ラベル ベトナム戦争 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ベトナム戦争 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年8月7日水曜日

1975年4月15日にカンボジアの首都プノンペンの都市部での火災から住民が逃走した。写真は明らかに1975年4月15日の夕方に撮影された。

1975年4月15日にプノンペンの都市部での火災から住民が逃走した。写真は明らかに1975年4月15日の夕方に撮影された。1975年4月30日のサイゴン陥落と同時に、隣国のカンボジアでは最大の悲劇が繰り広げられていた。1975年4月17日に、カンボジアの首都プノンペンは、ポル・ポトとイエン・サリーが率いる極左親北派、いわゆるクメール・ルージュに占拠された。その後の3年間、彼らは "農業共産主義 "を構築するために、史上最も残忍な社会実験を行った。すべての知識人を含む前政権のメンバーは完全に抹殺されることになった。ブルジョア生活の温床としての都市は、数日のうちに住民の人口が一掃された。クメール・ルージュの命令により、住民たちは急いでプノンペンを去った。

 政権を握ると、クメール・ルージュは急進的なプログラムを実行した。外国の影響から国を隔離し、学校、病院、工場を閉鎖し、銀行、金融、通貨を廃止し、すべての宗教を非合法化し、すべての私有財産を没収し、強制労働が蔓延する集団農場に都市部から人々を強制移住させた。この政策の目的は、農業労働を通じてすべてのカンボジア人を廃人にすることであった。

 プノンペンや他の都市でクメール・ルージュは住民に、「2、3キロ」だけ郊外に移動し、「2、3日」で戻ってくると告げた。 何人かの目撃者によれば、避難はアメリカ軍の爆撃の脅威」のためであった。クメール・ルージュが帰還まですべての面倒を見るので、家に鍵をかける必要はないと告げられた。避難を拒否した人々は、家を焼き払われ、即座に殺されることになった。クメール・ルージュによる民間人の避難は初めてではなく、1970年代初頭から、所有物を持たない住民の同様の避難が小規模ながら行われた。




2024年6月28日金曜日

1970年5月9日に、ベトナム戦争中にカンボジアに侵攻入するアメリカ軍の装甲兵員輸送車と乗組員が、道端で死亡して散乱した2人の民間人の死体の脇を見詰めて通過した。

1970年5月9日に、ベトナム戦争中にカンボジアに侵攻入するアメリカ軍の装甲兵員輸送車と乗組員が、道端で死亡して散乱した2人の民間人の死体の脇を見詰めて通過した。カンボジアは中立国だったが、ベトナムで戦う共産主義勢力の聖域として長い間機能していた。南ベトナム軍のベトナム共和国陸軍(ARVN)とアメリカ軍は1970年春に、共産主義者の拠点地域を破壊し、ガンボジアの「北ベトナム化」を阻止するためにカンボジアに侵攻した。

 ベトナム戦争が継続中の1970年3月18日に、カンボジアのロン・ノル首相兼国防相が、パリに滞在中のノロドム・シアヌーク王子に対するクーデターを起こした。ロン・ノルはアメリカと同盟を結び、ベトナム人民軍(PAVN、北ベトナム軍)と南ベトナムの共産主義組織のベトコン(VC、ベトナム共産軍)をカンボジアからの撤退を要求した。

 シアヌークビル港からベトナム民主共和国(DRV、北ベトナム)の補給活動を閉鎖し、南ベトナム国内のPAVNとVC軍に供給するホーチミンルートを閉鎖した。ロン・ノルはその後、カンボジア国境3県にいる推定4万~6万のPAVN軍に対し、絶望的に弱体のカンボジア軍を派遣した。アメリカはカンボジア軍に装備を提供し、10万人以上の兵員を抱えるも、共産主義勢力に都市部に追いやられた。

 1970年4月14日から20日に、ベトナム共和国陸軍(ARVN、南ベトナム軍)は、国境を越えた数個大隊の作戦を展開して、共産主義者の主要な補給物資貯蔵庫を押収した。ベトナム人民軍(PAVN、北ベトナム軍)とベトコン(VC、ベトナム共産軍)部隊は、カンボジア内陸部に撤退した。カンボジア国内に最大約30kmまで、約5万人の南ベトナム軍(ARVN)と3万人のアメリカ軍が参戦した。アメリカ地上軍は6月30日までにカンボジアを撤退した。南ベトナム軍(ARVN)は1971年まで残り、数十万人の新たなカンボジア難民を生み出した。1970年4月29日から7月22日のカンボジア侵攻で、南ベトナム軍は638死亡して、アメリカ軍は338人死亡して、共産主義勢力は約11,369人が死亡した。




2024年6月6日木曜日

1965年1月22日に仏教徒がアメリカ大使館に向けて抗議デモを強行した。ベトナム政府の警官と特殊部隊はアメリカ大使館を取り囲んで、仏教徒のデモ隊に射撃して、デモ隊は大混乱して、多数の逮捕者と死傷者が出た。

ベトナムの仏教徒蜂起により、仏教徒を弾圧するベトナム共和国政府のチャン・バン・フォン首相の内閣をアメリカ政府が支持するのをやめろと訴えるために、1965年1月22日に仏教徒がアメリカ大使館に向けて抗議デモを強行した。ベトナム政府の警官と特殊部隊はアメリカ大使館を取り囲んで、仏教徒のデモ隊に射撃して、デモ隊は大混乱して、多数の逮捕者と死傷者が出た。1965年1月に、フォンはアメリカからの援助金と装備品を使って軍事費を拡大し、徴兵条件を拡大して軍隊の規模を拡大した。

  仏教徒危機により、1963年5月から11月にかけて、南ベトナム政府による一連の仏教徒に対する弾圧行為に対して、主に仏教僧が主導した市民抵抗運動が勃発した。1963年6月11日に、僧侶のクァン・ドゥックが、南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権の仏教徒の迫害に抗議して、カンボジア大使館前で焼身自殺した。僧侶の焼身自殺が世界報道写真賞となり、ゴ・ディン・ジェムの暗殺の起点となった。

 南ベトナムのゴ・ディン・ジェム初代大統領が1963年11月2日に暗殺された後に、南ベトナムは1年半の間に、複数のクーデターやその他の反乱の失敗が多発して、持続的で深刻な不安定期が継続した。上級将校間の個人的な対立とは別に、内紛は宗教的な圧力運動間の対立によってもかき立てられた。仏教徒は、ゴ・ディン・ジェム政権の親カトリック政策の撤廃を働きかけた。カトリックに改宗するゴ・ディン・ジェムの政策を精力的に実行して急速に出世した将校たちも親カトリック政策の撤廃を求めた。一方で、ゴ・ディン・ジェムの暗殺後に、特権が後退させられたカトリック教徒は、グエン・カーン将軍の政権が、仏教徒のために自分たちを迫害していると非難した。この時期には宗教暴動が勃発することもあった。




