病院に搬送されて入院した時点である。1925年8月20日、48歳の廖仲凱と32歳の陳秋林は、中央党本部に会議に行く途中に、廖仲凱は車から降りたとたんに顔面を撃たれて死亡した。厳重な警備が敷かれた国民党中央党本部の前で暗殺された。

 廖仲凱の暗殺事件の後に、国民党中央執行委員会と国民党政府軍事委員会は、暗殺事件を調査する特別委員会を組織することを決定した。特別委員会に招聘された蒋介石は、王景偉、徐重志らと、政治と軍事から警察の権限を掌握した。蒋介石は広州駐屯地の司令官に任命された。調査の結果、胡漢民と徐崇芝らが、この廖仲凱夫妻の暗殺事件に関与していると容疑されて、広東省を追われた。

 暗殺(assassination)は,殺人とは区別され適用の範囲が限定される。政治的要人を,政治的目的のために,非合法的手段で殺害することが暗殺とされる。暗殺は,主体によって,権力者側が広義の政敵を殺害する場合と,反権力・反体制派が,権力者を殺害する場合とに大別される。政敵であった国民党左派の理論家である廖仲凱は、1925年8月20日に国民党内右派に銃殺されて、権力側の蒋介石が後継者とされた。それ以前にも、国民党の要人である陳其美が、1916年5月18日にフランス租界の山田純三郎宅で、袁世凱政権の刺客により暗殺されて、権力側の蒋介石が後継者とされた。



2023年1月17日火曜日

1936年7月13日未明に、スペインの首都マドリッドで、スペイン社会主義労働者党の武装集団が、親ファシストで君主主義政党の副党首のホセ・カルボ・ソテーロを暗殺した。

1936年7月13日未明に、スペインの首都マドリッドで、スペイン社会主義労働者党の武装集団が、親ファシストで君主主義政党の創設者で指導者であった副党首のホセ・カルボ・ソテーロ(José Calvo Sotelo)を暗殺した。その犯罪首謀者は、社会主義指導者のインダレシオ・プリエトの護衛の1人であったルイス・クエンカ・エステバスであった。殺人犯は、共和国突撃警備隊のラ・モトリザダ旅団の一員であった。カルボ・ソテーロは、旅団所属のトラックで移動した分隊に捕獲されて、頭部で射殺して暗殺された。カルボ・ソテーロの暗殺は、前日7月12日の突撃警備隊のホセ・カスティーヨの暗殺に対する復讐であった。

 警察車両の乗員は東方墓地に行き、死体安置所のドア付近に、カルボ・ソテーロの死体を投げ込んだ。家族は警察に逮捕を報告して、7月14日朝7時頃から捜索を開始した。カルボ・ソテーロの死体は午前中に発見された。7月14日には、カルボ・ソテーロの葬儀が挙行された。その後の出来事は、暴力のスパイラルを助長した。突撃隊と呼ばれる都市警察の部隊と社会党(PSOE/UGT)の活動家の数名によるカルボ・ソテーロの殺害は、スペイン内戦の勃発に大きく影響した。

 カルボ・ソテーロの暗殺を起点に、クーデターが7月17日午後に、モロッコのメリリャ、セウタ、テトゥアンで守備隊が蜂起した。フランシスコ・フランコ(Francisco Franco)将軍は、カナリア諸島に左遷される予定だった。アフリカ軍の第19戦線のドラゴン・ラビードに乗り込んだ。フランコは7月19日にメリリャに革命本部を設置して、モロッコを拠点にスペイン本土に攻め上がった。7月18日から19日に、他の部隊が反乱を起こした。戦争状態を宣言して、権力の行使を主張し、左翼当局を逮捕あるいは暗殺した。7月20日にスペインは、2つに分割されて、29州が反乱を起こし、21州が共和党側に属した。フランコは、9月29日反乱軍の総司令官兼元首に選出された。翌10月1日には総統に就任した。革命政府の政綱の中で、全体主義に基づいて権威国家を建設する方針を打ち出した。




2023年1月17日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    
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2022年11月30日水曜日

コロンビアで銃殺されたパブロ・エスコバルの死体で、1993年12月2日にコロンビアの麻薬密売人である逃亡中の44歳のパブロ・エスコバルは警察特殊部隊に暗殺された。

コロンビアで銃殺されたパブロ・エスコバル(Pablo Escobar)の死体である。1993年12月2日に、コロンビアの麻薬密売人である逃亡中の44歳のパブロ・エスコバルは暗殺された。アメリカ中央情報局(CIA)とアメリカ麻薬取締局(DEA)が訓練したコロンビアの警察特殊部隊がメデジンで暗殺した。アメリカから配布された電波探知装置の情報で、パブロ・エスコバルの所在地を突き止めた。ジーンズ姿で素足のまま屋根に逃走して、頭部に弾丸を2発を受けて殺害された。

 アメリカの麻薬戦争(War on drugs)は、1971年6月18日にニクソン大統領が記者会見で宣言した。ベトナム戦争により、アメリカ軍人の約10〜15%がヘロイン中毒であると公表した。レーガン政権から、結晶岩型のコカインの所持に集中的かつ厳格に処罰して、薬物乱用の防止と犯罪者の訴追をした。

