2024年10月18日金曜日

ドイツのライプツィヒの副市長兼市会計であり53歳の夫のエルンスト・クルト・リッソが机で、50歳の妻のレナーテ・ステファニーと20歳の娘のエバートが1945年4月18日に執務室で自殺した。

ドイツのライプツィヒの副市長兼市会計である53歳の夫のエルンスト・クルト・リッソが机で、50歳の妻のレナーテ・ステファニーと20歳の娘のエバートが1945年4月18日に執務室で自殺した。リッソは机で、レナーテとエバートはソファーで毒薬の青酸カリを服用して自殺した。アメリカ軍兵士による捕縛を避けるため、ライプツィヒ新市庁舎で青酸カリによる自殺を遂げた。リッソは、ドイツ赤十字の腕章をつけた。死の写真に、妻のレナーテ・リッソは夫の向かって座り、赤十字の腕章をつけた娘のレジーナがベンチに座っていた。

 アメリカ軍は1945年4月18日にラートハウスを突破して、4月19日朝から攻撃を開始した。 アメリカ軍の戦車は7時30分から9時10分までラートハウスに向けて砲撃を行って、捕虜となったドイツ軍将校が降伏の最後通牒を持ち込んだ。別の部屋で青酸カリで自殺した市長アルフレッド・フライベルクとその妻、娘、前市長でフォルクススツルム大隊長のクルト・ヴァルター・デニッケとその将校数名も新市庁舎で発見された。アメリカ軍はドイツ軍少将1名、下士官175名、ゲシュタポ13名を捕らえた。アメリカ国旗は正午頃に、ラートハウスに掲げられた。リッソの自殺の現場は、ロバート・キャパ、マーガレット・バーク=ホワイト、リー・ミラー、アメリカ陸軍信号隊によって特に広範囲に撮影された。

  ソ連赤軍と西側連合軍がベルリンに迫ってくると、自殺者が増えた。1945年春に、何千人ものドイツ人が、占領や勝者による虐待に避けて自殺した。 ベルリンの戦いでは4月中に約3,881人が自殺したと記録された。動機は「ロシア軍の侵攻への恐怖」だけでなく、連合軍によって解放された地域でも自殺は起きた。アメリカ群は、1945年7月にソ連軍との国境線から占領区域の境界まで撤退した。ライプツィヒはソ連赤軍に引き渡された。ライプツィヒは東ドイツ(ドイツ民主共和国)の主要都市の一つとなった。