2024年5月31日金曜日

1954年5月7日に、フランス軍のヒム・ラム司令部は、ベトナム(ベトナム独立同盟会)にてディエンビエンフーの戦いでベトミンの手に落ちた。司令部の周辺には、殺害された多数のベトミンらの死体が散乱した。

1954年5月7日に、フランス軍のヒム・ラム司令部は、ベトナム(ベトナム独立同盟会)にてディエンビエンフーの戦いでベトミンの手に落ちた。司令部の周辺には、殺害された多数のベトミンらの死体が散乱した。ベトミンのディエンビエンフー作戦は成功裡に終了し、ディエンビエンフーのフランス軍の拠点がベトミン軍によって破壊された。ヒム・ラム司令部の陣地壕には、戦う決意と勝利の決意のベトミンの旗がはためいた。同日にベトナムのフランス植民地軍は、ディエンビエンフーの戦いで、独立派のベトミンに事実上敗北した。 

 1954年3月13日、ベトミン(ベトナム独立連盟)の大砲が最外郭のヒム・ラムに撃ち込まれ、北西部の人里離れた谷間の静けさが破られ、ディエンビエンフー作戦が始まった。約49,000人のベトミンが人海戦術で、フランス軍の守備隊の外側の強拠点を襲撃した。滑走路は絶え間なく砲火にさらされ、ベトミンの大砲を排除するフランス軍の対砲台射撃は絶望的に効果がなく、多くのフランス軍砲が破壊された。

 55日間にわたる残忍な包囲戦が勃発した。1953年11月20日に、フランス軍の空挺部隊と工兵が、谷間のディエンビエンフーにパラシュート降下し、防御陣地の構築を開始した。最初の4日間の戦闘で、フランス軍の9つの要塞のうち3つが失われ、1,000人以上のフランス兵が死傷した。激戦の末、ベトナム軍はディエンビエンフーの砦を崩し、16,200人のフランス軍兵を殺害・捕虜にし、62機の航空機を撃墜し、敵フランス軍のすべての軍事物資を奪取した。1954年5月7日午後5時30分、ベトナム軍の赤と黄色の旗がフランス軍司令官デ・カストリ将軍の壕の上に上がった。同日深夜までに、フランス軍主導の部隊はすべて捕虜となった。約2,000人以上のフランス兵が死亡し、10,000人以上が負傷または捕虜となった。ベトミンは23,000人以上の死傷者を出した。




2024年5月14日火曜日

サイゴン郊外の8区にて北ベトナム人民軍(PAVN)とベトコン(VC)によるテト攻勢に巻き込まれて重傷を負ったベトナム人の男子を、南部ベトナム共和国軍(ARVN)兵士と民間ベトナム人が、身体を支えて救急搬送した。

ベトナム戦争にて、南ベトナム共和国の愛国心と活動の部隊であったサイゴン郊外の8区にてテト攻勢が1968年1月30日から勃発した。北ベトナム人民軍(PAVN)とベトコン(VC)によるテト攻勢に巻き込まれて重傷を負ったベトナム人の男子を、南部ベトナム共和国軍(ARVN)兵士と民間ベトナム人が、身体を支えて救急搬送した。この地域はアメリカ軍の援助で沼地から埋め立てられて建設された。テト攻勢が始まるまでは、南ベトナム共和国の愛国心と活動の地域であった。

 1968年1月1日から、ベトナム戦争にて北ベトナム人民軍とベトコンによってアメリカ軍基地への攻撃が勃発した。ローマ法王の宣言により、全陣営が合意した休戦協定が破棄された。1月30日から、北ベトナム人民軍とベトコンによるテト攻勢が勃発した。

 北ベトナム民主共和国のハノイ当局が想定したテト攻勢が南ベトナム住民の反乱は起こらなかった。フエからメコンデルタに至る南部全域の北ベトナム人民軍とベトコンは、ベトナム戦争で初めて武力攻勢を行った。南ベトナム共和国軍とアメリカ軍はテト攻勢の1ヵ月足らずの間に、南ベトナム共和国軍は4,000人以上が戦死して、アメリカ軍は2,100人以上が戦死した。北ベトナム人民軍とベトコンは約37,000人近くを殺害されて、壊滅的な損害を被った。ベトナム戦争でベトコンは、テト攻勢以後は団結した部隊とは二度と戦えなかった。アメリカ本国には情勢は伝わらず、北ベトナムのプロパガンダ的勝利に陥った。

 1968年に、ジョンソン大統領はベトナム駐留アメリカ軍の最大数の549,500人に増員を承認し、アメリカ軍兵士の数は頂点に達した。1968年に、アメリカは774億アメリカドルをベトナム戦争に費やして、最も出費の多い年となった。1968年は、アメリカ軍とその同盟国軍にとってベトナム戦争で最も戦死者の多い年となった、南ベトナム共和国軍は27,915人が死亡して、アメリカ軍は16,592人が死亡した。北ベトナム人民軍とベトコンは約20万人が死亡した、アメリカ軍にとってベトナム戦争で1日あたり最も戦死者が多かった日は、テト攻勢が勃発した1月31日で、246人のアメリカ軍兵士が戦死した。




2024年5月9日木曜日

ベトナム戦争初期の1965年9月3日に、南ベトナム政府軍兵士は、メコンデルタのタンディン島の水田の端で、戦友の死体が入った麻袋の列を水田堤防に横たえて、アメリカ軍ヘリコプターによる死体の搬送を待機した。

ベトナム戦争初期の1965年9月3日に、南ベトナム政府軍兵士は、メコンデルタのタンディン島の水田の端で、戦友の死体が入った麻袋の列を近くの水田堤防に横たえて、アメリカ軍ヘリコプターによる死体の搬送を待機した。それまで南ベトナム共和国軍の敵である北ベトナム軍と南ベトナム解放軍を発見できずに約2日間の哨戒を続けていた。その途上で、南ベトナム政府軍部隊は、南ベトナム解放軍のベトコンに包囲されて攻撃を受けた。その後に、アメリカ軍の武装ヘリコプターが襲来したが、ベトナム政府軍兵士を南ベトナム解放軍と間違えて、この部隊を襲撃した。多数の南ベトナム政府軍の戦友がアメリカ軍に殺害されて戦死した。その後、アメリカ軍ヘリコプターが、水田に着陸して、南ベトナム政府軍兵士の死体を収容して搬送した。

