2020年4月11日土曜日

長崎原子爆弾の男性被爆者が、佐賀総合病院に長崎市内から護送されて、日本人病院長の診察と進駐軍兵士の視察を受けた。

長崎原子爆弾に被爆して、佐賀総合病院に長崎市内から護送された男性の被爆者が、日本人病院長の診察と進駐軍兵士の視察を受けた。長崎原子爆弾が炸裂して、ちょうど1ケ月経過した1945年9月9日に、日本に駐留したアメリカ軍兵士が、佐賀総合病院に被爆者の実態を視察して情報収集した。ルイジアナ州ミタリアの米海軍中尉のトーマスMブラウンと佐賀総合病院の川田茂博士が、アメリカ軍が投下して炸裂した長崎原爆による閃光から熱傷を伴って衰弱した日本人被爆者の病状を診察と視察をした。その側で着物を着た看護師が診療の補助をした。原爆被爆者の凄まじい火傷によるケロイドや原爆症から、アメリカ軍側も原子爆弾による放射能による人体に及ぼす影響について痛感した。
 佐賀総合病院は、旧佐賀県立病院1910年10月に佐賀陸軍衛戌病院として開設された。1945年12月に厚生省移管国立佐賀病院として発足した。2015年4月に独立行政法人国立病院機構の佐賀病院に変革した。佐賀県立陸軍病院は長崎原爆の8月9日に長崎市内に救護隊第713号の派遣を命じた。数人の軍医からなるグループを編成して、内田部長を中心とする事務補佐員と16人の看護師が出張した。8月10日の午前4時頃に、グループは佐賀駅を出発し、午後に長陽に到着し、3つのチームに分かれて、長与駅、長与小学校、道の尾駅で医療救護を活動した。長崎市内の道の駅で約6日間の救援活動を行い、8月15日夜にから佐賀に戻り、日本が降伏した終戦日に佐賀陸軍病院に帰還した。終戦後も、救援チームは佐賀陸軍病院に多数護送された原爆被爆者の医療救護に従事し続けた。
 長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎市内の膨大な市民らが被曝した。爆心地に近い長崎医科大学など、緊急的な救護所も直ちに稼働が困難となった。そのために圏域を越えて、長崎本線で被爆者が護送された。
 長崎と広島の被爆者計75人分のカルテを旧佐賀県立病院(現県医療センター好生館)で2011年に偶然に発見された。病状から被爆した克明な状況や死後に病理解剖した臓器の状態も記録された。原爆に関する資料は、第二次世界大戦後には連合軍進駐軍が多く原爆資料を没収された。詳細な記録と放射能による人体への影響に関する貴重な資料であ。75人は1945年8月14日から1946年1月まで、当時の県立病院内科を受診した16から59歳の男女である。妊婦もいた。カルテには脱毛や皮下出血などがドイツ語と日本語で記録された。放射能被害の特徴的な白血球の減少が認められた。カルテはB5サイズで「昭和二十年度内科、原子爆弾ニ依ル書類」と書かれた表紙のボール紙に229枚がとじられ、厚さは約6センチの診療記録である。色あせ、かすれて判読が難しい文字を佐賀医学史研究会が解読した。病院によると、カルテは原則、専用の倉庫でまとめて保管するが、県立病院に進駐軍の医師が複数回訪問した記録がある。2011年に看護師が内科の古いロッカーを整理中に偶然発見した。当時の医師が進駐軍に没収されないように別途に秘密裏に保管した可能性もある。