 1991年6月に、パブロ・エスコバルは自首勧告政策を受けて、自首した。メデジン郊外の別荘に専用刑務所を設置して、コロンビア陸軍部隊の警備と刑務官に警護されて自宅待機をした。麻薬取引と殺し屋に殺害命令を指令した。敵対する麻薬密売人のほか、政府高官、警官、一般市民も犠牲になった。敵対する麻薬密売人のほか、政府高官、警官、一般市民も犠牲の対象になった。1989年11月27日、情報提供者を殺害するため、アビアンカ航空203便に爆弾を仕掛け、テロ攻撃で約100人が殺害された。

 コロンビアは、コカインの原料となるコカの主な栽培地であるペルー、エクアドル、ボリビアの隣国であった。コカイン産業が成長するにつれ、エスコバルは麻薬密輸に携わった。1970年代半ばには、メデジン・カルテルの犯罪組織を設立した。コカインが毎日約15トンも密輸されて、1周間で約4億2000万ドルも利益を上げた。エスコバルは、麻薬コカインの生産、輸送、販売に重点を置いた。エスコバルは貧困者を救済する事業に資金を提供し、ロビン・フッドと呼称された。




2022年11月21日月曜日

1919年10月に、新政権の警察国家的手法に抗議するために共産党本部に接近した際、ハリコフ労働組合連合から来た非武装の3人の代表の死体であり、冷酷に撃ち殺されたのである。

1919年10月に、新政権の警察国家的手法に抗議するために共産党本部に接近した際、ハリコフ労働組合連合から来た非武装の3人の代表の死体であり、冷酷に撃ち殺されたのである。何千人もの犠牲者は、法廷に出る機会さえなかった。1917年1月6日からハリコフはウクライナにおけるボリシェヴィキ・ソビエト勢力の拠点とされた。ハリコフからの脱出者は、ソビエトの赤軍に射撃された人たちは、頭を撃たれて殺害された。そのほかに集団墓地で見つかった死体は、指や手を切断され、足を折られ、銃剣で刺され、サーベルで切り刻まれ、サーベルで切り刻まれ、骨抜きにされるなど、激しい拷問の跡が明瞭に残存していた。

 ウクライナでは1918年5月、全ウクライナ労働組合中央協議会(Utsentrprof)が結成され、主に反ボルシェビキ政党の代表者で構成された。1919年のハリコフでの労働組合大会で、ウツェントプロフは解散し、ボルシェビキが労働組合運動の指導者となった。その結果、運動はソビエトに従属して、1920年にロシア南部事務局(Biuro Yuga Rossii)が設立され、すぐに全ソ連労働組合中央協議会ウクライナ事務局(VTsSPS)と改称された。1924年に、全ウクライナ労働組合評議会(VURPS)が設立された。1929年までに約200万人以上の労働組合員を代表した。ソビエトのスターリンの中央集権化で、多くのVURPS労働組合指導者は、1933年から1937年の間に解雇され追放された。

 ロシア内戦が進行するにつれて、所有者階級」に属していたかなりの数の囚人、容疑者、人質が処刑された。ボルシェビキが占領した都市の処刑された人数が記録された。 ハリコフでは、1919年2月から6月にかけて約2,000から約3,000人の処刑が行われて、1919年12月にハリコフが再び占領されたときには、さらに約1,000から約2,000の処刑が行われた。ロストフ・ナ・ドヌでは、1920年1月に約1,000人、オデッサでは、1919年5月から8月にかけて約2,200人、その後に1920年2月から1921年2月にかけて約1,500人から 3,000人、キエフでは、1919年2月から8月にかけて少なくとも約3,000人、エカテリノダールでは、1920年8月から1921年2月までの間に少なくとも約3,000人、クバンの小さな町アルマビルでは、1920年8月から10月にかけて約2,000から3,000人が住んでいました。

 ボリシェビキ政権が誕生して1年後に、わずかな民衆の支持が急速に失われていった。公式に共産主義者は、全人口の4分の1以下しか支配していない。地域の外では、武力反乱あるいは敗北に直面した。チェカ(秘密警察)は、狂信的なポーランド人フェリックス・ジェルジンスキー(Felix Dzherzhinsky)の下で、恐怖政治を開始した。共産主義者は、政権に対する現実的攻撃に復讐しては清算した。共産党政権は、武力占領となり、国内征服のための戦争を行った。




2022年10月21日金曜日

安倍晋三元首相は、2022年7月8日11時31分の参議院選挙演説中に、奈良市内で心肺部を銃撃されて、67歳で暗殺され死去した。

安倍晋三元首相は、2022年7月8日11時31分の参議院選挙演説中に、奈良市内で心肺部を銃撃されて、67歳で暗殺され死去した。日本で最も長く首相を務めた安倍晋三は、分裂した旧保守主義者で、日本で最も長く3,188日も首相を務めて、退任後も強力な影響力のある政治家であった。7月8日に奈良市の近鉄大和西大寺駅北口付近で選挙演説中に銃撃されて、暗殺され血まみれ瀕死で地面に横たわり致命傷を負った。奈良市の駅前で演説する安倍晋三は、紺のスーツに身を包み、拳を振り上げて立っている時に、約2.7秒間に2発の銃声が響いた。警備員が舗道に顔を伏せたグレーのシャツの山上徹也容疑者にタックルして倒して逮捕した。側に手作りの銃である二連装の装置があった。安倍晋三は仰向けに転倒した後に、胸を押さえられ、シャツには血がにじんでいた。奈良県立医科大学病院に緊急に空輸されたが、既に心肺停止で心臓と肺は停止して17時3分に検死された。世界で最も安全であり、最も厳しい銃規制法である日本警察にショックを与えた。宗教法人「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」への恨みを安倍晋三に報復した。奈良県警が逮捕した41歳の山上徹也は、2002年から約3年間、海上自衛隊に勤務していた。