 ベトナム戦争における河川作戦はベトナムにおける戦闘の中心的な一つの戦略であった。南ベトナム政府軍とアメリカ軍は、メコン川下流とその支流をめぐってベトコンと争った。1万5,600平方マイルの土地と1万5,000マイル以上の水路を持つメコンデルタは、戦略上極めて重要地域であった。年間約1600万トンの米を生産するデルタは、南ベトナム共和国の経済の基盤だった。共産主義の北ベトナム軍とベトコンにとって、カンボジアから南へ流れるメコン川はホーチミン・ルートの最南端の支流であった。メコンデルタにいたベトコンの28個大隊と69個中隊、合計約82,500人の部隊に重要な物資の支援をもたらした。 

 南ベトナムの人口の約40%の約600万人が、メコンデルタの湿地帯に住んでいた。1965年から、ベトコンの一団がメコンデルタに侵入して、メコンデルタとその周辺を侵攻した。1966年までに共産主義の北ベトナム軍とベトコンは、メコンデルタの人口のほぼ25%を支配した。北ベトナム軍とベトコンの第一の目的は南部の米の供給を断つことだった。南ベトナム政府軍とアメリカ軍の連合軍は、ベトコンへの物資の流れを断ち切り、ベトコン部隊とインフラを排除する2つ戦略があった。アメリカ軍と南ベトナム政府軍は、メコンデルタ地帯を確保し、サイゴン政府の支配下に戻すために、アメリカ軍はメコンデルタ地帯の掃討する河川作戦を決定した。アメリカ海軍の機動部隊と軽量哨戒部隊が、メコン川、コチエン川、ロンタウ川、バサック川とその支流を哨戒し、ベトコンによるこれらの水域の使用を妨害した。




2024年3月20日水曜日

ベトナム戦争にて、1963年に戦場で激戦後に、夜が明けると解放戦線(ベトコン)兵士の死体が横たわった。重機関銃で銃撃されて、死体はまるで蜂の巣のように撃ち抜かれた。

ベトナム戦争にて、1963年に戦場で激戦が終結して、戦場の夜が明けると解放戦線(ベトコン)兵士の死体が横たわった。重機関銃で銃撃されて、死体はまるで蜂の巣のように撃ち抜かれた。1963年7月頃には、ベトナムでは反政府ゲリラによるゲリラ戦が勃発していた。アメリカから派遣された軍事顧問団や政府軍は、ベトコンとの戦闘を繰り返した。

 1963年初頭までに、ベトナムに駐留するアメリカ軍兵士の数は、数百人から数年のうちに1万人以上に増えていた。朝鮮戦争が勃発して停戦してから10年も経ていない。地球の裏側のベトナムで起こった紛争に、アメリカ軍が直接に関与する影響は、アメリカ国民の話題の一部であった。1963年当時は、ベトナムにおけるアメリカ軍の役割の拡大は、まだ包括的で分裂的な問題にまで発展していなかった。

 1963年1月25日に『LIFE』誌が「We Wade Deeper Into Jungle War」の強烈な表紙と記事を掲載して、カラー写真を添えて注目された。LIFEの写真が1963年以前から、ベトナム戦争中も『LIFE』誌などやアメリカの主要マスメディアは、紙面でもテレビでも、生々しく不安を煽るベトナム戦争を定期的に掲載し放送した。1964年6月12日号『LIFE』に岡村昭彦の「醜いベトナム戦争(9ページ)」の特集が掲載され写真に反響を呼んだ

 雑誌に掲載される写真は、恐ろしいほど拡大する紛争を鮮明に記録して、戦争の生々しさを示唆した。ぼろぼろに切断された手足、放火された死体、内臓で覆われた壁などは、生弱なアメリカ人には動揺が大きすぎた。大手マスメディアに慣れ親しんだアメリカ人には、大衆週刊誌にベトナム戦争の陰惨な写真が日常的に掲載された。




2023年11月9日木曜日

ベトナム戦争のテト攻勢直後の1968年2月1日に、南ベトナムの首都サイゴンのタンソンニャット空軍基地周辺に、アメリカ軍と南ベトナム軍に殺害されたベトコンゲリラの死体が積み上げられた。

ベトナム戦争のテト攻勢直後の1968年2月1日に、南ベトナムの首都サイゴンのタンソンニャット空軍基地周辺に、アメリカ軍と南ベトナム軍に殺害されたベトコン(南ベトナム解放戦線)ゲリラの死体が積み上げられた。   

 北ベトナム軍とベトコンのテト攻勢は、1968年1月31日に勃発した。テト(ベトナムの正月)は、爆竹の爆発音が銃声を覆い隠し、ベトコンの攻撃に奇襲の要素を与えた。南ベトナム解放民族戦線(ベトコン, NLF)軍とベトナム人民軍(北ベトナム軍)が、ベトナム共和国(南ベトナム)軍、アメリカ軍、およびその同盟国軍と戦闘した。1968年1月31日に、ベトコン(VC)は南ベトナム全土でアメリカ軍と南ベトナム軍の陣地を攻撃するテト攻勢を勃発した。首都サイゴンがテト攻勢の中心地だった。首都サイゴンの完全占領は意図できず実現は不可能であった。ベトコン(VC)の35個大隊がサイゴンを攻撃して一時的に攻勢したのは、タンソンニャット国際空港近くの南ベトナム共和国陸軍(ARVN)統合参謀本部、独立記念宮殿、アメリカ大使館、タンソンニュット空軍基地、ロンビン海軍司令部、国家ラジオ局の6地点だった。

 ベトナム空軍(RVNAF)とアメリカ空軍(USAF)第7空軍の司令部があったタンソンニャット空軍基地への攻撃は、1968年1月31日未明に発生した。タンソンニャット空軍基地は、南ベトナム国内での攻撃的な航空作戦と、アメリカ陸軍とベトナム共和国陸軍(ARVN)の地上作戦を支援する主要な空軍基地のひとつであった。ベトコン(VC)とベトナム人民軍(PAVN)部隊による攻撃は、テト攻勢の最初の数日間のサイゴンへのい主要な攻撃の一つであった。テト攻勢はベトコンとベトナム人民軍(VC/PAVN)に大きな損害を与えて撃退した。6地点には表面的な損害しか与えられなかった。




