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2024年8月28日水曜日

1947年にインドのイギリスの植民地支配からの解放により、ヒンズー教徒とイスラム教徒の間の野放図な憎しみが血なまぐさい衝突を引き起こし、両者の死体が散乱した。

1947年にインドのイギリスの植民地支配からの解放により、ヒンズー教徒とイスラム教徒の間の野放図な憎しみが血なまぐさい衝突による犠牲者を引き起こした。道ばたに両者の死体が、散乱した。インドとパキスタンの分離独立時には、いたるところで流血の紛争が勃発した。

 1947年に、インド・パキスタン分割条約の調印により、1858年からのイギリス領植民地のインドは解体されて、8月16日にインド連邦と8月15日にパキスタン自治領がそれぞれ成立した。インド独立後のインド会議派は、世俗主義国家の樹立という政策を選択して、憲法に信教の自由、宗教差別の禁止、宗教教育の自由に関する多くの条項を明文化した。一方で、パキスタンは、イスラム教の国教化を宣言した。しかし、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が終わったわけではなく、むしろ新たな苦しみと犠牲の連鎖が始まった。数百万人のイスラム教徒が西パキスタンと東パキスタン(現在バングラデシュ)に向かい、数百万人のヒンドゥー教徒とシーク教徒が反対方向に向かった。インドの西パキスタンと東パキスタンの国境に接するパンジャブ州とベンガル州では、虐殺、放火、改宗の強要、集団拉致、野蛮な性的暴力が特に激しかった。

 インドとパキスタンの分割当時は、現在のパキスタンにはイスラム教徒が、インドにはヒンドゥー教徒が多数派を占めていた。実は両国では数千年前から混血現象が続いていた。突然の分割は、インドからの人々の未曾有の移住と難民を引き起こした。分割計画が性急に発表され、独立の日になって初めて両国の国境が発表された。多数の人々がやみくもに走って難民となり、この間にヒンズー教徒とイスラム教徒の無数の衝突、暴動、虐殺、復讐が起った。50万人以上が巻き込まれて命を落とし、1200万人以上が家を追われた。現代のインドにヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間に癒しがたい溝を作った。何百万人ものインド人が尊敬する独立運動の指導者マハトマ・ガンジーでさえ、この流血のさなか、両者の調和的共存を唱えたというだけで、過激なヒンドゥー民族主義過激派によって1948年1月30日に暗殺された。




2024年8月1日木曜日

2004年にネパールのバビア村に隣接する芋畑への灌水をめぐって、23歳の男性が、近所の人と争った末に殺害された。水不足は、地域や地方レベルでの紛争を引き起こした。

2004年にネパールのバビア村に隣接する芋畑への灌水をめぐって、23歳の男性が、近所の人と争った末に殺害された。水をめぐる紛争が将来の戦争の原因となることが懸念された。 水不足は、地域や地方レベルでの紛争を引き起こした。水は人間の生活に不可欠な要素であり、人間の活動は水の利用可能性と水質と密接に関係した。

 水に関する紛争のほとんどは、淡水をめぐって起こる。 水資源は人間の基本的な欲求に必要であるも、希少、汚染、利用者間の水配分が不十分である。水不足は、飲料水、灌漑、発電やその他のニーズ競争のため、水紛争を悪化させる。淡水は重要であるも、偏在した天然資源であり、利用可能性が、生活や経済状況に影響を与える。中東地域では、費用対効果の高い水供給がないので、水危機の他の要素の中で、水利用者に厳しい圧力をかけ、緊張や侵略につながる可能性がある。解決されない水紛争は増加し、大部分は国家レベルで、水がより不足し、気候変動が地域の水資源を変化させ、世界人口が増加すると、紛争はより危険となる。