 祖父の岸信介元首相の後を継いだ安倍晋三は、軍部の改革を進めるタカ派的姿勢と、日本軍の残忍な過去に対して不当な歴史的評価を受けた修正主義者であった。国内の自由主義者とアジア地域の第2次世界大戦の犠牲者から嫌悪された。日本経済を活性化し、アジアで強い政治的役割をを主導し、政治的安定する希少な首相の役割を果たした。安倍晋三は、保守派の主導者であったが、多くのリベラル派からは反感を買っていた。戦争放棄の日本国憲法を改正する彼の大願は、生存中には頓挫した。超日本国家主義は、日本の戦時中の被害者である中国と韓国から嫌悪された。祖父である岸信介元首相は、戦後アメリカの占領下で採択されたアメリカ製の日本国憲法を軽蔑した。安倍晋三にも、1947年の憲法は、日本の敗戦の不当な遺産であり、戦勝国の世界秩序と西洋の価値観の押し付けの象徴であった。日本国憲法は国際紛争での武力行使を放棄し、日本の軍隊を自衛に限定している。日本軍には近代的な陸軍、海軍、空軍があり、日本の最大の同盟国であるアメリカと緊密に連携した。戦後の条約や日本の戦犯を裁く法廷に反発して、より強い軍隊と国際情勢に大きな役割を念願した。戦時中の日本軍の戦争犯罪を白紙に戻てし、残虐行為に対する謝罪の廃止を求める日本の保守派の原動力となった。

 日本国憲法改正の頓挫して、北朝鮮との関係正常化、近隣諸国との島嶼紛争の解決、ロシアとの平和条約締結など、戦争で残存する懸案を解決できなかった。日本は、中国や北朝鮮との緊張で、周辺地域の防波堤として約5万人のアメリカ軍を受け入れた。テロリズム、北朝鮮のミサイルや核兵器、中国の軍事的拡張から、安全保障政策で保守派を掌握した。平和主義的な日本国憲法に対する一般国民の支持は常在した。安倍晋三は、2006年9月20日に52歳で日本最年少の首相になった。国粋主義的な最初の任期は約1年後に健康同上の理由から2007年9月23日に突然終了した。その後は、日本の首相は毎年変わる6年間の政治空白が始まり、安定性と長期的な政策を欠いた。2012年9月26日に政権に復帰した安倍晋三は、財政出動、金融緩和、構造改革を組み合わせた「アベノミクス」で日本を活性化し、デフレの低迷から脱却した。6回の国政選挙に勝利し、日本の防衛とアメリカとの安全保障同盟を強化し、政権を強固にした。学校での愛国心教育を強化し、日本の国際的軍事力を増進した。安倍晋三は、10代からの潰瘍性大腸炎が再発して2020年9月14日に首相を退いた。吉田茂元首相の1967年の国葬以来、9月22日に安倍晋三元首相の国葬が執り行われた。




2022年10月3日月曜日

シーク教徒であったディラーワル・シン・ババーは、1995年8月31日にインドのパンジャーブ州の州知事のベアント・シンを、自殺する自爆テロで暗殺した。

シーク教徒であったディラーワル・シン・ババー(Dilawar Singh Babbar)は、1995年8月31日に、インドのパンジャーブ州の州知事であるベアント・シン(Beant Singh)を、自爆テロで自殺して暗殺した。パンジャーブ警察の警官として、ババル・ハルサ・インターナショナルに参加して、自爆テロリストになった。1995年8月31日午後5時に、州都チャンディーガルのインド・パンジャーブ州・ハリヤナ州市民事務局で、自動車爆弾を炸裂する自爆テロにより、ベアント・シンを暗殺して、パンジャーブ州知事ベアント・シンとその護衛の12人が死亡した。写真の護衛の1人は、自動車爆弾テロ現場からわずか数メートルのところで、死体が散乱していた。

 1992年から1995年にパンジャーブ州では、カリスタン分離主義運動が活発で、インド政府が積極的関与して運動を弾圧した時期であった。ベアント・シンの在任中には、約2万5千人以上のシーク教徒の民間人が行方不明になった。警察によって超法規的処刑で殺害されて、死体が火葬された。その当時に、警察の巡査であったバルワント・シン・ラジョアナ(Balwant Singh Rajoana)は、自爆テロ犯となった警察官のシン・ババーと共謀して、ベアント・シンの暗殺を執行した。コイントスのくじ引きで、ジン・ババーが、自爆テロ犯に選ばれて、ラジョアナが予備テロに指名された。1995年8月31日の攻撃で、ベアント・シンと他に合計約17人が死亡した。1997年12月25日に、共謀者の警察官ラジョアナが、自爆テロを告白した。ラジョアナはCBIの特別法廷で死刑を宣告されて、死刑は2012年3月31日に予定された。3月28日にインド内務省は、シーク教徒のSGPC組織の恩赦の上訴で、死刑執行を停止した。