2023年10月9日月曜日

カンボジアにてプノンペンの戦いで1975年に戦死した夫の遺体を、カンボジア人妻が抱きしめた。カンボジア人の夫は、左派過激派のクメール・ルージュに殺害された。

カンボジアにてプノンペンの戦いで1975年に戦死した夫の遺体を、カンボジア人妻が抱きしめた。戦死した夫の死体に抱きかかえて、若い未亡人は苦悶しながら嘆き悲しんだ(@ Don McCullin)。カンボジア人の夫は、左派過激派のクメール・ルージュに殺害された。

 1975年4月17日にプノンペン陥落して、クメール・ルージュによってクメール共和国(現在のカンボジア)の首都プノンペンが占領されて、カンボジア内戦は終結した。1975年4月初旬に、クメール共和国に残された最後の砦であったプノンペンは、クメール・ルージュに包囲されて、ポチェントン空港からの空中補給に完全に依存した。クメール・ルージュの制圧が目前に迫り、アメリカ政府は1975年4月12日に、アメリカ国民と同盟国のカンボジア人を避難させた。4月17日のうちに、プノンペン周辺の最後の防衛線は制圧されて、クメール・ルージュがプノンペンを占領して、クメール共和国政府は崩壊した。

 捕らえられたクメール共和国軍は、オリンピック・スタジアムに連行され、そこで処刑された。政府や軍の幹部は、処刑前に自白書を書かされた。クメール・ルージュはプノンペン住民に強制退去を命じて、4月30日までフランス大使館に避難した国外居住者を除き、プノンペンは空っぽになり、タイに移送された。外国人はフランス大使館の敷地内に押し込められた。約2週間後には外国人たちはタイ国境までトラックで運ばれ、追放された。外国人が去り、カンボジアのクメール・ルージュによる民主カンプチアで始まった恐怖政治の唯一の外部目撃者を失った。

 クメール・ルージュは、プノンペンを支配下に置いて、約200万人のプノンペン住民を地方の農村部に強制移住を強行した。家や学校で銃を突きつけられ、直ちに移動しなければ発砲された。病院でも患者は路上に追いやられた。家族はバラバラになり、子供たちは混乱の中で両親を見失った。首都プノンペンから続く道路は大渋滞となり、何千人もの人々が死亡した。友人や親族は死体を置き去りにし、わずかな持ち物を担いで足早に移住を強制された。




2023年8月24日木曜日

ベトナム戦争にて、アメリカ軍兵士がベトコンの戦傷者を担いで、1967年12月8日にベトコンの戦死者の死体の横を通り過ぎた。ブー・トップの戦いで、約49人のベトコンが戦死して、アメリカ軍兵士は4人が戦死した。

ベトナム戦争にて、アメリカ軍の第1歩兵師団第1旅団兵士がベトコンなどの戦傷者を担いで、1967年12月8日にベトコン(VC: 南ベトナム解放戦線)の戦死者の死体の横を通り過ぎた。同日真夜中にブー・トップ地区での激しい戦闘で、約49人のベトコンが戦死して、アメリカ軍兵士は4人が戦死した。アメリカ軍のブー・ドップ(Bu Dop)基地は、1963年11月に設置されて、ベトナムとカンボジアの国境に近いビンフオン県ブードップ地区に位置した。

 1967年11月29日午前0時頃に、ベトコンは要塞化されたアメリカ軍のブ・ドック地区を攻撃した。11月29日午後10時頃には、ベトコンの迫撃砲とロケット弾がブ―・ドップ基地に飛び込んだ。ロケットは掩蔽壕に直撃し、アメリカ軍兵士の4人全員が死亡した。数百人のベトコン兵士が、砲撃が終わると、滑走路の東側から突撃して、森から約200m横切ってブ―・トップ基地を突撃した。アメリカ軍は榴弾砲を、突撃したベトコンに撃ち込んで、強行突撃する多くのベトコン部隊を倒した。アメリカ軍の戦闘爆撃機F-100がベトコンが潜伏する森に、爆弾と大砲で攻撃した。ベトコンの突撃は挫折し、すぐに森の中に撤退した。アメリカ軍の死傷者は死者約7人、負傷者11人、ベトコンの戦死者は、31人の死体が残存した。

 その後に1週間も、アメリカ軍はブー・ドップ周辺のベトコン部隊と衝突を続けて、毎晩迫撃砲弾が着弾した。ブ―・ドップ基地に対する2度目の大規模なベトコン攻撃に対抗して、アメリカ軍は12月4日にブー・ドップ滑走路の基地を強化した。その2日後に、アメリカ軍はベトコンの侵攻が目標としたブー・トップの南東に射撃基地を設置した。12月8日午前1時頃に、アメリカ軍はベトコンの陣地を攻撃し、主力突撃隊がロケット砲下で侵攻した。アメリカ軍の砲兵隊は、非常に短い交戦距離下で、高火力砲弾でベトコン部隊を切り裂いて、基地の外線への到達を阻止した。アメリカ軍の空爆、武装ヘリコプター、迫撃砲で、ベトコンはさらなる損害を受けた。その後に、ベトコンは12月8日午前3時頃にブ―・トップ地区から撤退した。アメリカ軍は翌日の12月9日に、ベトコンの死者の約49死体と、軍の死者は4体を検死した。その後に、ブ―・トップ基地は1970年12月31日に南ベトナム軍に移管された。




2023年8月14日月曜日

ベトナム戦争において、1963年に殺害された多数の南ベトナム政府軍兵士の死体が、並べられて草ぶき小屋に安置された。南ベトナム政府軍兵士の死体は、アメリカ軍のポンチョに包まれた。

ベトナム戦争において、1963年に殺害された多数の南ベトナム政府軍兵士の死体が、並べられて草ぶき小屋に安置された。南ベトナム政府軍兵士の死体は、アメリカ軍のポンチョに包まれた。ベトコンの強固な拠点でる集落地域に対する作戦では、部隊の上陸や移動に先立つ長時間の空爆や砲撃によって、奇襲性は失われた。罪のないベトナム人女性、子供、老人が砲撃の矢面に立たされた。1963年3月の1ヶ月間に、ベトコンの攻撃は約1,861件と過去最高に達し、攻撃の規模が大きくなり、広範囲に分散した。

