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2024年10月7日月曜日

キブンバ難民キャンプの道端にフツ族のルワンダ難民の死体が捨てられた。トラックがきて、死体を積んで行って捨てられた。

キブンバ難民キャンプの道端にフツ族のルワンダ難民の死体が捨てられた。この後にトラックがきて、死体を積んで行って捨てられた。推定で約120万人のルワンダ難民が、自国での内戦勃発後に、ザイール共和国へ避難した。ザイール共和国のキブンバ難民キャンプはゴマから北へ40分ほど、ルワンダとの国境に近く、ルワンダ難民キャンプの廃墟の上に建てられた。約10kmほど離れたルガレや約40kmほど離れたトンゴから難民が集まった。ギブンバ難民キャンプは、難民自身によって運営され、国連やNGOが難民委員会と協定を結び、難民キャンプ内でサービスを提供した。

 ルワンダ共和国にて、16世紀から少数部族のツチ族と多数部族のフツ族が対立した。1990年には、フツ族の政府軍とツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF)で内戦が勃発した。1993年8月に停戦合意したが、1994年4月に、ハビヤリマナ大統領の搭乗機が撃墜されて、内戦が再発して激化した。内戦で発生した大量の難民が、ザイール、タンザニア、ウガンダに流入した。1994年7月にルワンダ新政権が樹立されて、特にザイール共和国のゴマとブカブ地区を中心に約140万人を超えるルワンダ難民が流入した。その結果、ゴマとブカブ地区の難民キャンプは、コレラ、赤痢等が伝染病が流行して、一時は1日に約2,000人近い多数の死者が発生して、悲惨な危機的状況に陥った。

 約80万人を虐殺した側のフツ族側は、ルワンダで敗北したした事実を深く刻んだまま大量の難民が、コンゴ共和国に敗北の中に避難した。ルワンダ共和国内で政権を奪取した勝者のツチ族(RPF)は、殺害された側はフツ族を追及した。フツ族の殺人者たちを求めて深くコンゴ領内へと侵入した。敗者となったフツ族は、追われた祖国のルワンダへの帰還を信じて、コンゴ領内にできた難民キャンプからルワンダへの越境攻撃を仕掛けた。ルワンダ虐殺が1994年から1999年にかけてコンゴ戦争に変貌した。




2024年8月7日水曜日

1975年4月15日にカンボジアの首都プノンペンの都市部での火災から住民が逃走した。写真は明らかに1975年4月15日の夕方に撮影された。

1975年4月15日にプノンペンの都市部での火災から住民が逃走した。写真は明らかに1975年4月15日の夕方に撮影された。1975年4月30日のサイゴン陥落と同時に、隣国のカンボジアでは最大の悲劇が繰り広げられていた。1975年4月17日に、カンボジアの首都プノンペンは、ポル・ポトとイエン・サリーが率いる極左親北派、いわゆるクメール・ルージュに占拠された。その後の3年間、彼らは "農業共産主義 "を構築するために、史上最も残忍な社会実験を行った。すべての知識人を含む前政権のメンバーは完全に抹殺されることになった。ブルジョア生活の温床としての都市は、数日のうちに住民の人口が一掃された。クメール・ルージュの命令により、住民たちは急いでプノンペンを去った。

 政権を握ると、クメール・ルージュは急進的なプログラムを実行した。外国の影響から国を隔離し、学校、病院、工場を閉鎖し、銀行、金融、通貨を廃止し、すべての宗教を非合法化し、すべての私有財産を没収し、強制労働が蔓延する集団農場に都市部から人々を強制移住させた。この政策の目的は、農業労働を通じてすべてのカンボジア人を廃人にすることであった。

 プノンペンや他の都市でクメール・ルージュは住民に、「2、3キロ」だけ郊外に移動し、「2、3日」で戻ってくると告げた。 何人かの目撃者によれば、避難はアメリカ軍の爆撃の脅威」のためであった。クメール・ルージュが帰還まですべての面倒を見るので、家に鍵をかける必要はないと告げられた。避難を拒否した人々は、家を焼き払われ、即座に殺されることになった。クメール・ルージュによる民間人の避難は初めてではなく、1970年代初頭から、所有物を持たない住民の同様の避難が小規模ながら行われた。




2024年6月23日日曜日

2024年2月12日に、ガザ地区の最南端の都市ラファにイスラエル軍の空爆による犠牲となった子供の死体をパレスチナ人母親らが受け取り、嘆き悲しんだ。

2024年2月12日に、ガザ地区の最南端の都市ラファにイスラエル軍の空爆による犠牲となった子供の死体をパレスチナ人母親らが受け取り、嘆き悲しんだ。2月12日に、イスラエル国防軍はガザ地区の都市ラファへの攻撃を開始して、83人以上を殺害した。空爆は少なくとも1つのモスクと複数の有人家屋を破壊し、居住者のほとんどまたは全員を殺害した。ラファの病院の情報からパレスチナ人権センターは、死者には少なくとも27人の子供と22人の女性が含まれた。イスラエル政府は、2人の人質を救出する陽動作戦と公表した。

 2月12日は、アメリカのスーパーボール第8戦の開催日と重なり、アラブのメディアやソーシャルメディアでは「スーパーボウルの大虐殺」と呼称した。ガザ地区の人口の半分以上の130万人以上がラファに避難していた。避難してきたパレスチナ人々の大半が、広大なテント村に詰め込まれていた。イスラエル軍の爆撃や砲撃から逃避してきた多くのパレスチナ人が、ガザを南下するにつれて、飛び地を通ってラファの街に避難した。エジプトとの国境であるラファは、現在ガザを出入りする唯一の関所であった。