 1983年から1993年までの動乱期に、パンジャブ地方では約15,000人が殺害された。多数派のシーク教徒と少数派のヒンズー教徒のコミュニティの間で敵意が持続した。パンジャブ州からヒンズー教徒を迫害して、反撃として他州のシーク教徒をパンジャブ州へ避難を強制した。シーク教徒は、パンジャブ州内で約60%を占めるも、インド全人口の1.9%のみであった。1992年から1993年の反乱鎮圧後に、多くのシーク教徒の過激派が降伏、逃走、捕らえられ、殺害された。暴動や暴力でも、シーク教徒の分離主義者は成功しなかった。多数派のシーク教徒と少数派のヒンズー教徒に敵意が持続し、パンジャブ州からヒンズー教徒を追い出し、反撃に他州のシーク教徒にパンジャブ州への避難を強いた。




2022年8月24日水曜日

中国ソビエト地区において、中国共産党は反革命派に対して警察隊が死刑を強行した。街路上に、死刑執行人が民衆に公開した断頭による首切りを執行して、死体を切り苛めた。

1931年10月には、中国共産党は江西省瑞金に中国ソビエト政府を樹立した。11月7日に中国ソビエト共和国憲法を決議して、共産党内における粛清が強行された。テロ行為により、数千人にも及ぶ反革命派らが悲惨に処刑された。その後の4年間で約128,075人も殺害された。中国ソビエト地区において、中国共産党は反革命派に対して警察隊が死刑が強行した。街路上において、死刑執行人が民衆に公開した断頭による首切りを執行した。さらに首切りした死体を切り苛めた(支那: 列国に於ける共産主義運動, 1936年)。断頭するのに、囚人はひざまづいて並び、両手を後ろに縛られた。処刑人が刀を振り上げて切ると、囚人の頭は地面に転がる前に躊躇していた。頸動脈から大量の血液が噴出し、身体は急に脱力してゆっくりと血の海に倒れ込んだ。近年は公開処刑の首切りは、世界でサウジアラビア、カタール、北イエメンの3ヵ国のみである。 

 中国国民党の孫文は1924年に中国共産党に門戸を開放した。1925年3月12日に孫文が北京で死亡した後に、国民党内の左右派の抗争が勃発した。5月15日に、上海日本紡績工場の中国人労働者がストライキを挙行して、大衆デモに発展して5月30日に、警察隊が発砲して、死者4人と負傷者24人を出した五・三〇事件が勃発した。国民党の蒋介石は、中国農民を階級闘争に巻き込む中国共産党に対して、1926年3月20日に広東でクーデターを断行して、7月初旬から全広東軍を北伐させた。12月に占領した漢口に武漢政府を移管した。1927年1月30日に漢口にて英国租界を襲撃した。漢口だけで1926年1月から5月までに、反革命者約3,252人、反動家約1,461人など約7,433人が射殺された。国民党の蒋介石は、3月22日に北伐軍を上海に侵攻させて中国共産党を弾圧した。4月上旬には、南京と広東にも武装解除して、南京政府を樹立した。

 1927年12月11日に、広東で中国共産党の暴動が勃発した。軍事力が優勢な国民党軍が、広東に侵攻して一網打尽に蹂躙した。広東は、一気に阿鼻召喚の巷と化して、約2,000以上もの多数の老若男女が殺戮された。共産党は、上海・武漢・広東でも悲惨な敗退を繰り返し、絶滅を免れるために、全てが山脈が防壁となる中国の奥地の江西省に遁走した。共産党は、江西省にて無知なる農民大衆の洗脳を強化して、土地・金銭・生命を略奪した。1931年2月と7月に、国民党軍が近代兵器の討伐軍を派遣したが敗退した。国民党軍による持久的遮断と封鎖により、兵站が途絶えた共産党軍は1934年7月に瑞金を放棄して、1936年11月まで陝西省延安への長征を挙行した。



 






















2022年4月6日水曜日

キューバのマチャド独裁政権下に、抵抗運動した青年ルビエリタらは、秘密警察に強制連行されて暗殺された死体が放置された。

キューバの首都ハバナで1932年12月30日に、キューバの独裁者であるジェラルド・マチャド(Gerardo Machado)大統領の秘密警察が暗殺作戦を指揮して、対抗する青年らを尾行した。17歳のハバナ工科大学のフアン・ゴンサレス・ルビエラ(Juan Gonzalez Rubiera)は、同志たちと武器を取りに出かけた。彼らがガソリンを買うためのお金を得ようとして家に着いた。青年ルビエラは、車から飛び降りてコラレス通りを走り、民家に避難した。数時間後に、青年ルビエリタら3人は、秘密警察に強制連行されて、区画整理のミラマール地区に行った。6番街と15番街の角の寂しい場所で、暗殺されて放置されたルビエラの死体が発見されて、身元が確認された。

 15歳のルビエラはキューバの首都のハバナ工科大学に入学して、優れた学生運動リーダーであり、ジェラルド・マチャド政権に対抗する闘士であった。15歳のとき、大学学生理事会が結成されるきっかけとなった学生デモに参加した。1932年12月30日に、17歳の若さで暗殺された。1933年1月16日のエル・パイス新聞の表紙に、キューバの秘密警察の銃撃により、逃げようとした青年ルビエラらに対して11発の銃弾が突き刺さった。血まみれの顔で地面に倒れた17歳のルビエラの死体の禁断の写真が掲載された。ルビエラの死体が、新聞記者が撮影できるほど長い間路上に、秘密警察が放置していた。

