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2024年2月8日木曜日

1939年9月3日と4日にポーランドのビドゴシチで、ドイツ軍の諜報部隊が引き起こしたパニックより、ビドゴシチと周辺地域にてポーランド軍の暴動によるドイツ人住民の犠牲者の死体が散乱した。

1939年9月3日と4日にポーランドのビドゴシチでジェノサイドの虐殺事件が起こった。ドイツ軍の諜報部隊(PK689)が引き起こしたパニックより、ビドゴシチとその周辺地域におけるポーランド軍の暴動によるドイツ人住民の犠牲者の死体が散乱した。退却したポーランド軍のポメラニア軍第15歩兵師団の退却部隊が、正体不明の犯人によって発砲され、ポーランド市民に対する攻撃もあった。約20人のポーランド軍兵士と5人のビドゴシツの住民がおそらく殺されて、ポーランド軍当局の激しい反発を招いた。市内で行われた暴動の結果、情報源によって異なるが、160人から400人以上が捕らえられ、銃殺された。

 ドイツ軍が報復行動を開始したのは、ビドゴシチ街を占領した9月5日の直後だった。公開処刑で350~400人が射殺された。最も壮絶な犯罪は、9月9日と10日にビドゴシチ市場広場で起こった。その後の数ヶ月の間に、ビドゴシチ近郊のフォルドンのいわゆる死の谷で約1,500人が殺害された。

 ドイツ軍はビドゴシチでの出来事をプロパガンダに利用した。9月3日は血の日曜日(Bromberger Blutsonntag)として、1939年9月7日にビドドゴシチで発行されたドイツ系新聞(Deutsche Rundschau)に初めて掲載された。この事件はポメラニア全土のポーランド人に対する血なまぐさい復讐の口実となった。ナチスのプロパガンダは、ポーランド人はビドゴシチだけで1,000人を殺害したと誇張した。ドイツ軍はポメラニアのポーランド軍の組織的軍事行動であったと主張した。

 イギリスとフランスが1939年9月3日にドイツに宣戦布告したのは、ドイツが攻撃を強行し、ポーランド軍が最終的に降伏するまでの7日間持ちこたえた時点だった。それ後約6年にわたる第二次世界大戦を引き起こし、ヨーロッパを引き裂いて約7000万人の死者を出した。

 第二次世界大戦後に、1945年から1948年にかけてポーランドにおけるドイツ人犯罪調査委員会が調査を実施した。「ドイツ軍は1939年9月3日午前10時15分、ビドゴシチで退却するポーランド連隊の間にパニックを引き起こすために、計画的な陽動作戦を実施した」ことが判明した。検事団は、目撃証言に基づき、ビドゴシツには破壊工作員が発砲した地点が46カ所あったことを立証した。ポーランドの調査は2004年、約40~50人のポーランド人と100~300人のドイツ人が殺害されたと結論づけた。ヒムラー作戦というコードネームでドイツ軍が仕掛けた数々の偽旗作戦の一つであった。






2023年10月26日木曜日

第二次世界大戦の東部戦線にて、バルバロッサ作戦初日の1941年6月22日から、ドイツ軍に対してソ連軍は、ブレスト要塞を防衛した。ソ連軍兵士がドイツ軍に殺害されて、機関銃の横に倒れて死体が廃墟に散乱した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、バルバロッサ作戦初日の1941年6月22日から、ドイツ軍に対してソ連軍は、ブレスト(Brest Fortress)要塞を防衛した。ブカレスト要塞の廃墟にて、ソ連軍兵士がドイツ軍に殺害されて、機関銃の横に倒れて、死体が散乱した。

 ソ連ベラルーシ西部の国境にあるブレスト要塞は、ドイツ軍のポーランド侵攻2日目の1939年9月2日に、ブレスト要塞は初めて爆撃された。ブカレスト要塞をめぐる戦闘は9月14日から9月17日まで続いて、ドイツ軍がポーランド守備隊を鎮圧して占領した。独ソ不可侵条約の秘密議定書で、ブレスト要塞はソ連に割譲された。

