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2025年1月18日土曜日

スペインの君主主義活動家の指導者であったフォセ・カルボ・ソテロが1936年7月13日に突撃警備隊により暗殺された。7月14日夜明けに突撃衛兵の分遣隊が死体を東墓地の死体安置所に運んだ。

スペインの君主主義活動家の指導者であったフォセ・カルボ・ソテロが1936年7月13日に突撃警備隊により暗殺された。自宅にいて暗殺されたソテロの死体が、7月14日夜明けに突撃衛兵の分遣隊が死体を東墓地の死体安置所に運んだ。ソテロの死体がシメティエール・ド・レストの霊安室で検死された。ソテロの暗殺によりスペイン政府は、君主主義者とカーリスト主義者の本部を閉鎖し、メゾン・デ・アナーキストの閉鎖も命じた。7月14日に、東部墓地のソテロの葬儀で、ソテロの死体はファシストらに埋葬された。

 ミゲル・プリモ・デ・リベラが1923年にクーデターによりスペインの軍事独裁者になった。1925年にカルボ・ソテロを財務大臣に任命した。リベラが政権から脱落すると、カルボ・ソテロは1931年にポルトガルからフランスに亡命した。カルボ・ソテロは、1934年に恩赦を受けた後に、スペインに帰国した。彼はすぐに、スペイン国内で最も重要な右翼政治家のひとりとなった。ドイツとイタリアにおけるファシズムの成長に影響されて、カルボ・ソテロはスペインの問題に対する全体主義的な答えを提示した。

 1936年7月12日に、社会党派で突撃警備隊のホセ・カスティーリョは、首都マドリードでファランギスト軍団に暗殺された。7月13日に、カスティーリョの軍団が、ホセ・カルボ・ソテロを暗殺して復讐した。暗殺事件により、エミリオ・モラ、フランシスコ・フランコ、ホセ・サンジュルホが率いる軍隊が7月17日に軍事蜂起して、スペイン内戦が勃発した。陸軍の一部による反乱が、1936年7月17日にメリラのアフリカ軍から始まった。1936年7月18日に、フランシスコ・フランコ将軍がアフリカ軍の勢力の最高指揮官に就任した。




2025年1月17日金曜日

ベトナム戦争にて、1966年2月24日にタンビン付近のアメリカ軍第1騎兵師団陣地に対して、ベトコンが夜襲して、戦死したベトコン兵士の死体をアメリカ軍の装甲兵員輸送車が引こずったて泥まみれの死体となった。

ベトナム戦争にて、1966年2月24日にタンビン付近のアメリカ軍第1騎兵師団陣地に対して、南ベトナム解放戦線のベトコンが夜襲した。その戦闘で戦死したベトコン兵士の死体をアメリカ軍の装甲兵員輸送車が引こずったて泥まみれの死体となった。連合軍が南ベトナムの首都サイゴンから北西56kmのタンビンの戦場に残存していたベトコンの死体であった。平然とアメリカ軍兵士が装甲歩兵院輸送車に搭乗して、死体を平然と見下して任務を遂行した。「泥まみれの死」として、沢田教一が装甲兵員輸送車で死体を引きずる写真を撮影して、第10回世界報道写真展報道写真部門1位を受託した。

 タンビンにてスオイ・ボン・チャンの戦いの後に、アメリカ軍装甲車の後ろにベトコン兵士の死体をひこずって埋葬地に向かった。アメリカ軍とオーストラリア軍は1966年2月23日と24日の夜に、ベトコンと北ベトナム軍と戦った。この戦闘は、ビエンホア空軍基地の北西30kmに位置するタンビン近辺で勃発した。戦略道路を建設中の技術者を保護するための大規模なアメリカ軍警備作戦である「ローリングストーン作戦」の最中に発生した。2月24日朝に、ベトコンと北ベトナム軍は約500人の戦死により甚大な犠牲者を伴った。アメリカ軍は11人とオーストラリア軍は74人の死傷者の犠牲者を伴った。

 ベトナム戦争が激化した1966年に、連合軍は南ベトナムでの足場を確保しようと、ベトコンとの戦いを続けた。ベトコンと北ベトナム軍はオーストラリア軍とアメリカ軍に撃退されて追い返された。死亡したベトコン兵士の死体を、恨みと勝利の誇示からか、アメリカ軍の装甲兵員輸送車の後部にくくりつけられ、戦車の後ろに引きずられた。戦争の事実を、戦争当事者ではない第三者機関が報道できた戦争がベトナム戦争であった。ジョン・F・ケネディ大統領が戦争の目的と意図を世界に知らしめた。




2025年1月14日火曜日

ロシア軍の従軍看護婦であったフローレンス・ファームボローは、ウクライナとポーランドの国境地域のガリシアで、ロシア赤十字の体験を写真と記録した。戦場に横たわる死体など、戦争の悲惨な結末を写真撮影した。

ロシア軍の従軍看護婦であったフローレンス・ファームボローは、ウクライナとポーランドの国境地域であるガリシアで、ロシア赤十字の体験を写真と記録した。ファームボローは戦場に横たわる死体など、戦争の悲惨な結末を写真撮影した。1917年のボリシェヴィキ革命から逃れる前の東部戦線の見られがたい戦場を撮影した。イギリスの報道機関は、第一と次世界大戦の露骨なイメージを避けていた。

 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、赤十字看護婦となったフローレンス・ファームボローは帝政ロシア軍に入隊した。ガリシア戦線とルーマニア戦線で従軍した。看護婦時代にファームボローは日記をつけ、プレートカメラを持ち歩いた。軍隊と野営している間に、プレートを現像し、写真をプリントした。

 ファームボローは、1916年5月28日に第一次世界大戦の東部戦線で爆発を目撃した。十数人のロシア軍兵士が爆発で死亡し、他の兵士は塹壕から這い出すも、すぐに倒れて死亡した。そのうちの2人のロシア軍兵士だけが立っていて搬送された。二人とも歩いてきた二人の裸の赤い人影の服は焼け焦げていた。大きな納屋を改造して着替え場にした。そこに二人並んで立っていた。すぐに注射が命じられた。皮膚の血管は見つからず、針を直接肉に刺さした。隣接する小屋のわらの上に二人を寝かせた。1から2時間で綿毛は完全に飽和状態になった。二人の兵士の苦しみがなくなるように、モルヒアの注射を何度も繰り返した。二人とも朝までに死んだ。二人とも一言も話さなかった。

