2021年8月13日金曜日

太平洋戦争にて、フィリピンのレイテ島のカナンガ北方ロノイにコンクリートの要塞の中で、アメリカ軍兵士が自殺した約7人の日本軍兵士の死体を引き出して検死した。

太平洋戦争にて、フィリピンのレイテ島のカナンガ(kananga)北方約2kmのロノイ(Lonoy)付近のコンクリートの要塞の中で、アメリカ軍兵士が1944年12月22日に自殺した約7人の日本軍兵士の死体を引き出して検死した。日本軍兵士の遺品から、日本軍の情報と遺書を見出した。日本軍の士気と体調は非常に低くなり、崩壊し始めて、脱走も多くなり、医療も受けれない負傷者は部隊に合流できなかった。上官が説得力のある言葉で、戦線の重傷の日本軍兵士に自決を求めることが多くなり、大半は喜んで自殺した。部隊からはぐれた日本軍兵士は、重傷を理由に部隊への合流を拒まれ、軽傷者を戦線に送り返した。

 11月1日にレイテ島に到着した日本軍部隊は、約1ヶ月分の食料と弾薬だけで、12月1日には供給が尽きて飢餓状態に陥っていた。ココナッツ、雑草、竹の子、ココナッツの幹の繊維、採集した自生の果物や野菜を食べた。弱った胃腸のために食物の一部を消化できず、1日に数回も嘔吐した。退却中には、多くの装備、弾薬、配給を放棄した。鬱蒼としたジャングルの中を撤退して、12月25日にはアメリカ軍の攻撃を受け、さらに壊滅状態となった。日本軍が、意気消沈してレイテ島西部の山に向かって退却していく中、大本営は日本国民に、「我が軍はブラエン飛行場、サンパブロ飛行場を保持し、敵陣への攻撃を続けている。我が軍はオルモック、アルブエラ付近の東側山腹で猛烈な戦闘を展開している」と通達した。

 1944年12月18日に、アメリカ軍は、レイテ島のロノイ、カナンガ、および北西部に偵察隊を派遣した。12月19日に、アメリカ軍は、多くの日本軍の装備を略奪して、多くの物資の置場を破壊してロノイを占領し、カナンガに侵攻した。カナンガ地域に砲撃を加え、多くの日本軍兵士を殺害して、残りの日本軍は南に逃げた。日本軍に集中砲火と機関銃を浴びせ始めた。対戦車小隊は砲とその乗員を破壊するために出動した。12月20日には、アメリカ軍は、すぐに民家の下や道路沿いの小さな物陰に潜んでいた日本軍から激しい銃撃を受けた。カナンガ方面に向けて南方に移動した。

 カナンガを占領するために、12月21日に侵攻して攻撃した。道路を見下ろす尾根から日本軍の激しい銃撃を受けて、包囲した。日本軍は明らかに略奪を行って、荷物の中には、リネン、銀製品、女性用の衣類が入っていた。12月22日に、アメリカ軍は、カナンガの南にある橋で部隊が合流した。ついにオルモック渓谷からピナモポアンまでの全距離が解放あされた。日本軍がアメリカ軍の進撃に粘り強く抵抗したオルモック渓谷が、アメリカ軍に占領されたいた。レイテ島に残存している日本軍部隊は、オルモック渓谷の裏山への退却を命じられた。オルモック湾西のレイテ島北西部の山地は、北西部海岸に向かう難所であった。地形は荒れて、北側の砕けた土地や低い丘から、南側の急な岩の尾根や高い丘へと高度が上がっていた。カナンガの南部では耕作地や草原が密林に変わり、植物が生い茂り、鋭く切り立った尾根の通過には時間がかかり、困難を極めた。南下する際に迂回してきた日本軍の抵抗勢力を一掃した。

 12月28日に、装備の乏しい日本軍の小部隊は壊滅した。竹竿に取り付けた銃剣だけを武器とする日本軍の一団は、絶望的に戦線を突撃して殲滅された。12月31日に、日本軍は数回の夜襲をした。いずれもラッパの音で始まり、午前2時30分頃から明け方まで、迫撃砲、機関銃、小銃などで、武装した日本軍兵士約500人は壊滅した。