 1959年には約1,000人弱だった軍事顧問を、1961年1月20日にアメリカ大統領に就任したジョン・F・ケネディは1961年11月に、南ベトナムに対するアメリカ軍の軍事援助の大幅な増大を決定した。1961年12月に、USS空母コアは35機のヘリコプターとサイゴンに到着した。1962年半ばまでに、ベトナムには約12,000人のアメリカ軍の軍事顧問団が駐留していた。特別戦争と戦略的小村の政策により、サイゴン政府の南ベトナム軍は1962年に押し返すことができた。1963年にはベトコンが軍事的主導権を取り戻した。ベトコンは1963年1月に、アプバックの戦いで南ベトナム軍に対して初の軍事的勝利を収めた。アメリカ軍の軍事顧問団は、1964年までに約23,000人に達した。ケネディ大統領は、7月17日に南ベトナムからの撤退は、東南アジアの崩壊を意味するから、アメリカ軍は南ベトナムに留まると会見した。11月22日に、ケネディ大統領はテキサス州ダラスで暗殺された。

 1961年から1963年にかけて、約4万人の共産主義兵士が南ベトナムに潜入した。ベトコンが急速に成長して、1962年初頭までに推定30万人の兵士が解放協会に登録された。1963年1月2日にアプバックの戦いは、ベトコンが、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して最初の大勝利となった。ベトコンと南ベトナム政府軍兵士の比率は、1961年の1対10から、1年後の1962年には1対5に跳ね上がった。共産主義側は最大限の軍事的拡大の準備を整えて、北ベトナムのベトナム人民軍(PAVN)の兵力は、1963年末に約17万4,000人に及んだ。





2023年7月19日水曜日

ベトナム戦争にて、47歳女性の戦争写真家であったディッキー・シャペルは、南ベトナムで戦闘中のアメリカ軍を取材中に、1965年11月4日に爆発した地雷によって死亡した。

ベトナム戦争にて、47歳の戦争写真家であったディッキー・シャペル(Dickey Chapelle)は、南ベトナムで戦闘中のアメリカ軍を取材中に、爆発した地雷によって死亡した。1965年11月4日に、チューライ基地近くで、南ベトナム解放戦線のベトコンの地雷が炸裂して、その破片が身体を射殺した。彼女はベトナム戦争で殉職した最初のアメリカ人女性特派員となった。「私が死ぬときは、アメリカ海兵隊のパトロール中でありたい」と彼女は語っていた。彼女の最期の死亡は、"起こるべくして起こった "と伝えらた。




 ディッキー・シャペルは、1965年11月4日午前8時頃にクアンガイ省チューライの南16kmで海兵隊小隊とパトロール中のブラックフェレット作戦中に戦死した。海兵隊によるチュウライ近郊での捜索・殲滅作戦であった。シャペルの頸部に破片を受けて、頸動脈を切断して、間もなく死亡した。彼女の最期の瞬間はアンリ・ユエ(Henri Huet)の写真に収められた。彼女の死体は6人の海兵隊員からなる儀仗兵とともに送還されて、海兵隊により丁重な埋葬が行われた。海兵隊は彼女に軍務上の栄誉を与えた。

 ディッキー・シャペルは、太平洋戦争の硫黄島の戦いの写真を撮った。米海兵隊のウィリアム・フェントン(William Fenton)伍長は、硫黄島の浜辺のすぐ近くに停泊していたUSSサマリタン病院船の中で、重傷を負って担架に横たわり、治療を待っていた。シャペルは、551人の重傷の海兵隊員がその船に乗船し、彼らの命を救おうとしたと説明している。硫黄島は第二次世界大戦中、最も激戦となった戦いのひとつで、海兵隊の死者6,821人、負傷者19,217人、日本軍は死者約21,000人、捕虜はわずか216人だった。



 ディッキー・シャペルは、第二次世界大戦にて女性戦場特派員の創世記の一人である。シャペルは、病院船から沖縄の無人島に向かい、大規模な攻撃で負傷者を救助する海兵隊員たちを取材した。海軍は喜ばず、彼女は銃を突きつけられて沖縄戦争から追い出された。戦争写真は手に入れて、そのうちの2枚は、沖縄の野戦病院で、14パイントの輸血を受ける前と後のジョニー・フッド(Johnny Hood)海兵隊員の写真で、血の川の献血に拍車をかけた。

 

2023年7月12日水曜日

1975年4月にカンボジアのクメール・ルージュにより首都プノンペンが空爆された。生存したガンボジア人が、絶望しながらも崩壊した瓦礫や死体をふるいにかけた。

1975年4月にカンボジアのクメール・ルージュによりカンボジアの首都プノンペンが空爆された。生存したガンボジア人が、絶望しながらも崩壊した瓦礫や死体をふるいにかけた。4月17日に、クメール・ルージュは勝利を収めて首都プノンペンに入城した。数時間以内にカンボジアを、国家への奉仕する農村社会に変革して崩壊させた。住民約200万人を田舎へ強制退避させる命令を下した。在留した外国人がタイ国境に追放されて、民主カンプチアにおける大量虐殺の目撃者を失った。1975年から1979年の間の犠牲者のうち約50万人から約150万人は、クメール・ルージュが引き起こした強制労働と飢餓が死因となった。

 1968年1月にニクソンがアメリカ大統領に就任したとき、ベトナム戦争から名誉ある終結を公約した。北ベトナムからの軍隊や物資が、カンボジアを経由して南ベトナムに流入していた。北ベトナム軍に対抗するために、ニクソンは前任のリンドン・ジョンソン大統領が始めたカンボジア空爆作戦を劇的に拡大させた。1969年3月に、ニクソンは北ベトナムの補給路を寸断するため、カンボジア東部で大規模な爆撃作戦をアメリカ空軍に密命した。1970年4月に、アメリカ軍と南ベトナムの地上軍がカンボジア東部に侵攻して、共産主義者の聖域を攻撃した。一方、北ベトナム軍はカンボジアの奥深くへと侵入して、クメール・ルージュのために農村の大部分を占領し始めた。ニクソンはその後に、北ベトナム軍の補給路を断つため、カンボジアへの地上侵攻を開始した。

 カンボジアはベトナム戦争の当事者ではなかったが、アメリカ軍のカンボジア爆撃は、第二次世界大戦中にアメリカが投下したすべての爆弾の総トン数を上回ったと推定された。アメリカ軍の爆撃機は、カンボジアの約113,000以上の地点に約270万トン以上の爆弾を投下し、戦闘員と民間人に多大な犠牲をもたらした。カンボジア空爆作戦で何万人ものカンボジア人が死亡し、何百万人もの人々が難民化した。大量爆撃の投下による破壊と1970年のアメリカ軍の部分的な占領により、その後に大量虐殺を執行する共産主義のクメール・ルージュ政権の台頭を促して、クメール・ルージュの政権は、約200万人のカンボジア人を虐殺したと推定された。