 1932年9月に、秘密警察の車列から、キューバ上院の議長であったクレメンテ・バスケス・ベロ医師を自宅の前で銃撃された。その1時間以内に、秘密警察は反マチャドの指導者であるハバナ大学学長のリカルド・ドルツ博士を銃撃した。キューバのマチャド政権下では毎日のように人が銃撃された。秘密結社は12月30日に、秘密警察のラファエル・カストロ軍曹を銃撃して重傷を負わせた。その報復として、12月31日に秘密警察のオルティス署長が自分の車で青年らを路地まで追いかけて3人全員を射殺した。

 1924年に、マチャドはキューバ共和国の大統領に選出された。マチャドは1925年から1928年までの最初の任期中に、主要な公共事業プログラムを実施した。彼の任期が終了する前に、憲法制定会議はキューバ憲法を改正し、新たな6年間の大統領任期を創設した。マチャドは1928年に再選され、新法の下で1935年まで大統領を務めた。マチャドの第2期は、内戦と経済混乱により、砂糖の価格は大幅に下落し、多くのキューバ人は失業した。不安が高まる中1930年に、マチャドは警察に違法な政治集会とデモを解散させた。マチャド政権への反対は大きくなり、抑圧的措置を強化した。1932年に、マチャドは憲法を一時停止して、アメリカのフランクリンD.ルーズベルト大統領により、1933年8月12日にマチャドはキューバから追放されアメリカに定住した。






2022年2月9日水曜日

フランスのアンリ・カミュ少尉は、1863年10月14日に横浜の程ヶ谷宿に向かうため乗馬で井土ヶ谷村に入った地点で、尊皇攘夷派の浪士の3人に襲撃されて斬殺された。

フランス陸軍アフリカ猟歩兵第3大隊所属のアンリ・カミュ少尉(J.J.Henri Camus, 21歳, 1842年 - 1863年)は、程ヶ谷宿に向かうため乗馬で井土ヶ谷村に入った1863年10月14日に、尊皇攘夷派の浪士の3人に襲撃されて斬殺された。カミュは横浜居留地の警備のため上海より呼び寄せられて、来日して間もなかった。先頭に居たカミュは死亡した。同行していた他の2人の同僚のフランス人は逃走して命は無事であった。斬殺されて顔面が血まみれのカミュの死体を、ベッド上で写真を撮影して、フランス本国に井土ヶ谷事件を報告した。カミュの死体は、翌日10月15日にフランス教会のミサをして、横浜山手外国人墓地に埋葬された。

 榎の大木が茂み昼間も薄暗い森林に潜んでいた尊王攘夷派の3人の浪人が、カミュを襲撃した。カミュは右腕は切り落とされて、さらに太刀で斬殺されて、その場で即死した。英字新聞のジャンパン・ヘラルド(1863年10月17日付)は、1963年10月14日午後4時ころに居留地から約4.8km離れた井上ヶ谷という村で、一人の外国人の死体が発見されたニュースが各国領事館に通報された。川にかかる橋向こうにアフリカ狙撃兵第三連隊付き少尉のカミュの切り刻まれた残酷な死体が狭い小路に横たわっていた。約20ヵ所にわたる切り傷を伴った。片腕は完全に胴体から切り離されて、手にはまだ手綱の一部が握っていた。切断された腕は、死体から約10歩離断していた。取り調べの幕府の役人は、手かがりは皆無であると宣告した。

 井土ヶ谷事件は、江戸時代末期にて1863年10月14日(文久3年9月2日)に、武蔵国久良岐郡井土ヶ谷村字下之前(現在の神奈川県横浜市南区井土ヶ谷下町3付近)で、攘夷派の浪士によるフランス人士官の虐殺テロ事件である。襲撃した尊王攘夷派の3人のテロ襲撃犯は行方不明のままとなり逮捕されなかった。事件翌日に、フランス軍は外国人保護のために、横浜の山手に常時駐留を宣言した。フランスだけでなく、イギリスもアメリカも、不穏な尊王攘夷派の勢力に対して軍事的に威嚇した。フランス公司のド・ベルクールは徳川江戸幕府に対して虐殺されたカミュは軍人であり、フランス本国にて井土ヶ谷事件の謝罪と交渉を求めた。1864年5月にフランス使節団は、フランス政府に井土ヶ谷事件の謝罪と見舞金(3,5000ドル)を支払った。




2022年1月13日木曜日

皇道派の相沢三郎陸軍中佐が、1938年8月12日に陸軍省の統制派の永田鉄山軍務局長を、軍刀を抜いて斬りかかり刺突して暗殺した。

1937年8月12日午前9時30分頃に皇道派の相沢三郎陸軍中佐が陸軍省に到着して、山岡重厚整備局長との談話中に給仕を通して、統制派の永田鉄山軍務局長の在室を確かめた。午前9時45分頃に、陸軍省の軍務局長室に突入して直ちに軍刀を抜き、永田鉄山に斬りかかり刺突して暗殺した。永田鉄山は隣室に逃れようと、軍事課長室のドアに身体を当てるも、相沢三郎は体当たりして背中から軍刀で突き刺して、刃先は体を突き抜けドアまで達して刺殺した。相沢事件あるいは永田事件と呼称された。1938年1月28日から開廷した軍法会議は勅許奏請の手続きの段階となった。突如に1938年2月26日未明に、皇道派の青年陸軍将校らが二・二六事件のクーデターを勃発した。5月7日に死刑の判決となり、7月3日に銃殺刑が執行された。