 ファームボローは1916年7月31日に、ロシア軍のポーランド行きに同行した。いくつもの戦場を通り過ぎて、戦死者は、しゃがんだり、二重になったり、伸びたり、伏せたり、横たわったり、オーストリア軍兵士とロシア軍兵士が並んで横たり、倒れたままの奇妙で不自然な姿勢で横たわった。黒く染まった土の上に、裂傷を負い、潰れた死体が横たわった。足を失い、黒く腫れ上がった顔のオーストリア軍兵士、顔を潰され、見るも無残な姿のロシア軍兵士、有刺鉄線にもたれかかり、足を二重にしたロシア軍兵士、複数の開いた傷口にはハエが這い、他にも動く糸があった。若く、強く、元気だった男たちが、生気を失い、不活発に横たわった。人の命とは、なんと脆く儚いものだろう。銃弾が生きた肉を貫通すれば、命は絶える。




2025年1月11日土曜日

イスラエルによる空爆が2023年12月27日にパレスチナ・ガザ地区にあり、翌日にパレスチナ人男性が、ガザ地区のジャバリア難民キャンプの瓦礫から赤ちゃんの死体を搬送した。

イスラエルによる空爆が2023年12月27日にパレスチナ・ガザ地区にあった。その翌日の12月28日に、パレスチナ人男性が、ガザ地区のジャバリア難民キャンプの瓦礫から引き出された赤ちゃんの死体を悲嘆しながら搬送した。

  ジャバリア難民キャンプは、パレスチナ領内最大の難民キャンプで、10万人以上が住んでいた。イスラエル国防軍(IDF)は2023年10月9日から、ガザ地区北東のジャバリア難民キャンプをハマスや他の過激派組織の拠点として空爆を行った。ガザの人口密集地のジャバリア・難民キャンプでは、10月31日の空爆で60人以上が死亡し、市場の多くが破壊された。10月10日の空爆で45人が死亡し、集合住宅の一部が破壊された。2024年5月31日に、イスラエル国防軍はジャバリアから撤退した。パレスチナ当局は、難民キャンプの70%が破壊された。イスラエル軍は、7人のイスラエル人の人質の死体を回収したと発表した。

 2023年12月3日に、イスラエル軍による空爆がガザ北部のジャバルヤ難民キャンプを空襲した。パレスチナ人の子供たちが瓦礫の下にいる父親を探した。イスラエル国防軍は12月2日にも同じジャバルヤ・キャンプを空爆し、数十人が死亡した恐れがある。12月8日に北部ジャバリア難民キャンプへの空爆で数十人が死亡した。12月15日にイスラエル軍によるキャンプでの空爆により、少なくとも90人が死亡した。

 パレスチナ自治区全域で戦闘が続く中、ガザ北部のジャバリア地区で、2023年12月19日にイスラエル軍の空爆により少なくとも110人が死亡したと、ハマス運営の保健省が発表した。ジャバリア難民キャンプにある3軒の家が空爆を受け、50人が死亡、数十人が瓦礫の下敷きになった。12月20日にイスラエルの攻撃で46人が死亡した。12月22日に合計30人が死亡した。

 



2025年1月10日金曜日

1936年にイタリア占領下のアディスアベバで2人のエチオピア人男性の死体が路上に散乱した。足首をロープで縛られ、路上に引きずられた。

1936年にイタリア占領下のアディスアベバで2人のエチオピア人男性の死体が路上に散乱した。足首をロープで縛られ、路上に引きずられた。第二次イタリア・エチオピア戦争は、イタリアがエチオピアに対して行った侵略戦争で、1935年10月から1937年2月まで勃発した。枢軸国を特徴づけた拡張主義政策と、第二次世界大戦勃発前の国際連盟の無力さを象徴した。

 1935年10月3日に、20万人のイタリア軍兵士が、宣戦布告なしにエリトリアから攻撃した。小部隊がイタリア・ソマリアから攻撃した。10月6日、象徴であるアドワが征服された。 10月15日、イタリア軍はアクスムを占領した。

 その後遅滞するイタリア軍は、イタリアの首相ベニート・ムッソリーニは、新たな侵略軍と交代させた。貧弱なエチオピア軍は、1935年12月に反撃した。イタリア軍がエチオピア軍の分遣隊に狭い柵を課した。ナチス・ドイツがイタリア軍にに武器と軍需品を送った。戦争が長引き、イタリア軍の資源を消耗させた。イタリアはドイツへの軍事的依存を強めた。

 1935年12月のエチオピアの反攻は、イタリア軍の近代武器の優位となった。イタリア軍は1936年3月初旬に攻勢を再開した。1936年3月29にハラルを爆撃し、その2日後に、イタリア軍はメイチュウの戦いで圧勝した。皇帝ハイレ・セラシエは5月2日に亡命をした。イタリア軍は5月5日に首都アディスアベバを侵略した。イタリアは5月7日にエチオピア領土の併合を発表した。イタリア軍とエチオピア軍の戦闘は1937年2月19日まで続いた。同日、グラツィアーニ暗殺未遂事件は、アディスアベバでのイエカティット12大虐殺で、1,400人から30,000人のエチオピア市民が虐殺した。イタリア軍は1939年まで反乱軍を抑圧した。

 イタリア軍はエチオピア人にマスタードガスで空爆した。赤十字に対するイタリアの攻撃が報告された。イタリア軍の侵攻の結果、何十万人ものエチオピアの民間人が死亡した。エチオピア軍に対する戦争犯罪にはダムダム弾の使用、 民間人労働者の殺害、捕虜のの身体切除などが勃発した。




2025年1月9日木曜日

エルサルバドルにて、1990年にエルサルバドル政府軍部隊からの明らかな殺人部隊は、二人の青年の頭部を撃ち抜いて超法規的処刑して、死体は路上に倒れた。

エルサルバドルにて、1990年にエルサルバドル政府軍部隊からの明らかな殺人部隊は、二人の青年を、超法規的処刑した。二人の青年は、頭部を撃ち抜かれて、失血して死体が路上に倒れた。

