ソビエト政権が1917年10月に誕生して、対抗する白軍と連合軍が1918年初頭から占領した地域では、ソビエト権力が転覆し、残酷な恐怖政治が敷かれた。あらゆる革新的勢力が最も残忍な手段で弾圧された。何万人もの共産主義者、労働者、農民が虐殺された。刑務所の地下室で、革命勢力の人々が射殺されて、死体が散乱した。連合軍は恥ずかしげもなくロシア市民の財産を略奪して、国土を荒廃させた。ソビエトの反革命権力は、食料、原材料、燃料の主要な供給源から切り離して、ロシア市民は飢えた。
連合軍は、内部の反革命の助けを借りて、反乱を組織して、陽動作戦を実行した。外国の外交官たちは、ソ連政府幹部の逮捕とレーニンの暗殺により、ソ連の政権に対する陰謀を企てた。社会革命的なテロ集団が、党や国家の要人に対して、いくつかの攻撃を行った。1918月1月30日に、社会革命家たちがレーニンの暗殺を試みたが未遂に終結した。
レーニン暗殺未遂のニュースは、ソ連の国中に憤りを与えた。労働者たちは総力を挙げて反革命勢力を殲滅することを誓った。労働者や農民は、党にさらに結集し、赤軍への援助を増やしていった。1918年9月2日に、ソビエト共和国はトロツキーを長とする革命軍事評議会を設立した。ペトログラードの共産主義者が前線に送られ、赤軍は大きな成功を収めた。反革命である連合軍を粉砕した。赤軍は9月にはカザンとシンビルスクを、10月初めにはサマラを解放した。
ロシア中央部でソビエト権力が確立されると、反革命の拠点となったのは旧ロシア帝国周辺の諸民族地域が反革命の拠点となった。1918年1月以来に、ドン、クバン、ウクライナなどでソビエト軍と反革命軍との戦闘が勃発した。1918年5月にウラル、シベリアで起こったチェコ軍団の反乱が、全面的内戦の起点となった。第一次世界大戦中にチェコ軍団は、革命後にはヨーロッパ戦線へ移動するためにロシア国内で編成された。チェコ軍団の反乱はシベリア鉄道沿線に展開して、ソビエト政権に深刻な脅威を与えた。シベリア各地には、反ソビエト政権が生まれた。連合軍はこれを契機に全面的な干渉戦争を開始して、1918年8月にはチェコ軍の救援を根拠に、日本軍、アメリカ軍を主体とする大軍部隊がシベリアに侵攻した。