 イスラエル軍はガザ地区で、わずか4カ月余りの間に約12,300人以上のパレスチナ人の子どもを殺害した。ガザ保健当局は、2023年10月7日以降のパレスチナ自治区での死者総数の約43%を子どもが占めた。さらに女性と子どもを合わせると死者数の4分の3を占める。100万人以上のガザ地区の子どもたちは、イスラエル軍による数カ月のガザ地区の攻撃によって、約12,300人以上が殺害されて、約17,000人が家族と引き離され、1,000人以上が片足または両足を切断された。さらに610,000人以上が、イスラエルの爆撃や銃弾から逃れるために、都市ラファに閉じ込められた。











Warning: Palestinian women mourn a child killed in the Israeli bombardment on Rafah. People mourn as they receive the dead bodies of victims of an Israeli airstrike on February 12, 2024 in Rafah, Gaza.[Hatem Ali/AP Photo]

2024年4月24日水曜日

バルカン半島で起こったコソボ紛争にて、ジャヴィツァ村でNATO軍の1991年4月14日の爆撃で殺害されたコソボからのアルバニア難民一家の裂傷した死体が、わずかな荷物を積んだ荷車の横に横たわっていた。

バルカン半島で起こったコソボ紛争にて、ジャヴィツァ(Djakovica)村で、NATO軍の爆撃で殺害されたコソボからのアルバニア難民一家の裂傷した死体が、わずかな荷物を積んだ荷車の横に横たわっていた。1999年4月14日午後1時29分から2時間にわたり、NATO軍によるユーゴスラビア空爆中に、NATOがアルバニヤから5キロ離れたジャコヴィツァ村を爆撃した。多数の難民が殺害されて死体が散乱した。NATOは4月14日にコソボ西部の難民に対する空爆で、少なくとも64人が死亡し、20人が負傷したことを認めた。

 1999年4月14日の昼間の時間帯に、NATO軍機がコソボ西部のジャコヴィツァとデチャニの間の19kmの道路で、アルバニア難民の移動を繰り返し爆撃した。ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)が記録しただけでも、73人の市民が死亡し、36人が負傷した。攻撃は午後1時29分に始まり、約2時間にわたって続いた。ビストラジン、グラディス、マダナジ、メジャの村近くの車列ルート上の多数の場所で民間人に死者が出た。当初、NATOは戦闘機が軍用車両を標的にしたと発表した。その後、アメリカ軍は、F16パイロットが軍用トラックと思われるものに爆撃したと報じた。NATOは "深い遺憾 "を表明した。攻撃で3人のセルビア人警官も死亡した。

 コソボ紛争は、1998年2月28日から1999年6月11日までコソボにて武力紛争が勃発した。ユーゴスラビア軍とコソボ・アルバニア解放軍が戦闘した。北大西洋条約機構(NATO)は、コソボ紛争中にユーゴスラビア軍に対して空爆作戦を実施して、空爆は1999年3月24日から6月10日まで続いた。コソボからのユーゴスラビア軍を撤退して終結した。ユーゴスラビア軍によるアルバニア人の民族浄化に対抗した。NATOは、国連の承認もなく、人道的介入とした。ユーゴスラビア政府は、NATOの空爆の結果、民間人1,200人以上、最大2,500人が死亡し、5,000人が負傷したと推定した。






2024年3月15日金曜日

1994年7月21日に、ザイールのゴマ郊外約10kmにある難民キャンプで、ルワンダの難民の少女ちが、両親の死体のそばで泣いた。ルワンダにてツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF)からフツ族が逃れてきた。

1994年7月21日に、ザイールのゴマ郊外約10kmにある難民キャンプで、ルワンダの難民の少女ちが、両親の死体のそばで泣いた。ルワンダにてツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF)からフツ族が逃れてきた。何千人ものフツ難民が、難民キャンプにたどり着くも、コレラ等の流行で多くの命を落とした。

 ツチ族のポール・カガメは1994年の5ヶ月の間に、何百万人ものフツ族のルワンダ人をコンゴ民主共和国、ブルンジ、ウガンダ、タンザニア、ケニアの国境に追いやった。数百万人のフツ族のルワンダ人が、5ヶ月の間にすでに殺害されていた。ポール・カガミ下のルワンダでは、5ヶ月の間に、ルワンダ人の死体が千の丘の尾根に散乱していた。ポール・カガメは、5ヶ月の間に、ルワンダのフツ族の男性をアガフニから逃避しないように、ルワンダ全土に道路封鎖を設置した。5ヶ月の間に、何百万人ものフツ族のルワンダ人がすでに国を失い、両親を失い、叔父を失い、親戚を失い、姉妹を失い、兄弟を失い、祖父を失った。

 ポール・カガミ下で1994年り5ヶ月の間にルワンダはジャングルと化した。ポール・カガミは、インテルハムウェ民兵でさえ敢行できない殺害命令を下した。宗教指導者と難民を攻撃することを、ポール・カガメとツチ族が結成したルワンダ愛国戦線はそれを実行した。ポール・カガメは、カブガイ大聖堂に避難した3人のカトリック司教の虐殺を命じた。カガミは、彼らがバントゥー人である理由だけで、彼らの抹殺を命じた。補佐司教、司祭、修道女、兄弟、信徒の教会指導者、青少年指導者などの聖職者も虐殺された。悲惨な母親のエスペランス・ムカシェマは一緒に教会に避難した4歳のツチ族の男の子であるエスペランス・ムカシェマは、ツチ族によるジェノサイドのフツ族の生き残りで、4歳の息子は、ガクラのカソリック聖職者全員と一緒に殺された。

