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2024年6月4日火曜日

スペイン内戦中の1937年に、スペインのカタルーニャ地方にて、共和派の銃殺隊は、反乱軍のスパイ容疑者を、銃殺によって死刑に処する直前である。

スペイン内戦中の1937年に、スペインのカタルーニャ地方にて、共和派の銃殺隊は、反乱軍のスパイ容疑者を、銃殺によって死刑に処する直前である。バルセロナの共和国政府に対する最初の反乱軍の反乱を、自治政府と労働者民兵が敗北させた。カタルーニャは共和国陣営に制圧された。1936年7月に共和主義派の民兵と共和国軍が、カタルーニャの国民党軍を打ち破って、アナキストを中心とする労働者の自衛民兵が街頭の実権を握った。カタルーニャではファシストや右翼シンパに対する厳しい弾圧が始まった。

 両陣営は、戦線の "反対側 "で捕まった約5万人以上の人々が、暗殺されるか、あるいは即座に処刑された。スペイン内戦は、イデオロギー上の敵対者を根絶しようと躍起になった交戦国は、大量残虐行為の温床となったり、内戦で約50万人が命を落とした。国民党派と共和党派は、それぞれの領土を整理し、反対派や反対派と疑われる勢力を弾圧した。共和派の暴力は主に法治が回復する前の戦争初期に起こったが、国民派の暴力は意識的な恐怖政策の一環であった。

 スペイン内戦(1936-1939)は、1936年7月17日に、首都マドリードでの出来事に端を発したモロッコでの軍事蜂起によって勃発した。数日のうちに、スペインは2つに分裂した。一方は第2スペイン共和国からなる共和主義派または忠誠主義派である。他方は、最終的にはフランシスコ・フランコ将軍の指導下にある民族主義派の国民党の反乱軍である。両陣営の虐殺行為が勃発した。ソビエト連邦は共和主義派の共和党を支援して、ファシストのイタリア・ドイツは民族主義派を支援した。




2024年4月15日月曜日

スペイン内戦にて、カステリョンの通りで1938年8月8日に、母親が殺害された息子と思われる死体を悲痛に見つめた。アラゴン戦線で共和国軍を打ち破った国民党軍は南下し、1938年4月からバレンシア攻略をした。

スペイン内戦(1936年7月17日-1939年4月1日)にて、カステリョンの通りで1938年8月8日に、母親が殺害された息子と思われる死体を悲痛に見つめた。国民党軍がカステリョン州の州都であるカステリョン・デ・ラ・プラーナに進軍する前には混乱期があった。退却する国民党軍兵士たちは、解放者だと信じて挨拶をしようとした人々に対して、早まって数百人を殺害した。殺害された息子は、その犠牲者の一人であった。

 スペイン内戦中に、アラゴン戦線で共和国軍を打ち破った国民党軍は南下し、1938年4月から7月にバレンシア攻略を試みた。1938年4月25日から7月24日に勃発したレバンテ攻勢で、フランシスコ・フランコ率いる国民党軍が、共和国軍の支配するバレンシアを占領しようとした。国民党軍は数日間の戦闘の末に、6月13日にバレンシア北部のカステリョン州を占領した。悪天候と共和国軍のXYZ防衛線での執拗な抵抗により国民党軍の攻勢は頓挫した。国民党軍はカステリョン州を占領したが、バレンシアの占領には失敗し、多くの死傷者を出した。共和党軍は5,000人の死傷者に対して、国民党軍は約20,000人の死傷者を伴った。

 国民党軍によるアルゴン攻勢は、1938年3月7日に開始し4月19日に終結した。アラゴン攻勢は1938年4月15日に、国民党軍は地中海沿岸のビナロスの町を占領し、共和国領を二分して、カタルーニャは中央地区から孤立させた。共和国軍に致命的な打撃となり、もはや完全に回復できなかった。国民党軍のアルゴン攻勢は、バレンシアとカタルーニャの町や都市に対する集中的な空爆作戦を伴った。戦略的目標を達成して、民間人を恐怖に陥れた。




2023年12月28日木曜日

スペイン内戦にて1936年9月6日に、共和派の農民がスペイン北部のバスクの都市イルン郊外の農場を国民党軍から防御した。傍らには戦死した同志の共和派農民の死体があった。

