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2024年11月14日木曜日

ベトナム人の餓死者は、死体が山のように積み上げて、車で運ばれて処理された。1944 年冬から1945年に飢餓が日本軍が占領して、米不足がベトナムに広がった。

ベトナム人の餓死者は、死体が山のように積み上げて、車で運ばれて処理された。1944 年冬から1945年に飢餓が日本軍が占領したベトナムに広がり、ますます深刻になり、米不足は田舎から都市部、さらには首都ハノイにまで広がった。多くの地域で、家族全員、近所全体、あるいは村のほぼ全体が死亡した。日本軍兵士に発されないようにヴォー・アン・ニンは、ベトナム人の餓死者をみつめ、ひそかに写真として残した

 5年にわたる日本軍のベトナム支配によっておこったもっとも大きな災難は、食料危機であった半世紀以上におよぶフランス軍の植民地支配と5年間の日本軍の占領で、ベトナムナの生産と生活は悲惨なものになっていた。とりわけ日本軍の占領政策は、ベトナムナを食料や物資の補給基地と位置づけたために、生産された米は剥奪されて、トウモロコシなどの食用作物にかわって、ジュート(袋や綱の原料で麻の一種)の栽培が強制されて、食料不足に苦悩した。

 1994年から1945年にかけてのベトナム北部一帯の冬は、特にに寒さがきびしく、ただでさえ食料難に苦しむ人びとにダブルパンチをくわえた。その結果として膨大な餓死者をだすことになった。その数は一説では200万人ともいわれている。にもかかわらず日本軍の倉庫には、米が山のように積み込まれた。

 特にベトナムでアトダウの年の旧正月(1945年2月13日)に、空腹の隣には寒冬が到来して、首都ハノイでは気温4度まで下がった。泣き叫ぶ老婦人、壁の隅に群がってマットの上に横たわる裸の子供たち、裸で道端に横たわる父親や子供たち、ねじれた死体が散乱した。犠牲者数は、ベトナムの人口1,000万人未満のうち200万人が死亡した。ベトナムの北部山岳地帯では、軍隊と大衆が拠点を攻撃して地区の占拠に対して蜂起したが、人々に配布された穀物や塩の倉庫を破壊して、兵士とゲリラのために保管された。1945年3月から7月にかけて米倉庫の破壊を、ベトミンが扇動した。人々は穀倉を自ら破壊するように促され、税金を支払わないように扇動され、米の分配を要求された。




2024年9月11日水曜日

日本軍の戦闘機がアメリカ軍のUSSサンガモン(CVE-26)護衛空母を爆撃した。サンモガンに体当たりした日本軍の特攻隊員は、即死しないで戦傷を伴って、アメリカ軍兵士らに救助された。

第二次世界大戦の太平洋戦争にて、日本軍の戦闘機がアメリカ軍のUSSサンガモン(CVE-26)護衛空母を爆撃した。サンモガンに体当たりした特攻隊員は、即死しないで戦傷を伴って、アメリカ軍兵士らに救助された。その爆撃中に、日本軍の「ジーク」戦闘機が撃墜された。太平洋に落下した日本軍の戦闘機のパイロットは、1944年10月20日にレイテ沖でUSSトラセン(DD-530)に救助されて、その後にサンモガン空母の病室に移送された。

 10月20日のアメリカ軍のレイテ島上陸に先立って、サンガモン護衛空母は、アメリカ軍侵攻軍の先遣部隊を支援するために定期的な戦闘機の発着を開始した。サンガモンは、レイテ島とビサヤの飛行場に対する攻撃を行った。10月20日、サンガモンから発着した戦闘機は、上陸部隊と輸送区域の船舶を援護した。10月20日に、サンガモンは日本軍の再空襲を受けて、最上部の隠れたデッキであるメインデッキレベルに被弾した。日本軍の三菱のA6M5零式艦上戦闘機によって爆弾が投下された。その爆弾は、0.61m X 1.83mのメッキ部分を引き裂いて、その後にレイテ沖の海に落下した。「ジープ」空母から約270m離れた地点で爆発した。

 レイテ島侵攻の間に、特別攻撃隊以外の部隊の日本軍爆撃機の搭乗員による特攻は、最初の神風攻撃として呼称された。レイテ沖海戦は1944年10月23日から10月25日に勃発した日本軍の戦闘機が組織的な神風特別攻撃を行った最初の戦闘であった。日本軍アメリカ軍の戦艦同士の史上最大の海戦であった。日本軍は約12,000の戦死傷者が犠牲となった。アメリカ軍は、約3000人の戦死傷者が犠牲となった。




2023年11月24日金曜日

日中戦争の大陸打通作戦にて日本軍と中国軍の戦闘は過酷だった。多くの軍隊の兵士が戦死して傷付いた。中国軍は広西省に新設された野戦病院に担架で死傷兵士を搬送された。

日中戦争の大陸打通作戦にて日本軍と中国軍の戦闘は過酷だった。多くの軍隊の兵士が戦死して、傷付いた。このために、中国軍は次々と野戦病院を増設した。それでも死傷兵士の完全収容は不可能だった。広西省に新設された野戦病院に担架で死傷兵士を搬送した。それを中国人の従軍看護婦が見守っていた。徒歩で到着した中国人の戦傷兵士は野戦病院前にて、治療の手続きを待機した。

 桂林・柳州の戦いにて、日本の第11軍は桂林攻略を計画した。全県と桂林の間は約120kmもあり、支那派遣軍は一号作戦計画時から、柳州は第23軍が攻略を実施させ予定が、発動しなかった。第11軍は桂林攻略に固執し、その計画は1944年10月5日に決定した。

 桂柳攻略作戦の主力は日本の第11軍で、第23軍は側面から重慶軍を牽制した。第23軍傘下の第104師団は、10月14日に広西省に侵攻して、中国の重慶軍を牽制した。日本軍の丹竹平地で飛行場の占領も、中国軍に脅威を与えた。10月中旬に武林へ侵攻した第22師団は、アメリカ軍の爆撃機の来襲が激しく、防空壕に留まった。

  第11軍は10月26日に、桂林攻略の命令を受け、第3師団と第37師団に発進命令を出した。第3師団は広西省に侵攻すると、早くも中国人住民から自衛団の抵抗をうけた。11月4日に、歩兵第34連隊竹下大隊は雨中を突破して、不眠不休で修仁の高地で炊事を始めた。重慶軍はこの火に向けてアメリカ製10ミリ榴弾砲で初めて猛射した。

  10月28日に、第58師団の正面で重慶軍が退却を始めた。第58師団の第一線部隊が追撃を開始した。第40師団が桂林に進撃を開始した。第40師団は桂林の南側から攻撃を、中国軍から反撃され、逆に苦戦を強いられ、東方正面からの攻撃を命じらた。

 11月4日、湘桂作戦の最大の作戦である桂林城攻略のため七星巌の夜襲が執行された。中国軍は陣地内から銃や迫撃砲で応戦を開始した。日本軍は火焔放射器を使用したが、重慶軍の激しい防戦に会い、血戦は11月8日の朝まで続いた。中国軍側は日本軍は毒ガスを使用したと抗議した。