 ルワンダ虐殺は、フツ族の過激派により1994年4月7日から7月15日までツチ族の虐殺が勃発した。フツ族によるジェノサイドで107万4,017人が殺害され、その94%がツチ族であった。7月4日にツチ族のルワンダ愛国戦線が、ルワンダ全土を制圧して終結した。1994年以降のルワンダにおいてツチ族によるジェノサイド統治された。ルワンダ愛国戦線の勝利後に、約200万人のフツ族が、報復を恐れて近隣諸国、特にザイールの難民キャンプに逃れた。





2024年1月26日金曜日

1971年9月5日の正午ごろ、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)のクロイツベルク区境で起こった射殺事件である。脱走に失敗して射殺された逃亡者を、国境警備隊が引き戻した。

1971年9月5日の正午ごろ、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)のクロイツベルク区境で起こった事件である。脱走に失敗して射殺された逃亡者を、国境警備隊が引き戻した。東ドイツ国民を無制限に支配するドイツ社会主義統一党(SED)国家の主張は、国境制度にて最も明確かつ残酷に示された。ドイツ民主共和国当局の稀有な許可なしに国外に脱出する者は、健康や生命を危険にさらされた。

  冷戦下の1961年8月13日からベルリンの壁が建設されると、東ドイツ当局は自由な西ベルリンと管理下の地区を壁で分離した。公式発表によると、1989年までに国境を超えようとして射殺された東ドイツ市民の数は約1,245人に上る。そのうち1989年までにベルリンの壁を越えようとして約136人が殺害された。1989年に、エーリッヒ・ホーネッカーがベルリンの壁は50年後、あるいは100年後も存在するだろうと述べた時に、すでに少なくとも130人が国境警備隊の銃撃によって殺害されていた。最初の犠牲者は、1961年8月22日早朝、女性のアイダ・ジークマンは脱出を試みて、4階のアパートの窓から飛び降り、歩道に落ちて重傷を負って、ラザロ病院に向かう途中で死亡した。最近では、壁が崩壊する9カ月前の1989年2月に、20歳のクリス・ゲフロイが射殺された。彼がドイツの国境の壁の最後の犠牲者となった。1989年11月9日の夜に、ベルリンの壁は崩壊しして、東西ドイツの国境が開通した。

 多くの人々が、東ドイツの障壁をくぐり抜けて西側に逃亡した。東ドイツ当局は、国境を強化する措置をとった。壁に沿って10mおきに見張り塔が建てられた。東ドイツの国境警備隊の兵士たちは、カメラを渡され、国境の壁が建設される地域を1m単位の記録を命じられた。撮影された約1200枚のネガは、ポツダムの軍事文書館に保管されち段ボール箱の中から偶然に発見された。国境警備中の兵士が軽犯罪を犯すと、厳しく罰せられた。東ドイツ政府は、1973年10月に西ドイツに脱国者を処理する国境警備隊に射殺命令を出した。逃亡が成功して国境を越えて西ドイツに入った場合には、国境侵犯とドイツ民主共和国からの脱走を防げなかった国境警備隊には懲戒処分が下された。




2023年12月22日金曜日

クメール・ルージュによる処刑、強制労働、飢餓、病気から生還したカンボジア人が、タイとの国境を越えた。タイでは、カンボジア難民の弱者は疲労と病気で死亡した。

クメール・ルージュによる処刑、強制労働、飢餓、病気から生還したカンボジア人が、タイとの国境を越えることもあった。タイでは、カンボジア難民の弱者は疲労と病気で死んでいった。1979年11月までには、ジャーナリストがタイの国境に集まり始めた。そのうちの一人が、ガンマ/リアソン社で働くフランス人写真家であるアルノー・デ・ウィルデンバーグ(Arnaud de Wildenberg)が撮影した。カンボジア難民の多くはタイのアランヤプラテートの南にあるバン・タプリックに到着した。赤十字はそこで難民を選抜して、新しい難民キャンプが建設されたサカオに運送した。多くの人が周囲の森で倒れ、それ以上歩くことができなかった。サカオでは、クメール・ルージュが他の難民を脅し続けて、しばしばカンボジアのクメール・ルージュ支配地域への自発的送還を受け入れさせた。

 1979年半ばは、クメール・ルージュはまだカンボジア地域を支配していた。ベトナム軍のカンボジア侵攻が迫りつつあった。クメール・ルージュはタイ国境沿いの救援活動が利益になると考えた。クメール・ルージュは、国境を越えたところに武器を隠し、罪のない難民を装った。ベトナム軍に対するゲリラ攻撃に戻った。1978年12月25日に、ベトナム軍はカンボジアに侵攻し、間もなく国土の大部分を占領し、親ベトナム政府を樹立してカンボジアを統治し、1979年1月10日にカンボジア人民共和国が成立した。クメール・ルージュの残党はタイとの国境近くのカルダモン山脈に退却し、カンボジア西部では他の抵抗運動が勃発した。

 クメール・ルージュが以前に仕掛けた地雷やブービー・トラップが、カンボジア難民たちに大きな犠牲をもたらした。食料と新鮮な水の不足は、難民の疲労や病気に拍車をかけた。カンボジア難民がタイに押し寄せるようになってから、カンボジアの悲劇の犠牲者の増大が国際的に広く知られた。

 カンボジアの荒廃は、ベトナム共産主義者がカンボジア領土をゲリラ活動の拠点として使い始めたベトナム戦争に端を発した。アメリカ軍は疑われたカンボジア拠点地域を攻撃することで対抗した。ベトナム人は拠点を離れると、カンボジア政府軍との戦闘に巻き込まれた。ベトナム人はやがて、カンボジアの反政府勢力の代理人として登場した。戦闘がエスカレートするにつれ、反乱軍であるクメール・ルージュは急速に勢力を伸ばした。包囲されたカンボジア政府は1975年4月17日に降伏した。