スペイン内戦にて1936年9月6日に、共和派の農民がスペイン北部のバスクの都市イルン郊外の農場を国民党軍から防御していた。その傍らには戦死した同志の共和派農民の死体があった。反乱軍の国民党軍は、8月9日のイルンの戦いの最初の攻撃は失敗に終わった。8月27日に再攻撃を試みて、約9日間にわたる激戦の末に、9月5日にモラ軍がイルンを占領した。その1週間後にはサン・セバスティアンを制圧した後、戦線は数ヶ月間静寂に包まれた。

 スペイン内戦は1936年7月17日に、右翼将軍のグループがスペインの民主的に選出された共和国政府を転覆させる軍事クーデターが勃発に端を発する。クーデターはスペインの多くの都市で国民党軍部隊によって侵攻された。しかし、マドリード、バルセロナ、ビルバオといったスペインの大都市のいくつかは、依然として共和国政府の支配下にあった。

 クーデターから数日のうちに、ヒトラーとムッソリーニは反乱軍将兵の側に介入した。ソ連は共和国軍のロイヤリストを支援した。イギリス、フランス、アメリカは中立を維持し、共和国への武器売却を禁じた。スペインの覇権をめぐる戦いは、3年近く続く凄惨な大惨事となった。写真報道という新しいメディアは、世界中の人々に内戦の恐ろしい映像をもたらした。国際的連帯を示すために、50カ国から約35,000人の志願兵が国際旅団に参加し、共和国を守るために生命と身体を危険にさらした。

 イタリア軍とモロッコ軍の支援を受けた国民党軍は、南部と西部の拠点から北上し、禁輸措置で弱体化した共和国軍の都市を占領した。バルセロナとその他カタルーニャ地方は1939年初めに陥落し、フランコ軍は3月28日にマドリードは陥落して、4月1日にフランコは内戦の終結と勝利を宣言した。スペイン内戦で共和国側と国民党側で50万人もの戦闘員と民間人が殺されたと推定した。両陣営で残虐行為が行われて、フランコ将軍率いる国民党軍は、戦後にさらに数千人を処刑した。紛争中、10万人以上の男女が処刑され、無名の墓に埋葬されたと推定されている。スペイン内戦戦で、共和党の親左派勢力が、国民党の勢力に敗北し、スペインにおけるフランコ将軍の長期独裁時代が始まり、1975年11月20日に死亡するまで継続した。




2023年7月4日火曜日

1934年10月にスペイン北部でアストゥリアス蜂起が、スペイン共和国政府軍に鎮圧された。州都オビエドのペラヨ兵舎前にて、反乱した労働者が殺害された死体が散乱した。

1934年10月にスペイン北部でのアストゥリアス蜂起が、フランシスコ・フランコ将軍が主導したスペイン共和国政府軍に鎮圧された。州都オビエドのペラヨの兵舎前にて、反乱した多数の労働者が殺害されて死体が散乱した。アストゥリアス労働者同盟は約1,700人が死亡して、約15,000人から30,000人が逮捕された。スペイン共和国軍は約260人が死亡した。

 労働者の抗議行動は特にアストゥリアスで10月5日に勃発して、共産主義者、社会主義者、無政府主義者が肩を並べて戦った。鉱山労働者の武装集団が、オビエドとトルビアの武器工場を占拠した。アストゥリアスでは、赤衛隊を結成した労働者と農民の手に権力が移った。政府軍は急遽、アストゥリアス蜂起を鎮圧するために、民警隊、モロッコ人部隊、外国軍団を派遣した。アストゥリアスの州都オビエドで激しい戦闘が勃発した。政府軍は航空機と大砲の支援を受け、プロレタリアートの蜂起を流血で鎮圧した。アストゥリアスでは戒厳令が布告され、戒厳裁判所は死刑判決を下した。約3万人以上の労働者が刑務所に入れられた。死刑判決を受けた23人のうち、バスケス軍曹とヘスス・アルグエレス・フェルナンデスの2人が処刑された。

 1930年代のスペインでは、民主主義とファシズムの武力闘争が展開された。内戦が始まり、イタリア・ドイツの介入と西側列強とファシストとの共謀した民族革命戦争に発展した。1933年12月、急進的なファシスト指導者であるA.レルスが親ファシスト政権を樹立して、黒い時代(1934-1935年)が幕を開けた。聖職者や親ファシスト派が、次第に国家の指導的地位を獲得し、教会の古い特権が回復され、スペイン共和国初期に労働者が獲得した権利が取り消された。労働者の新聞は厳しく検閲にされ、労働者の不満の表明も残酷に弾圧された。