  11月9日に、第58師団による桂林の総攻撃が勃発した。日本軍は野砲42門を中心に、空からは第5航空部隊が市街地を銃爆撃した。重慶軍の応戦は激しく、日本軍の戦車へも果敢に砲撃を加えた。日本軍は水東門から桂林城中に突入に成功して、城内は混乱状態に陥った。敵味方の識別も難しい中での市街戦がはじまった。激闘一日半、桂林は第11軍が確保した。日本軍側の犠牲者数は不明で、中国軍の戦死者は約5600人、捕虜は約13,000余人を数えた。日本軍が桂林、柳州を占拠して「一号作戦」の目的である中国西南部のアメリカ軍用航空基地は全て奪取した。




2023年11月10日金曜日

アメリカ軍のメリル・マーダーズ隊員が、ビルマの戦いで殺害した日本軍兵士の死体を見つめた。1944年2月末から8月初旬で、ビルマの戦いは、病気、ヒル、昆虫、過酷な地形、天候との絶え間ない闘いであった。

アメリカ軍のメリル・マーダーズ(Merrill's Marauders)隊員が、ビルマの戦いで殺害した日本軍兵士の死体を見つめた。メリル・マレーダーズ隊員のほとんどは、ビルマで戦いの任務に志願した熟練した戦闘員であった。アメリカ軍の戦闘部隊のメリル・マーダース隊員は、先鋒大隊として日本軍と戦って、日本軍の戦線の奥深くで参戦した。ビルマで戦闘に参戦したのは1944年2月末から8月初旬で、ビルマの日本軍との戦いは、病気、ヒル、昆虫、過酷な地形、天候との絶え間ない闘いであった。

 1943年8月のケベック会議で、ビルマにて日本軍の補給線と通信網を破壊し混乱に陥れる一方で、街道の再開するために、日本軍の背後へのアメリカ軍の長距離の侵攻作戦を決定した。ルーズベルト大統領は、危険な任務への志願者を募る大統領令を出した。約3,000人のアメリカ軍兵士が志願に応じた。部隊の正式名称は第5307複合部隊であり、コードネームは後に司令官フランク・メリル准将からメリル・マーターズと命名された。

 メリル・マーターズ部隊の募集は1943年9月1日に始まり、1944年8月10日に解散した。アメリカ陸軍第5307混成部隊で、日本軍が支配するビルマで後方に長距離に侵攻するために組織され訓練された。メリル准将が指揮した約2997人のアメリカ軍兵士を、メリルの襲撃隊と呼称した。

 メリルの襲撃隊は、1944年2月24日に最初の作戦で2,750人が参戦して、3月7日にワラウバムを占領後に、約2,500人が残存した。3月12日から4月9日の第2次作戦で、67人が死亡し、379人が傷病のため避難した。約2,000人に減少した第5307部隊は、4月28日の第3作戦で、ミィトキーナ飛行場奪取作戦のために、中国兵とカチン原住民兵を増員した。その奪取時に部隊は約1,310人に半減した。5月17日から6月1日に部隊の大部分は病気で苦しんで、空路で後方の病院に避難した。ミイトキーナの町が占領後に、当初のガラハド部隊のうち約200人が残存した。

 1944年2月から5月のマーターズ作戦で、ビルマ北部を奪還して、インド鉄道基地と中国への旧ビルマ街道を結ぶレド(Ledo)街道を開拓するために、中国第22師団と第38師団と緊密に連携した。カチン原住民兵は、ビルマ北西部のフカウン渓谷からイラワジ川沿いのミトキナまで、ジャングルを抜けて山を越えて行進し、戦った民兵であった。5つの主要な戦闘と30の小規模な戦闘で、メリル・マターズ部隊は、日本軍第18師団兵士と衝突して侵攻した。日本軍主力部隊の後方で侵攻して、補給線と通信手段を混乱させ、中国軍の南進に道を開いた。マ−ターズの作戦の絶頂は、ビルマ北部で唯一の全天候型飛行場であるミトキナ飛行場の占領であった。1944年8月に解散した第5307混成部隊の最後の勝利となった。作戦終了時に、マ−ターズ部隊の全員は、熱帯病、疲労、栄養失調、あらゆる蓄積に苦しみながら病院に疎開した。






2023年11月3日金曜日

日本軍により、ゲリラ活動の容疑でフィリピンのマニラ市民が1945年2月に銃殺された。日本軍は、マニラ市内で激闘を継続する中で、非戦闘員である多数のマニラ市民を、抗日の抵抗勢力として虐殺した。

日本軍により、ゲリラ活動の容疑でフィリピンのマニラ市民が1945年2月に銃殺された。日本軍は、マニラ市内で激闘を継続する中で、非戦闘員である多数のマニラ市民を、抗日の抵抗勢力として虐殺した。1945年2月13日付けの日本軍大隊に、フィリピン人を殺害する時は、弾薬と労力を無駄にしないように、1カ所に集めよと命令した。さらにフィリピン人の死体は、建物の中に集めて焼却する、あるいは河中に投ぜよと命令した。マニラの戦いの初日の2月3日にダイパック貯木場で約115人のフィリピン人の虐殺から、ゲリラの容疑者の虐殺が勃発した。2月9日から、ゲリラ容疑者の個人攻撃から組織的な大量虐殺に移行した。

 マニラの大虐殺は、マニラのレイプとも呼ばれ、第二次世界大戦末期に発生したマニラの戦い(1945年2月3日~1945年3月3日)にて、日本軍がフィリピンの首都マニラ市で、フィリピン 市民に対して行った残虐行為である。日本軍だけでなく、アメリカ軍の砲撃や銃撃によって殺害された民間人の総数は、少なくとも10万人と推定された。アメリカ軍の軍事作戦は、戦闘中のフィリピン人非戦闘員の死者総数の約40%を引き起こした可能性がある。

 1ヶ月に及ぶマニラの戦いは、約10万人以上の市民の死と街の完全な荒廃をもたらした。太平洋戦争でアメリカ軍が戦った最悪の市街戦の戦場となった。日本軍は戦闘中に、フィリピン市民に対して大量殺人を行い、アメリカ軍の武力は多くの人々を巻き込み殺害した。マニラの戦いにて、アメリカ軍兵士は約1,010人が戦死して、約5,565人が戦傷した。日本軍兵士は、約16,665人が戦死して全滅した。

 日本軍兵士は絶え間ないアメリカ軍の砲撃にさらされ、確実な戦死や捕虜に直面した。苦境に立たされた日本軍は、銃撃戦に巻き込まれたフィリピン市民に怒りと苛立ちをぶつけた。マニラ大虐殺となる激しい残虐行為を何度も行った。日本軍は陣地を守るため、フィリピン人の女性や子供を人間の盾として前線に押し出した。生き残ったフィリピン人は、日本軍によって殺害された。日本軍兵士は、壕や溝に手榴弾を打ち込み、ライフル銃の射撃や銃剣の刺突で生存者のフィリピン人を虐殺した。日本軍のマニラ大虐殺は、1937-38年の南京大虐殺に匹敵した。




2023年10月18日水曜日

コロ島を出港したその夜から、絶命して息をひきとる満州からの引揚者があいついだ。死体は、毛布やコモでつつまれて、みんなに見守られるながら、引揚船の後部から海に降ろされて、水葬にされた。

日本の博多港を間近にして、父親が亡くなった。残された二人の子供とともに、母親は父親の死体が沈んだ海面をいつまでも見つめつづけた。毛布にくるまれた父親の死体が海に投げ込まれて消えた。「どうぞ安らかに」と引揚者のみんなが合掌した。