2023年10月24日火曜日

1922年のロシアのボルガ地方のサマラ市における大飢饉にて、ロシア人が飢えに苦しみ餓死した農民の死体を収集して、荷車でサラマ市の集団墓地まで運搬した。

1922年のロシアのボルガ地方のサマラ市における大飢饉にて、ロシア人が飢えに苦しみ餓死した農民の死体を収集して、荷車でサラマ市の集団墓地まで運搬した。ロシアの農民の問題が、第一次世界大戦とロシア内戦による秩序崩壊によって餓死者が増大した。

 ウラジミール・レーニンが率いたボリシェヴィキが、農民の食料を奪うことで農民の力を削いだ。1921年から1922年まで続いたロシアの大飢饉で、約500万人以上が死亡した。第一次世界大戦による経済危機、5年間続いたロシア内戦、1921年の干ばつにより、約3000万人のロシア人が栄養失調に陥った大飢饉が発生した。最も被害が大きかったのが、ロシア南東部のヴォルガ川とサマラ川の合流点のサマラ市であった。レーニンは飢饉直後の1924年に死去して、後にヨシフ・スターリンがソ連の指導者となった。1920年代にロシアの飢饉は、広大なロシアのヴォルガ川とウラル川流域の約2,500万人が飢餓に陥った。1930年代には、スターリンによる農業集団化と富農撲滅運動により、ウクライナからソ連各地に大飢饉(ホロドモール)が発生した。

 特にサマラ市は、ロシア内戦により、戦争共産主義を進める赤軍部隊に食糧を供給するために、農民の農場から食糧の接収を命じて、窮状が悪化して最も被害の大きかった地域の一つとなった。さらにサマラの5月平均降水量は38.8mが、1921年には0.3mしか降らず、その後に深い霜が降り、数百万人が飢餓に直面した。サマラ市民は、草、土、犬、猫、革の馬具を食べることを余儀なくされた。飢餓が蔓延し、人々は生き延びるために想像を絶する人肉を摂取するようになった。

 スウェーデン生まれの北極探検家であるフリットヨフ・ナンセン(Fridtjof Nansen)は、身分証明書や国籍証明書を持ってないロシア難民に、ナンセン・パスポートを考案した。無国籍者の身分証明書は、約50以上の外国政府によって認められ、ロシア難民が合法的に国境を越えることを可能にした。当初のロシア難民が、他の難民にも適用された。1922年11月にナンセンは、1922年度のノーベル平和賞を受賞した。




2023年9月29日金曜日

1994年7月に、アフリカのザイールのゴマで、ルワンダ大虐殺により難民となったフツ族が、コレアの伝染病に襲われた。フランス軍のブルドーザーが、コレラの伝染病により死亡した死体を、集団埋葬するために集めた。

1994年7月に、アフリカのザイールのゴマで、ルワンダ大虐殺により難民となったフツ族が、致命的なコレアの伝染病に襲われた。フランス軍のブルドーザーが、コレラの伝染病により死亡した死体を、集団埋葬するために集めた。難民キャンプには、深刻なコレラの伝染病がまん延した。コレラ犠牲者の死体の多くは、アフリカの暑い太陽の下で露出して腐り、荒れ果てた火山荒野に積み重なった。他にも膨れ上がった死体が散乱して、世界史上最悪の疫病を必死で食い止めた。唯一の救援は集団墓地の掘削だけで、危機が終末的な範囲を示した。推定約120万人の難民がザイール国境を越えて流れ込んだ。

 1994年4月7日から7月15日に勃発したルワンダ大虐殺(ルワンダでツチ族に対するジェノサイドとも呼ばれる)では、アフリカ中東部に位置するルワンダの多数派フツ族が、少数派ツチ族を中心に80万人もの人々を殺害した。首都キガリでフツ民族主義者によって勃発した大量虐殺は、衝撃的なスピードと残虐さでルワンダ全土に広がった。一般市民は地元の役人やフツ勢力政府によって、隣人に対して武器を取るよう扇動された。ツチ主導のルワンダ愛国戦線が7月初旬の軍事攻勢によってルワンダを掌握するまでに、数十万人のルワンダ人が死亡し、約200万人の主にフツ族の難民がルワンダを逃れ、本格的な人道危機の事態が悪化した。ジェノサイドに協力し支援したのはルワンダ市民ぶあった。多くのツチ族や穏健なフツ族が、反ツチ感情に燃える隣人たちにより引き渡され、殺害された。難民のほとんどが新たに力を得たツチ反乱政府の報復を恐れたフツ族が、近隣のブルンジ、タンザニア、ウガンダ、旧ザイールの病気だらけの難民キャンプに詰め込まれた。

 1994年7月に、アフリカのザイール東部のゴマに住む約100万人近いルワンダ難民の間に、最悪の伝染病のコレラが流行した。国連難民高等弁務官事務所は、伝染病の流行で約12,000人近くが死亡したと推定した。バングラデシュ国際下痢症研究センターは、医療チームをゴマに派遣した。約2週間の滞在中に、ユニセフとザイール保健省と協力し、疫学的評価を行い、臨時治療センターを運営して、他の保健員にコレラと赤痢症の管理の技術的支援を行った。流行の原因の病原体と薬剤感受性を特定するため、ゴマに微生物学研究所を設置した。医療チームは、5つのキャンプ地のうち2つのキャンプ地にある多くの仮設治療施設を訪れ、医療提供者に技術的助言を行った。推定20万人の難民が流行の影響を受けたゴマ市の治療施設も訪問した。治療センターでもコレラによる死亡者は予想をはるかに上回った。