  超法規的処刑は、裁判手続きに付されず実行された権力による殺人である。法の手続きに従っても、本来は国家には人の生命を奪う権利はない。死刑は非人道的であり、許されない刑罰とする国々があり、法の手続きに従った殺人をする死刑に反対した。法の手続きに従わない政治的な動機による殺人にも反対する。超法規的処刑には、対象が「囚人」とは限らない。デモに向けた発砲は、権力による殺人である。

 戦争中の戦闘目的を達成する過程での予期せぬ殺害や空襲で市民がまき込まれて死亡する。個人を殺害する明確な意図による行為は、大規模な戦争を想定しない。実際の戦場で、特定の個人を殺害する意思を立証するのは困難である。非戦闘員の殺害も「超法規的処刑」にあたり、無差別爆撃では非戦闘員も死亡した。。軍政下の多くが、現場の指揮官は法律によらず処刑する権限を、法令によって与えらた。「超法規的処刑」とは、裁判等の司法手続きを無視した政治的動機による殺害である。

 サルバドル内戦は、エルサルバドルにて1979年10月から1992年1月まで12年間の内戦である。アメリカの支援を受けたエルサルバドル政府と、ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)との間で争われた。FMLNは、フィデル・カストロのキューバ政権とソビエト連邦に支援された左翼ゲリラ・グループの連合である。1979年10月15日のクーデターに続き、エルサルバドル政府による反クーデターデモ参加者の殺害が内戦の起点となった。戦争が正式に終結したのはソ連崩壊の後である。1992年1月16日、チャプルテペック和平協定がメキシコシティで調印された。国連(UN)は、内戦によって1979年から1992年の間に7万5千人以上が死亡し、約8千人が行方不明になったと報告した。人権侵害、特に国家治安部隊と準軍事組織決死隊によるFMLNのシンパ容疑者の誘拐、拷問、殺害は蔓延した。









2025年1月8日水曜日

自らの体に火を灯した焼身抗議者はチベットに自由を・ダライ・ラマのチベットの帰還を、焼身現場でスローガンを叫んだ。

自らの体に火を灯した焼身抗議者はチベットに自由を・ダライ・ラマのチベットの帰還を、焼身現場でスローガンを叫んだ。遺書や動画を残した。焼身自殺が中国政府の弾圧政策に抗議した。チベット人のアイデンティティ・言語が脅かされて、ダライ・ラマ法王のチベットへの帰還を求めるメッセージも残した。

 2011年3月16日にチベットで焼身抗議を遂げたキルティ僧院の21歳の僧侶プンツォクは、命が絶えるまでの僅かな時間に、600万人のチベット人に向けて、数珠玉のように一つに団結して、チベット問題に、手を取り合い前に進め。

 2012年6月20日に、青海省ユルシュル・チベット自治州で、テンジン・ケダプとンガワン・ノルペル (22) はメッセージを残して焼身抗議した動画が撮影された。チベット民族には言語の自由がなく、チベット語に中国語が混じった。私の遺産は自由に使いたい。焼身抗議は チベットのためで、自由・文化的伝統・言語が必要である。

 1950年から1960年に、中国共産党によりチベットが侵略された。1960年〜1970年に、中国共産党がチベット政府の政治力を喪失させ、政権を奪った。1970年~1980年に中国共産党の文化大革命により、チベットの信仰と文化が崩壊した。1980年~1990年で、中国人のチベット移民である漢人が、チベット人の職業を奪った。

 1960年代、 チベットの指導者たちは中国共産党の統治に抗議の声をあげた。パンチェン・ラマ10世が、中国政府の指導者に対し、7万字にもおよぶ嘆願書を送った。中国政府によるチベットの文化的ジェノサイドを批判した。毛沢東はパンチェン・ラマ10世を「我が階級の敵」と呼び、嘆願書を「毒矢」と非難した。痛烈な批判の結果、パンチェン・ラマ10世は、暴行を受け、独房に収容された。毛沢東の死後にパンチェン・ラマ10世が釈放された。1989年に、パンチェン・ラマ10世は、中国の統治下のチベットに抗議した発言の数日後、不可解に殺害された。

 歴史的過程により、チベットの多くの若者が焼身抗議に駆られた。日々、中国政府によるチベット仏教文明・言語・アイデンティティを弾圧され、チベット仏教への介入に憤慨した。中国政府は、チベット仏教の指導者であるダライ・ラマ法王を非難し、僧信や尼僧を非難した。

 漢人移民がチベットに流入し、 チベット人の職、 土地、 未来を奪った。チベットの街は中国化した。チベット人は警戒と恐怖を覚え、遊牧民は、家畜を奪われ、草原を追われた。遊牧民が、収入を失い、貧困にあえいだ。大規模開発もチベット人には恩恵がない。天然資源が、中国東部へと略奪された。チベットの中国化が進み、先祖代々の土地で二流市民となった。世界から抗議の声はあがらず、大多数の人が見て見ぬふりをした。




2025年1月7日火曜日

ベトナム戦争にて1968年1月31日に、ベトナムの首都サイゴンにおけるテト攻勢の最中に、アメリカ大使館の敷地内で、ベトコン兵士が殺害された。

ベトナム戦争にて1968年1月31日に、ベトナムの首都サイゴンにおけるテト攻勢の最中に、アメリカ大使館の敷地内で、ベトコン兵士が殺害された。アメリカ軍警察、記者、大使館員に囲まれて、アメリカ大使がベトコンの死体を見つめた。アメリカ軍の反撃で殺害されるまでの6時間に、19人のベトコンゲリラがサイゴンのアメリカ大使館を占拠した。

 1968年1月31日早朝に、ベトナムの国民が旧正月であるテトを祝う中で、共産主義のベトコン部隊が南ベトナム全土で組織的な奇襲攻撃が勃発した。その日に、サイゴンのアメリカ大使館が標的となった。 ベトコン部隊は大使館の一部を制圧し、殺害または捕虜となるまでの約6時間、大使館を占拠した。大使館への攻撃は、アメリカが戦争に勝つと信じたアメリカ国民に衝撃をアメリカ国民の与えた。テト攻勢中に被ったアメリカ軍の死傷者の生々しい映像は、長い戦争に嫌気したアメリカ国民の反戦感情を煽った。ジョンソン大統領は、ベトナムで解決策を見いだず、1968年3月31日に、再選を目指さず、党の指名も受けないと発表した。1975年4月30日、サイゴンが北ベトナムに陥落し、最後のアメリカ人がベトナムを去るまで、ベトナムでは南北間の内線が続いた。

