太平洋戦争の終戦後に、1945年10月16日に中国大陸から九州方面への引揚者は列車で門司駅に運送された。殺到した引揚者は一時的に門司引揚寮に停泊した。少女は母親の遺骨と遺影を抱いて、悲しみ泣きながら花びらの枝葉を付けて引揚した。手にした持ち物のみが全ての所有物であった。そこから父母の故郷の元へ、遺骨を抱えて不安と悲しみに包まれて引揚した。引揚は、生還者だけでなく、途上で死亡者も多発したて、その遺骨の一部も帰還した。終戦後の復員や引揚の人達が、門司に上陸して安堵の思いで、門司駅の水飲み場で喉を潤して「帰り水」と呼称された。門司港では最後の集団引揚は、1961年6月27日に、北ベトナムからの集団引き揚げ船「上海丸」が、福岡県の門司港へ入港して、最後の集団引き揚げが終了した。
1945年12月8日に太平洋戦争が終結し、日本はポツダム宣言を8月14日に受諾した。1945年8月15日正午からラジオで放送された玉音放送により、8月14日に決まったポツダム宣言受諾と日本の降伏が、日本国民を公表した。終戦の日とて、日本は武装放棄と投稿を命令して、連合軍は戦闘を停止した。ポツダム宣言に、軍人は「九 日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし。」と規定された。連合軍は、日本陸海軍の移動に第一優先を、民間人の移動に第二優先を附与すべしと指示して、軍人軍属の帰還の復員を優先して開始された。民間市民は、「八 カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。」との条項をもとに、終戦時に海外に在留した軍人、民間人あわせて約660万人は、日本本土への復員と引揚が始まった。
軍人は約3,107,411人と民間人約3,189,835人と同数が、アジア全域から日本本土に復員あるいは引揚した(図表)。引揚者は、厚生省が開設した18地区の引揚港から上陸した。軍人が軍務を解かれて日本本土に帰還する復員をした。海外の民間市民が帰還する引揚した。復員と引揚は、1947年12月31日までに、約624万人が復員と引き揚げした。それから一時空白期間から、1959年頃まで引き揚げは継続した。公式記録では個別引揚は1976年まで続き、最初の引き揚げから約30年も継続した。特にフィリピン・東南アジア・ベトナムからの引揚は1960年頃まで少数ながら継続した。軍人の本土復帰である復員は、優先されて帰還できた。しかし、支援組織のない民間市民の引揚は、長期にわたる悲惨と苦難の引揚となった。ほとんどの民間市民は、着の身着のままで哀れな姿で日本本土に帰還した。民間市民の終戦後の引揚は、戦争による悲惨な犠牲者となった。