 ここまで来たのに。コロ島を出港したその夜から、安心のあまり気がゆるんだのか、絶命して息をひきとる満州からの引揚者があいついだ。乗船する前に死んだ子供を、日本へ連れてて帰りたい一心で、毛布に子供の死体を包み隠した母親もいた。死体は、毛布やコモでつつまれて、みんなに見守られるながら、引揚船の後部から海に降ろされて、水葬にされた。「ボーッ」「ボーッ」「ボーッ」と悲しみに満ちた低く長い汽笛を鳴らしながら、死体が沈んだ周りを、引揚船は大きく旋回した。一回、二回、三回と旋回をくりかえすと、引揚船はその海場を離れて行った。「せっかく博多港のここまで帰って来たのに」。遺族の無念さがこみあげてくる。 

 中国の葫芦島(コロ島)の埠頭の倉庫の下に約5百から6百人の引揚者が、日本に引き揚げる乗船を待機した。銃剣を持った中国軍兵士が、引揚者の荷物を刺しては検閲した。1946年7月16日午前7時から、乗船の許可が降りて、日本への引揚者は「白竜丸」に乗船した。その一週間も前から軒下で待機していた引揚者の数名が絶命していた。コロ島から約4日目の朝に博多港付近まで引き揚げた。

 葫芦島在留日本人大送還は、連合国のポツダム宣言に付随した協議により、中国国民政府(陸上輸送部分)とアメリカ(海上輸送部分)の責任にて、葫芦島(コロ島)からの日本人難民の送還事業であった。アメリカ軍はブリーガー作戦の一環であり、中国では「葫芦島日僑大遣返」と呼称した。1945年10月の中国国民政府とアメリカとの1回目の上海会議で日本民間人人の帰還移送が決まった。遼寧省の錦州の西南に位置するコロ島は、アメリカ海軍の拠点から近く、国民・共産両勢力の境界付近に位置した。1946年5月11日に、アメリカ・国民・共産の3者の協定が締結され、コロ島が確保された。葫芦島からの引き揚げは1946年5月7日から開始され、1946年末までに約101万7549人(うち捕虜1万6607人)、1948年までに総計105万1047人の在留日本人が日本へ送還された。満州から引き揚げできずに、約24万人が死亡した。




2023年10月5日木曜日

バクリ前方のオーストラリア軍の対戦車砲で、日本軍の戦車9両が大破した。ムアール地区のバクリ近郊で、倒木に阻まれた日本軍の戦車は、燃えさかる残骸と化した。その手前には、オーストリア軍の対戦車砲により殺害された日本軍兵士2人の死体が横たわった。

第二次世界大戦の太平洋戦争が勃発した直後に、大東亜戦争にて1942年1月18日に、オーストリア軍の対戦車砲は、マレー半島を南下する日本軍の進撃を一時的に食い止めた。バクリ前方のオーストラリア軍の対戦車砲で、日本軍の戦車9両が大破した。ムアール地区のバクリ近郊で、倒木に阻まれた日本軍の戦車は、燃えさかる残骸と化した。その手前には、オーストリア軍の対戦車砲により殺害された日本軍兵士2人の死体が横たわった。

 1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃の後に、日本軍がマラヤを南下して、2月にはシンガポールを占領するに至った。1941年末にマラヤに配属されたオーストラリア軍第8師団は、そのほとんどが日本軍の捕虜となり、悲劇的な形ですでに損失した。シンガポールは、大東亜戦争おけるオーストラリアの安全保障の礎石であったが、日本軍によるシンガポールの陥落で礎石は打ち砕かれた。

 ムアール(Muar)の戦いでは、第二次世界大戦中のマレー作戦の最後の主要な戦いであった。1942年1月14日から22日に、ムアール川とゲメンサ橋の周辺で行われた。連合軍兵士は、ゲメンサ橋での待ち伏せと、ゲマスの町の北数kmで行われた第二次戦闘で、日本軍に大損害を与えた。オーストリア軍第8師団は橋での待ち伏せで、日本軍第5師団の約600人を殺害した。ゲマス北方の戦闘ではオーストリア軍の対戦車砲が日本軍の戦車数両を撃破した。この戦闘で、日本軍がマレー作戦で最も大きな損害を被った。

 待ち伏せ攻撃は連合軍には成功だったが、西海岸のムアルとバクリの防衛は完全に失敗した。インド軍歩兵第45旅団はほぼ全滅し、オーストラリア軍歩兵2個大隊にも大きな死傷者が出た。連合軍の戦死傷者は約3,100人に達して、日本軍は約700人が戦死亡して、800人が戦傷した。マラヤ作戦とシンガポールの戦いで、約1800人以上のオーストラリア軍兵士が戦死して、約1400人以上が戦傷した。シンガポール陥落で約15,000人以上のオーストラリア軍兵士が捕虜となった。




2023年9月25日月曜日

マレー半島南部のマラや連邦のマラッカのアサハンで、日本軍が中国人系住民を粛清した大量の遺骨が発掘された。日本軍がマレー半島を占領中に、華人社会で反日分子の容疑者を特定して、排除する大量虐殺を執行した。

マレー半島南部のマラや連邦のマラッカのアサハンで、日本軍が中国人系住民を粛清した大量の遺骨が発掘された。大東亜戦争にて、日本軍がイギリス軍から1942年1月31日にマラヤ連邦を、シンガポールを2月15日に奪取して占領した。粛清(Sook Ching)は、浄化による粛清を意味する中国語である。日本軍がマレー半島を占領中に、大検挙と呼称して、華人社会で反日分子と疑われる人物を特定して、排除する大量虐殺を執行した。日本軍は1942年2月21日から3月4日に、18歳から50歳までの中国人男性が、集団検挙センターに強制連行されて、反日の容疑者は処刑された。日本軍は、中国の国民党と共産党の両勢力を財政的に支援する中国人系の華人を最も嫌悪した。

 1942年2月18日に、日本軍第25軍司令官の山下奉文中将は、中国人内の反日分子の排除を命じた。日本軍の占領軍が、反日容疑者は裁判なしで処刑した。2月7日に、マレー連隊の約70人の生存兵士が、日本軍によりシンガポールのファラーパークの捕虜収容所からパシルパンジャンの戦場に強制連行されて銃殺された。粛清は2月21日にシンガポールで、その後にマラヤ全土で勃発した。脅威と容疑した中国人の華人を一網打尽にして処刑する大虐殺の粛清の勃発であった。日本軍憲兵隊によって推定約5万人以上の中国人系の華人が殺害された。

 1942年2月18日に、山下奉文中将は日本軍第25軍に対して粛清の指令が出した。粛清の指令は、18歳から50歳までの中国人系の華人男性に、指定スクリーニングセンターに出頭を命じた。指令は特に、義勇軍、共産主義者、略奪者、武器所持者、日本軍が管理・配布した反日容疑者リストが選別処刑の対象者であった。

