満州事変が1931年9月19日に勃発して、日本帝国側は、満州鉄道の利害に影響する洮昂鉄道を占領するために、関東軍は四平から大興の南約220kmの洮南に向けて侵攻した。関東軍と中国軍が洮南の付近の大戸屯の戦いにより、殺害された中国軍兵士の死体が荒野に放置され散乱した。洮昂鉄道は、中国の奉天軍閥が1924年9月に満州鉄道と請負契約を締結して、1925年から満州鉄道が敷設して、1933年に満州国が占領した。
関東軍により中国側鉄道の軍事的奪取をした。満州事変後在満の中国系諸鉄道は満州国の国有鉄道(満州国線と略す)とされ、その経営は満鉄に委託された。しかし、その実態は関東軍が戦時下で獲得した鉄道に対する支配権を、事変終了後にも継続するために、関東軍の軍事的観点からの要求であった。実際様々な措置を通じて満州国線に関しては関東軍が指揮監督権を持つことが認められたのである。満鉄が満州国法人となった場合、日本政府の影響力は低下して、満州国が満鉄に対して発言権を拡大し、その結果軍の管理権に影響が出た。独立国家として満州国が満鉄への発言権を拡大した。
満州国籍への変更が日本の諸監督機関の影響を低下させて、関東軍が在満の鉄道の指揮監督を独占した。1932年4月19日に関東軍と満鉄の協定により、満州国線等の管理権が関東軍にもたらされた。関東軍は満州国の交通等につき管理権を持ち、さらに関東軍は、満州国の国家の行政権限まで含めた。関東軍は、満州国を明確に植民地と見なした。関東軍は軍事力によって支配を拡大し、自らに都合の良い主観的な主張に基づいた。関東軍が必要だと判断すれば、必要な措置を講じれた。
1919年4月に日本が日露戦争の勝利後に、清国からロシア帝国が租借した遼東半島の関東州を、日本は割譲された。関東州と南満州鉄道の守備隊がのちに関東軍となった。1931年9月18日に柳条湖事件が勃発して、満州事変が勃発して、1932年2月には関東軍は満州全土を占領した。その直後に、関東軍は1932年3月1日に満州国を設立した。