 ファシストの猛攻撃は、大衆によって強力に撃退された。1934年2月に、反ファシスト闘争に立ち上がったオーストリアの労働者と連帯する集会やデモが、スペイン全土で開催された。スペイン南部で約15日間続いた約50万人の農業労働者の6月ストライキは、ファシスト反動勢力に強力な抗議であった。9月初めに、バルセロナとマドリードの労働者は、約20万人以上の労働者が街頭に出て、ファシストの集会を妨害した。反ファシスト統一戦線を求める共産主義者のスローガンが、大衆の支持を高めた。何千人もの社会主義者や無政府主義者が共産党に入党した。スペイン社会主義労働者党内に強力な左翼が出現し、共産主義者との行動の統一を提唱した。1934年6月12日、共産党中央委員会全体会議は、統一戦線の創設を社会労働党執行委員会に提案した。社会党指導者たちは、社会党が創設した労働者同盟に協力するように共産党を招待して応じた。共産党は提案を受け入れ、同盟のメンバーを拡大し、反ファシスト勢力の団結のための労働者・農民の組織に変える任務を自らに課した。

 1934年10月4日、レルス政権は初めて反革命政党スペイン自治権連盟(CEDA)の代表を加えた。労働者の反発を招き、同日に招集されたゼネストは全土に広がった。ゼネストはマドリード、カタルーニャ、ビスケー、アストゥリアスなどの地方に広がった。1934年10月の武装闘争は多くは敗北に終わった。マドリードとバスコニアでは、社会民主主義指導者の分裂的行動が、スト闘争の武装蜂起に発展するのを妨げた。アストゥリアのプロレタリアートは孤立した。共産党は国民運動を指導するほど強力でなかった。労働者階級に対する農民の支持が不十分であった。




2023年1月17日火曜日

1936年7月13日未明に、スペインの首都マドリッドで、スペイン社会主義労働者党の武装集団が、親ファシストで君主主義政党の副党首のホセ・カルボ・ソテーロを暗殺した。

1936年7月13日未明に、スペインの首都マドリッドで、スペイン社会主義労働者党の武装集団が、親ファシストで君主主義政党の創設者で指導者であった副党首のホセ・カルボ・ソテーロ(José Calvo Sotelo)を暗殺した。その犯罪首謀者は、社会主義指導者のインダレシオ・プリエトの護衛の1人であったルイス・クエンカ・エステバスであった。殺人犯は、共和国突撃警備隊のラ・モトリザダ旅団の一員であった。カルボ・ソテーロは、旅団所属のトラックで移動した分隊に捕獲されて、頭部で射殺して暗殺された。カルボ・ソテーロの暗殺は、前日7月12日の突撃警備隊のホセ・カスティーヨの暗殺に対する復讐であった。

 警察車両の乗員は東方墓地に行き、死体安置所のドア付近に、カルボ・ソテーロの死体を投げ込んだ。家族は警察に逮捕を報告して、7月14日朝7時頃から捜索を開始した。カルボ・ソテーロの死体は午前中に発見された。7月14日には、カルボ・ソテーロの葬儀が挙行された。その後の出来事は、暴力のスパイラルを助長した。突撃隊と呼ばれる都市警察の部隊と社会党(PSOE/UGT)の活動家の数名によるカルボ・ソテーロの殺害は、スペイン内戦の勃発に大きく影響した。

 カルボ・ソテーロの暗殺を起点に、クーデターが7月17日午後に、モロッコのメリリャ、セウタ、テトゥアンで守備隊が蜂起した。フランシスコ・フランコ(Francisco Franco)将軍は、カナリア諸島に左遷される予定だった。アフリカ軍の第19戦線のドラゴン・ラビードに乗り込んだ。フランコは7月19日にメリリャに革命本部を設置して、モロッコを拠点にスペイン本土に攻め上がった。7月18日から19日に、他の部隊が反乱を起こした。戦争状態を宣言して、権力の行使を主張し、左翼当局を逮捕あるいは暗殺した。7月20日にスペインは、2つに分割されて、29州が反乱を起こし、21州が共和党側に属した。フランコは、9月29日反乱軍の総司令官兼元首に選出された。翌10月1日には総統に就任した。革命政府の政綱の中で、全体主義に基づいて権威国家を建設する方針を打ち出した。




2023年1月17日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    
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2022年12月21日水曜日

スペイン内戦中の1938年3月に、最悪のバルセロナ空爆された。イタリア空軍が、イタリアのサルデーニャ島を離陸したファシスト政権のイタリア爆撃機が、バルセロナを空爆した。

