第二次世界大戦末期の1945年4月28日に北イタリアのコモ湖畔ドンゴで、15人のファシスト幹部が、戦闘名と呼称したリッカルドが指揮したパルチザンの銃殺隊により射殺された。4月27日朝に、ヴァルテッリーナに向かって逃走するファシスト階層の隊列が、ドンゴのパルチザンによって拉致された。4月28日17時47分に、ドンゴの湖畔に並んだ15人のファシストの幹部たちを銃殺した。15人のファシストは、湖に顔を向け、銃殺隊に背を向けて、町の湖畔の金属製の手すりに並べられて、銃殺で処刑された。夕方に、処刑された死体はミラノに運ばれた。
1945年4月10日からイタリアのパルチザン、愛国者および民衆は、連合軍の意向にこだわらず、主要都市を次々に解放した。孤立したドイツ軍を降伏させて、ベニート・ムッソリーニの共和国政体は末期的症状を呈した。4月28日に、12人のパルチザンから構成された銃殺隊を結成して、本名アルフレッド・モルディーニである戦闘名のリッカルドは、銃殺隊の指揮官に任命された。
ムッソリーニは1945年4月18日夕刻に、ミラノに着き、県庁に住居を定めた。4月25日にイタリア国民解放委員会は、ミラノ大司教邸で共和国政体に無条件降伏を要求した。ムッソリーニを、イタリア人民裁判にかけた。4月26日に、国民解放委員会が政権を掌握した。4月27日に、コモ湖からムッソリーニらをミラノに強制連行した。ムッソリーニは4月28日朝、ボンザニーゴのデ・マリア邸の中庭で、9時過ぎから10時少し前の間に銃殺された。4月29日に、ミラノ・ロレート広場で、ムッソリーニと愛人のクララ・ベッタおよびファシスト幹部の死体が逆さ釣りにされた。
1945年4月29日にカゼルタの降伏の文書による合意は、イタリア戦線のドイツ軍とイタリア・ファシスト軍の降伏を正式に決定した。5月2日に、ドイツ軍南西集団がイギリス陸軍元帥に無条件降伏してイタリア戦線は終結した。