広島赤十字病院で1945年10月初旬に、病院職員により若い男性と女性が原子爆弾により火傷した傷口の治療を受けた。広島市内は医療資源の多くが破壊されて、治療には限界があった。救護所が、広島赤十字病院にも設置された。医療関係者がヨウ素軟膏、メルクロクローム、酸化亜鉛などの軟膏を火傷に塗り、包帯を巻いた。すぐに医療品は枯渇して、公式の被害報告によれば、食用油と包帯程度の治療を受けた。広島赤十字病院で1945年10月に22歳の被爆者の陸田豊子(右端: くがた とよこ)が治療を受けた。陸田豊子は爆心地南約1.7kmで被爆して、住まい隣の農家から借りた大八車の荷車に乗って広島赤十字病院に通って治療を受けていた。
医薬品がなくなり、救護所を離れた被爆者や身寄りのない被爆者は、食用油、じゃがいものスライス、きゅうりのすりおろし、トマトの絞り汁などを熱傷に塗った。暑い夏には、傷口にハエが卵を産み付けるので、箸でウジ虫を取り除いて治療することも多かった。全身の30%以上に火傷を負った者は、その傷が原因で死亡した。原子爆弾の放射線を浴びると、傷の治りが著しく遅くなり、中には何年もかけて治すものもある。ほとんどの場合、治療後にかさぶたができて剥がれ落ち、ケロイドと呼ばれる赤いゴムのような皮膚の塊が残ることが多い。顔に火傷を負った被爆者は、結婚相手を見つけるのが困難となった。火傷の被爆者は、周囲からの偏見に耐えていた。火傷が臭いと言ったり、ケロイドが伝染する、赤鬼と呼ばれ、焼けた肌を見て気分が悪くなったと偏見を持ち続けた人も少なくなかった。火傷を負った被爆者の中には、日本の暑夏でも長袖のシャツやハイネックを着て、火傷を隠そうとした。精神的な傷を負わずに済んだ者はほとんどいない。爆心地に接近した不運な被爆者たちは、もちろん黒焦げの死体となった。