スペイン内戦中の1938年3月に、最悪のバルセロナ空爆された。イタリア空軍が、イタリアのサルデーニャ島を離陸したファシスト政権のイタリア爆撃機が、バルセロナを空爆した。空爆により殺害されたバルセロナ市民の死体が路上に放置された。周囲の建物は崩壊して、瓦礫が散乱した。

 最悪のバルセロナ爆撃は、スペイン内戦中の1938年3月16日から18日にかけて、ファシスト・イタリア軍とナチス・ドイツ軍が主導して、フランコが率いる国民党反乱軍を支援した空爆である。最大で約1,300人が死亡し、少なくとも約2,000人が負傷した。フランコは当初はバルセロナ空爆を知らず、3月19日に爆撃の中止を求めた。イタリア帝国元師のムッソリーニは空爆の実験場に自己満足した。

 1938年3月16日から18日にて、バルセロナはスペイン内戦で戦ったイタリア空軍の爆撃機によって空襲された。爆撃機はイタリヤのマヨルカ島などから飛来した。3月16日22時には、まずドイツ軍の戦闘機が最初にバルセロナに空襲をした。その後3月18日15時まで3時間おきに、イタリア軍の爆撃機により約17回の空襲があった。3月18日夜は、労働者階級が住む地区が大きな空爆を受けた。スペイン共和国空軍(FARE)は3月17日朝までバルセロナに戦闘機を派遣しなかった。

 バルセロナに対空砲がほとんどなく、戦闘機からの援護もなく、実質的に無防備であった。爆撃機は静かに高度な上空を通過して、爆弾を投下した後にエンジンを再始動させ、警報は鳴らず、爆弾が爆発するまで爆撃機を発見できなかった。イタリア軍は屋根を通過して建物内で爆発する遅延信管爆弾や、地面の近辺を破壊する新型爆弾を投下した。バルセロナ都市の空襲警報機を無効となった。イタリア軍の爆撃機は約44トンの爆弾を投下した。イタリア軍は軍事目標だけでなく、市内の工業地帯を破壊して、スペイン共和国側の士気を下げた。軍の倉庫、武器工場、兵士が乗った列車、港だけでなく、市民の建物、映画館、領事館、劇場も爆撃で破壊した。




2022年6月30日木曜日

スペイン内戦の1938年3月16日から18日のバルセロナ空襲で約3000人が死亡し約5000人が重傷を負った。空襲後のバルセロナの路上で爆死した子供の死体が横たわった。

スペイン内戦のバルセロナ空爆は、ジョン・ラングドン-デイヴィス(Johne Landon-Davis)が、1938年3月16日、17日、18日の空襲で約3000人が死亡し、約5000人が重傷を負ったと『Air Raid』を出版した。空襲後のバルセロナの街角で、死体の写真を次々と見せるのを避けた唯一の例外である。空襲後のバルセロナの路上で、爆死した子供が横たわった死体の写真である。爆撃が行われるずっと前から、民間人に対する無差別爆撃に対する世論が排除されて無力化した。

 バルセロナ爆撃は、スペイン内戦中の1938年3月16日から18日にかけて、ファシストイタリアとナチスドイツが主導して、フランコが率いる反乱軍を支援した一連の空爆である。最大で約1,300人が死亡して、少なくとも2,000人が負傷した。歴史上初の空中絨毯爆撃とされる。イタリア空軍の爆撃機は、バルセロナ近郊でエンジンを止めて滑空して爆弾を落下して炸裂した後に、エンジンをかけて逃避した。サイレント・アプローチで音響探知機による警告を最小限にし、戦闘機には迎撃を避けて、バルセロナ市民に防空壕に避難する時間を与えず、パニックを劇的に増悪させた。約26分間に及ぶ爆撃機の空襲により、約40時間にわたり約100万人以上のバルセロナの人々の生活全体を破壊した。

 1938年3月16日から18日に、イタリヤ空軍はバルセロナに、マヨルカ島からスペインのマークを付けて飛来して空襲した。最初の空襲は3月16日午後10時のドイツ空軍の爆撃機55機から、その後はイタリア空軍が3月18日午前3時まで、3時間おきに17回の空襲をした。空爆のほとんどは、バルセロナの中心街、特にゴシック地区であった。バルセロナには対空砲がほとんどなく、戦闘機の援護もなかった。スペイン共和国空軍は、3月17日の朝までバルセロナに戦闘機を派遣しなかった。バルセロナの空爆は全市に及び、爆撃機は軍事目標を破壊せず、3月18日の夜には、労働者階級の地区が無差別の空爆を受けた。イタリア空軍の爆撃機は約44トンの爆弾を投下し、約1,000人以上の民間人が死亡した。逆に3月19日に、フランコは海外の非難を恐れて、爆撃の中止を要請した。