 集団検挙は、1942年2月21日から3月4日まで、日本軍の憲兵隊第2野戦部隊によって、都市部で執行された。各指定スクリーニングセンターの選別は、恣意的かつ無秩序に行われた。ジャラン・ベサールセンターでは、眼鏡をかけた男性は教養があり、抗日活動を行った罪があると選別された。別のセンターでは、柔らかい手は教育の証拠で選別された。テロック・クラウ・スクールのセンターでは、人々は職業に基づいて選別された。不運にも選別された人々は、ローリーに積み込まれて、遠隔地に強制連行された。容疑者は、即刻に機関銃で射殺して処刑された。日本軍は、粛清の殺害をほとんど隠さなかった。日本軍は、約5,000から約6,000人を処刑したと推定された。中国人の華人らは約40,000から約50,000人と推定した。




2023年9月21日木曜日

オーストラリア軍兵士の捕虜は、日本軍によるタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道を建設する強制労働により、脚気で重篤な衰弱と部分的な麻痺を伴った。ビタミンB1欠乏症による病気で、日本軍の粗末な食事のために蔓延した。

オーストラリア軍兵士の捕虜は、日本軍による泰緬鉄道の強制労働により、脚気で重篤な衰弱と部分的な麻痺を伴った。手足のしびれ、筋肉の機能低下、嘔吐、精神錯乱などがみられた。脚気は、水腫を引き起こした。体内の水分が足のほうに流れ込み、足と脚が腫脹した。足はひどく腫れており、立ったり歩いたりするのが非常に苦痛である。ビタミンB1欠乏症による病気で、日本軍の粗末な食事のために蔓延した。

 日本軍は1943年12月5日から、大東亜戦争に必要な物資を供給するため、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設を執行した。泰緬鉄道は険しいジャングルの中を約420kmも建設した。約6万人の連合軍の捕虜と約20万人のアジア系労働者のロムシャの俘虜労働力によって建設された。1943年のモンスーンの中で、手工具と筋肉で鉄道を敷設した。全員が日本軍の「スピード」との叫び声に駆り立てられた。致命的な熱帯の環境下、不十分な配給での容赦ない強制労働は、莫大な犠牲をもたらした。1943年10月に鉄道が完成するまでに、少なくとも約2,815人のオーストラリア人と、約11,000人以上の他の連合軍捕虜、約75,000人のロムシャが病死した。

 ビルマ-タイの泰緬鉄道での死因の最たるものは病気であった。過度の労働、栄養失調、粗末な食事、日本軍が十分な医薬品を提供することを拒んだ結果、ほとんどすべての捕虜が病気になった。強制労働させられた捕虜は一度に複数の病気にかかることが多かった。重病人のみが休息を許された。民間人なら重病と見なされても、働き続けた。

 病気では赤痢と下痢で、捕虜の死因の3分の1以上を占めた。便が出続けることで脱水症状を引き起こし、生存に不可欠なビタミンが失われた。栄養に富んだ食事がなかったため、アビタミノーシス(ビタミン欠乏による病気)が蔓延した。その最も頻発する病気は、ビタミンB1の欠乏による脚気とナイアシンの欠乏によるペラグラであった。

 マラリアはビルマ-タイ鉄道での死者の約8パーセントを引き起こした。マラリアは蚊によって媒介され、その症状は悪寒、発熱、衰弱であった。被害者は、戦後も繰り返し発症することがあった。熱帯性潰瘍は、鉄道事故による死者のわずか2%であったが、特に嫌われた。傷口が微生物に感染することで発症し、骨まで肉を食いちぎられた。多くの場合、切断が唯一の選択肢だった。しかし、適切な薬や器具がなかったため、多くの患者が命を落とした。

 その他の病死では、コレラは非常に感染力が強く、死亡率も高いため、囚人の約12%が死亡した。糞便に汚染された食物や水によって蔓延し、便所があふれる雨季に流行した。激しい胃痙攣で二重になって地面に転がり、手足は痙攣し、筋肉が痙攣してピクピク動いた。嘔吐と、腸から米のとぎ汁の白っぽい液体が無理矢理押し出され噴出した。

 1943年半ばの泰緬鉄道の追い立てられた「スピード」の時期には、毎日のように死者が出ていたため、各収容所には粗末な墓地があった。後で遺体を回収して身元を確認できるように、医療関係者は死者の墓場の詳細を記録した。葬式は厳粛に行われ、ジャングルからラストポストの音符が聞こえた。焚き火の刺激臭がキャンプ中に漂った。日本軍は死んだ捕虜の埋葬を許可し、葬儀に立ち会った。生前の捕虜の苦しみには無関心でも、死後は尊重した。




2023年5月22日月曜日

第ニ次世界大戦の太平洋戦争の終戦直前の1945年8月14日に、ビルマのジャングルでアメリカ軍が仮設した墓地から、戦闘機事故で戦死したアメリカ軍兵士の死体を発掘した。

第ニ次世界大戦の太平洋戦争の終戦直前の1945年8月14日に、ビルマのジャングルにあるアメリカ軍が仮設した墓地から、戦死したアメリカ軍兵士の死体を発掘した。その死体は、1945年初頭の戦闘機の事故で死亡したアメリカ軍の飛行士の死体であった。その死体を2人のアメリカ陸軍の兵士が発掘作業を執行した。この写真は、1945年8月14日に、連合国首脳が、日本に対する降伏を宣言した日に撮影された。この写真は、第二次世界大戦の戦闘段階において、最後に検閲された写真の一つで、アメリカ軍が検閲して非公開にされていた。もし写真が公開されていたら、発掘されるアメリカ軍の飛行士の死体の下肢や上腕など、写真全体に見られるV字の形状は、アメリカ本土の家族らによっては、第2次世界大戦の大東亜戦争の勝利の意味は、全く異なっていることを痛感させた。

 第二次世界大戦は、アメリカ国民ならば誰でも参加できる最初の画像や映像であった。アメリカ政府やニュース、娯楽メディアなどによって、アメリカ国民に公表された第二次世界大戦の画像や映像には、説得力のある戦争の筋書き、アメリカ軍服を着た大勢のアメリカ軍兵士たち、わかりやすい善玉の連合軍と悪玉の枢軸国軍などが紹介された。アメリカ国民は、第二次世界大戦の画像や映像を視聴者として参加した。

 第ニ次世界大戦の連合国軍の勝利をアメリカ国民は予測はできても、当然とは言えない結末が勃発していた。1945年8月6日午前8時15分に広島市に、8月9日午前11時2分に長崎市に原子爆弾が投下されて炸裂して、広島市も長崎市も一瞬にして壊滅した。その約1ケ月以内の9月2日に、東京湾において約2000機近いアメリカ軍の戦闘機が集結た中で、アメリカ軍の戦艦USSミズーリ号で、日本軍が降伏する光景が映し出された。太平洋戦争が、パールハーバーでの始った日本軍の真珠湾攻撃と同じくらい劇的な結末を迎えていた。どの戦争の写真や映像は、第二次世界大戦をアメリカ国民一人一人に、戦争の観客と戦争の参戦者という二重の役割を効果的に与えた。

 世界中の何千万人もの人々を巻き込んだ激しい第二次世界大戦の戦闘の画像や映像は、全世界の観客を惹きつけないわけがない。世界中で何千万人もの人々を巻き込んだ激しい戦闘は、全世界の観客を惹きつけずにはおかない。戦争に対する欲求とその表現方法で、ほとんどの全世界の観客が、自分も第二次世界大戦の参加者であると洗脳することを保証した。戦争宣伝のアメリカ軍担当者が、最も強く訴えたテーマは、アメリカ国民に誰もが戦争に果たすべき役割を担っていると思い込ませることであった。アメリカ社会への平等な参加から排除されているアメリカ国民に、多くの人々を怖がらせることなく、いかにして戦争への完全なる参加を促すことができるかを訴えた。逆に戦争の画像や映像は、アメリカ国民に深刻な問題を突きつけた。