2023年5月11日木曜日

北ベトナム軍のイースター攻勢により、ベトナムの中部高原地域のバナール人の少年が、爆発による破片が傷口に迷入し、傷口から出血した。心配な母親が付き添って、パット・スミス病院で、治療を受けるのを待機した。

北ベトナム軍のイースター攻勢(Easter Offensive)により、ベトナムの中部高原地域のバナール人の少年が、爆発による破片が傷口に迷入して、傷口から出血した。心配な母親が付き添って、パット・スミスの病院で、治療を受けるのを待機した。戦闘が続く中で、北ベトナムのベトナム人民軍から絶え間ない砲撃にさらされ、何度も戦車に突撃された。毎日の砲撃で瓦礫と化した町には、腐敗した死体の臭いが充満した。

 北ベトナム軍の1972年3月30日からのイースター攻勢により、南ベトナムの最北中部沿岸のクアンチー市北部の戦線が崩壊した。南ベトナム(ARVN)軍と市民が国道1号線に殺到しパニックに陥った。ドンハの住民はほぼ全員が逃げ出し、デビッド・エリオットは廃墟と化した。大量の難民がフエに到達すると、フエの住民もパニックに陥った。ハイヴァン峠の南方のダナンに避難するために国道1号に住民が流入し始めた。1966年4月6日に、ベトナム人民軍(PAVN)部隊はロック・ニンを占領して、サイゴン北部のアンロックに攻め込んだ。サイゴン市内に残存した予備軍は、攻勢に対応するため国道13号線を急行した。サイゴンのアメリカ軍ラジオは、爆撃機の戦闘機をカンザスからベトナムに派遣することを発表した。

 北ベトナム軍のイースター攻勢は、ベトナム戦争中の1972年3月30日から10月22日まで、北ベトナム正規軍(PAVN)が南ベトナム正規軍(ARVN)とアメリカ合衆国軍に対する軍事攻勢である。北ベトナム軍は、3つの戦線を同時に攻撃した。規模と激しさに南ベトナム防衛側はバランスを崩した。北ベトナム軍が、1968年のテト攻勢以来初めて南ベトナムに侵攻した。北ベトナム軍は約1ヶ月に及ぶ第一戦線で、南ベトナムの防御陣地を制圧し、クアンティ市を占領した。その後に南下してフエの占領を攻勢した。北ベトナム軍は第ニ戦線で辺境防衛部隊を排除して、州都コンツムに侵攻した。サイゴンの北東の第三戦線で、北ベトナム軍はロック・ニンを制圧し、ビン・ロン州の州都アン・ロックを侵攻した。

 北ベトナム軍が侵攻の4月、停滞の5月、6月から7月は南ベトナム軍の反撃、9月のクアン・チ市の奪還に達した。3つの戦線で、北ベトナム軍は多くの死傷者と無能な戦術により頓挫した。イースター攻勢の結果、1968年11月以来、アメリカ軍は初めて北ベトナムに持連続的な北爆が開始された。南ベトナム軍はイースター攻勢による北ベトナムの侵攻を阻止した。北ベトナムは、装甲や装備の多くを失い、約10万人もの兵力を失う。南ベトナムの死傷者は約43,000人、うち約10,000人が死亡した。アメリカ軍兵士は、約10,000人が戦死して、33,000人が戦傷した。イースター攻勢の結果、約25,000人のベトナム民間人が死亡し、約100万人が家を失った。




2023年4月18日火曜日

ベトナム戦争にて、フォンニィ・フォンニャットの虐殺は、韓国軍龍部隊が1968年2月12日に民間ベトナム人の約79人を虐殺した。

ベトナム戦争にて、フォンニィ・フォンニャットの虐殺は、韓国軍龍部隊が1968年2月12日に民間ベトナム人の約79人を虐殺した。フォンニ(Phong Nhi)村にて、ベトナム人の母親レディン・ディエン(34歳)は、赤坊のレ・ ディン・マンを抱いたまま、韓国軍の銃によって撃たれて殺害されて倒れた。母親ディエルの上着がめくれたまま、胸がむき出しになったまま死亡した。母親より死体の上方にも、ベトナム人の村人グエン・ティ・トが韓国軍に殺害された。赤ん坊を抱いて韓国軍の銃撃によって死亡したディエンは、生前に所持していた市民証を保持していた。

 赤坊は、うつ伏せのまま死んだ母親を仰向けにすると現れた。母親の血が付着して、赤ん坊は傷ひとつなく生存していた。額に汗まで流し、ディエンの赤ん坊は眠り続けて、母親が死亡して生死の見分けもできず、た悲しみを知らない。家や村が燃え、母も、祖父も、おばも失った。赤坊は、眠りから覚めてにこにこ笑ったり泣いたりしてた。

 父親レディン・トゥク(40歳)は、生活のために南ベトナム民兵隊員として働いた。自宅から約2km離れたキエムル哨所のそばに家を建て、夜を過ごした。わずかに支給される給料で、4人の子供に食事を食べさせていた。子供たちを戦災から逃れさせた。妻ディエンの死体を見て号泣した。祖父と姉まで死んでいた。家族を失った村の住民たちが、妻ディエンの死体を背負ってキエムル哨所に駆けつけた。アメリカ軍と村を守る南ベトナム軍の一人として、韓国軍の虐殺に憤った。

 兄弟の兄レディン・ムクは、父親がいるキエムル哨所でふざけながら遊んでいた兄。フォンニ村に鳴り響いた銃声に、無感覚となった。耳が銃声の音にとても慣れた。ベトコンと南ベトナム軍が、また撃ち合ったとやり過ごした。まさか母が末っ子の赤ん坊を残した死亡は想像もできなかった。母とおばと祖父の死の前で、兄はようやく生と死の境界を理解するようになった。

  韓国は1964年から1973年の間に約320,000人の韓国軍をベトナム戦争に派遣し、共産主義の北朝鮮に対抗して南ベトナムを支援して、アメリカに次ぐ最大の外国軍を派遣した。アメリカ軍は、1968年3月16日に、アメリカ軍がソンミ(The Mỹ Lai massacre)村で民間人のベトナム人347人を虐殺した。