2021年6月2日水曜日

スペイン内戦にて戦争写真家のロバート・キャパは、塹壕の中から35ミリカメラで至近距離から共和国軍民兵であった『崩れ落ちる兵士』の著名な戦争写真を撮影した。

スペイン内戦が勃発して約1ケ月が経過した1936年9月5日午前10時30分コルドバにて、フランコ反乱軍のバレラ将軍の指揮下にあるブルアガ隊のコロナル・サエンスに所属するレギュラーズ・タボルのモロッコ人精鋭狙撃手が、丘の斜面を駆け下りる共和党軍民兵を狙撃した。塹壕に潜伏していたモロッコ人精鋭狙撃手が引き金を引くと、モーゼル銃の口径約7×57mmのマウサー弾が上昇気流に乗って秒速約730mで無慈悲に発射された。アリカンテ出身の無政府主義者であるアナキスト軍民兵であるフェデリコ・ボレル・ガルシアは、セロ・デ・ラコハの斜面を走っている最中に心臓を貫通されて即死した(上)。狙撃兵の左手数メートルにいた戦争写真家のロバート・キャパは、塹壕の中から35ミリのライカIIIを使って至近距離から著名な『崩れ落ちる兵士(The Falling Soldier)』戦争写真を撮影した。1996年にモーゼル銃で撃たれて後ろ向きに倒れている民兵の正体が判明した。心臓を貫く銃弾で即死した民兵の右手に、セロ・デ・ラコハ丘の東側の斜面で、小さな渓谷の始まりに近い山が見える。その他にもう一人のラ・コハの丘で狙撃されて殺害された第2共和国軍民兵の正体は今日まで知られていない(下)。
 1936年7月17日にフランコ将軍とイベリア半島の将軍たちは、2月6日の総選挙で民主的に成立した共和国政府に対抗して反乱して、スペイン内戦が勃発した。ロバート・キャパの本名はエンドレ・エンレー・フリードマンで、ブダペスト生まれのユダヤ系ハンガリー人写真家である。1935年にデプトエージェンシー社は、ドイツ雑誌に掲載する写真の撮影のため、キャパにスペインへの渡航を命じた。キャパは、1936年にフランス人民戦線の勝利後の集会などを撮影した。1936年にスペイン内戦が勃発すると、フランスの高級写真雑誌『Vu』が、スペイン内戦の撮影を命じた。1936年9月23日に
「死の瞬間の人民戦線兵士」と『Vu』に掲載された。

  1936年8月5日バルセロナに到着したキャパは、バルセロナで反乱軍が敗退して、労働者や無政府主義者の武装民兵が権力を掌握していた。何千人もの民兵がアラゴン戦線に向かう列車に乗り込んだ。共和国軍が大攻勢をかけたグアダルキビル高地の州都コルドバの北近郊のセロ・ムリアーノに到着した。
 1936年8月20日約5,000人の共和国軍は、反乱軍に防御されたコルドバを侵攻した。激しい戦闘が繰り広げられ、反乱軍はアフリカのモロッコ人専門兵の射撃により、共和党軍民兵に多大な死傷者を出した。約1万人の共和国軍がコルドバ州の村々に分散して、セロ・ムリアーノ村周辺は、2週間後に共和国軍は堅固な防御陣地を敷いた。
 反乱軍は工業地帯を避けて、アンダルシア地方とエクストレマドゥラ地方に侵攻した。アフリカ軍も属する約2万人の反乱軍は準備と武装が整っていた。9月5日に反乱軍もモロッコ軍民兵もコルドバの北近郊の共和国軍を壊滅した。約1ヶ月半前に初めてライフルを手にした大多数の市民や労働力者などの共和国軍民兵は、コルドバ北側のセロ・ムリアーノ村で、アフリカ軍の正規軍と反乱軍に突撃した。両軍は、大砲や機関銃などあらゆる武器で撃ち合った。多数の死傷者が出始め、兵器の撃ち合いの後、戦闘は熾烈を極めて、1936年9月5日に反乱軍は、共和国軍民兵を完全に圧倒した。

 


2016年7月3日日曜日

爆死子に泣き崩れる母親

スペイン内戦における空爆により爆死した無垢な我が子の息子の遺体に向けて泣き崩れてお祈りする母親