 1月31日午前2時47分、ベトコンが境界壁に小さな穴を開け、大使館敷地内に侵入し、大使館ビルに発砲した。20人のベトコン部隊が大使館の敷地を囲む壁を爆破し、中庭になだれ込んだ。午前9時00分までに、アメリカ軍は大使館の安全を宣言した。ベトコンは建物に入ることに失敗した。侵入した20人のベトコンは、18人が憲兵、海兵隊警備隊、民間警備隊員の発砲によって殺害され、敷地内には死体が散乱して、2人が捕虜になった。アメリカ海兵隊員1名とアメリカ陸軍憲兵隊員4名が、大使館防衛中に殺害されて命を落とした。




2025年1月3日金曜日

1994年4月15日にルワンダのニャルブエ村においてジェノサイドが勃発した。フツ族民兵により大量虐殺されたツチ族の死体がニャマタ・カトリック教会内に散乱した。

1994年4月15日にルワンダのニャルブエ村においてジェノサイドが勃発した。フツ族民兵により大量虐殺されたツチ族の死体がニャマタ・カトリック教会内に散乱した。

 1922年からルワンダを統治したベルギー軍と行政官が1944年4月7日に撤退した際に、フツ族の指導者がルワンダを支配した。ツチ族に対する攻撃があり、一部のツチ族がウガンダとの国境を越えて逃げ、ゲリラ部隊を結成して政権奪還を目指した。1996年の夏に、ツチ族のゲリラ軍勢がザイールから首都まで席巻した。モブツのフツ族軍隊は崩壊して、国外に逃亡した。カビラが国家の統制権を握り、国名をコンゴ民主共和国に改称した。全アフリカ同盟と呼ぶ戦争で、サハラ以南のアフリカ最大のコンゴ政府が交代した。

 1994年4月6日に、フツ族の大統領の飛行機が撃墜され、死亡した。数ヶ月前から、若いフツ族の村人が武装した民兵組織に加わり、槍やマチェーテと呼ばれる大型ナイフで武装した。国内の他の地域では、フツ族集団がツチ族の殺害を開始した。

 フローラ・ムカンポレの夫は、ニャルブエの村長に保護を求めるも、村長は拒否し、教会に避難するよう伝えた。最終的に3,000人のツチ族が集まり、教会の周りに避難場所を求めて集まった。何人かの男性は弓矢や槍で武装しが無駄であった。1994年4月15日にフツ族民兵が教会を襲撃した際に、先頭に立った村の市長が、フツ族政府軍兵士と警察にツチ族に銃と手榴弾を使用を命じた。ツチ族はパニックに陥り逃げ出し、フツ族民兵はナタで追いかけツチ族を殺害した。ツチ族の人々が切り刻まれ、死傷者が山のように倒れた。

 頭部をナタで殴られたフローラ・ムカンポレは死体の山の中に倒れた。フツ族民兵たちは生存したツチ族を追い詰めて殺害した。彼女はじっと横たわって、数日間、彼女は教会の敷地から一歩も外に出なかった。教会内は死体で埋め尽くされた。彼女は、腐乱死体が数千体転がる中、子供たちと一緒に留まり、1週間後、ツチ族の反乱軍の兵士たちが教会に到着し、病院に連れて行かれた。




2025年1月2日木曜日

第二次世界大戦にてドイツのブーヘンヴァルト強制収容所で殺害された服を着ていない囚人の膨大な死体が、1945年4月14日にブーヘンヴァルト強制収容所内の荒れ地に死体の山が並べられて散乱した。

第二次世界大戦にてドイツのブーヘンヴァルト強制収容所で殺害された囚人の膨大な死体が、1945年4月14日にブーヘンヴァルト強制収容所内の荒れ地に死体の山が並べられて散乱した。服を着ていない死体の山がいくつもあった。1937年にワイマール近郊の森の中に開設されたブーヘンヴァルト強制収容所は、ドイツのワイマールの北西約8kmに位置する。最終的には88の小収容所を管轄して、ブーヘンヴァルトはドイツ国内最大の強制収容所の一つとなった。 収容所にはユダヤ人、ポーランド人、スラブ人、精神病者、身体障害者、政治犯、ロマ人、犯罪者、エホバの証人、捕虜などが収監された。収容所の開設の数年後は、1943年末か1944年初めまで、女性の囚人はいなかった。

 ブーヘンヴァルト強制収容所は、最盛期の1945年2月には、囚人数は112,000人に上った。囚人たちは強制労働者として、ワイマール周辺の軍需工場や軍需工場、採石場、さまざまな収容所の作業場で12時間交代で働いた。収容所には毒ガス室はなかったが、数百人が病気、栄養失調、疲労、殴打、処刑のために死亡した。1937年7月から1945年4月までの間に、親衛隊SSは25万人をブーヘンヴァルトに収容した。

 1945年4月初旬に、アメリカ軍兵士たちがブッヘンヴァルトに近づいた。ドイツ軍兵士は囚人たちに本収容所からさまざまな小収容所への行進を強制した。多くの囚人が疲労のために途上で死亡した。解放を予期して、何人かの囚人は強制収容所を掌握するために監視塔を襲撃した。他の囚人たちは、強制収容所にいた約900人のユダヤ人少年を守るために持続的な奮闘をした。

 ドイツ軍の看守や将校の多くは、連合軍の接近を前に逃走した。1945年4月11日に、アメリカ第83歩兵師団はブーヘンヴァルトに入り、強制収容所内に21,000人以上の囚人を発見した。ダッハウ (ミュンヘン近郊)、ザクセンハウゼン(ベルリン)とともに、強制収容所運営幹部会指揮下の三大収容所の一つであった。1945年には30カ国に4万7500人の囚人を収容していた。その中で、解放された1945年4月には2万人が生存していた。全強制収容所での死者は600万人といわれている。




2025年1月1日水曜日

1944年6月6日の連合軍のノルマンディ上陸作戦で、フランスのオマハビーチに突撃したアメリカ軍第1歩兵師団兵士が、ドイツ軍に殺害され死体が倒れて砂浜に散在した。

1944年6月6日の連合軍のノルマンディ上陸作戦で、フランスのオマハビーチの波打ち際に突撃したアメリカ軍第1歩兵師団兵士が、ドイツ軍に殺害されてその死体が倒れて砂浜に散在した。アメリカ国立Dデイ記念碑には、戦死した2,510人のアメリカ軍兵士と1,917人の同盟国兵士の合計4,427人の名前が刻まれた。ドイツ軍は、約2000人が戦死した。