2023年3月10日金曜日

太平洋戦争のウェーク島の戦いに、1978年からの遺骨収集で、どの遺体も北枕で整然と埋葬されていた。属島のピール島(羽島)では約786柱の遺骨を焼骨した。

ウェーク島はグアムとハワイの中間に浮かぶ中部太平洋の要衝であった。隆起した珊瑚礁からなる島で、全島が小石と砂のみで、石がなかったので大日本麦酒の瓶を墓標とした。太平洋戦争のウェーク島の戦いに、1978年からの遺骨収集で、どの遺体も北枕で整然と埋葬されていた。属島のピール島(羽島)では約786柱の遺骨を焼骨した。





 太平洋戦争が勃発して、1941年にアメリカ軍を撃退し日本軍が占領して、大鳥島と改名した。1943年から、アメリカ軍が猛空爆で反攻した。相次ぐ輸送船の撃沈で兵站が途絶え、潜水艦による補給もままならず食糧が尽きた。一日の支給は乾パン五個、カツオ節の粉が匙に2杯で、あとは、海鳥、野ネズミを捕まえ、ボサと呼ばれる灌木の芽やヤドカリを煮た。特殊艇で比較的元気な日本軍兵士が漁に出た。落ち葉をかき集め腐葉土をつくり、小松菜、インゲンのタネを蒔いた。守備部隊約4,000人は、戦没者1,300人のうち、餓死者は約1,000人に及んだ、ウェーク島の動植物を食いつくした。栄養失調の兵士たちは歩行も困難で、ふらふらになりながら、戦友の死体を運搬した。ウェーク島北部の平坦な砂地を、集団墓地にして埋葬した。東西冷戦の終結するまで、アメリカ軍の空軍基地となった。アメリカ軍の許可が下り、1978年に、日本政府による遺骨収集が実施された。深く埋める余力がなかったため、約30cmも掘ると、つぎつぎと遺骨が出現した。遺骨は同様な骨格標本に見えた。遺留品は、万年筆、ベルトのバックル、ホウロウの食器、セルロイドの眼鏡、印鑑、ガラス板に焼き付けたブロマイドなど個別性があった。



 1943年10月6日と7日、アメリカ軍がウェーク島に対して合計約738機を繰り出して空襲を行った。重巡洋艦によって艦砲射撃を実施して、日本軍に大きな損害を与えた。特に、備蓄してあった食糧の大半が焼失した。その直後に日本軍司令官の酒井原は、ウェーク島に残してあったアメリカ人捕虜約98人をウェーク島の北部に集めて、機関銃で虐殺した。1944年5月頃から、ウェーク島の防備部隊に食料と医薬品の補給の枯渇により、飢餓と不衛生と栄養失調が覆い始めた。野鳥を絶滅するまで食べつくし、海燕の卵を採取して食糧とし、潅木の葉で草餅を作った。1944年9月だけで、日本軍兵士約145人が栄養失調で戦病死した。1945年3月から食料は激減して、4月に補給が途絶えた。6月に空襲を受けて、全員が栄養失調となった。1945年7月に病院船高砂丸が、悲惨な約1,000人もの栄養失調と戦傷者を輸送した。8月1日に、アメリカ軍の艦砲射撃と空襲を受けた。8月15日に、日本が降伏して、8月16日夜に終戦を拝受した。遂に、1945年9月4日に残存して潜伏していた日本軍のウェーク島の守備軍は、アメリカ軍に降伏した。

 ウェーク島守備部隊は、終戦までに栄養失調による戦病死者約1,340人、戦死者約291人を出した。その後酒井原は、1943年10月の捕虜虐殺の戦争犯罪により、グアムで戦犯裁判を受け死て刑判決が下され、1947年6月に死刑が執行された。1953年1月に、ウェーク島に、南方遺骨収集慰霊船日本丸から吉田茂首相の碑銘が記入された二尺四寸の自然石の慰霊碑がウェーク島に持ち込まれた。1966年12月29日に、アメリカ軍戦没者記念塔の横に移設された。


2023年2月9日木曜日

第二次上海事変が1937年8月13日に勃発して、上海の八字橋付近の中国国民党軍の陣地に、8月17日には国民党軍は中国人戦死者を放置して残存したまま退却した。

第二次上海事変が1937年8月13日に勃発して、上海の八字橋付近の中国国民党軍の陣地に、8月17日には国民党軍は中国人戦死者を放置して残存したまま退却した。八字橋を挟んで日本軍と国民党軍が一進一退の戦いをした。多くの兵士が犠牲となり、宝山路、宝興路付近まで焼土と化し、多くの住民が家を焼失した。特権的外国人居留地である日本租界の北西部が戦場となった。毎日新聞の八字橋の写真を、日本軍が検閲をした修整の指示は「死体を消すこと」であった。写真に受入日や説明の他、検閲記録が記載された。戦地で撮影した写真は、日本軍の検閲を受けなければ、新聞に掲載できなかった。写真には不許可となるも、修整の上で許可となった。




 1937年8月9日に国民党軍の張治中らが、日本海軍の特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が殺害された。7月7日に勃発した盧溝橋事件から日中和平交渉の最中に大山事件が勃発した。8月12日に、中国の国民党軍の約3万人が、上海の日本租界を包囲した。八字橋に駐屯していた特別陸戦隊はわずか約4千人で、日本領事館は在留日本人を避難させた。緒戦は、8月13日午前10時30分に、商務印書館付近の国民党軍が、日本軍の特別陸戦隊に機銃掃射を浴びせた。午後4時54分に、八字橋の方面から中国の国民党軍が急襲して第二次上海事変が勃発した。

 上海ではドイツ製などの最新の兵器を持った国民党軍に対して寡兵の特別陸戦隊が奮戦した。特別陸戦隊は八字橋で約10倍の国民党軍に対して約5時間にわたり防御した。8月16日には国民党軍が大挙して特別陸戦隊へ押し寄せて、日本軍は戦車と装甲車で防戦した。その後も国民党軍は攻撃を続け、約7万の大部隊まで増強した。ようやく8月18日から8月19日に横須賀と呉からの特別陸戦隊が上海へ約6千3百人に増援した。

 8月22日未明には支那軍は戦車とともに大挙して攻勢に出て、日本軍の陣地が一部突破された。日本軍は必死に防戦して、夜明けとともに国民党軍の攻勢も停滞した。更にその夜からも国民党軍が各戦線で攻撃を行い、8月23日に激戦となるも、特別陸戦隊はかろうじて防衛した。8月23日から日本陸軍部隊も上海に上陸を開始して、特別陸戦隊は守り切った。8月25日以降は国民党軍は日本陸軍部隊を攻撃対象となった。