 1941年6月22日からドイツ軍はバルバロッサ作戦で突如にソ連西部に侵攻して奇襲攻撃した。バルバロッサ作戦の初日にブレスト要塞の戦いが勃発した。6月22日04時15分に、ドイツ国防軍は何の前触れもなくブレスト要塞を攻撃した。ドイツ軍の強力な砲撃の後、突撃を開始した。ブレスト要塞は火の海と化した。周囲はすべて燃え上がり、ゴロゴロと音を立てていた。ソ連軍の兵舎では、天井に穴が開き、壁の一部が剥がれ落ち、すでに死傷者が出た。6月22日午前9時に完全にドイツ軍が包囲した。ソ連軍は6月26日まで持ちこたえたが、ドイツ軍の土木工兵が数か所の要塞を爆破し、ついにソ連軍の抵抗を打ち砕かれた。6月30日遅くに、ソ連軍はブレスト要塞の放棄を決定し、7月2日に生き残ったソ連軍の主力が脱出した。6月30日にはブレスト要塞内には組織化されたソ連軍部隊は残存しなかった。

 ドイツ軍の推定では、ブレスト要塞の攻撃で約7000人以上の赤軍兵士が捕虜となり、約2000人が死亡して、要塞からの脱出者はほんの一握りだった。ドイツ国防軍は500人以上が死亡し、約700人が負傷した。8月26日に、アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニが要塞を訪れた。ソ連軍のプロパガンダにより、戦闘は7月20日まで続き、ソ連軍兵士は誰もドイツ軍に降伏しなかった物語として、赤軍とソ連国民の回復力と勇気の証とした。




2022年12月20日火曜日

関東大震災による死者は約9万9,331人、行方不明者は約4万3,476人、全壊・焼失・流失した家屋は約57万戸に及んだ。関東大震災の当時の東京の柳橋地区の付近にて、日本民間人の自警団が多数の朝鮮人を虐殺した。

関東大震災の当時の東京の柳橋地区の付近にて、日本民間人の自警団が多数の朝鮮人を虐殺した。関東大震災は、1923年9月1日午前11時58分に、日本の関東地方にて、マグニュード7.9の大地震が発生した。死者は約9万9,331人、行方不明者は約4万3,476人、全壊・焼失・流失した家屋約57万戸に及んだ。日本政府は、戒厳令と治安維持法を発令して、軍隊を出動した。

 その後に、朝鮮人暴動などの流言飛語が発生して、日本政府も焚き付けた。官憲・在郷軍人を中心とする自警団によって、地獄のような朝鮮人の大虐殺が勃発した。日本陸軍と警察は、関東大震災により日本国民が凶暴になった民意を、鎮圧するために、避難の矛先を朝鮮人に向けた。朝鮮人が、井戸に毒を流し込み、被災地に放火して略奪をしてなどの偽情報のビラが散乱した。それに激怒した日本人は、少なくとも6,000人以上もの朝鮮人を虐殺した。無差別に、朝鮮人の子どもから妊婦までも殺害した。

 大震災の大混乱にて、在郷軍人会が組織力を発揮して、朝鮮人を鎮圧した。翌日の9月2日に発足した山本権兵衛内閣は、在郷軍事会に救済事業を午後6時に発令した。戒厳令により、非常事態に行政と司法を停止して、軍隊が治安の維持に当たった。戒厳令から危機感が増幅して、自警団が各地に結成された。東京は約1,593、神奈川約603、千葉に約366、茨木約336、群馬に約469、その他約16など総計約3,689の自警団が結成された。政府の資料では、軍隊による朝鮮人虐殺事件が、約12件発生して、数十人が被害者となった。その他に、中国人虐殺は、大島八丁目広場にて数百人が殺害された。朝鮮人虐殺の大部分は、民間人による自警団が執行した。流言飛語と虐殺の起点は、内務省警保局長の打電が9月3日午前から各地に朝鮮人の虚偽情報による厳密なる取締の電報や電話が通知された。




2022年9月14日水曜日

文化大革命の犠牲者の巫炳源と永增蒙は人民裁判にかけられ、死刑宣告が下された。二人は罪状が書かれた板を首にかけ、大勢の観衆が待つ公開刑場に連行され銃殺された。

黒竜江省の省都ハルビンの工場技術者だった巫炳源が166845日に処刑された。彼は同僚の永增蒙とともに、「北方へ」という題のパンフレットを印刷して配布したのが、毛沢東の反ソ連路線への批判されて命を奪われた。巫炳源と永增蒙は人民裁判にかけられて、死刑宣告が下された。二人は罪状が書かれた板を首にかけ、トラックに乗せられ、大勢の観衆が待ち受ける公開刑場に連行されて、銃殺された。死刑宣告を受けた巫炳源は、空を見上げて、この世はあまりに暗すぎる、と大声で叫び眼を閉じて、処刑されるまでその眼は閉じられたままだった。銃殺で合計8(7人の男性と1人の女性)が射殺され、そのうち巫炳源と永增蒙の2人がハルビン電気計器工場の技術者で、謄写印刷されたタブロイド紙「北へ」を配布したことで「反革命グループの主要犯罪者」としてレッテルを貼られて銃殺された。