2023年3月22日水曜日

ベトナム戦争にて1965年2月7日から勃発したアメリカ軍による北爆に対して、翌日にベトナム民主共和国は抗議の声明を公表した。北ベトナムでは、アメリカ軍の北爆を受けて犠牲者の多数の死体が散乱した。

ベトナム戦争にて1965年2月7日に勃発したアメリカ軍による北爆に対して、翌日にベトナム民主共和国は抗議の声明を公表した。北ベトナムは、アメリカ軍の北爆を受けて犠牲者の死体が散乱した。

 アメリカは、インドシナ問題に関する1954年ジュネーヴ協定を破壊して、南ベトナムで特殊戦争を進めて、北ベトナムに対する挑発と破壊を強めた。その典型的なものは、1964年8月5日の空軍を使ったトンキン湾攻撃であった。重大な侵略行動は、北ベトナム軍と人民から激しい攻撃と非難を受けた。1964年8月5日のトンキン湾事件から1965年2月7日の北爆開始までに、アメリカは世界の世論の反対を受けても、20数回にわたり戦闘機や軍艦を派遣し、北ベトナムの北爆を加え、ラオスの戦争を拡大すると同時に、カンボジアの領土を絶えず侵略した。

 ジョンソン大統領は1965年2月7日午後2時に北爆の命令を下した。アメリカの戦闘機は東海(東シナ海)上に停泊するアメリカ第七艦隊の航空母艦から何回も発進し、ドンホイ市とクァンビン省のその他の地区およびヴィンリン地区のコンコ島に攻撃を加えた。ドンホイの病院と住民の住宅に爆撃と掃射を加え、同地の人民の生命、財産に損失を与えた。人民の生命、財産を守り、ベトナム民主共和国の領土の保全を守るため、現地の軍隊と人民は断固たる反撃を加え、敵機4機の撃墜、多数を撃破した。

1965年2月7日にアメリカ軍が空軍を使って攻撃を加えた北爆は、ベトナム民主共和国に対する重大な新たな戦争行為でとなった。国際法およびベトナム問題に関する1954年のジュネーヴ協定に対する違反であった。アメリカ政府は南ベトナムにアメリカ軍事力の増派を決定した。

  アメリカ軍は、南ベトナムの苦境を挽回するために、ベトナム民主共和国に対して北爆をしかけた。南ベトナムにアメリカの軍事力を強化し、戦争を南ベトナム以外の地区に拡大した。インドシナおよび東南アジアの戦争の危機が増悪した。北ベトナムは、アメリカ軍の新たな戦争行為と南ベトナムに対する軍隊および兵器の増派した。



2023年2月2日木曜日

ベトナム戦争のフエ攻防戦では、フエの血みどろの街路戦で殺害されたアメリカ軍兵士のビニールシートを一部かぶせた死体から死臭が満ちて、膨大な蝿が死体に集った。

ベトナム戦争のフエ攻防戦では、フエの血みどろの街路戦で殺害されたアメリカ軍兵士のビニールシートを一部かぶせた死体から死臭が満ちて、膨大な蝿が死体に集った。負傷者がおろおろと歩き、何ヵ所にもつくられた仮霊安所では引きとり手のない死体に、たえまなく線香の煙が包んだ。フエ攻防戦は、近代の市街戦の悲惨を証明した。

 テトの祝日である1968年1月31日未明から、約6000人以上ものベトコン解放勢力の大部隊が、 ロケット弾からフエ攻撃に移った。旧正月の古都フエは眠っていた。飛行場など目ぼしい軍事施設は、たちまち北ベトナム軍と解放勢力の手中に陥ちた。サイゴン政府軍の約1000人以上は旧正月の休暇をとって、残る兵士も不意打ちに狼狽して、半数以下にまで縮減した。アメリカ軍はフエ市内の顧問団本部に小規模配備のみであった。

 北ベトナムのベトナム人民軍(PAVN)とベトコン(VC)は、短期間でフエの大部分を占領した。その後に、アメリカ軍とベトナム共和国軍(ARVN)は、激しい一軒一軒の市街戦で、徐々に追い詰めた。日中にできるだけ多くの家屋を奪って、防御態勢に入り、翌朝に家屋間の戦闘を再開した。連合軍は3月2日にフエを奪還した。フエ攻防戦で、約3,000人が殺害されて、北ベトナム軍とベトコンは約2,000人の民間人を処刑した。北ベトナム軍とベトコンの死者は約5,133人、連合軍はの死者は、約668人と負傷者は約3,707人に及んだ。

 ベトナム戦争のテト攻勢で解放民族戦線側は約6万7,000人以上が参加して、サイゴン、ダナン、フエの他に南ベトナム44省の内34の省都、64の地方都市、アメリカ軍基地とサイゴン軍基地が攻撃された。その後のテト攻勢の犠牲者は、アメリカ軍は約3,895人、南ベトナム軍は約4,900人、解放民族戦線は約5万8,373人であったとアメリカ軍は公表した。アメリカ軍の1968年のベトナム戦争の死者が1万2,000人で、その約30%余りがテト攻勢のわずかな期間に失った。




2022年12月8日木曜日

ミシュラン・ゴム農園でベトコンと戦って殺害された南ベトナム政府軍兵士とアメリカ人顧問の死体の前を通るとき、南ベトナム政府軍の死体運搬の担架手は臭いから身を守るためにフェイスマスクを装着した。

ミシュラン・ゴム農園でベトコンと戦って殺害された南ベトナム政府軍兵士とアメリカ人顧問の死体の前を通るとき、南ベトナム政府軍の死体運搬の担架手は臭いから身を守るためにフェイスマスクを装着した。連隊の大部分と数人のアメリカ人顧問が死亡した後に、約100体以上の死体が回収された。1965年11月下旬に南ベトナムの首都サイゴンから北西約72kmのミシュラン・ゴム園(Michelin Rubber Plantation)にて、4日間も露営していた南ベトナム政府軍の約500人の第7連隊が崩壊した。警戒が疎かになって、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)が夜中に忍び寄って、夜明けとともに熾烈な突撃をした。ゴムの木々間から。突如にベトコンが波状に攻撃した。その後も、アメリカ軍第25歩兵師団や第1師団が投入されて戦闘が勃発して多くの戦死傷者の犠牲を伴った。ミシュラン・ゴム園は、1925年にミシュラン社によって設立され、約12,400ヘクタールとベトナム最大のゴム農園であった。