 統制派は、当初は暴力革命的手段による国家革新を企図していたが、陸軍幹部である永田鉄山が陸軍大臣林銃十郎を通じて政治上の要望を実現する人事異動による合法的な組織で、列強に対抗し得る高度国防国家を目指した。それに対して皇道派は過激思想から、天皇への忠誠を誓い、結果を問わず危険な行動に走り、政財界の君側の奸を排除して天皇親政の下で国家改造する昭和維新を目指した。皇道派に敵対する永田鉄山が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から勝手に皇道派に敵対する統制派なる派閥の頭領にさせられた。皇道派が、統制派による人事の冷遇と排除に反発して、統制派の幹部を暗殺した。時代の転換点となり、個人主義、自由思想は一切排撃されて統制されて、時代は一挙に全体主義に逆戻りした。

 軍人はよく国家革新を論ずるが、革とは何か、どうすることが、どんな方法と設計でやることが、国家革新するのか、さっぱり判らない。重臣を殺害したり、クーデターをやることは、もはや言語道断であるばかりでなく、とても危険でもあり、愚劣でさえある。しかし軍人に対して、理論的にも、建設的な具体案で、かつ漸進的で段階的に、革新出来るというビジョンものを、よく得心させる必要があると、永田鉄山は示唆していた。やがて逆に、統制派であるも開戦派であった東條英機首相が1941年12月8日に、日本軍はイギリス軍との間で太平洋戦争に突入し、真珠湾攻撃して間もなくアメリカ軍との間に太平洋戦争が勃発した。




2021年12月6日月曜日

共産主義者であったハインリッヒ・キーペンホイヤーは、1933年6月8日にナチスの親衛隊と突撃隊によって暗殺された。

共産主義者であったハインリッヒ・キーペンホイヤー(Heinrich Kiepenheuer)は、1933年6月8日にデュッセルドルフの近郊で、ナチスの親衛隊(SS)と突撃隊(SA)によって暗殺された。その暗殺事件後に警察は、ライン川の橋の上で殺害された無残な死体を検証して写真を撮影した。鉄道員であったキーペンホイアーは、ナチスにとり違法なパンフレットである死(Die)を配布していた。キーペンホイアーは、SSとSAによる追撃からの逃走中に捕獲されて射殺された。

 ナチス・ドイツである国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP, ナチ党)がファシズム支配化する初期段階で、ナチスにとって邪魔者を暗殺した。ヒトラーがドイツ帝国首相に就任した1933年1月30日から、いわゆるレーム一揆が発生した1934年6月30日までのテロの犠牲者は、ナチス政権の権力の掌握と強化の開始点と終了点として研究されている。ナチスの初期段階で殺害された人々の総数は推定である。新聞報道の分析では、1933年1月31日から8月23日の間に約220人(ナチス反対派約196人、国家社会主義者約24人)が殺害された。歴史学者は、1933年10月までに殺害された人数を約500~600人と推定された。伝記作家は、ナチス支配の初期に少なくとも約500から約600人が殺害されたと推定した。警察本部からプロイセン内務省への秘密の報告書では、1933年2月27日の国会議事堂放火事件から3月25日までの間に、ベルリンだけで約247人が殺害された。リストには、SAやSSなどの国家社会主義組織のメンバーや、秘密国家警察などの国家の弾圧機関によって殺害された明らかな人数のみが含まれている。具体的なテロ犠牲者約353人は、名前、少なくとも関連する個人的な調書が網羅されている。

  1933/1934年の権力掌握期における国家社会主義者のテロによる犠牲者が分類された。

1) 悲惨なテロ対象となった犠牲者 

 共産主義者、社会民主主義者、ユダヤ人など排除者に属して、恣意的にSAや他の国家社会主義部門によって殺害された。公道や自宅、SAの地下室、ストームルーム、宿舎などで虐待と虐殺での死亡者、逮捕後に刑務所や強制収容所で殺害された者、さらに逃走中に逮捕されたキーペンホイアーも含む。

2) 裏切り者による犠牲者

ナチスの特定の有力者、孤立者は下級幹部から特に嫌われて、標的テロで殺害された。

3) 強制収容所や監獄で非業の死を遂げた犠牲者

強制収容所または刑務所の収容者は、看守らの野蛮な攻撃で、暴力による殺害、裁判所判決とは対照的に、非公式の殺害、上司からの命令、偽装されて意図的な殺害、(看守に殴り殺される、銃で撃たれる、首を吊らるなど)、看守による組織的または無慈悲な虐待と虐殺の結果として殺害された、過酷な労働条件の下で疲労困憊して倒れた心身の障害として死亡した。

4) 司法の場での殺人事件の被害者

1933年までのドイツの死刑制度にて、裁判所により不正に死刑判決が下された。1933年までドイツ帝国の刑事犯罪(殺人、強姦など)ではなく、政治犯罪(反対運動、腐敗など)で処刑された、問題のある法律や慣行に基づいて死刑判決を受け処刑された。