 第二次世界大戦の西部戦線で1944年6月6日に、連合国はドイツ占領下のフランスに侵攻し、ノルマンディー上陸作戦を決行した。オマハビーチは、フランスのノルマンディー海岸からイギリス海峡に面した8kmの区間である。オマハビーチの上陸部隊の主体はアメリカ軍陸軍であり、セーヌ湾のノルマンディー海岸に連続的な8kmの橋頭堡を獲得した。オマハビーチに上陸したアメリカ陸軍は、東はイギリス軍と、西はユタの第7軍団と連携した。

  ノルマンディ上陸作戦に対抗したのはドイツの第352歩兵師団であった。その12,020人のうち6,800人は戦闘経験のある部隊で、53kmの前線を守るために派遣された。ドイツ軍の攻撃は、水際での連合軍の海上攻撃を撃退して、防御を主に海岸沿いの強襲拠点に展開した。

 連合軍による最初の突撃はノルマンディ沿岸の防御を弱めずに、後続で艦船が上陸できなかった。航行に難があった上陸用舟艇のほとんどが6月6日は目標を外した。ドイツ軍の防御は予想外に強固であり、上陸したアメリカ軍にかなりの犠牲を伴った。ドイツ軍の激しい砲火の中で、アメリカ軍工兵部隊は海岸の障害物を取り除くのに苦労した。上陸直後の戦死傷のために弱体化した残存の突撃部隊は、ノルマンディ海岸の出口を取り除けなかった。後続の上陸に遅れをもたらし、最終的には生存者の部隊が即日の突撃を行った。最も防御の固い地点間の断崖をよじ登り、小規模な侵略が達成された。6月6日当日終わりまでに、2つの小さな孤立した足場を獲得した。その後に、内陸の弱体化したドイツ軍の防衛線を攻略して、6月7日には当初のノルマンディD-Day目標を達成した。




2024年12月31日火曜日

サイパンの戦いで、1944年6月23日に戦傷して重態の日本軍兵士にアメリカ軍が応急手当てをした。その後に担架上に、日本軍兵士を仰向けに寝かせるも、手遅れとなり戦死した。

サイパンの戦いで、1944年6月23日に戦傷して重態の日本軍兵士にアメリカ軍が応急手当てをした。その後に担架上に、日本軍兵士を仰向けに寝かせるも、手遅れとなり戦死した。その隣には、戦死した日本軍兵士の死体が、サイパン西海岸の路上に散乱した。

 1944年6月15日からアメリカ軍が上陸したサイパンの戦いは、6月21には日本軍の防衛線はが、西海岸のガラパンからタパチュ山の南斜面から東海岸のマジシャン湾まで伸びた。日本軍はサイパン島の高台を占めて、アメリカ軍の動態を監視して、荒れた地形には草木に隠された洞窟で埋め尽くさた。アメリカ軍の攻撃は6月22日に再会された。西海岸の第2海兵師団はガラパンとタパチュ山に向かって侵攻し、第4海兵師団は東海岸に沿って侵攻した。その夜に、第27歩兵師団はナフタン地点に侵攻して、2つの海兵師団の間の困難な地形に移動した。

 6月22日に側面の海兵師団は侵攻したが、遅れて攻撃を開始した第27歩兵師団は、約4,000人の日本軍兵が防御する低い尾根を囲む谷への攻撃が行き詰まった。アメリカ軍兵士が「デスバレー」と「パープルハートリッジ」などに呼称した地形周辺の戦闘は、アメリカ軍の進撃を馬蹄形に曲げ始めた。海兵師団の側面には隙間を作り、停止を余儀なくされた。

 ホーランド・スミス中将は、第27師団に苛立ち、第27師団長のラルフ・スミス少将を解任して、別の陸軍サンダーフォード・ジャーマン少将に交代させた。ホランド・スミスの解任の妥当性は、軍間論争を引き起こした。司令官が交代しても、谷の攻略には6日間を要した。ジャーマン師団長に挿げ替えても、戦況に大きな進展も無かった。ジャーマンは進撃遅延の責任から第106連隊長ラッセル・G・エアーズ大佐を更迭するも、逆に第27歩兵師団の士気は下がり、4日後の6月28日にはジョージ・W・グライナー少将に師団長が再度変更になった。更迭は『スミスVSスミス事件』と呼称されて、アメリカ軍内で大問題に発展し、その後の3軍の連携に大きな支障を与えた。3軍連携の大規模作戦となった沖縄戦では陸上作戦の総指揮官は陸軍のサイモン・B・バックナー中将となるも、陸軍に対して海軍や海兵隊は気兼ねして、積極的な作戦提案等が困難となり、沖縄戦苦戦の一因となった。

 サイパンの戦いで日本軍守備隊のほぼ全員、約3万人が死亡した。最終的に1,700人とその約半数の朝鮮人労働者が捕虜となった。アメリカ軍は約16,500人の死傷者を出し、3,100人が死亡、13,000人の負傷者sなり、攻撃部隊の一部であった71,000人のうち、死傷率は20%以上であった。




2024年12月30日月曜日

第二次世界大戦末期の1945年4月28日に北イタリアのコモ湖畔ドンゴで、15人のファシスト幹部が、リッカルドが指揮した12人のパルチザンの銃殺隊により射殺された。

第二次世界大戦末期の1945年4月28日に北イタリアのコモ湖畔ドンゴで、15人のファシスト幹部が、戦闘名と呼称したリッカルドが指揮したパルチザンの銃殺隊により射殺された。4月27日朝に、ヴァルテッリーナに向かって逃走するファシスト階層の隊列が、ドンゴのパルチザンによって拉致された。4月28日17時47分に、ドンゴの湖畔に並んだ15人のファシストの幹部たちを銃殺した。15人のファシストは、湖に顔を向け、銃殺隊に背を向けて、町の湖畔の金属製の手すりに並べられて、銃殺で処刑された。夕方に、処刑された死体はミラノに運ばれた。