 水紛争は、歴史上で世界で1634紛争が勃発して、その内で2004年のみを抜粋した。1)2004年に、中国、警察がダム抗議者を殺害した。中国四川省の大渡河に建設される普溝ダムに反対する数万人の農民が座り込みを行う。 暴動鎮圧のため機動隊が出動し、1人が死亡。 目撃者によると、多数の住民が死亡したとのこと。2)2004年に、コートジボワール、水不足をめぐる刑務所での暴動が勃発した。コートジボワールのアビジャンにある主要刑務所で水不足による暴動が発生。3)2004年に、コンゴ民主共和国の停電と水不足で学生が暴動。コンゴ民主共和国の停電と水不足で学生が暴動 4)2004年に、インドで警察が水の抗議者を殺害した。パキスタンと国境を接するスリ・ガンガナガル県で、インディラ・ガンディー灌漑用水路の水の配分をめぐる農民の抗議行動が続き、10月に4人が死亡、11月には30人以上が負傷。 当局はガルサナ、ラオラ、アヌープガルの町に夜間外出禁止令を発令した。5)2004年に、インドでテロリストが水道管を爆破した。アナントナグ県カナバル地区での「対反乱作戦」中、地下水道管に仕掛けられた簡易爆弾により、インド治安部隊12人が死亡。6)2004年に、イラクのキルクークで上下水道局員4人が誘拐される。イラクのキルクークで、市の上下水道局に雇われていた技術者3人と請負業者1人が誘拐された。 誘拐の詳細な結果については報告されていない。7)2004年に、イラクのモスルで水プロジェクトに従事していた宣教師が襲撃される。イラクのモスルで給水プロジェクトに従事していた米国からのキリスト教宣教師4人が襲撃され、4人が死亡、他の1人が重傷を負う。8)2004年に、土地と水の紛争で民兵が村を襲撃。ボラン族の民兵がエチオピア国境近くのガブラ村を襲撃。 この攻撃は、土地と水をめぐる長期にわたる紛争に関連している。9)2004年に、公共水道の警備員が作業中に銃撃される。コソボ、コソフスカ・ミトロビツァの公共給水ポンプ場の警備員に向けて銃弾が発射された。 当局はアルバニア過激派による攻撃と非難している。10)2004年に、メキシコの農民、春をめぐる決闘で撃たれる。メキシコの2人の農民が、ピワモという町の近くにある小さなトウモロコシ畑の灌漑に使われる小さな泉の水利権をめぐって何年も争っていた。 そして3月、この2人の農民は互いに撃ち殺す。11)2004年に、サハラ以南のアフリカで、学生たちが水不足に抗議。13)2004年に、ダム工事中の中国人技術者が誘拐され、1人が死亡した。パキスタンのワジリスタンでダムと運河の建設に携わっていた中国人技師2人が、パキスタン人仲間6人の解放を求めてパキスタンの武装勢力に誘拐された。 救出作戦の最中、2人のうち1人は射殺され、もう1人は無事救出された。14)2004年に、パキスタン、テロリストの水を狙う。アルカイダやウズベキスタン・イスラム運動などのイスラム・テロリストを狙った軍事行動により、パキスタンで家屋や学校、井戸が損壊・破壊される。15)2004年に、米国、ガザでの水事業を中止。米国は、2003年10月に発生した米国外交団襲撃事件の犯人逮捕に失敗したパレスチナ自治政府への懲罰として、2つの水開発プロジェクトを中止する。16)2004年に、南アフリカのプリペイド式水道メーター設置問題でデモ隊が道路を封鎖。ソウェト電力危機委員会のメンバーが、各家庭にプリペイド式水道メーターが設置されたことに抗議し、市内の道路を封鎖。 警察はスタンガンで鎮圧。17)2004年に、スーダンで反政府勢力が地元水道会社の事務所を破壊。スーダンで反政府勢力が家屋数棟と地元警察、水道局の事務所を破壊。18)2004年にスーダンで民兵が井戸を破壊。スーダンのジェベル・マラ地域で、ジャンジャウィード民兵が井戸を破壊し、食料と種子を燃やしている。 彼らはまた、いくつかの井戸に死体を投げ込んだと言われている。19)2004年に、ソマリアの水井戸をめぐりムルサドとドゥドゥブルのサブクランが衝突。ムルサデ氏族とドゥドゥブル氏族が井戸をめぐって衝突し、23人が死亡。 これとは別に、ヘラアレの水と放牧地の支配権をめぐってディール氏族とマレハン氏族が争い、10月に死者が出ている。20)2004年に、コートジボワール北部で政府が電気と水の供給を停止。11月4日、軍は「威厳作戦」を決行し、反対勢力の拠点であり北部最大の都市であるブアケを奇襲攻撃、1年半の停戦を打ち砕いた。 政府は攻撃の前日に北部への電気と水の供給を停止。 約1週間は停止されたままである。21)2004年に、コートジボワールで水不足をめぐる暴動が発生、囚人が死亡。11月初旬、コートジボワールのアビジャンの主要刑務所であるLa Maison d'arrêt et de correction d'Abidjan(MACA)で、囚人が殺害される事件が2件発生した。 最初の事件は長期の水不足に端を発し、囚人たちはわずかな飲料水の配給を除いて5日間水を飲まなかったとされる。 この暴動で少なくとも7人の囚人が死亡、30人が負傷した。 国連の人権担当者は、暴動について調査中であり、最終的な死者数は言えないと述べた。



2023年1月23日月曜日

1988年に、スリランカのアグナコラパラッサで、小学生がスリランカ政府軍の治安部隊に殺害された人民解放戦線である2人の兄の死体を見守り慟哭した。

1988年に、スリランカのアグナコラパラッサで、小学生がスリランカ政府軍の治安部隊に殺害された2人の兄の死体を見守り慟哭した。2人の兄は、人民解放戦線(Janatha Vimukthi Peramuna, JVP)兵士であり、スリランカ政府軍に殺害された死体には、無残な拷問の傷跡が残存した。