 治療センターでの全体の症例致死率は15%近くあった。研究所の調査により、初期の流行はテトラサイクリンとドキシサイクリンの抗生剤に耐性を持つコレラ菌と判明した。8月第1週までにコレラ患者数は減少したが、赤痢患者数は急速に増加した。主に赤痢菌1型が原因であり、赤痢菌はメシリナムを除くほとんどの赤痢治療薬に耐性であった。不適切な水分補給療法や保健員の経験不足もあり、死亡を防ぐことはできなかった。医療チームは、症例致死率が最も高い(14.5%)ゴマ市のカティンド臨時治療センターの運営を引き継ぎ、致死率を1%未満に下げた。




2023年8月1日火曜日

キベホ虐殺は、1995年4月22日にルワンダ南西部のキベホ国内避難民収容所で大虐殺が発生して、多くの死体が散乱して転がった。キべホ国内難民キャンプ内で約4,000人がルワンダ愛国軍によって殺害されたと推定した。

キベホ虐殺は、1995年4月22日にアフリカのルワンダ南西部のキベホ近くの約4万人以上の国内避難民が暮らす国内避難民収容所で発生した。大虐殺で、多くの死体が散乱して転がった。右端には、国連平和維持(PKO)のザンビア軍兵士が立っていた。国連ルワンダ支援派遣(UNAMIR)の一環として32人のオーストラリア軍兵士らは、キべホ国内難民キャンプ内で少なくとも約4,000人がルワンダ愛国軍(RPA)兵士によって殺害されたと推定した。ルワンダ愛国戦線の軍事部門が率いるルワンダ新政府は死者数を約338人と推定した。国内避難民の多くは、内戦から逃れてきたフツ族の市民であった。

 4月18日に、RPAの重武装した約1,000人の軍隊が、収容所を閉鎖するためにキベホに到着した。4月22日午前10時過ぎ、大雨の中、避難民がカミソリワイヤーやバリケードに向かって殺到するなか、RPA部隊が病院敷地内の群衆に向けて発砲した。RPA部隊はその後2時間にわたり、逃げる難民に向けて発砲を続けた。RPAは当初、群衆に向けて小銃を発砲して、その後に60mm迫撃砲を使用した。ルワンダ難民は追い詰められ銃撃された。RPAは昼食後に一時的に速度を落とし、午後6時頃まで撮影を再開した。国境なき医師団(MSF)とオーストラリア軍の医療チームは、多数の負傷者の対応に苦悩した。多く負傷者はその後にキガリ病院に搬送された。ルワンダ愛国軍の歩兵部隊が、砲撃の合間に負傷者を掃討した。基地や病院に搬送している間、医療チームは救護を続けた。病院も砲撃されて、ザンビアの敷地内に移された。虐殺は一日中断続的に続いた。難民収容所内のあちこちでルワンダ難民が殺害された。RPAはさらに4月22日午後5時以降に脱出を試みた別のルワンダ国内避難民に対して自動弾丸、ロケット推進の手榴弾、50口径機関銃を発砲した。

 RPAは4月22日から23日の夜にルワンダ難民の死体の埋葬を開始した。4月23日の夜明け、オーストラリア医療隊が立ち入った地域では、約4,200人の死体を検死した。死体はすでに撤去されいた。RPAがオーストラリア軍に死体の検死を強制的に停止した。撤去された遺体を除いて、まだ400~500体あると推定した。死者は銃剣による刺傷か至近距離の銃撃で死亡した。ルワンダ政府は約330人と国連当局者は約2,000人と殺害数を最小限に抑えた。ルワンダ愛国戦線の委員会は、現地視察は行われず、虐殺は国内避難民からの発砲があったと結論づけた。RPA軍の攻撃に群衆はパニックを引き起こし、暴動を恐れたRPA軍兵士らは群衆に無差別発砲した。

 1994年4月から5月のわずか3ヶ月の間に推定約80万人のルワンダ人が虐殺された。大虐殺は、内戦の勃発に端を発した民族間の激しい対立が原因で、フツ族の過激派がルワンダのツチ族と穏健派のフツ族に対して大虐殺した。ツチ族が支配するRPAが、フツ族が支配した旧政府に勝利を収めた。




2023年1月18日水曜日

朝鮮戦争の勃発直後に、北朝鮮人民軍はソウルを1950年6月28日から9月28日までの約3ヶ月支配して、当初約140万人いた人口が膨大な戦死者や餓死者などで3分の1まで減った。

朝鮮戦争が勃発した直後に、北朝鮮人民軍はソウルを1950年6月28日から9月28日までの約3ヶ月支配した。当初ソウルに約140万人いた人口が3分の1まで減った。悲惨で残国な北朝鮮はソウル市民を支配した。膨大な戦死者、餓死者、その他に政治的理由で避難者、食料を求め地方に移り住んだソウル市民が出た。

 北朝鮮に支配されたソウル市民の感情は徐々に悪化した。食糧の配給制と徴兵の問題、ソウルで行った人民裁判などがソウル市民に虐待と虐殺を招いた。北朝鮮軍は同時に、到着した翌日の6月29日から当地の学生を自治隊と動員し、各家庭へ調査した。食料保有量調査で、学生たちは銃を背中に背負い、赤い腕章を着けた。各家庭ですべての食料を提出させた。占領中の北朝鮮軍兵士に渡した。没収された食料は全くソウル市民の元には戻らず、朝鮮労働党だけに配給された。その結果、ソウル市内に餓死者が続出する事態に陥った。