 1945年4月10日からイタリアのパルチザン、愛国者および民衆は、連合軍の意向にこだわらず、主要都市を次々に解放した。孤立したドイツ軍を降伏させて、ベニート・ムッソリーニの共和国政体は末期的症状を呈した。4月28日に、12人のパルチザンから構成された銃殺隊を結成して、本名アルフレッド・モルディーニである戦闘名のリッカルドは、銃殺隊の指揮官に任命された。 

 ムッソリーニは1945年4月18日夕刻に、ミラノに着き、県庁に住居を定めた。4月25日にイタリア国民解放委員会は、ミラノ大司教邸で共和国政体に無条件降伏を要求した。ムッソリーニを、イタリア人民裁判にかけた。4月26日に、国民解放委員会が政権を掌握した。4月27日に、コモ湖からムッソリーニらをミラノに強制連行した。ムッソリーニは4月28日朝、ボンザニーゴのデ・マリア邸の中庭で、9時過ぎから10時少し前の間に銃殺された。4月29日に、ミラノ・ロレート広場で、ムッソリーニと愛人のクララ・ベッタおよびファシスト幹部の死体が逆さ釣りにされた。

 1945年4月29日にカゼルタの降伏の文書による合意は、イタリア戦線のドイツ軍とイタリア・ファシスト軍の降伏を正式に決定した。5月2日に、ドイツ軍南西集団がイギリス陸軍元帥に無条件降伏してイタリア戦線は終結した。



















2024年12月30日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟  
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2024年12月29日日曜日

2024年11月21日に、パレスチナのガザ地区のカン・ユーニスで、父親のマフムード・ビン・ハッサンは、葬儀を前に長子2人と女子1人の子どもたちの死体を悼んだ。

2024年11月21日に、パレスチナのガザ地区のカン・ユーニスで、父親のマフムード・ビン・ハッサンは、葬儀を前に3人の子どもたちの死体を悼んだ。11月21日に、パレスチナのガザ地区のカーン・ユーニスで、男性が埋葬のために運ばれる3人の子供の遺体にキスをした。7歳のハムザ、5歳の弟アブデラジズ、4歳の妹ライラ・ハッサンの3人は、11月20日のカーン・ユーニスでイスラエルの攻撃により死亡した9人のうちに含まれた。11月21日木曜日のガザ地区のカン・ユニスで、イスラエル軍の空爆で死亡した同じ家族の3人の子どもの墓が埋葬の際に土で覆われた。パレスチナの保健当局によると、イスラエルとハマスの13ヶ月に及ぶ戦争によるガザ地区の死者は44,000人を超えた。

 2024年11月21日に、ガザ地区のカーン・ユーニスで、3人の子供の葬儀の後に、母親のアリージ・アル・カディは、子供の服を着て涙を流した。母親のアリージ・アル・カディは、娘のライラのドレスを見せる11月21日に、ガザ地区のカン・ユーニスの難民キャンプにあるテントで、父親のマフムード・ビン・ハッサンが生存している4番目の子どもを抱きながら、亡くなった3人の子どものうちの1人の写真を見せた。

 2024年7月21日以来、イスラエル軍の空爆がパレスチナ北東部のカン・ユーニスで激化している。パレスティナ人難民が、カン・ユーニスのアル・マワシ地区へ向かった。アル・マワシ地区には、大勢の市民を支える資源がなく、避難所や命を救う人道支援もない。イスラエル軍は人道地帯と宣しても、空爆や砲撃が続けられ、国連人権事務所は、ガザ地区に安全な場所はないと述べた。パレスチナの保健当局によると、イスラエルとハマスの13ヶ月に及ぶ戦争によるガザ地区の死者は44,000人を超えた。ガザ保健省は、民間人と戦闘員を区別してカウントしていないが、死者の半数以上が女性と子どもであるとしている。 イスラエル軍は、17,000人以上の武装勢力を殺害したとしているが、証拠は示していない。












Warning: A man kisses the body one of three children as they are carried for burial in Khan Younis, Gaza Strip, Thursday Nov. 21, 2024. Seven-year-old Hamza, his five-year-old brother Abdelaziz, and his four-year-old sister Laila Hassan were among 9 people killed by an Israeli strike in Khan Younis on Wednesday. Palestinian health officials say the death toll in the Gaza Strip from the 13-month-old war between Israel and Hamas has surpassed 44,000. (AP Photo/Abdel Kareem Hana)

2024年12月27日金曜日

サイパンの戦いにて、アメリカ軍が破傷風に罹患して重態の日本軍兵士を、空母サージェント・ベイ上で、1944年7月28日に破傷風の治療を受けた。まもなく破傷風菌の感染症で病死して、死体が太平洋に葬られた。

第二次世界大戦の太平洋戦争のサイパンの戦いにて、アメリカ軍が破傷風に罹患して重態の日本軍兵士を捕虜にした。空母サージェント・ベイ上で、1944年7月28日に捕虜の日本軍兵士は、破傷風の治療を受けた。まもなく破傷風菌の感染症で病死して、死体が太平洋に葬られた。破傷風菌に感染して3日から3週間から無症状の期間後に、口を開けにくい、首筋が張る、体が痛いなどの症状が出現する。その後に、体のしびれや痛みが体全体に広がり、全身を弓なりに反らせる姿勢や呼吸困難が出現した後に死亡する。

 サイパンの戦いの日本軍の戦局が悪化するとともに、連合国軍の大量の投降呼びかけのビラや新聞が大量に制作され、投降の仕方を記載した投稿票が多数の日本軍兵士の手許に舞い降るようになった。四面楚歌の戦況で、ビラや拡声器の甘いささやきに心を動かす日本軍兵士が増加した。日本軍兵士の心理にビラの主張を理解して、呼応しようとする先有傾向が培養された。日本兵捕虜は、捕獲時や収容所での適応の仕方や知恵を、日本降伏後の帰還時に日本人全体に伝播する役割を担うことになった。

 アメリカ軍の戦時情報局(OWI)はじめアメリカ軍の機関や部隊は ビラや拡声器などが投降者を促すことから、一層プロパガンダ活動に力を入れた。投降票をもってジャングルから姿を見せる兵士が増加した。投降に逡巡する多くの日本軍兵士のなかから、少数ながら自発的な投降者が現れた。さらに戦局が悪化すると、戦力が残った部隊からも奔敵する敵前逃亡者もでてきた。病気や飢餓によって動けなくなった戦傷者が、敵であるアメリカ軍につかまり捕虜となる事例が増えた。日本軍本隊から離れて寝入って、アメリカ軍側原住民ゲリラに襲われて、捕虜となる者も増えた。手榴弾やカミソリで自殺を失敗する者から投降者があらわれた。




