ファシストによりイタリアを戦争に引きこんだベニート・ムッソリーニの脳味噌が、1945年4月30日にミラノ中心部のきたないロレート広場の汚泥の上に流れ出た。午後にアメリカ軍は死体を撤去して、銃弾の跡だらけのムッソリーニ等のひどく損傷した死体をミラノの死体安置所に運ぶように命じた。アメリカ軍は、ムッソリーニと愛人クラ・レッタペタッチの死体を互いに並ばせて、不気味なポーズをとらせて撮影した。
第二次世界大戦にて連合国軍は北アフリカで勝利した後に、1943年夏にシチリア島へ上陸した。イタリア半島を首都ローマへ向かって攻めのぼった。1944年6月5日に首都ローマを解放した。1922年以来に絶対的権力を握ってきたイタリア・ファシスト党の独裁者ベニート・ムッソリーニは、シチリア陥落後政権の座を追われて監禁された。
1943年後半に、ナチス・ドイツ軍の降下部隊が、アペニン山脈のスキー場に幽閉されたムッソリーニの救出に成功した。ムッソリーニはイタリア全土の権力者に再びに返り咲けなかった。当時イタリア政権はすでに方針を転換して、連合国側で戦っていた。ムッソリーニはヒトラーに命令のままに、北イタリアにイタリア社会共和国を樹立して傀儡の元首におさまった。
1945年に第二次世界大戦の戦況が、ナチス・ドイツ軍は著しく戦況が不利になるにつれ、ムッソリーニを支える余力はなかった。1945年の4月末に、ムッソリーニの一行はミラノの拠点を脱出した後に、反ファシストのパルチザンがムッソリーニーを追った。極右の指導者たちに対して長年の戦争犯罪を償わせる指令が出された。1945年4月27日にスイス国境近くのコモ湖畔の路上で、ムッソリーニと愛人クラ・レッタペタッチはともにパルチザンに捕まった。翌日の4月28日午後でヒトラーが自殺する2日前に、2人は略式裁判により機関銃で銃殺された。ミラノのロレート広場に運ばれたムッソリーニとペタッチと、14人のファシストの死体は、群衆の暴徒により文字どおり殴る蹴るの暴行を加えられた後に、ロレート広場のガソリンスタンドで逆さ吊りにされた。それは、ナチス・ドイツの親衛隊によりファシストが、8月前に15人のパルチザンを処刑して死体を公開したロレート広場であった。