 北朝鮮によるソウル占領で、徴兵やメディア統制も強制された。ソウルの若者を召集して、義勇軍を結成して、北朝鮮に戦争協力させ、戦地動員令を発令した。対象年齢は19歳から37歳で、より若い中学生も強制的に動員された。後に金日成は、韓国で約40万人を動員したと公言した。当然、朝鮮戦争の戦死者が出る。家族の不満は高まった。新聞では、どの大学から何十人、どの中学校から何百人、ときには女子中学校から学年全員の約200人が徴収された。アメリカや大韓民国に敵愾心を燃やさせ、義勇軍を支持させ、志願後にすぐに出陣させた。北朝鮮の体制に反抗者の人民裁判や新聞の発行禁止、北朝鮮体制の機関紙に切り替えた。

 6月25日午前4時に朝鮮戦争が勃発して、ソウル市を包囲していた北朝鮮の朝鮮人民軍は、6月28日11時30分からソウルの中心部に侵攻した。6月28日を境に当時約140万人いたソウル市民は大韓民国ではなく朝鮮民主主義人民共和国の市民になった。3日前の北朝鮮側の先制攻撃に対し、韓国軍は装備・兵力ともに大きく劣りソウルは占領され、撤退して、水原市に遷都した。北朝鮮軍がソウルに侵入した時に、ソウル市民の約半分は街に出て、人民軍を熱烈に歓迎した。赤い国旗を振って万歳と叫び、学校の国旗掲揚台に北朝鮮国旗を掲げた。北朝鮮の戦車は西大門刑務所に向かい、監獄の中にいた左翼の政治犯などを解放した。大韓民国の右派政治家たちは、3日前の6月25日に北朝鮮軍の南下の噂から、すでにソウルから避難していた。

 北朝鮮が侵攻する情報が6月25日に伝わるや、ソウルから避難した市民ら約40万人が避難した。その人数の約8割は以前は、北朝鮮で共産主義の恐怖から混乱期に南のソウルに避難した難民だった。その他は北朝鮮から要注意の右派政治家、資本家などだった。ソウルに残っていた市民は当初は、意外と冷静だった。ソウルに、北朝鮮の人民軍が、ミアリ峠を超え、恵化門に膨大な北朝鮮の戦車、車や馬車、兵士が溢れた。北朝鮮人は、北西地方の方で、言語、風習、血統は同族であった。当初は、ソウル市民は敵兵だと考えず、遠方の兄弟が故郷に帰ったと感じた。ソウル市民は、赤い旗を振り、北朝鮮軍に付いて回り、仕事を手伝うソウル市民が最も多かった。

 朝鮮戦争は前半は北朝鮮が有利、中盤に韓国側が国連軍の参戦で巻き返し、後半に中国義勇軍の参戦により北が再び陣地を挽回した。北朝鮮のソウル市は、9月25日にアメリカ軍と国連軍の仁川上陸作戦で戦況が逆転した。ソウルは9月28日に大韓民国側に奪還された。逆に10月19日に、韓国軍側は平壌を占拠した。




2022年7月27日水曜日

1978年からベトナム軍の侵攻により、カンボジアから逃避した衰弱して餓死した難民の子供の死体は、タイ国境周辺のジャングルの空き地の中に見捨てられ放置され散乱した。

約12万人のベトナム軍が1978年12月25日に、カンボジアに侵攻した。1979年1月7日には、首都プノンペンが陥落した。1978年12月に結成された親ベトナム派のヘン・サムリン議長の救国民族統一戦線が、カンボジア全土の制圧を公言した。それに対抗して、ポル・ポト議長の民主カンボジア政府軍は、カンボジアの国境沿いで徹底抗戦のゲリラ戦を継続した。その戦火に追われた民間カンボジア難民が、1979年1月頃から続々とタイ国境を集団で越え始めた。

 タイ軍は、カンボジアの共産主義勢力がタイ国内に流入を阻止した。そのため民間カンボジア難民は、国境線上で銃剣と地雷で追い返された。4月頃になると、国境地帯は雨季に入り、ジャングルに迷入したカンボジア難民は、栄養失調とマラリアなどの感染症で多数の死者が発生した。カンボジアから逃避した衰弱して餓死した難民の子供の死体は、タイ国境周辺のジャングルの空き地の中に見捨てられ放置され散乱した。

 1979年10月11日に約1万人のカンボジア人の難民集団が逃避して国境周辺のクロンワー村に到着した。その道端には、多数の歩行困難となった重病の難民が転がった。その自由病の難民は見捨てられて、絶命後の死体が散乱した。10月2日には、国境周辺で激闘が展開された。森の道端には、多数の瀕死の難民が横たわり、やがて生命が途絶えた。クロンカイテェムの山林には、新たに約2万人の難民が出没した。山地から下る難民は、タイ軍が流入を阻止するバリケードを避けて、越境をした。

 タイ・カンボジア国境約800キロには、川の国境もある。広いところで約20m、狭いところでは約10mに満たない。この地域が平和であった頃は、両国の国籍を持つ人々は何の苦もなく川を渡っていた。タイ語とカンボジア語を喋り、川の向こうとこちら側で 親戚同士も珍しくなかった。カンボジアの2度にわたる政変は、国境の1本の線に、多くの生命に意味を付与した。1975年4月、アメリカに支援されていたロン・ノル政権が倒れると、カンボジア政府軍の敗残兵らが難民となり、川を渡って、国境地区に住み着いた。次いでポルポト派の民主カンボジア政府軍が、ベトナム正規軍と数千人のヘン・サムリン軍に追われ、いま国境を越えて追い出された。カンボジア難民は大量で、悲惨で、複雑であった。