 ベトコンは、南ベトナム軍の侵攻拠点にヒット・エンド・ラン攻撃した。戦場では、士気が衰えて敵前逃亡しない南ベトナム軍兵士が殺害された。ゴムの木々の間から、突如にベトコンが突撃した。11月27日の早朝に連隊長が殺害されて、アメリカ軍顧問も塹壕付近で殺害された。午前7時に、アメリカ軍顧問は「もう、ここから出ていかねばならない。店じまいだ。」が最後の無線となり殺害されていた。南ベトナム政府軍の機関銃手などの死体が、塹壕の中で倒れてうずくまった。ベトコンの射撃によって、機関銃手の頭部がぶち抜かれた。

 ベトコンは「降伏せよ」とベトナム語で宣告して、約10人の南ベトナム政府軍が降伏して立ち上がった。歩き始めた直後に、ベトコンの機関銃により一気に全員が殺害された。南ベトナム政府軍の死体は、深い塹壕や朽ちた木々の枝の間などに散乱していた。さらに、殺害された南ベトナム政府軍の死体は、首と頭も致命的に撃ち抜いた。塹壕の中には、ベトコンの死体は皆無であり、すべての戦死傷者は運び去っていた。ベトコンには、北ベトナム軍の砲兵隊にも援護された。正午になってから、アメリカ軍の武装ヘリコプターが集結して、第七連隊の生き残りを救護した。ヘリコプターが着陸するたびに、林の中から戦死傷者がぞろぞろと集結した。




2022年12月7日水曜日

カンボジア軍兵士のヒアン・ボウンは、1991年12月1日に地雷で下肢を挫滅して、当日の夕方にバッタンバンの軍病院で、劣悪な環境で切断手術を受けて、5日後に死亡した。

カンボジア軍兵士のヒアン・ボウンは、1991年12月1日に地雷で下肢を挫滅して、当日の夕方にバッタンバンの軍病院で、切断手術を受けた。ボウンは、病院のベッドに横たわるボウンには、物資も乏しく、非衛生的で劣悪な環境であった。ボウンは地雷で受傷してから約5日目に敗血症で死亡した。左大腿切断されるも、右足は切断せずに患肢温存して、重篤な感染症を引き起こした。左下肢だけでなく、右下肢の切断が必要であった。地雷の犠牲者の多くは、民間人の非戦闘員であった。

 カンボジアのラタナ・モンドル西部のトレン・コンミューンで、ヒアン・ボウンは、12月1日にカンボジア政府軍の分隊と通常のパトロールに出た。12月1日の昼前に地雷を踏んで、約3時間後にバッタンバンの軍病院に移送された。戦傷したカンボジア軍兵士は、旧式ソ連製のトラックの後方に載せられた。幌をかける棒に結びつけた血だらけのハンモックに載せて運送された。

 地雷によってボウンの左下腿は破壊されて、左足は薄皮の皮膚のみで繋がっていた。左足には傷はなく、左大腿の下から突き出た。病院に搬送されて入所してから、約1時間半後に医療関係者に診察を受けた。約5時間後にボウンの左大腿切断の手術が開始された。しかし、病院には、物資が不足して、薬品・酸素・輸血用の血液、医療資源、発電機などが不足していた。約40,000人が四肢切断者として生活していた。

 カンボジア内戦は、1967年にラタナ・モンドルの丘陵地帯で勃発した。カンボジアに対する軍事干渉は、アメリカ軍特殊部隊が1960年代に、南ベトナムからカンボジアに潜入して、地雷を敷設した。1975年にカンボジアを掌握したポル・ポト政権は、地雷による人民の戦闘を奨励した。地雷原となった地域の住民は、強制連行されてクメール。ルージュにより虐殺された。カンボジア地雷対策センター(CMAC)は、1,150万人の人口で約500万の地雷を推定した。1979年以来、約64,000人を超える死傷者と約25,000人を超える切断者が記録された。1997年に地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)がノーベル平和賞を受賞して、オタワ条約が調印された。




2022年11月7日月曜日

1960年代に北ベトナム軍の基地があるドンホイにて、アメリカ軍の戦闘機による機銃掃射により、多数の北ベトナム市民が殺傷されて犠牲者が出た。

1960年代に北ベトナム軍の基地があるドンホイにて、アメリカ軍の戦闘機による機銃掃射により、多数の市民が殺傷されて犠牲者が出た。ドンホイはベトナム中部の港湾都市で、クアンビン省の省都である。空襲によりドンホイの現場に大きな損害を与え、未知数の北ベトナム軍兵士とベトコンのゲリラが死傷した。

 1965年2月7日午後2時、ジョンソン・アメリカ大統領の命令により、アメリカ軍の戦闘機が、アメリカ第七艦隊の空母から何回も発進して、北ベトナムのドンホイ(Dong Hoi)市とクアンビン州に攻撃を加えて、ドンホイ病院と住民の住宅に爆撃と掃射を加えて多くの犠牲者を出した。大統領特別補佐官のマクジョージ・バンディは、北ベトナムに対する報復攻撃のためには、空と海からの行動が不可避的であると結論づけ、1965年2月7日にリンドン・ジョンソン大統領に対して北爆に関するバンディ覚書を提出して、公式に北ベトナムに対する北爆が指令された。ジョンソン大統領は、フレイミング・ダート作戦を命じて、アメリカとベトナム共和国空軍の戦闘機により、ドンホイ付近の約49回の報復出撃は、ドンホイ近くの北ベトナム人民軍基地を標的とした。

  1964年8月5日に、ワシントンは北ベトナムに対する破壊作戦を開始して、鉄製ボール弾、ナパーム弾、黄燐弾など禁止された武器を使用した。アメリカ軍は、ハノイやハイフォンを含めて、北ベトナムを繰り返し爆撃した。特に、ドンホイ、ニンビン、フーリー、バックザン、イエンバンイ、ソンラが大きな破壊を受けた。面積3平方kmのクアンビン省都、ドンホイは約1129回の空襲を受けて、数百回は夜襲であった。特にパイナップル弾数千発が投下された。

 ケネディ暗殺後、アメリカ大統領に就任したジョンソンは1964年8月に、トンキン湾事件でアメリカ軍艦艇に対する北ベトナム軍の攻撃を利用して、アメリカ議会の戦争拡大支持を取り付けた。1965年2月7日に、17度線北方のドンホイ爆撃をもって、北ベトナム爆撃する北爆に踏み切った。ドンホイにある兵員集結地などの北ベトナム中枢への報復爆撃をした。