2021年6月8日火曜日

太平洋戦争におけるアンガウル島の戦いのアメリカ軍歩兵は、島の狭軌の鉄道の線路に横たわる日本軍兵士の死骸を通過した。

太平洋戦争におけるアンガウル島の戦い(Battle of Angaur)のアメリカ軍歩兵は、島の狭軌の鉄道の線路に横たわる日本軍兵士の死骸を通過した。日本軍の残存集団は島の北西部に潜伏していた。アンガウルは1944年9月20日に安全宣言が出されたが、その後も戦闘が続いた。火炎放射器、手榴弾、爆薬などを駆使した激しい肉弾戦の末に、日本軍の抵抗を完全に断ち切るまでにはさらに約4週間以上も要した。次第に、日本軍は、飢え、渇き、アメリカの砲撃と爆撃が損害を受けて、10月19日に最後に斬り込み突撃して全滅した。アメリカ軍の約10,000人のうち犠牲は、死者約260人、負傷者約1,354人、非戦闘能力の喪失者は約940人であった。日本軍の犠牲は死者約1,338名、捕虜約59人であった。アメリカ軍の約2,560人の死傷者数が、日本軍の約1,397人の犠牲者数を上回った。
 太平洋戦争におけるアンガウルの戦いは、1944年9月17日から9月30日まで、パラオ諸島のアンガウル島で勃発した。アンガウル島は、ペリリュー島と約9.7kmの海峡で隔てら、長さ約4.8kmの小さな火山島であり、滑走路の建設に適していた。ミンダナオ島の東約800kmに位置するパラオ諸島の最南端にあった。アメリカ軍のパラオ侵攻が明白になると、日本軍は在住の民間日本人と現地住民をアンガウル島からパラオ本島へ疎開させた。青壮年の現地住民の男性約180名は朝鮮人と共に軍夫として日本軍に協力させた。アンガウル島へもアメリカ軍が上陸して戦闘に巻き込まれた。9月11日に、艦砲射撃、急降下爆撃機などによる島への砲撃に続いて9月17日には上陸が行われた。アメリカ軍は9月17日に北東部と南東部の海岸に上陸した。約1,400人の日本軍の地雷や狙撃手に遭遇して侵攻が遅れた。日本軍の機関銃や狙撃手がはびこる密集した地形に巻き込まれた。日本軍は洞窟にも侵入していた。アメリカ軍は洞窟を確保するために、ブルドーザーを使って洞窟の入り口を封鎖した。食料も水もない戦場では日本軍兵を徐々に追い詰めて、洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生地獄の様相を醸し出した。既にペリリューの戦い9月15日から11月27日に勃発していた。
 アメリカ軍の猛攻撃で瀕死の重傷を負った舩坂弘軍曹は、左手に拳銃、右手に手榴弾、全身に5発の手榴弾をくくり付けて、アメリカ軍司令部に突撃した。左頸部を撃ち抜かれて昏倒して、意識が約2日間喪失した後に救出された。戦傷者の囚人となっても、監視兵の襲撃や飛行場の爆破を試みた。日本に復員後に、繁栄と平和に繋がるアメリカ文化の先進性を学習する書店を経営した。渋谷駅前に僅か一坪の本屋を開店した。日本初の建物を全て使用した本のデパートの大盛堂書店の創設に繋がった。