2025年10月31日金曜日

太平洋戦争のタラワ環礁の戦いで、1943年11月に、ベティオ島に日本軍兵士の死体を埋葬をするために砂浜の集団墓地に集められた。

太平洋戦争のタラワ環礁の戦いで、1943年11月に、ベティオ島に日本軍兵士の死体を埋葬をするため砂浜の集団墓地に集められた。11月20日に、アメリカ軍は太平洋のタラワ環礁の占領を開始した。日本軍が防衛体制を整備したのはベティオ島のみであった。アメリカ軍は35,000人、ベティオ島にはわずか2619人の日本軍兵士と、約2200人の建設作業員しかいなかった。ベティオ島は完全に平坦で、全体が珊瑚砂で構成された。

 11月21日、アメリカ軍の艦砲は、日本軍が支配したベティオ島の残りの部分の砲撃を再開し、橋頭堡には戦車と追加の海兵大隊が到着した。アメリカ軍はさらに200m前進し対岸に到達し、飛行場を占領して日本軍の防衛部隊を二分した。11月22日に、アメリカ軍は攻撃を続け、生き残った掩蔽壕を艦砲で砲撃し、火炎放射器で機関銃座を焼き払った。日本軍兵士は死を覚悟で戦い、捕虜になることを拒み、最後の弾丸を自らに撃ち込んだ。その午後、移動可能な約170人の日本軍兵士が反撃に出た。砲撃と機関銃の集中砲火によって撃退された。11月23日の朝までに、ベティオ島には3つの孤立した抵抗拠点が残って、数十人の日本軍兵士がライフルと機関銃で防衛を続けた。アメリカ軍の戦車、航空機、艦砲が再び攻撃を加え、日本軍の防衛隊を殲滅した。13時30分に、ベティオ島の日本軍の抵抗を完全に鎮圧したと電報で報告した。ベティオ島に潜伏する日本軍兵士の掃討は、数日間続いた。

 ベティオ島の占領には、アメリカ軍は海兵隊員1009人の死者と2110人の負傷者を出した。アメリカ海軍は687人の死者と溺死者を出した。その大半は11月23日に日本軍の潜水艦によって撃沈された空母「リスコム・ベイ」の乗組員であった。ベティオ島の日本軍守備隊はほぼ全滅し、生き残った捕虜は、わずか17人の日本軍兵士と129人の朝鮮人建設労働者だけだった。