広島原子爆弾が炸裂した爆心地より約1,500mの広島市西白島町で被曝した。広島電鉄の職員であった吉川清は、夜勤明けで自宅の玄関に到着した瞬間に、広島原子爆弾による爆風と熱線を後頭部から背中に受けて自宅の玄関で昏睡した。重傷となり背中と両腕の皮膚が焼けただれて垂れ下がった。広島市北部の可部町で約70日間にわたり療養した。その期間には、生死を漂うも微かに生命を保持できた。
1946年春季頃から原爆症が専門である広島赤十字病院に入院した。約5年間にわたり、頸部、両手首、両肘などのケロイド拘縮に対して約16回もの手術を受けた。アメリカから広島原子爆弾の視察に来日したアメリカ有名雑誌のライフとタイムズの2人の記者が、1946年に広島日赤病因に視察に来て、原爆症の取材と撮影をした。「このような身体で生きているのは奇跡に近い。原爆生存者の中でナンバー・ワンである。"No.1 Miracle Atomic Bomb Victim"」と記者から雑誌社を通じて世界中に発進された。世界中に、ケロイドなどの原爆症の写真が世界中に公表された。その被爆者を原爆No.1第一号と呼称された。原爆症による限りない苦難が過去の長い病床生活にて切実に伝わった。
広島と長崎の原子爆弾が炸裂した直後の被爆の実態が、世界で初めて総司令部(GHQ)に検閲を受けずに、ライフ英語雑誌により1952年7月29日号に公表された。世界初の英語版のライフ(Life)にpage19-25に原爆による被災写真の14枚が掲載された。原爆を投下したアメリカ軍に対して、広島と長崎原爆の悲劇を脅威と捉える被爆者の本当の実態写真が掲示された。
「原爆一号」と「平和屋」と蔑視された活動から1951年8月に原爆傷害者更生会を結成し、1952年8月に原爆被害者の会を結成した。やがて他の被爆者組織の発足を促し、1956年5月に各組織が1本化した広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)と1956年8月に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協・同年8月)の結成に繋がった。