 スリランカでは1987年4月15日から1989年12月29日まで勃発したJVP反乱(1987–1989 JVP insurrection)は、マルクス・レーニン主義によるスリランカ政府に対する武装反乱であった。1987年から1989年の暴動は、1971年のJVPの暴動と同様に、失敗した。JVP反乱軍は、破壊活動、暗殺、襲撃、軍や民間の標的へ攻撃した。スリランカ政府軍は、JVP反乱軍を鎮圧する作戦で対応した。約41,813人が死亡あるいは行方不明となった。JVP反乱軍は約6,577人を殺害して、スリランカ政府軍は約34,014人を殺害した。

 JVPの軍事部門であった反乱ゲリラ部隊は、1988年に頂点に達し、すべての民間人のスリランカ市民にまで被害を及ぼした。親政府系のゲリラによる市民への攻撃が、スリランカ内戦の停戦からインド平和維持軍の追放後に、すぐにスリランカ政府軍による大量殺戮が勃発した。多くのスリランカ市民と複数のインド人駐在員が殺害された。インド平和維持軍(IPKF)が、1987年から1990年に、スリランカ内戦の民族紛争に介入して撤退した。

 JVPは、敵であったスリランカ自由党(SLFP)から支援を受けた。しかし、JVPとタミール・イーラム解放の虎(LTTE)が公然と拒否した地方選挙にSLFPが参加したので、同盟は決裂した。スリランカ政府は1987年、JVPとSLFPに選挙参加を期待して禁止令を解除したが、結局失敗に終わった。約2年以上にわたり、若者や労働者の集団武装化、大量処刑、レイプ、襲撃が見られた。反JVP民兵も、左翼の人民革命赤軍(PRRA)を含めて暴力を引き起こした。LTTEが主にスリランカ北部を拠点にして、JVPは南部のジャングル地帯を拠点とした。

 1989年、スリランカ政府軍はコンバイン作戦(Ops Combine)を開始した。JVPの軍事部門であるDJVの暴動が激化した。DJVは、トリンコマリーのLTTE占領地域でも、スリランカ政府軍とIPKFに対抗して攻撃した。DJVは、タミル人武装勢力から支援を受けた。多くの小さな反政府組織の武装闘争を、DJVは1989年12月に断念した。スリランカ政府側だけでなく、反政府勢力であるLTTEが、多くの市民を虐殺した。約2,000人以上の市民を捕獲して、約30人以上を処刑した。




2022年10月30日日曜日

ウクライナ東部の分離主義者地域オレニフカで捕虜収容所が7月29日に爆破された後に、キシリシンの死体は、その他の8体の死体と並んで地面に半裸で横たわった。

ロシア軍に支援された分離主義勢力が支配する地域にあるウクライナ東部のドネツク州オレニフカ(Olenivka)の捕虜収容所が2022年7月29日に爆破された。爆破された刑務所に収容されていたウクライナ軍捕虜が殺害された。オレニフカ捕虜収容所とロシア当局は、53人のウクライナ人捕虜が爆発で死亡し、75人が負傷したと公表した。

 ロシア軍の捜査官が、殺害されたウクライナ軍捕虜の死体を検死した。その一体は、マリウポルのアゾフスタル製鉄所を守っていたウクライナ軍兵士の23歳のオレクシイ・キシリシン(Oleksii Kisilishin)が殺害された死体であった。ウクライナ人捕虜の恋人のビクトリア・スクリャール(Viktoria Skliar)は、間近に迫ったロシア軍捕虜との交換で、キシリシンが解放された後の生活を暫定的な計画を立てた。キシリシンは7月29日に、ウクライナ東部の分離主義者地域オレニフカで捕虜収容所が爆破された後に、地元当局が公表した。キシリシンの死体は、その他の8体の死体と並んで地面に半裸で横たわっていた。ロシア当局に掲載された犠牲者リストでは、キシリシンは43番目に記載された。国連人権高等弁務官事務所は、オレニフカその他で、囚人が殴打、感電、虐待の報告に懸念を表明した。





Warning: Investigators examine bodies of Ukrainian military prisoners at the prison in Olenivka, in an area controlled by Russian-backed separatist forces, eastern Ukraine, Friday, July 29, 2022. In the last, brief conversations Viktoria Skliar had with her boyfriend Oleksii Kisilishin, the Ukrainian prisoner of war was making tentative plans for life after his release in an upcoming exchange with Russia. The next time Skliar saw Kisilishin, who had been among defenders of the Azovstal steel plant in Mariupol, he was dead. She recognized him in a photo shared on social media — he was laid out, seminaked on the ground in a line with eight other bodies after a blast ripped through a prison on July 29 in Olenivka, a separatist region of eastern Ukraine. (AP Photo, File)

