カンボジアに侵攻した北ベトナム軍に対抗して、ロン・ノル軍事政権のカンボジア軍によりカンボジアに在留していた膨大なベトナム系住民が殺害された。4月15日には約800人のベトナム系住民が殺害された死体がメコン川を下った。殺害されたベトナム系住民の死体は、1970年4月16日にはカンボジア内のネアクッルン近郊の巨大で長流のメコン川を放流していた。死体からの出血でメコン川は血染めに染まり、死体は腐敗してから水面を浮きながら流れ付いた。カンボジア系住民が、ベトナム系住民の死体を棒切で処理していた。1967年3月11日からカンボジア内戦が勃発して、1975年4月17日にポル・ポトのクメール・ルージュが民主カンプチアの独立宣言をして、カンボジアの大虐殺を執行した。
1970年3月18日、カンボジア議会でシハヌーク国宝を退けることがロン・ノル軍事政権が満場一致で可決させた。10月にクメール共和国の樹立を宣言した。ロン・ノル軍事政権に対して、アメリカ軍はシハヌークを批判するビラを撒き、ロン・ノル軍事政権を支援した。アメリカを後ろ盾に諸外国から認知された。クーデターの数日後に、シハヌークは北京でカンプチア王国民族連合政府を立ち上げた。カンボジア民衆のデモと暴動が至る所で生じた。3月29日には約40,000人の農民がシハヌークの復権を要求するデモ行進を行って、軍隊と衝突して多くの死傷者が出て武力鎮圧された。カンボジア農民が共産主義の影響を受けた。1970年3月29日に、共産主義の北ベトナム軍はカンボジアに対する侵攻を開始した。ソ連ならびにクメール・ルージュ共産主義からの明確な要求によって、北ベトナムはカンボジアに侵攻した。
1970年3月29日から、北ベトナム軍はカンボジアに侵攻した。4月29日から、アメリカ軍と南ベトナム軍はカンボジアに侵攻した。北ベトナム軍のカンボジア侵攻に対抗して、ロン・ノル軍事政権は激しい反北ベトナムに虐待と虐殺を行った。南ベトナム解放民族戦線への支援が疑われたカンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺した。強制収容所などでもベトナム系住民が集団虐殺された。カンボジアにおける約450,000人のベトナム系住民のうち、約100,000人がカンボジアを避難して、さらに約200,000人が南ベトナムに強制送還され、クーデターからわずか約5か月間にベトナム系住民の推定人口は約140,000人まで激減した。