ドイツ軍に封鎖されたレニングラード市民の疲れきった母親と娘が、そりにシュラウドに縫い込まれた肉親の死体を連れて運搬した。凍った地帯には市民らの死体を埋められなかった。路上で発見された死者は、その他の死体の上に積み上げられた。死体は市内の通り、公園、その他の空き地に蓄積された。最初の封鎖冬の間に、レニングラードのレーピンス通りはかなり悲惨な死体の集積場となった。その地域は戸外の死体安置所に変わった。
ソビエト軍が、1944年1月27日にレニングラードからドイツ軍を駆逐して、レニングラード地域のほぼ全体を解放した。ドイツ軍によりレニングラードが約872日もの長い期間にわたり封鎖された。ナチス・ドイツ軍による封鎖中に、在住していた大部分の市民が親戚または友人を失った。ナチス・ドイツ軍が占領した地域では、ドイツ軍に囲まれた街で約60万人以上が恐ろしい飢餓で死亡した。
レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の包囲はほぼ2年半続き、推定で約1,000,000人の都市住民の命を奪った。1941年9月8日にドイツ軍が都市の包囲を完了してから始まった。電撃攻撃がモスクワに向かって進撃中に、レニングラードを迂回して、都市を直接に攻撃するのではなく、レニングラードを封鎖して絞殺する戦略を行った。
空腹と寒さは都市民の最大の敵となった。9月末までに、都市の石油と石炭の供給は枯渇した。残酷なロシアの厳寒の冬期が近づくと、水道管が凍って破損して、住民は水を飲むのが困難となった。食料供給が削減され、11月までに個々の配給量は成人が必要とする1日の量の約1/3までに低下した。都市内の犬、猫、馬、ネズミ、カラスなどは多くの食卓のメインコースとなり姿を消した。人間同士の人食いの報告も出始めた。数千人が死亡して、11月には約11,000人、12月には約53,000人にも急増した。レニングラードの悲惨をさらに悪化させるために、ドイツ軍は絶え間なく都市を空爆と大砲攻撃で砲撃した。
逆に、ロシアの冬がラドガ湖を都市の東側を凍らせて、トラックのキャラバンがわずかな量の食料と物資を運ぶライフラインを創造した。都市の弱者や高齢者の何千人にも避難経路を提供した。死者と難民による人口の減少は、残りの住民への負担を減らした。その後に食料配給が増加し、都市の状況は安定した。1944年1月27日までには、赤軍はドイツ軍をレニングラードを越えて排斥して、都市が包囲網が終焉した。