 26歳で殺害されたキシリシンは、2月24日のロシア軍のウクライナ侵攻の約2週間前に、2016年まで所属したウクライナ国家警備隊の一部であるアゾフ連隊に呼び戻された。キシリシンは、ロシア軍に包囲された都市マリウポルにある最後の砦であるアゾフスタリ製鉄所を防衛したウクライナ人戦闘員であった。キシリシンは、約3カ月に及ぶマリウポリ包囲戦で、アゾフスタル製鉄所に立てこもった。5月16日に、ウクライナ軍のアゾフスタリ製鉄所の最後の守備隊が、ロシア軍に自首して捕獲された。赤十字国際委員会から、キシリシンが捕虜交換に参加するをスクリャールは聞いて約3週間後、彼は殺害された。

 ウクライナ当局は、オレニフカ捕虜収容所に収容された数十人のウクライナ軍の囚人の死体の一部を引き取った。専門家がすべての死体を確認する時間がかかり、その中にキシリシンが含まれている確証しない。7月29日の爆発後に、ロシア軍が公開された写真で、スクリャールは恋人キシリシンの入れ墨に気づいた。スクリャールはキシリシンの死体を取り戻したいとすべての涙を流した。ロシア・ウクライナ戦争が勃発する前年の2021年8月24日に、ビクトリア・スクリャールは、恋人オレクシイ・キシリシンと記念の写真を撮影していた。

Viktoria Skliar poses for a photo with her boyfriend Oleksii Kisilishin on Aug. 24 2021. In the last, brief conversations Skliar had with Kisilishin, her detained boyfriend, the Ukrainian prisoner of war was making tentative plans for life after his release in an upcoming exchange with Russia. The next time Skliar saw Kisilishin, he was dead — one of several bodies in a photo of people local authorities said were killed when blasts ripped through a prison in a part of Ukraine's Donetsk region controlled by Moscow-backed separatists. (Courtesy of Viktoria Skliar via AP)

2022年10月3日月曜日

シーク教徒であったディラーワル・シン・ババーは、1995年8月31日にインドのパンジャーブ州の州知事のベアント・シンを、自殺する自爆テロで暗殺した。

シーク教徒であったディラーワル・シン・ババー(Dilawar Singh Babbar)は、1995年8月31日に、インドのパンジャーブ州の州知事であるベアント・シン(Beant Singh)を、自爆テロで自殺して暗殺した。パンジャーブ警察の警官として、ババル・ハルサ・インターナショナルに参加して、自爆テロリストになった。1995年8月31日午後5時に、州都チャンディーガルのインド・パンジャーブ州・ハリヤナ州市民事務局で、自動車爆弾を炸裂する自爆テロにより、ベアント・シンを暗殺して、パンジャーブ州知事ベアント・シンとその護衛の12人が死亡した。写真の護衛の1人は、自動車爆弾テロ現場からわずか数メートルのところで、死体が散乱していた。

 1992年から1995年にパンジャーブ州では、カリスタン分離主義運動が活発で、インド政府が積極的関与して運動を弾圧した時期であった。ベアント・シンの在任中には、約2万5千人以上のシーク教徒の民間人が行方不明になった。警察によって超法規的処刑で殺害されて、死体が火葬された。その当時に、警察の巡査であったバルワント・シン・ラジョアナ(Balwant Singh Rajoana)は、自爆テロ犯となった警察官のシン・ババーと共謀して、ベアント・シンの暗殺を執行した。コイントスのくじ引きで、ジン・ババーが、自爆テロ犯に選ばれて、ラジョアナが予備テロに指名された。1995年8月31日の攻撃で、ベアント・シンと他に合計約17人が死亡した。1997年12月25日に、共謀者の警察官ラジョアナが、自爆テロを告白した。ラジョアナはCBIの特別法廷で死刑を宣告されて、死刑は2012年3月31日に予定された。3月28日にインド内務省は、シーク教徒のSGPC組織の恩赦の上訴で、死刑執行を停止した。

 1983年から1993年までの動乱期に、パンジャブ地方では約15,000人が殺害された。多数派のシーク教徒と少数派のヒンズー教徒のコミュニティの間で敵意が持続した。パンジャブ州からヒンズー教徒を迫害して、反撃として他州のシーク教徒をパンジャブ州へ避難を強制した。シーク教徒は、パンジャブ州内で約60%を占めるも、インド全人口の1.9%のみであった。1992年から1993年の反乱鎮圧後に、多くのシーク教徒の過激派が降伏、逃走、捕らえられ、殺害された。暴動や暴力でも、シーク教徒の分離主義者は成功しなかった。多数派のシーク教徒と少数派のヒンズー教徒に敵意が持続し、パンジャブ州からヒンズー教徒を追い出し、反撃に他州のシーク教徒にパンジャブ州への避難を強いた。