2024年12月27日金曜日

サイパンの戦いにて、アメリカ軍が破傷風に罹患して重態の日本軍兵士を、空母サージェント・ベイ上で、1944年7月28日に破傷風の治療を受けた。まもなく破傷風菌の感染症で病死して、死体が太平洋に葬られた。

第二次世界大戦の太平洋戦争のサイパンの戦いにて、アメリカ軍が破傷風に罹患して重態の日本軍兵士を捕虜にした。空母サージェント・ベイ上で、1944年7月28日に捕虜の日本軍兵士は、破傷風の治療を受けた。まもなく破傷風菌の感染症で病死して、死体が太平洋に葬られた。破傷風菌に感染して3日から3週間から無症状の期間後に、口を開けにくい、首筋が張る、体が痛いなどの症状が出現する。その後に、体のしびれや痛みが体全体に広がり、全身を弓なりに反らせる姿勢や呼吸困難が出現した後に死亡する。

 サイパンの戦いの日本軍の戦局が悪化するとともに、連合国軍の大量の投降呼びかけのビラや新聞が大量に制作され、投降の仕方を記載した投稿票が多数の日本軍兵士の手許に舞い降るようになった。四面楚歌の戦況で、ビラや拡声器の甘いささやきに心を動かす日本軍兵士が増加した。日本軍兵士の心理にビラの主張を理解して、呼応しようとする先有傾向が培養された。日本兵捕虜は、捕獲時や収容所での適応の仕方や知恵を、日本降伏後の帰還時に日本人全体に伝播する役割を担うことになった。

 アメリカ軍の戦時情報局(OWI)はじめアメリカ軍の機関や部隊は ビラや拡声器などが投降者を促すことから、一層プロパガンダ活動に力を入れた。投降票をもってジャングルから姿を見せる兵士が増加した。投降に逡巡する多くの日本軍兵士のなかから、少数ながら自発的な投降者が現れた。さらに戦局が悪化すると、戦力が残った部隊からも奔敵する敵前逃亡者もでてきた。病気や飢餓によって動けなくなった戦傷者が、敵であるアメリカ軍につかまり捕虜となる事例が増えた。日本軍本隊から離れて寝入って、アメリカ軍側原住民ゲリラに襲われて、捕虜となる者も増えた。手榴弾やカミソリで自殺を失敗する者から投降者があらわれた。