ベトナム戦争において、サイゴンのアメリカ軍の統合参謀本部前でデモをしたベトナム人が虐殺された。多数のデモ隊の市民らがベトナム人死体を取り巻いて、死体の首からロザリオを捧げた。仲間の若者と子供らが集合して、死体を見守りながら悲しみと怒りに包まれた。ロザリオとは、カトリック教会で祈りを数えるのに使用されている結び目やビーズの紐である。ベトナム人のカトリック教は、フランス統治時代に広まって人口の約1割を占めている。
1975年4月下旬に、サイゴン郊外に北ベトナム軍(NVA)が接近した。4月29日から、アメリカ軍はサイゴンには在留できず、残存したアメリカ人はヘリコプターまたは固定翼の航空機によって避難した。4月30日に、北ベトナム軍はほとんど無抵抗にサイゴンを占領した。直後に故人の革命指導者の名誉に対してサイゴン市はホーチミン市と改称された。サイゴン政府はすべて完全に解散したことを宣言した。アメリカ軍の若い兵士達は、1968年のNVAとベトコンによるテト攻勢から、特にベトナム戦争のジャングル生活は恐ろしい心的外傷後ストレス障害(PTSD)となり、違法薬物は多くの軍人に常習化して、士気を急激に落した。アメリカ本土に帰還した元兵士らが抵抗し始めて、戦争に反対するデモが定期的に勃発した。多くのベトナムの退役軍人も戦争を止める運動に参加した。アメリカ政府は、ベトナム戦争に負けずに撤退するために甚大な犠牲を払って、1973年1月27日にパリで北ベトナムとの和平協定が成立させた。アメリカ軍兵士たちはベトナムを永久に去り始めた。ベトナム戦争は人類に黒い汚点を残した。ベトナム戦争に参戦した約300万人以上のアメリカ人のうち、約58,000人以上が戦死して、約1,000人が行方不明となり、約150,000人のアメリカ軍兵士が重傷を負った。パリ協定では、北ベトナムの敵対行為の中止への取り組みは不明であった。アメリカ軍が急遽にベトナム地域を去っても、NVAはベトナム南部を侵略を執行していた。
1975年4月25日までに、NVAがフックロン市、クアントライ、フエ、ダナン、フエを占領した後に、南ベトナム軍は部隊の3分の1以上、武器のほぼ半分を消失した。NVAはサイゴンを間近まで侵略したため、アメリカ政府はアメリカの民間人と南ベトナムの難民の即時の避難を命じた。残りのサイゴン市民、難民、および当局は待機していた。アメリカ人と難民は、指定された着陸ゾーンに避難した。サイゴン沖合の空母から飛んでいるアメリカ海軍とアメリカ空軍のヘリコプターが大規模な空輸を行った。約18時間の間に、約1,000人以上のアメリカ人民間人と約7,000人近くの南ベトナム難民がサイゴンから空輸された。南ベトナム軍のパイロットも避難に参加することが許可されて、アメリカ軍の空母に着陸できた。アメリカ軍から供給されたヘリコプターのうち約100機以上は、より多くの避難者を積載するスペースを空けるために空母甲板から海面に投下した。1975年4月30日午前4時3分に、サイゴンのタンソンヌット空港でロケット攻撃で2人のアメリカ軍の海兵隊員が殺害された。彼らはベトナム戦争で死んだ最後のアメリカ人となった。夜明けに、アメリカ大使館を護衛していた部隊の残りの海兵隊が離陸して避難した。数時間後に、南ベトナム人の略奪者が大使館を略奪し、北ベトナム人が操作するソビエト供給の戦車が国道1号を南部に転進して、サイゴンは陥落した。