1954年5月25日に、ベトナムのナムディンからタイビンへの道上で、ボンディエンとギャーケーの間のソンムーケー川付近で、ベトミンゲリラが、フランス軍戦車の榴散弾により死亡した。仏領インドシナ(現ベトナム)で、ナムディンからタイビンへの途上で、1954年5月25日にフランス軍が路上でベトミン・ゲリラの死体を見下した。(ロバート・キャパ撮影)
その写真を撮影したロバート・キャパは、タイの首都バンコクから南ベトナムの首都サイゴンへとインドシナ半島へ渡った。5月24日に、北ベトナムの首都ハノイから南東72kmのナムディン空港に到着した。5月25日にベトナム北部のタイビンにて地雷に抵触して死亡した。右へ流れる小川と、道路へ下るわずかな斜面を登り始めると、ベトミンが夜間に仕掛けた対人地雷を踏んだ。キャパは地雷の爆発で左足がほぼ完全にもぎ取られ、胸に大きな傷ができた。1954年5月25日午後3時10分に、フランス軍のメックリンとルーカスが爆発現場に到着した。キャパは大量に出血して、苦悶の表情を浮かべた。突然に、発火音を聞いたラカペル大佐が到着した。彼はキャパが倒れているのを見て、すぐに救急車を呼んだ。キャパは5km離れたドン・クイ・トーン砦にある最寄りの救護所に運ばれた。そこでベトナム人医師が、ロバート・キャパの死亡を確認した。
1954年5月7日に、ベトナムにおけるディエンビエンフーの戦いはフランスの敗北に終わった。3月13日に始まったこの戦いは激戦となり、フランス軍は2,200人が死亡し、ベトナム軍8,000人が死亡し、15,000人が負傷した。ヴィエト・ミンの勝利は1954年のジュネーブ協定につながった。ディエンビエンフーの戦いは、ヨーロッパ以外の植民地独立運動が、ゲリラ技術により公然の戦闘で西洋軍隊を破った初めての出来事と評された。