2021年5月2日日曜日

リンカーン大統領の暗殺に関与した4人の共謀者が、特別軍事法廷による裁判の判決後に、北軍が閲覧する絞首台で死刑が執行された。

リンカーン大統領の暗殺に関与した4人の共謀者が、北軍が閲覧する絞首台で死刑を執行された。特別軍事法廷による裁判の判決後に、デビッド・E・ヘロルド、ジョージ・A・アドゼロット、ルイス・ペイン、初めて女性であるメアリー・E・サラット(Mary E. Surratt, 写真は左端)夫人が絞首刑に処せられた。サラット夫人は、共謀者が出会ったワシントンの下宿の管理人であった。共謀者として逮捕された8名の裁判は軍法会議の形で行われて、8名全員が有罪となった。絞首刑は、1865年7月7日にワシントンのマクネア砦内にある刑務所で行われた。その他に、マイケル・オラウフリン、エドワード・スパングラー、サミュエル・アーノルド、ブースの骨折の手当をしたサミュエル・A・マッド博士は、陰謀で有罪判決を受けて、終身刑を言い渡された。オラウフリンは軍事刑務所で死亡した。その他のものは後に減刑された。
 約4年間にわたる南北戦争は、1861年4月12日から1865年5月9日に北軍の勝利で終結した。その5日後に、エイブリハム・リンカーン大統領が暗殺された。南北戦争を戦い抜いて、奴隷を解放して“キリスト以来の偉人”とまで讃えられたリンカーンは、1865年4月14日午後10時頃に、ワシントンD.C.のフォード劇場で『われらがアメリカのいとこ(Our American Cousin)』という喜劇を観劇中に暗殺された。南部出身の俳優であったジョン・ウィルクス・ブース(John Wilkes Booth)が、リンカーンの後頭部をピストルで銃撃して暗殺した。暗殺して劇場から脱出した後に追跡されて射殺された。アメリカ史上初の大統領の暗殺事件となった。
 フォード劇場の2階8号室の特等席にて、リンカーンの背後に近寄って、ブースは至近距離から拳銃で後頭部に銃撃した。南部の復讐と叫けび、約4m下の舞台に飛び降りた。暴君は死んだと叫んで駆け抜けて脱走した。銃撃されたリンカーン大統領は、翌日4月15日午前7時22分に56歳で死亡した。
 ブースは単独犯ではなく、他には6人の共謀犯人が逮捕された。ブースはアナコスティア川を船に乗って脱走して、3人の南軍兵士がブースの逃亡を手助けした。納屋に潜んでいたブースと共謀者を、放火して逮捕する際に、ブースは頸部に銃撃されて殺害された。一緒に納屋に立て籠もったヘロルドは逮捕された。軍事裁判ではブースの共犯者6人のうち、4人が絞首刑、2人は終身刑となった。

 


 

2021年3月11日木曜日

イタリアの匪賊として暗躍したサルヴァトーレ・ジュリアーノは、イタリアのシチリア島西端のカステルヴェトラーノで暗殺された。

イタリアの匪賊とシて暗躍したサルヴァトーレ・ジュリアーノは、1950年7月5日にイタリアのシチリア島西端のカステルヴェトラーノ(Castelvetrano)で暗殺された。第二次世界大戦で無法者となり、より多くのお金を持つ裕福な人々のみを襲撃した。シチリア島の血の掟のマフィアの伝統から、地元の農民はジュリアーノの共謀者となった。
 サルヴァトーレ・ジュリアーノ(Sarvaturi Giulianu)はシチリアの盗賊であり、第二次世界大戦にて1943年7月10日から連合軍のシチリア侵攻後に暗躍した。1943年の9月に、シチリアの食糧供給の約70%が闇市場から提供された。闇市場に食糧を密輸した時に、彼を逮捕しようとした警察官を射殺した。ジュリアーノは無法者になり、彼の人生のほとんどの間を、無法者の集団を指揮した。彼は派手で知名度の高い犯罪者となり、少なくとも逮捕を求められれたのと同じくらい頻繁に警察を攻撃した。さらに、彼は1945年から1948年まで、シチリアの分離独立運動の名目上の喧伝の役割を含めて、シチリアの政治における地元の権力の黒幕となった。彼と彼の匪賊は、ポルテッラ・デッシ・シネストレ虐殺事件などの法的責任を負っていた。発生した多数の死亡者に対する犯罪の責任には疑問が残った。
 広範囲にわたる国際的な報道は彼をイタリア政府に当惑させた。現代のマスメディアによってリアルタイムで報道された最初の人物となった。彼の盗賊全体で最大約2,000人の警察と兵士が配備された。彼は1950年7月5日に身内に裏切られて暗殺された。盗賊の英雄であるロビンフッドの最後となった。彼は金持ちから奪い、貧しい人に与えたと言われた。匪賊は、暴力により攻撃して略奪する犯罪集団である。しかし、匪賊は縄張り内では決して血族地域の身内からは略奪せず、血の掟により身内を厳格に処する。血縁社会が近代社会に転換すると、地域社会からは匪賊は消滅する。しかし、大恐慌などで貧困により、生活困窮者が蔓延して、地域社会が崩壊すると、致し方なく再び暴力的な匪賊集団が発生する。戦争の危機から、自己防衛のために戦争攻撃の集団が発生するに至る。