 ポル・ポト派の正規軍兵士もいれば、家族を殺されたとホル・ポト派に恨みを持つと同時にベトナム軍の支配を嫌う者もいた。軍人が常に家族を伴って、難民と兵士の区別をいっそう困難なものにした。一部の例外を除き、難民が疲れ、飢え、病んでいることは明白であった。難民の約80%が熱帯性のマラリアにかかり、ウイルス性肝炎、結核も多く、毎日毎日彼らは死んでいった。

  1979年10月24日、国境の村のクロンワーからサケオのキャンプへの移動が始まった。総数3万人のうち1万人は、キャンプ行きを拒否してカンボジアへ帰って行った。どちらの行動もとれない約500人の病人が置き去り放置された。1日に20人くらいが息を引き取っている。1979年末には、カンボジア難民の数は約68万人となり、カンボジア領の国境沿いに約100万人の難民が集結した。チュイ・ポンはカンボジア語で助けてという意味だが、国境でこの声を聞かない日はなかった。




2022年6月23日木曜日

ロシアの独立系新聞のドミトリー・ムラトフは、ノーベル平和賞のメダルが約1億350万ドルで落札され、ロシア・ウクライナ戦争によるウクライナの子供難民に全額を充てた。

ノーベル平和賞のメダルが競売にかけられ約1億350万ドル(約140億円)で落札された。ロシアの独立系新聞ノーバヤ・ロシアのガゼータ(Novaya Gazeta)のドミトリー・ムラトフ(Dmitry Muratov)編集長は、6月16日にロシアから脱国してから、2022年6月20日にアメリカのニューヨークの競売会場にて、売上金はロシア・ウクライナ戦争下にて、ウクライナ難民に充てるとし、市民の連盟により人道支援に対して金が支払う平和を強調した。ムラトフは、「一銭たりとも受け取らない。ウクライナの子どもらを支援するため、全額を国連児童基金(ユニセフ, UNICEF)に寄付する」と表明した。医療や教育など、幅広い分野で役立ててほしいと訴えた。6月20日は世界難民の日であり、2000年12月4日に、国連総会で毎年6月20日を 世界難民の日(World Refugee Day)と決議された。

 光り輝くノーベル平和賞のメダルの重さは175gで金は4.6gである。ムラトフは「私は、このメダルを今後、見ることはないだろうが、メダル売却によって生まれる収益で、救われる人たちの未来を目にしたい。世界難民の日は何より大事なのは、今も戦争が続いて、最も苦悩している市民を助ける必要があることだ」と述べた。既に、ムラトフは現金払いで約50万ドル(約6800万円)を寄付していた。

 ムラトフはロシアで表現の自由を守ったとして2021年に平和賞を、フィリピンのマリア・レッサと共同受賞した。ノバヤ・ガゼータは、1993年4月1日ソ連崩壊後に設立された。2000年以降に、アンナ・ポリトコフスカヤを含む同紙記者と協力者6人が暗殺された。ロシアのウクライナ侵攻直後の3月28日に事業を停止した。ロシア政府は、ウクライナにおけるロシアの行動を特別軍事作戦と呼称した。それを戦争と表現した者は、重い罰金か閉鎖に追い込まれた。4月7日にロシアの列車内で溶剤のアセトンを混ぜた赤いペンキで襲撃された。

 今後について「私は政治家ではなく、一般市民だ。市民にできることは、自由な報道をすることだ」と述べ、今後もロシアのプーチン政権からの圧力に屈せず、ジャーナリスト活動を続けていく考えを表明した(共同)。





2021年2月4日木曜日

スペイン南部のタリファの海岸を巡視しているスペインの沿岸警備隊員が、海路でスペインに到達しようとしたサハラ以南の若いアフリカ人の死体を通り過ぎた。

2000年7月24日に、スペイン南部のタリファの海岸を巡視しているスペインの沿岸警備隊員が、海路でスペインに到達しようとしたサハラ以南の若いアフリカ人の死体を通り過ぎた。沖合では、沿岸警備隊員がゴムボートに乗って難民と移民を探索していた。

  欧州連合が北アフリカを通る陸路を遮断したために、アフリカ系の移民と難民はモロッコ沿岸沖の島々の海路を唯一の入国可能な選択肢と見なした。特にナイジェリア、ギニア、コートジボアールの西アフリカの出身の難民や移民が多かった。タリファは、ジブラルタル海峡を越えて、アフリカのモロッコに地中海を通じて面した。スペインの沿岸警備隊は、厳しい突風により転覆する危険性を、急増する移民と難民に警告した。難民が国境を越えて流入しているが、スペイン当局に捕まって返還されている。生死の危機は常に短期的な緊急事態であると仮定して、移民と難民はは何も準備していなかった。次の数か月の間に、移民と難民のエネルギーと資源が減少するにつれて、緊急事態は慢性的な継続であった。
  過去10年間、多くの国々の政府は、さまざまな措置を実施することにより、難民や無許可の移民の到着を阻止するように努めた。彼らは国境に柵を建て、武装したボートを沿岸海域のパトロールに送りました。無許可の人々を輸送する航空会社やトラック運転手に罰金を科した。庇護される希望者を投獄するか、わずかな手当を補うために働くことを禁じた。
 多くの難民や移民にとって、抗争に負けた犠牲は高くなっている。彼らはだまされ、強盗され、レイプされ、殺されました。移民や難民のボートが、目的国に向かう途中で沈んだとき彼らは溺死しました。あるいは彼らは移動するトラックの倉庫内で窒息死した。彼らは山脈を歩いては凍死しました。彼らは国境にまたがる砂漠で喉の渇きで脱水死した。
  移民と難民の密輸業者が廃業して、地下鉄道も閉鎖されたとき、迫害された貧しい人々はますます逃亡が困難となる。多くはアフリカに閉じ込められたままになる。移民と難民は、自らの道を見つけてより良い場所を見つける人もいれば、失敗する人もいる。1999年に、2人の14歳の少年が、ギニアから飛行機で脱国してベルギーに向かう直前に、飛行機の下部構内に隠れた。少年たちは飛行機の下部構内で凍死した。少年たちの貧弱な所持品の中に、「私たちが死んだ場合...」と書かれた封筒に、「アフリカの子供たちを助けるために。私たちの命を犠牲にして、危険にさらしています。アフリカには苦しみが多すぎて、貧困と闘い、アフリカでの戦争を終わらせる必要があります。」とメモがあった。

