沖縄戦のシュガーロフの戦いにて、1945年5月10日の安謝川の渡河の戦闘でアメリカ軍海兵隊兵士は、日本軍によって殺害された。その後に、海兵隊員の死体が担架で搬送されてアムトラックに収容された。
5月10日未明に、アメリカ軍は内間の西側で安謝川に架橋して南下して来た。同方面の防衛に当たっている日本軍の独立第2大隊から派遣された橋梁爆破挺身隊は、架橋の爆破に成功して、アメリカ軍の渡河を妨害した。挺身隊の損害は日本軍兵士1人であった。日本軍の独立第2大隊は、侵攻するアメリカ軍の阻止に努めた。次第に、アメリカ軍の兵力は逐次に増強されと、5月10日夕刻には安謝の部落の東西の線をアメリカ軍軍に占領された。内間付近でも、アメリカ軍の強力な攻撃を受けた。日本軍は、内間北東側高地を確保してアメリカ軍の侵攻を阻止した。
アメリカ軍工兵隊は、5月10日の夜から5月11日の深夜にかけて、熾烈な砲火のなかを安謝川に、浮橋を架けて、アメリカ軍の攻撃支援部隊の戦車隊や重砲類を渡河させた。沖縄の首里の高地からは、安謝の海岸はまる見えであった。日本軍は、首里西部の丘陵地帯の砲兵陣地から、ずっと砲撃を継続した。日本軍歩兵も、砲兵と相呼応して激しくアメリカ軍に抵抗した。日本軍の砲火のなかでも、海兵隊は侵攻して進撃した。アメリカ軍大隊が、安謝の南方800m地点にある丘の頂上に登ったが、日本軍の防備は固く、ついに火炎放射器の射手一人をのぞいてアメリカ軍全員が死傷した。
沖縄戦の激戦地となった字安里の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地は、日本軍は「すりばち丘」、アメリカ軍は「シュガーローフ」と呼称した。一帯の丘陵地は、日本軍の首里防衛の西の要衝であり、アメリカ軍の第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。特に慶良間での攻防は、1945年5月12日から5月18日かけて、1日のうち4度も頂上の争奪戦が繰り返す激戦の末に、5月18日に至ってアメリカ軍が制圧した。アメリカ軍はシュガーロフの戦いで戦死者2,662人と1,289人の心的外傷後ストレス障害を出た。日本軍の犠牲者は不詳であるが、学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。