2021年2月24日水曜日

オーストリア系ナチスが、オーストリア首相であるエンゲルベルト・ドルフースを暗殺して、他国に対するナチス独裁化が勃発した。

突然、オーストリア系ナチスが、1934年7月25日にオーストリアの首相であるエンゲルベルト・ドルフースを暗殺して、他国に対するナチス独裁化が勃発した。10人のオーストリア系ナチスが、首相官邸に侵攻して、非武装の警備員を排除して、ドルフースを暗殺した。官邸を占領した時に、ドルフースは2発にわたり至近距離で銃撃された。1回目の弾丸は腹部から腰髄を貫通した。2発目が頸から喉を貫通して絶命した。
 1930年代を通して、ナチス・ドイツはドイツとオーストリアの併合であるアンシュルスのために熱烈に歓迎していた。しかし、1932年5月20日にオーストリアの首相となったエンゲルベルト・ドルフース(Engelbert Dollfuss)は、身長はわずか約150cmであるが、オーストリアの専制独裁を熱心に取り組んだ。1933年5月20日には、祖国戦線(Austrofascism)を結成して、イタリア系ファシズムをオーストリアで組織化した。1933年1月30日に首相に就任したヒトラーに対抗した。しかし、1934年7月25日のある蒸し暑い午後に、武装したオーストリア系ナチスは、オーストリアの首都ウィーンでドルフース首相を襲撃した。ナチス・ドイツが勇敢な小柄な首相を暗殺したことは世界に衝撃を与えた。ナチス・ドイツはオーストリア政府を掌握することにはイタリアの介入により失敗した。暗殺によるクーデターを鎮圧したクルト・フォン・シュシュニックは、ドルフースから首相を引き継いだ。
 最終的に、シュシュニックはオーストリアの将来を決定するために、1938年3月13日に国民投票の実施を公表した。ヒトラーは国民投票の結果を望まず、直後にオーストリアを攻撃した。1938年3月12日に、ナチス・ドイツはオーストリアの国境を越えた。翌日の3月13日には、ドイツ軍の戦車がウィーンを占領して、リングシュトラーセに沿って彷徨した。新たに4月10日に国民投票が実施されて、公式にオーストリアはナチス・ドイツに併合された。オーストリアのナチス・ドイツの傀儡であるナチス党員のアルトゥル・ザイス=インクヴァルトが新たな政権を率いた。ロスチャイルド邸宅が、ナチス・ドイツのゲシュタポの本部になった。ヒトラーは他国に最初の武装征服を行った。きらびやかなハプスブルク家の宝石であるウィーンは占領されて、もはやナチス・ドイツの一地方の町に過ぎなかった。オーストリアにとって、ナチス・ドイツの専制独裁政治が一早く到来した。

 

2021年1月6日水曜日

南ベトナム軍のクーデターにより、ゴーディン・ジェム大統領は捕獲されて、両手を縛られ護送中に頭部を銃撃され暗殺された。

1963年11月1日に南ベトナム軍のクーデターにより、ゴ・ディン・ジェム(Ngo Dinh Diem)政権を転覆した。翌日の11月2日に宮殿から地下通路でチョロンに逃げた、大統領と彼の弟のゴディン・ヌーは、南ベトナム軍兵士のグループによって捕らえられた。南ベトナム軍の合同軍本部に護送中に、両手を縛られた上で頭部を銃撃されて一緒に暗殺された。ジェムの死体は、アメリカ大使の家の隣の墓地にあるマークのない墓に埋葬された。1955年10月26日に、ディエムは初代大統領としてベトナム共和国の独立を宣言した。
 ジェムの暗殺は、南ベトナムの多くの人々に祝賀を引き起こすも、南ベトナムの政治的混乱にも繋がった。アメリカは、南ベトナム政府を安定させ、強力な脅威になる共産主義の北ベトナム政府を打破すめために、ベトナムにより深く関与するようになった。ケネディ大統領は1961年5月11日に、南ベトナム軍の訓練を名目にして、約4,00人の特殊部隊と約100人の軍事顧問を派遣した。1863年10月当時までに、アメリカ軍は約16,000人が駐屯していた。元ダグラス・マッカーサー将軍はケネディ大統領に、ベトナムの陸戦でアメリカ軍が行き詰まることを警告した。
 アメリカは、ジェムを暗殺したクーデターの計画に関与をを公に否認した。後に、アメリカ中央情報局(CIA)当局がクーデターを組織した南ベトナム軍のズオン・バン・ミン司令官に実行を支援して、約42,000ドルの支給が明らかになった。ジェムがますます独裁的に、南ベトナムの人々を支配した。ディエム政権は、仏教徒に対して、激しい闘争を繰り広げた。1963年8月20日にヌーの治安部隊は、サイゴンのサーロイ寺を襲撃した。仏像の前に足を組んで座っていた約400人以上の僧侶を逮捕して、他の何千人もの仏教徒が全国で逮捕された。1963年の夏に仏教の僧侶による抗議の焼身自殺が勃発した。ジェムらの残忍な弾圧が、アメリカ当局に政権を転覆する時期が来たと確信した。
 そのわずか3週間後の11月22日にテキサス州ダラスで、暗殺者がケネディ大統領を撃って射殺した。その時までに、アメリカははこれまで以上に南ベトナムの泥沼に深く関わった。ジェム政権の転覆への支援は、南ベトナムの戦争での管理に焦りの高まりを示した。アメリカは共産主義の反政府勢力との戦争に、直接的にかつ深く関与するように段階的に参戦した。リンド・B・ジョンソン大統領は、ベトナム政策を遂行するために最終的にアメリカ軍を約500,000人派遣した。

 ジェムの暗殺後、南ベトナムは安定した政府を樹立できず、いくつかのクーデターが起こった。グエン・バンチューは軍事クーデターで、ベトナム戦争が激烈であった時期に、1965年6月5日から1975年4月21日まで政権を獲得した。1975年4月17日にニクソン大統領から軍事支援を拒絶されて、大統領を辞任して、4月30日に南ベトナムの首都サイゴンは陥落した。