2023年1月11日水曜日

日本軍はトラックで満州の抗日ゲリラを追って、中国東北部の三江平原を横断した。中国人抗日ゲリラを殺害した日本軍兵士は、死体の周囲に並んで誇らしげに記念撮影をした。

中国東北部の奉天郊外の柳条湖にて、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破した満州事変(9・18事件)が1931年9月18日に勃発した。1934年3月9日には農民が武装蜂起した土竜山事件などから関東軍が抗日ゲリラを武装討伐をした。日本軍はトラックで満州の抗日ゲリラを追って、中国東北部の三江平原を横断した。中国人の抗日ゲリラを殺害した日本軍兵士らは、死体の周囲に並んで誇らしげに記念撮影をした。

 9・18事変後に、日本軍は中国東北の白山黒水地域などを侵略した。中国人住民を弾圧して、住民は生活の糧を挫いて、三江平原の中国人は義憤を抱いた。1934年3月9日に、土龍山地区の農民約700人が暴動を起こして、土竜山事件が勃発した。農民武装部隊は警察署を占拠し、傀儡商人の武装団体を没収して、満洲の日本軍兵士の約19人を戦死した。農民武装部隊は、翌日の3月10日には、土龍山西白家溝にて、依蘭から鎮圧に赴いた日本軍を待ち伏せて攻撃した。関東軍兵士ら約45人、満洲国軍の約3人を射殺した。土竜山事件は、国内外に広く知られ、関東軍は3月末に撤退した。

 土竜山事件は、依蘭事件(事変)または謝文東事件とも呼称された。1934年1月に、関東軍は日本人武装移民を入植させ、依蘭・樺川・勃利各県など6県で、可耕地の大規模な強制買収を始めた。強制買収に抗して、地券を出し渋る農民を弾圧した。土竜山の謝文東を総司令として、東北民衆軍を編成して武装蜂起した。総数約6,700人もの大軍の抗日ゲリラとなった。3月9日、東北民衆軍の農民は日本人移民団を包囲し、警察も武装解除させた。

 翌3月10日に日本軍約19名が戦死した。3月末に、土竜山区から撤兵した関東軍は、威嚇と利益誘導、大群で包囲攻撃をする二面作戦から、農民民衆軍を孤立、分化、瓦解させた。7月下旬には民衆軍は約800人まで縮小した。日本の満州移民政策を見直させて、満州の抗日統一戦線の契機になった。1935年7月に満州国政府が、土竜山事件を受けて、日本人移民の政策実施に参与した。

 土竜山事件後に、満州国政府は買収工作、関東軍は武装討伐を行った。1936年9月に、謝らは中国共産党系の東北抗日連軍に合流して第8軍を編成した。1939年3月に、謝らは関東軍の赦免状により、日本軍に謝罪し帰順した。終戦後は国民党に就いて国民党軍中将として中国共産党軍と対決した。1946年末に逮捕されて、漢奸匪賊として依蘭にて斬首刑に処せられた。






2022年12月13日火曜日

太平洋戦争の南方ジャワ戦線にて、1942年3月2日にオランダ軍の戦車が、日本軍から砲撃を受けて、戦車に搭乗したオランダ軍兵士は乗り出して下敷きとなり殺害された。

太平洋戦争における南方ジャワ戦線にて、1942年3月2日にオランダ軍の戦車が、日本軍からの対戦車砲の砲撃を受けて横転した。戦車に搭乗していたオランダ軍兵士は、吹き飛ばされた。逃げる暇もなく転覆した戦車の下敷きとなり殺害された。ハッチを上げて上半身を乗り出したままで殺害された。

 太平洋戦争が1941年12月8日に日本軍の真珠湾攻撃から勃発した。その直後から大東亜戦争が東南アジアで勃発した。インドネシアでは、蘭印作戦(Dutch East Indies campaign)により、1942年1月11日から3月9日まで日本軍が侵攻した。

 オランダ亡命政府は、1941年12月8日に日本に宣戦布告した。日本軍が占領する前に、インドネシアでは敵対する集団間で紛争があり、人々が殺されたり、行方不明となった。1942年初頭の日本軍の侵攻は迅速に圧倒した。1941年12月17日に、日本軍はボルネオ島のサラワク州北部ミリに上陸した。1942年1月までに、スラウェシ島とカリマンタンの一部は日本軍の支配下になった。2月19日には、ポルトガル領ティモールのディリ地域に上陸した。2月28日から3月1日に、日本軍はジャワ島北部沿岸にほぼ無傷で上陸した。最も激しい戦闘はアンボン、ティモール、カリマンタン、ジャワ海の侵攻地点で勃発した。3月9日にオランダ軍司令官は日本軍に降伏した。連合軍は、約671人が戦死して、約82,618人が捕虜となった。日本軍は、約840人が戦死して、約1,784人が戦傷した。

 1939年9月1日にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。1940年5月15日にはドイツの侵攻をうけて宗主国オランダは降伏して、王室などはイギリスへ逃亡し亡命政府を創設した。以後、第二次世界大戦終結の直前までオランダ本国はドイツの占領下におかれた。オランダ本国が降伏した後も、オランダ領東インドはオランダ亡命政府傘下であり続け、在東インド植民地軍による統治が続いた。オランダ領東インドに日本軍が侵攻して、東インド植民地軍は全面降伏して、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡した。以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれた。オランダによる約350年の東インド支配が実質的に途絶えた。1945年8月15日に日本が連合国に降伏した直後に、8月17日にスカルノとハッタが民族の名にてインドネシアの独立を宣言した。その直後から、インドネシア独立戦争が1949年12月27日まで勃発して、インドネシア連邦共和国が成立した。




2022年12月9日金曜日

沖縄戦において、アメリカ軍の戦車に対する自爆攻撃に失敗して、日本軍兵士は銃弾を浴びて殺害された。アメリカ軍第10軍部隊が侵攻する戦車の前に、殺害された日本軍兵士の死体が横たわった。

太平洋戦争の沖縄戦において、アメリカ軍の戦車に対する自爆攻撃に失敗して、日本軍兵士は銃弾を浴びて殺害された。アメリカ軍第10軍部隊が侵攻する戦車の前に、殺害された日本軍兵士の死体が横たわった。戦車攻撃に失敗した日本軍兵士の死体には、陸軍一等兵の衿章が検証された。

 沖縄戦にてアメリカ軍は、沖縄本島の中部にて4月12日に日本軍の総攻撃を受けて、集中砲火を浴びせて4月13日に掃討して撤退させた。アメリカ軍は、増援軍と補給して体制を立て直して、その後の4月19日と20日の両日に、アメリカ軍は日本軍に対する総攻撃を再開した。事前の準備砲撃では大小の火砲約324門を約30m間隔で並べ、約40分間に約19,000発(約475発/分, 8発/秒)で砲弾が撃ち込まれ、戦闘機からの空襲でロケット弾やナパーム弾を大量に投下した。

 戦線の西方に位置する嘉数陣地に、アメリカ軍は約30輛の戦車を連行して攻撃を加えてた。守備する日本軍は、速射砲、山砲、高射砲と持てる火砲で反撃した。日本軍兵士は自殺的な自爆攻撃をした。爆薬を抱えて、アメリカ軍の戦車に体当たりして、自爆して戦車の侵攻を一時的に阻止した。嘉数陣地の戦場で、アメリカ軍が損失した戦車は約22輛に及んだ。1回の戦闘で損失した戦車数としては、沖縄戦中で最大数と記録された。