 

2018年8月23日木曜日

母親と生後9日目の赤ん坊は難民としてコミラからバングラディッシュの国境をわたる時に射殺された。

母親は1971年に、難民としてコミラからバングラディッシュ国境をわたる時に射殺された。彼女の生後9日目の赤ん坊も死亡した。赤ん坊の死体は祖父が運んで横たった。コミラはバグラディッシュ東部のチッタゴン州の都市で、ダッカから約80kmに位置した。
 英領インドは1947年に独立を達成したが、イスラム教地域はインドを挟んで東西パキスタンに分離独立した。経済や文化の面では違いが大きく、国土はインドにて1000km以上も隔て、様々な摩擦を起こした。政治は西側に偏った政策が実施され、1970年12月の選挙で人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟が勝利すると、西パキスタンは1971年3月に軍事介入を行っった。東パキスタンは独立を求めて内乱になり、バングラデシュ独立戦争で、インドが東側パキスタンの独立を支持した。第三次印パ戦争がインドの勝利で終わって、1971年にバングラデシュが独立した。しかし、インドからの独立以前から、イスラム教を旗印とする東パキスタンとチッタゴン丘陵地帯の先住民族との折り合いは緊張状態が続き、バングラデシュが1971年に独立すると悪化した。先住民族は1972年にチッタゴン丘陵人民連帯連合協会(PCJSS) を作った。1972年からバングラデシュ軍とPCJSSとが戦闘状態に入り、内戦や洪水による経済は疲弊により、1975年にバングラデッシュは軍事クーデターが起きて軍事政権となり、さにら戦闘は20年間も続いた。



2018年2月13日火曜日

膨大なビアフラ難民の子供たちには栄養失調の蛋白質の枯渇からクワシオルコ症候群で餓死した。

アフリカのナイジェリアの東部州で、迫害されたイボ族の難民らを中心としたビアフラ共和国が分離独立を宣告した。ナイジェリア内戦が1967年7月6日から1970年1月21日まで勃発した。ビアフラ共和国はナイジェリア連邦国に侵略されて、物資や食糧が途絶えて、厳しい飢餓と虐殺により、膨大なビアフラのイボ族が死亡した。1968年7月から8月に極度の飢餓では、1日あたり約10,000人も餓死して、そのうち児童らは約2ケ月間で約20万から30万人にも達した。膨大なビアフラ難民の子供たちには栄養失調による蛋白質の枯渇からクワシオルコ症候群が発生して餓死した。


2018年1月30日火曜日

ニジェール共和国は内戦が頻発して、難民らの幼児は無残に肋骨と骸骨が浮き出で瀕死の栄養失調で餓死に陥った。

ニジェール共和国は、サハラ砂漠の南側で、内戦が頻発する地帯にある。連続する軍事クーデターにより、1974年4月にはクンチェ軍事政権が、1996年1月にはマイナサラ軍事政権が、2010年2月にはジボ軍事政権が樹立して、世界でも最貧国となった。軍部のママドゥ政権下で、2004年の大雨で2003年から2005年にサバクトビバッタが大量発生と、2005年から2006年にニジュール食料危機が、2007年にはトゥアグレ人が反政府の武装闘争を展開した。2005年9月に難民キャンプで、無残に肋骨と骸骨が細った幼児らが瀕死の栄養失調で餓死に陥った。長期の下痢と嘔吐が継続して摂食が不可となった。生き残れず神のおほしめしのままになった。



2017年12月20日水曜日

ルワンダ難民キャンプにてコレラの感染で大量の難民が死亡し、夫が妻の遺体を死体の集積所に横たえた。

ツチ族のルワンダ愛国戦線が、1994年7月にルワンダを制圧して、フツ族を大量虐殺した。膨大なフツ族の難民が発生して周辺に逃避した。ザイール・ゴマにおけるルワンダ難民キャンプでは、1994年7月21日に衛生と栄養状態の悪化により、細菌性のコレラの感染で大量のルワンダ難民が死亡した。夫がその妻の遺体を、死体の集積所に横たえた。


2017年7月27日木曜日

ソマリア内戦から逃避した難民は、イエメンの海岸にて蹴殴されて海に棄てられ溺死した。

ソマリアは第2次世界大戦後に、英国とイタリアから独立した。1988年から内戦が勃発して、2000年から更に国家の分裂が進み、氏族・軍閥・宗派など様々な勢力が対立する群雄割拠状態となる。2006年から国境近辺の紛争からエチオピア軍が侵略をした。内戦による海賊らは沖合の船は襲って、ソマリア内戦から逃避した難民は、イエメンの海岸で蹴殴され、海に棄てられ、海岸に溺死した死体が散乱した。



2017年7月12日水曜日

イスラエル軍はパレスチナ難民キャンプを砲撃と虐殺をして土砂で埋めて証拠隠滅をした。

イスラエル軍は、パレスチナ難民が避難していたジェニン難民キャンプを2002年4月に砲撃した。30台あまりの戦車で包囲して砲撃をして虐殺した。数週間にわたり、証拠隠滅のために、破壊して土砂で埋めた。土砂の中に埋められて放置されたパレスチナ難民の死体であった。