2021年8月18日水曜日

日本関東軍は、山西省大行山脈の潞安城の南門を襲撃して、八路軍と民兵組織から地域住民など人馬を含めて掃討して大虐殺した。

満州事変直後から満州から中国の北東部に向けて侵攻した。日本関東軍は1938年2月22日に、山西省大行山脈の潞安城の南門を襲撃した。潞安(現、長治)地域の中国共産党の八路軍と民兵組織ならびに地域住民から人馬を含めて掃討して大虐殺した。その周辺には死体からの悪臭と死臭が充満しているので、一部の日本軍兵士は手ぬぐいで鼻を塞いだ。日本軍兵士が、それらの死体を潞安城の南門の近隣の塹壕の土穴に集積して埋め込んだ。一部の日本軍兵士は、中国軍兵士の首から断頭して、竹槍をに突き刺してその周辺にさらした。山西省の中国人兵士と民間人は、日中戦争に対して多大な犠牲を払い、大地に悲劇の血をまき散らした。 

 1937年7月7日に、北京市南西部の盧溝橋の発砲事件から日中戦争が勃発した。7月11日に大本営は華北に向けて日本軍を増援した。7月28日に関東軍は古都である北京を攻略して陥落した。次いで7月30日には天津が陥落した。それ以後に、日本軍は華北において占領範囲を拡大した。国民党軍は中国各地域で長期持久戦するために11月20日に首都を重慶に移転した。12月7日には南京が陥落した。関東軍は、9月から11月まで山西省太原に侵攻して、中国軍約13万人と日本軍約3万人が死傷した。

 1937年9月に張家口、10月に大同、12月に平北、1938年1月16日に日本政府は国民党を正統政権と認めず、1938年3月に上海、中国各地に傀儡政権である臨時政府を次々に樹立させた。日本軍の華北部隊と南京戦後の華中部隊を、中国東部の徐州に集結して、4月7日から徐州を包囲して攻略した。国民党軍は、徐州を放棄して撤退して5月17日に徐州、6月4日に開封、10月24日に武漢三鎮が陥落した。日本軍の戦死傷者は約20万人と中国軍の死傷者は約40万人と甚大な犠牲を伴った。その一方で、1937年11月に中国共産党は孤立していた山西省太原市を根拠地として、江蘇省や安徽省の日本軍非占地域に八路軍などを派遣して勢力を拡大して、各地で国民党軍と共産党軍が武力衝突を繰り返した。