2024年12月26日木曜日

第一次世界大戦の西部戦線にて、イギリス軍が1916年7月のベルギーとの国境近郊のフランスのフロメルの戦いで、ドイツ軍に殺害されて戦死したイギリス軍兵士の死体が塹壕の中に散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線にて、イギリス軍が1916年7月のベルギーとの国境近郊のフランスのフロメルの戦いで、ドイツ軍に殺害されて戦死したイギリス軍兵士の死体が塹壕の中に散乱した。1916年7月19日のフロメル攻撃は、イギリス軍とオーストラリア軍が西部戦線で戦った大規模な残酷な戦闘になった。連合軍は7月1日に、大攻勢をかけるソンム方面へのドイツ軍の増援を阻止するも、大惨事となった。

 1916年7月19日夕方に、イギリス軍とオーストラリア軍は、シュガーローフの前線を占領を目指した。7月16日に開始したイギリス軍の砲撃が、ドイツ軍に侵攻を察知された。イギリス軍は7月19日に陣地に移動が、至近距離でドイツ軍に監視された。ドイツ軍はイギリス軍とオーストラリア軍の集合場所と通信塹壕に激しい砲撃を加えて、何百人もの死傷者を出した。

 他のオーストラリア軍はシュガーローフの反対側の無人地帯を攻撃した。イギリス軍の砲撃を防御したドイツ軍は機関銃を構えて攻撃して、攻撃するオーストラリア軍を壊滅させた。シュガーローフの南側を攻撃したイギリス軍も同様に壊滅した。作戦の中止が遅れ、オーストラリア軍は再び攻撃を開始して、同様に悲惨な壊滅を招いた。

 7月20日朝、ドイツ軍陣地を突破したオーストラリア軍は元の自陣へ余儀なく撤退をした。 オーストラリア軍は一晩で5,533人の死傷者を出して、史上最悪の24時間となった。その多くがドイツ軍の機関銃の餌食の犠牲になった。フロメルの戦いでの豪軍の犠牲者は、ボーア戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争を合計したオーストラリア軍の犠牲者数に匹敵した。フロメルの戦いは、戦術的な正当性など皆無であり、驚異的な大惨事となった。 




2024年12月25日水曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、日本軍兵士が火山地形上の斜面で1945年2月にうつ伏せになって、自分の胸部に当てた自分の手榴弾を炸裂させて自殺した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、日本軍兵士が火山地形上の斜面で1945年2月にうつ伏せになって、自分の胸部に当てた自分の手榴弾を炸裂させて自殺した。日本軍兵士はアメリカ軍に追い詰められて、殺害されるのも降伏するのも拒否して自殺した。1945年に、アメリカ軍は中部太平洋まで侵攻して、日本軍との戦闘はますます血なまぐさくなった。硫黄島の戦いでは、海兵隊は硫黄島の火山地形に食い込んだ日本軍の粘り強い守備と格闘しながら、多大な犠牲を伴った。

 硫黄島の戦いは、マリアナ諸島と日本の間に位置する戦略的航空基地のある硫黄島で、日本軍は火山島を侵攻してくる米海兵隊の死の罠にする地下要塞のネットワークを切り開いた。1945年2月19日に米海兵隊の師団が上陸して侵攻したとき、アメリカ軍は短期間の戦闘で終わると予想した。しかし、3月26日まで日本軍は5週間以上にわたり激しい防衛戦を展開した。日本軍は洞窟やその他の拠点から、容赦ない近接攻撃をした。アメリカ軍は根こそぎ破壊して掃討した。硫黄島の大虐殺は、アメリカ軍兵士とアメリカ市民を恐怖に陥れた。連合軍は日本本土への侵攻に遥かに大きな虐殺が伴うことを恐れた。

 硫黄島の日本軍司令官であった栗林忠道将軍は、アメリカ軍の上陸を打ち破るのは不可能と認識した。その代わり、硫黄島の戦いを引き伸ばすことで、日本本土に侵攻するアメリカ軍の決意を揺るぐように長く犠牲のかかる防衛戦を展開した。海岸に致命的な砲火を浴びせる兵器を配置した。硫黄島の北部にある地下壕とトンネルで結ばれた砲陣地に兵力を集中させた。致命的な孤立主義の防衛網は、両軍に恐ろしい犠牲者を出した。

 アメリカ軍海兵隊は、硫黄島での最も血なまぐさい戦闘を、残酷な戦闘を描写して呼称した。850人近い海兵隊員が日本軍の砦を占領しては死んだ肉挽き機や、日本軍の防衛隊が最後の抵抗をした血まみれの峡谷などと呼称した。アメリカ軍上陸部隊のうち6,821人が死亡、19,217人が負傷した。約2万人の日本軍守備隊のほとんどは徴兵兵士であった。彼らは降伏を拒否して、数百人だけが捕虜になるまで粘り強く戦った。




2024年12月21日土曜日

ウクライナ軍のクルスク地方の攻撃で、北朝鮮軍は2024年12月14日から12月15日に大きな損害を被り、約30人の兵士が死傷し、雪野原に北朝鮮兵士の死体が横たわった。

ウクライナ軍のクルスク地方の攻撃で、北朝鮮軍は大損害を伴って、補充が必要となった。ウクライナ情報筋によると、北朝鮮軍の部隊は2024年12月14日から12月15日にかけて大きな損害を被り、少なくとも30人の兵士が死傷した。北朝鮮軍兵士は複数の部隊のFPVドローンの連携攻撃によって排除された映像には20数人の死体が映っていた。雪に覆われた野原に20体以上の北朝鮮兵士の死体が横たわり、ドローンが死体体をトラックで急いで運ぶ映像を撮影した。 