 東方の和宇慶でも1個中隊の約200人が、全滅して全員が戦死して、アメリカ軍の侵攻を一時的に阻止した。中央の棚原でも2個大隊の約1,000人の兵力が、アメリカ軍の1個連隊約3,000人を相手に侵攻を一時的な阻止を続けた。アメリカ軍は、兵員・物資などの補給を大量に受けられるのと対称的に、日本軍の守備隊は兵士や物資を損失しても補給は不可でじり貧となった。

 4月29日に、首里城地下の日本軍第32軍司令部は「死中に活を求め、まだ攻勢の余力がある間に敵に痛撃を与えて運命の打開を図る」と結論して、再び総攻撃を決定した。総攻撃は5月3日夜から勃発して、5月4日未明に、日本軍砲兵隊が約13,000発の砲弾を撃ち込んだ。残存した第24師団歩兵第32連隊と第89連隊が、アメリカ軍が占領した棚原から幸地に侵攻した。日本軍第27連隊の戦車も、首里前方に侵攻した。アメリカ軍は戦車で反撃し、猛烈な集中砲撃で日本軍を撃退して、第32軍は全滅して全戦死する部隊が相次いだ。5月5日午後6時に総攻撃を中止して、軍司令部は沖縄本島南端の摩文仁に撤退した。




2022年10月19日水曜日

「満州国軍戦没官兵慰霊に供せられた死体」として、1934年に満州国内の戦闘で戦死した日本軍兵士の慰霊に、馬賊の報復として虐殺した2人の中国人の死体を見せしめにした。

満州国が、1934年3月1日に清国の最後の皇帝である溥儀が、満州国の皇帝に即位して、満洲国佈告1により日本軍が中国東北地方に建国した。1934年頃に「満州国軍戦没官兵慰霊に供せられた死体」と写真に記載された。1934年に満州国内の戦闘にて戦死した日本軍兵士の慰霊に対して、馬賊に対する報復として虐殺した2人の中国人の死体を見せしめにした。

 2つの死体に、人間の頭部が身体上に置かれた。左側の死体の傷面は非常に不規則で、右肩から左腰にかけて不明瞭な傷口であった。身体は爆破されて、頭部は白骨化して、頭蓋骨の後頭部は半分に欠けた。頭部の眼窩、顎、頬の組織はわずか残存して、黒焦げになった。犠牲者は爆発で死亡した中国人女性の可能性が高い。爆発力の巨大な衝撃で上半身と頭蓋骨の半分が吹き飛ばされて、炎上して焼死した。右側の死体は、若い中年の中国人男性であり、周辺の深部組織はまだ残存していた。2つの死体は死後に、死体が硬直していないときに、意図的に見せしめに配置された。

 中国人の匪賊は、山中の村落に潜伏して、中国人の村民は仲間と見なして、匪賊に労苦を惜しまず相互扶助した。日本軍による村落における匪賊の討伐や掃討は、困難を極めた。満州帝国の建国によって、匪賊を弾圧すれば、より反日一辺倒の勢力となった。日本軍は、満州国の建国に向けて、中国人に迎合するのに馬賊として、義賊として、大衆には義軍性を誇示した。馬賊も、勃発した満州事変によって日本軍は消滅させた。

 日露戦争中に、中国人の反抗する自衛団であった匪賊を、日本軍は馬賊と呼称した。馬賊をして義賊とすれば、日本軍は義軍であると自負した。中国人の官憲は匪賊と見下したが、日本軍は自ら義軍として、馬賊として見なした。もしもし匪賊は、日本軍から被害や攻撃を受けていた。匪賊の勢力が増して、権力をは把握してくると、馬賊として取り込んだ。中国の腐敗した政権には、兵匪や官匪と悪評した。自衛団も民衆も、都合の悪いものは匪賊とした。




2022年7月21日木曜日

日本軍兵士は、日中戦争の平漢戦線の戦闘にて、戦場における死亡傷者の多数の身体を担架に乗せて数人の肩に担いで護送した。

1937年7月7日の盧溝橋事件が発端となり支那事変が誘発されて、血みどりの日中戦争が勃発した。日本軍兵士は、平漢戦線の戦闘にて、戦場における死亡傷者の多数の身体を担架に乗せて数人の肩に担いで護送した。平漢線は北平と漢口をつなぐ鉄道であり、中部支那と北支那とを連絡する大鉄道であった。1927年に北京が北平へ改称されて、北京から漢口までの京漢線が平漢線と改称された。7月9日に蔣介石は中央軍に対し、徐州付近に駐屯した中国軍に7月11日夜明けからの河南省への侵攻を命じた。7月10日に約200人以上の中国軍兵士が迫撃砲で攻撃を再開した。7月19日には中国軍兵士を北支那に集結させた。7月12日に両軍の撤兵を条項に含む停戦協定が締結されるも、前日の7月11日に、日本軍は華北への派兵を下令された。中国軍は7月25日に廊坊で、7月26日に広安門で日本軍に攻撃を加えた。日本軍は、7月27日に支那駐屯軍を増援して、7月28日に北京(北平)を陥落して、中国軍は、7月29日に講和を求めずに全面的抗戦に舵を切った。

 北支那の山岳戦と平地戦に、江南の陣地戦にて、壮烈かつ大規模な戦闘が展開された。鬼神も泣くほどの壮烈な激戦と労苦で、幾多の甚大な犠牲者を出した。歴史的な支那事変で、日本軍にとって有利な戦争記録を、皇徳奉賛会が資料を検閲して『支那事変史ー各社特派員決死の筆陣ー』(新聞タイムズ社、1937年12月)を刊行した。日本国民に対して、支那事変の推移に注目させて、近未来を洞察させ軍事的対策の必要性を認識させた。日中戦争の戦線にて硝煙と弾雨の間で、大新聞社から強制派遣された数百人の従軍特派員が、支那事変を取材と記録した。1枚の支那事変の戦争写真を記録するにも、従軍特派員は命がけの撮影となった。

 日本軍は中国沿線の各都市を、軍事上と交通上と商業上に重要視した。平漢線に沿って北京(北平)から南方に向って侵攻すると、約24kmにして蘆溝橋に到達する。支那事変の発瑞をなった盧溝橋にて、日本軍側は中国軍側が演習中の日本軍に向って不法射撃の火蓋を切ったと容疑した地点であった。平漢鉄道は、始めは蘆漢鉄路と称し、神聖な王城の北京にて、夷狄である外国人の手による鉄道の侵入は許し難く、北京郊外の盧溝橋にて支那事変が勃発した。平漢鉄道への攻撃は1938年2月9日に勃発して、徐州戦と連動した。金茶地軍区の中国軍が平漢鉄道沿いの日本軍に攻撃をした。3月4日に日本軍は約12,000人を動員して反撃に転じて、両陣営の戦いが繰り広げられ、日本軍は約1,600人が死傷した。




 

2022年6月29日水曜日

日本軍は大東亜戦争で、マレーにて華僑の青年を反日分子の容疑者として、斬首による断頭した死刑を執行して、さらし首にした。

日本軍は太平洋戦争が勃発した直後から、マレーにて華僑の青年を反日分子の容疑者として、斬首による断頭した死刑を執行した。スパイ行為とマレー住民の治安と安寧を犯した罪で、即刻に路上で断頭した。華僑の容疑者の頭部を晒し首にして、マレー住民に対して大日本軍が死刑を布告した。大東亜戦争にて、日本軍に反抗したという理由で斬首された華僑の首を、イポー市内でさらし首を展示した。 

