第二次上海事変にて1937年10月15日に日本軍の海軍陸戦隊が上海の北四川路にある中国軍陣地に侵攻して、猛烈な白兵戦が勃発した。海軍陸戦隊の日本軍兵士が殺害されて仰向けに倒れ込んだ。その周囲には、中国軍兵士の鉄帽と手榴弾などが転がって散乱した。
1937年7月7日に北京郊外で盧溝橋事件が勃発して、日本政府は7月27日に3度目の本土出兵決定がなされて、翌7月28日に現地で本格的な作戦行動が発動され、盧溝橋事件から約3週間を経過した。中国全域に飛び火して、日中全面戦争に突入した。上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫大尉の射殺事件と居留民の保護を引き金にして、1937年8月13日に第二次上海事変が勃発した。現地関東軍の要請によって、日中戦争の戦面不拡大方針は放棄された。中国軍は後退戦術を取り、一貫して決戦を回避した。中国軍が決戦を回避すれば、終結は成り立たない。決戦を求めて日本軍は侵攻したことにより、当初予想もしなかった中国各地域にまで戦場を拡大してた。
日本政府は、1937年8月13日の閣議で、陸戦隊と在留邦人保護のため、2個師団を上海に派遣を決定した。さらに9月に上海に3個師団、さらに10月に3個師団を逐次投入した。日本軍は11月5日に抗州湾の奇襲上陸を敢行して、中国軍は総崩れとなり第二次上海事変が終結した。撤退する中国軍を追撃する形で、12月1日に大本営が南京戦を命令して、12月13日には南京が陥落した。日本軍は、南京に進撃によって戦闘地域は拡大して、中国の首都南京の攻略は講和に結び付かなかった。日中戦争が全面展開された。9月29日までの日本軍の戦死傷者は華北で約8,600であったのに対して、上海戦線では約12,300を数えて、11月8日までには約40,700にも達した。