 ウクライナ情報総局(HUR)は、テレグラムを通じて、クルスク地域での攻撃で大きな損害を被った北朝鮮(朝鮮)軍部隊が補充を余儀なくされたと報告した。2024年12月14日から15日にかけて、ロシアのクルスク地方のプレホボ村、ヴォロジバ村、マルティノフカ村の地域で、朝鮮民主主義人民共和国軍の部隊が大きな損害を被った。少なくとも3人の北朝鮮軍人がクリロフカ村付近で行方不明になった。損失により、クルスク地方での戦闘活動を維持するために、北朝鮮軍の第94分離旅団から新鮮な人員で襲撃隊を強化する必要が出た。

 12月15日にウクライナ軍は、ロシア・ウクライナ戦争で殺害された最初の北朝鮮兵士の遺体を映したビデオを公開した。ウクライナ軍のの攻撃無人航空機システムの第414別連隊の指揮官は、ドローン映像をテレグラムで共有した。映像には、クルスク地方でロシア軍と戦っている北朝鮮兵士の死体の山が映った。国防評議会傘下の偽情報対策センターはロシア軍における北朝鮮の犠牲者総数はもっと多い喧伝した。北朝鮮軍の死体は、ロシア軍兵士の死体に混じって横たわった。この2日間の攻撃でロシア軍が失った犠牲者は数百にのぼった。

 ロシア軍は北朝鮮軍を統合部隊に加え、クルスク地方での作戦に参戦していると12月14日に喧伝した。ロシア軍司令官は、北朝鮮部隊を肉弾攻撃でロシア軍と一緒に参戦しているが、北朝鮮軍の戦闘能力を過小評価した。




2024年12月19日木曜日

第一次世界大戦の西部戦線で、フランス北部のポジエールの戦いで、オーストラリア軍による砲撃により、直撃弾によりドイツ軍陣地が破壊されて、ドイツ軍砲兵が戦死した。

第一次世界大戦の西部戦線で、フランス北部のポジエールの戦いで、オーストラリア軍による砲撃により、直撃弾によりドイツ軍陣地が破壊されて、ドイツ軍砲兵が戦死した。1916年7月23日~9月3日にポジエールの戦いが勃発した。フランス北部のポジエール村周辺で、ソンムの戦いの間に起こった。この高台の戦いは、イギリス軍が村の北と東の台地を占領てし、後方からドイツ軍の堡塁であるティープヴァルを威嚇できる状態で終わった。ポジエールの稜線には、地球上のどの場所よりも中央同盟軍の犠牲がびっしりと蒔かれた。

 ポジエールの戦いの最初の攻撃は1916年7月23日に、オーストラリア軍がドイツ軍の戦線を制圧し、ポジエールの主要道路に到達した。ドイツ軍は夜明けに反撃したが、オーストラリア軍はこれを撃退した。ポジエールの残りは7月23日から25日にかけて陥落した。ポジエール辺り一帯は、まさに砲弾の海と化した。

 オーストラリア軍は7月27日までにポジエール村を占領した。ポジエール高地の攻略を命じられて、7月29日に攻撃を開始した。戦闘の準備を整えたドイツ軍により、3500人のオーストラリア軍兵士が犠牲になった。8月4日に、ドイツ軍陣地への激しい砲撃の後に、オーストラリア軍はポジエール高地を占領した。オーストラリア軍はポジエール稜線に沿って北上して、ムーケ農場に到達して、ドイツ軍は1916年9月26日までムーケ農場の陣地を保持した。

  第一次世界大戦の連合軍はフランス北部のソンム地方で大規模な攻勢を1916年7月1日に開始した。ドイツ軍がベルダンでフランス軍に対する大規模な作戦を1916年2月21日に開始した。イギリス軍はフランス軍の援助を減らしてソンムの戦いを指揮した。ティエプヴァルへ向かうイギリス軍は高地を支配するポジエール周辺の戦闘も含まれた。42日間にわたり、オーストラリア軍はドイツ軍陣地に対して19回の攻撃を行って、最終的な死傷者・捕虜の犠牲者23,000人のうち6,800人が戦死した。




2024年12月13日金曜日

第一次世界大戦の西部戦線にて1918年に、フランスのセーヌ・エ・マルヌ県を横切るオウルク川の戦いで、バルシーの陥没した道上に、ドイツ軍よって殺害されて戦死したアメリカ軍兵士の死体や軍馬の死体が散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線にて1918年に、フランスのセーヌ・エ・マルヌ県を横切るオウルク川の戦いで、バルシーの陥没した道上に、ドイツ軍よって殺害されて戦死したアメリカ軍兵士の死体や軍馬の死体が散乱した。

 1918年7月26日午後遅く、アメリカ軍第42レインボー師団の部隊は、オウルク川の南のラ・クロワ・ルージュ農場で厳重に防御されたドイツ軍陣地を攻撃した。ドイツ軍が川の北の要塞に退却する中で、レインボー師団はオウルク川のすぐ南2.74kmの前線に陣取った。絶え間ないドイツ軍の機関銃と砲撃の中で、7月28日にオウルク川を横断した。6日間にわたる激戦で、アメリカ軍は重要拠点を占領した。アメリカ軍レインボー師団は付属部隊を含めて、1410人が戦死して、5049人が戦傷して、合計で6,459名の死傷者を出した。

 オウルク川の戦いでは、ドイツ軍は5人乗りの機関銃を多数配備して、強固な防御を設置した。後に鹵獲された機関銃の約25丁は、毎分10,000発の弾丸を発射し、約0.91kmまで命中した。カモフラージュされ、要塞化された陣地に配備されたドイツ軍は、並木道や小道を覆って、連動する射界は計測され、地図が作られた。樹木には照準のために赤いペンキの印を付けて、狙撃手を配置された。

 ドイツ軍の攻撃は熾烈を極め、アメリカ軍レインボー師団の兵士に多大な犠牲をもたらした。ラ・クロワ・ルージュ農場周辺の林の斜面で、凄まじい戦闘が繰り広げられた。農場の敷地内に大隊を集結させたドイツ軍に対して、アメリカ軍は近接戦闘を手榴弾、ライフル銃、銃剣で戦って、クロワ・ルージュ農場を襲撃して占領した。クロワ・ルージュ農場を通ってオウルク川へ向かうアメリカ軍兵士は、その小川を虹の血で真っ赤に染めて、激流の中をもがき横断した。レインボー師団は、シャンパーニュ防衛とオウルク川への攻撃で、将校184人、兵員5,469人、全兵力の約4分の1の死傷者を出した。