  日本軍は、真珠湾攻撃の約1時間直前から、1941128日に突如として、マレー半島のコタバルに上陸して、同日にタイの南端のシンゴラとバタニから、マレー半島を南進して侵攻した。イポー (Ipoh) は、マレーシアペラ州の州都であり、マレーの首都クアラルンプールから約200Km北方に位置して、19411215日に日本軍によって占領された。イポーはタイピンに代わってペラ州の州都となった。首都クアランプールは1942111日に占領した。マレー半島の南端ジョホールバルを131日に占領した。シンガポールは、イギリス連邦軍が断水により降伏して、シンガポールから完全撤退した1942215日に占領された。

 日本軍は、マレー半島の独立を阻止して、終戦までの3年8か月間も悲惨で過酷な占領をした。特に、日中戦争の影響を受けて、特に中国人系住民である華僑を、弾圧の対象にした。シンガポールが陥落してマレー戦が終結した直後から、1942年2月17日から反日分子を排除する敵性華僑狩り(Sook Ching)を執行した。華僑狩りを、マレー人系の警官や密偵に先導させて、中国人系の華僑を抗日組織として虐待と虐殺した。主に、憲兵隊によって、約5万人以上の華僑が虐殺された。1942年3月からマラヤ人民抗日軍が、日本軍に対する妨害と待ち伏せが勃発して、その報復として中国系華僑に対する虐待と虐殺で報復した。




2022年6月28日火曜日

大東亜戦争のビルマの戦いで、日本軍兵士と軍馬は中国国民党軍の砲撃により、ビルマのマインクワン村近くの道路上で死亡した。

大東亜戦争のビルマの戦いで、日本軍兵士と軍馬は中国国民党軍の砲撃により、ビルマのマインクワン村近くの道路上で死亡した。その腐乱した日本軍兵士の死体は1日半も倒れたままに放置された。ジープに乗った2人の中国国民党軍兵士は、谷間を下って敗走する日本軍兵士を追って後方から移動した。さらに日本軍の死体は、1944年3月初めにアメリカ軍将校スティルウェルが率いる中国国民党軍が占領したフカウン谷中部のマイングクワンの道端に散乱した。中国国民党軍は南へ退却する日本軍の中隊を、道路右端で捕獲して、日本軍将校の約6人と日本軍兵士の約80人を殺害した。4人の日本軍兵士が、道路脇に逃げ込んだときに、一発の砲撃で殺害された。ビルマ北部作戦での戦闘は、退却する日本軍兵士との鋭い小競り合いが頻発した。

 1944年3月末までに、ビルマ北部ではジョセフ・スティルウェル中将の中国国民党とアメリカ軍が、日本軍の拠点であるミットキーナに向かって谷間を苦闘して下った。インドと中国の間に突き出た日本軍の岬の頂上を横切る全天候型道路のルートを切り開いた。この道路はインドのレドの鉄道から雲南省まで伸びて、中国内陸部への陸路が再開された。ることになる。スティルウェル部隊はミートキーナから約90km以内まで押し進めたが、占領はまだ先だった。

  南へ約725km離れたビルマ海沿岸では、イギリス軍とインド軍がアキヤブ港に向かってゆっくりと前進した。2つの連合軍の作戦の間に、日本軍がインド軍に対して不運で悲惨な圧力をかけて、連合軍の計画全体を混乱させるインパール作戦を開始した。日本軍の侵攻の前には、レドから海へ通じる鉄道があった。この鉄道を寸断すれば、スティルウェル部隊の攻勢を阻み、中国のアッサム地方からヒマラヤ山脈を越えての航空補給路も閉ざすことを目論んだ。ビルマでの戦闘は、ジャングルのために連続した戦線が不可能なために、ほとんど道路上で行われた。作戦は狭い隘路を登ったり降りたりする追撃と撤退で、戦闘は道端の村や塹壕をめぐる鋭い小競り合いであった。スティルウェル部隊は1944年3月中旬にフカウン渓谷の道をミィトキナに向かって侵攻した。






2022年5月11日水曜日

日本軍の戦闘機は、アメリカ軍の爆撃機に体当たりして墜落して、アメリカ軍の爆撃機の搭乗員は、大地に激突して惨死した。

日本軍の戦闘機は、アメリカ軍の爆撃機に体当たりして墜落させた。アメリカ軍の爆撃機の搭乗員は、墜落して大地に激突して惨死した。その搭乗員の2人の死体は、担架上に乗せられていた。日本軍の戦闘機は、アメリカ軍の爆撃機の最後部にある銃座に激突した。大地に墜落後に炎上して焼け落ちた。それには救命の浮舟ゴムを搭載していた(アサヒグラフ、1945年4月5日号、詳細不詳)。

 新聞社は、軍部と政府により言論を弾圧を受けた一方で、逆に戦争報道で国民をあおり、戦意高揚を先導して、軍部と政府に迎合、追従、便乗して誇大広告した。朝日新聞社のアサヒグラフ(大東亜戦写真報道、第44巻第14号、1945年4月5日、11頁)には、卑劣な飛行機たちの墓として、 その冒頭に陰惨な惨死したアメリカ軍兵士の写真を掲載した。その説明欄には、「これらの敵の乗組員は、我々の体当りしたの英雄の一人に衝突されて、惨死した。」とのみ記載された。この戦闘では、日本軍の神風戦闘機がB-29に空中で激突したと想定した。写真には、惨死した二人のアメリカ人飛行士を乗せたと思われる正体不明のアメリカ軍爆撃機の残骸が撮影された。この記事には、この墜落がどこで起こったか、死んだ飛行士が誰であったか、何の情報も説明も無かった。アメリカ軍の死体は、最近は、各空襲で平均50%以上の敵の襲撃機が撃墜されるか損傷している と誇張する証拠として虚偽報道した。太平洋戦争中の日本軍の数千の写真雑誌を検索するも、アメリカ軍兵士の死者と死体を誹謗中傷した写真が掲載されていたのは、アサヒグラフ第1112号だけであった。

 アサヒグラフ第112号の解説欄には、「敵B-29の殺戮爆撃によって、わが方の受けた損害も決して尠くはない。但しこれは戦争の冷厳な実相だ。弱気は断じて禁物である。敵がその兇悪な殺戮を繰り返せば、その都度猛烈なわが激撃戦によって、敵はひどい痛打をうけつつあることをも併せて思うべきだ。最近に於ては来襲の度ごとに平均約五割が撃墜、大破の憂目に遭うているのである。膨大な建造費をかけ、莫大な燃料を消費し、不足し行く搭乗員をかりあつめ、驚くべき整備の無理を重ねながら飛来するこの敵も、本土上空に於て痛烈な出血を強要されているのである。勿論楽観は許さるべきではない。算盤髙い敵である。新基地より、費用のかからぬB-24を、戦闘機護衛のもとに送り出すであろうことは、夙に指摘されているところだ。しかし、彼等が兇悪な戦術・戦略の爆撃を行うたびに毎に、わが本土及びその周辺が、醜翼の墓場になって行くことを、敵はよく覚えておくがいい。」と焦土を越えて・翼あれば必ず勝つ・醜翼の墓場・孔雀旗は断じて戦うと検閲されたアサヒクラブは喧伝した。