 文化大革命が始まった1966年の春に、大連生まれの李振盛は23歳となり、ハルビンの共産党機関紙「黒龍江日報」のカメラマンだった。上司の指示に従って、毎日のように革命礼賛のプロパガンダ写真を撮影していた。李振盛は、文化大革命により196845日の銃殺刑を撮影した。暴走する文化大革命に疑問を抱き始めた。公表されない現実を密かに現像して自宅の床下に秘蔵した。文化大革命を真に記録した約20,000枚のネガは、保存された。

 1966516日に党中央政治局拡大会議は五一六通知(中国共産党中央委員会通知)で文化大革命を指示した。1966818日午前5時、北京の天安門楼上に軍服姿の73歳の毛沢東が立つと、天安門広場の100万人の紅衛兵が大歓声を上げ,赤い表紙の『毛沢東語録』を掲げて「毛沢東万歳!」を叫び続けた。午前8時、小柄で瘠せた国防相・林彪が、全国から集まった若者たちを前に、「搾取階級の旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣のすべてを打破しよう」と呼びかけた。紅衛兵のなかで、最も熱烈な文革支持者は疑うことを知らない1,300万人の中高生だった。彼らは毛を崇拝するあまり、各地で暴行を働き殺人まで犯している。




2022年4月14日木曜日

1944年10月31日に、太平洋戦争のフィリピンの戦いで、レイテ島にて日本軍による迫撃砲で、アメリカ軍兵士が殺害されて戦死した。

1944年10月31日に、太平洋戦争のフィリピンの戦いで、レイテ島にて日本軍による迫撃砲で、アメリカ軍兵士が殺害されて戦死した。第34連隊の対戦車部隊のアメリカ軍兵士の死体が撮影された。第二次世界大戦中は、戦場からアメリカ国民に届く情報を注意深く管理した。1943年9月まで、アメリカ政府の戦時情報局の検閲官は、戦争におけるアメリカ軍兵士の死体の写真は、すべて掲載することを禁じた。その後から、士気を高める有利なプロパガンダの媒体として戦死者の写真を選定した。戦死したアメリカ軍兵士の撮影の多くが、英雄的イメージと合致しない多くの写真は差し止められた。第一次世界大戦中は、アメリカ政府はアメリカ軍人の死者の画像の公開を完全に禁止していた。

 アメリカ軍の下士官は、支給された衣服や物資が、General IssueまたはGovernment IssueであったためGIと呼ばれた。南北戦争や第一次世界大戦では、多くのアメリカ人は隣人らと一緒に入隊したが、対照的に第二次世界大戦のGIの多くは、最初は見知らぬ人たちだった。彼らはすぐに絆を築き、共に戦って生き延びた。元GIは、戦場で襲撃する理由は、愛国心や勇敢さではなく、特別なGI仲間の親近感により、GI仲間を失望させないためと述べた。死と隣り合わせの生活で、互いに依存し合い生きてきた兵士たちは、しばしば強い感情的な愛着を抱き、仲間意識は戦場の生命の基盤となった。

 戦場に送られたGIは、暴力と死が渦巻く悪夢のような世界に入った。第二次世界大戦の戦闘員は、かつてないほど強力な武力に見舞われた。戦場で敵と戦っている部隊の死傷者の発生率は非常に高くなり、時には3人に1人の割合で死傷した。第二次世界大戦は、戦闘による死亡が、病気や事故による死亡を、実際に上回った最初の戦争となった。アメリカ軍が被った約40万5千人の死者のほとんどは、第二次世界大戦の末期に、アメリカ軍がドイツ軍と日本軍に対して先陣を切って突撃したときに発生した。

 死にたくない、ショックを受けたGIの男たちが、戦場から丘の下に戻ってくる。死傷者から悪臭のするベッド、そして墓、墓、墓が戦場に乱立した。アメリカ軍水兵も、1943年11月初旬に、ブーゲンビル島沖でアメリカ海軍の戦艦モントペリアとその他の戦闘艦が、日本海軍と激しい戦闘を行って、最終的に日本海軍を撃破した。モンペリエの砲手は、日本軍の戦艦は、アメリカ海軍の大砲が炸裂する砲弾で覆われ、炎と赤熱した鉄の塊と化した。太平洋から逃げれない日本海軍の日本人水兵は、焙煎され、吹き飛ばされる恐怖の地獄の大量虐殺となった。