2021年6月3日木曜日

イーペル近郊の砲弾で破壊された森林の中で、一人のオーストラリア軍兵士が倒れた仲間の死体を引き上げるために立ち止った。

第一次世界大戦にて、イーペル近郊の砲弾で破壊された森林の中で、一人のオーストラリア軍兵士が倒れた仲間を助けるために立ち止った。このパッシェンデールの戦いでは、約25万人近くの兵士が犠牲になった。1914年以来の戦闘で、イーペル地域はすでに木や植物のない不毛の平原と化し、砲弾の跡が残った。雨水を野原に流していた古代フランドルの排水システムも破壊された。数百万発の砲弾が炸裂し、豪雨が加わったことで、戦場はあっという間に、人が溺れるほどの深さの水を蓄えたクレーターが点在する湿地帯となり、初期の戦闘で死んだ兵士の墓が陥没したことでさらに悪化した。お粥のように濡れた泥の上で、建物や自然の覆いがほとんどない開けた灰色の風景の中で、爆発した砲弾、飛んでくる破片、機銃掃射の容赦ない苦しい雨の下で、攻撃と反撃を繰り返した。
 イーペル地域は、激しい戦闘と絶え間ない砲撃にさらされ、両軍の兵士や馬の死体が埋もれたまま腐った。死体の引き揚げは行われておらず、死者はほとんど埋葬されていない。戦場は広大な泥沼で、水を含んだ砲弾の跡が散見される。兵士や荷馬は、クレーターの間を縫うようにして敷かれた狭い線路を、自分の足で侵攻した。足を滑らせると、大きさのクレーターの中で溺れてしまった。ほとんど絶え間なく降り続く雨と砲撃の中、兵士たちの状況は悲惨だった。兵士たちは砲弾の穴に身を寄せたり、吹きさらしの泥の中で迷子になり、陣地を分ける前線が不明となった。
 パッシェンデールの戦いは、第一次世界大戦中の1917年7月31日から11月10日にかけた第三次イーペルの戦いであった。戦場は、ドイツ軍と連合軍が約3年間にわたり膠着状態となったベルギーの西部戦線のイーペルの突出部である。7月31日にイギリス連合軍は新たに攻勢をするも、廃墟となったパッシェンデール村近くの尾根を占領してドイツ軍の戦線を突破できなかった。イギリス軍、オーストラリア軍とニュージーランド軍の攻撃が失敗に終わった後に、10月26日にカナダ軍が戦闘に参戦した。カナダ軍は11月6日に尾根を占領したが、豪雨と砲撃で戦場は泥沼化して、約16,000人のカナダ軍兵士が死傷した。パッシェンデールの戦いは、連合軍の戦闘には何の成果もなく、第一次世界大戦における無意味な殺戮の象徴となった。
 1917年春に、ドイツ軍は国際海域で連合国の商船等を沈没する無差別の潜水艦の攻撃を開始した。ドイツ軍の潜水艦攻撃により、アメリカは連合国軍側として参戦した。軍需品や食料などをイギリスに運ぶ航路が脅かされた。イギリス海軍は、ドイツ軍の潜水艦基地であったベルギー沿岸の占領港から、ドイツ軍を追い出すために、連合国軍がベルギーのドイツ軍前線を突破して、海岸まで侵攻して軍港を解放すいることを政府に迫った。西部戦線での大規模なフランス軍の攻撃が失敗し、長年の激しい戦争に疲れたフランス軍兵士たちが反乱を起こし始めた。一部のフランス軍が一時的に戦闘意欲を失って、戦闘不能に陥った。ドイツ軍の資源と注意をフランス軍から引き離すために、1917年夏にイギリス軍が無謀な戦闘を展開した。
 イギリス軍は、ドイツ軍に対してわずかな戦力の優位性しかなかった。イーペルでドイツ軍の戦線を突破できても、ベルギー沿岸の軍港は攻略できない。ベルギーでの攻防しても、戦争の終結には繋がらなかった。唯一に必然なのは、大量の人命が失われることだった。イギリスの戦時内閣で承認されたパッシェンデールの戦い通称の第3次イーペルの戦いが7月に始まった。イギリス軍は、数十台の戦車に支えられ、フランス軍の支援を受けて、7月31日にドイツ軍の塹壕を攻撃した。それからの1ヶ月間、ドイツ軍側の何十万人もの兵士が、イギリス軍でも多数の突撃から約7万人近くが死傷した。9月初旬には、オーストラリア軍とニュージーランド軍が、疲弊したイギリス軍に投入された。連合軍は砲撃し、攻撃し、敵地の一部を占領しては、反撃するドイツ軍に追い返された。パッシェンデールの戦いは、間違いなく戦争中で最も泥臭く、最も血なまぐさい戦いで、第一次世界大戦の最悪の恐怖の象徴である。戦闘の多くが全くの無益であり、戦争の幹部が部下の命を無謀にも軽視した。1918年春に、ドイツ軍が大規模な攻撃を開始して、連合軍はベルギーの沿岸部の軍港の解放には至らなかった。パッシェンデールでの戦いは、勇気と命の無駄な支出と呼称された。