戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2018年8月31日金曜日
2018年8月30日木曜日
アルジェリア戦争でブージー湾付近で約20人のアラブ人がフランス軍により惨殺された。
アルジェリア戦争でブージー湾近くの村であるスーク・エル・ドニヌのはずれで、1959年8月16日にアルジェリアの反乱勢力はフランス側に協力した現地の20人のイスラム系住民を殺害して惨殺された死体が放置された。
アルジェリア戦争は、1954年から1962年にフランスの支配に抵抗するアルジェリアの独立戦争であった。1830年以降からフランスはアルジェリアを植民地下して、1848年に本国の一部とした。1881年に東隣のチュニジアをオスマン帝国から割譲され、1912年には西隣のモロッコも保護領で支配した。特にアルジェリアは北アフリカの支配の重要な拠点となった。第2次大戦の終結後にアジア民族自決と国家独立の影響を受けて、北アフリカでも独立と抵抗運動が高まった。フランスは1952年1月にチュニジアの民族運動を抑圧した。1954年にジュネーヴ協定によりインドシナ4カ国がフランスから正式に独立した。それに応じてアルジェリア解放戦線と国民解放軍団が発足しました。1956年には両隣のチュニジアとモロッコが独立した。フランス政府のアルジェリア独立運動への弾圧はさらに厳しくなった。1956年からフランス国防省による軍事平定作戦は、1960年代半ばまで最も激しく、アルジェリア民族解放戦線は壊滅状態に追い込まれた。フランス国内の政治情勢も深刻となり、1958年5月13日に第4共和制政権は分裂して崩壊して、9月にシャルル・ド・ゴールが首相に再就任し、新憲法を承認させて、10月から第5共和制政権が発足して、1959年に大統領に就任した。首相よりアルジェリアの民族自決の支持をしたド・ゴールはアルジェリア統治からフランス軍事政権を排除した。フランスは1960年にアフリカの植民地の独立を次々と承認して「アフリカの年」と呼ばれた。サハラ砂漠で核爆発実験の成功させてから、1962年3月18日にアルジェリア独立のエビアン協定を締結して、アルジェリア戦争は終結した。
2018年8月29日水曜日
妻はイラク戦争で戦死した夫の遺体と共に一夜を過ごし、イラク戦争を恨み泣きながらベッドに倒れ込んだ。
イラク戦争によって、少尉であった夫が2004年に戦死した。夫の遺体を入れた長方形の棺が、民間飛行機によってリノ・タホ国際空港に届けられた。乗客は乗ったまま、夫の棺のみが飛行場に降ろされた。アメリカ軍の少佐が、コロラド州に妻の自宅に伺って、妻に夫の戦死を告げた。妻は嘆き叫び泣き崩れた。妻は、少佐が夫が名誉の戦死である事を語ることを拒否した。夫の遺体が入った棺がアメリカ軍の遺体安置所に運び込まれた。最後の見納めのために、家族らの目の前で国旗を棺に覆った。妊婦であった妻は、国旗の上からお腹を触れさせて、夫の遺体の入った棺に泣きながらうつ伏せた。夫の棺が埋葬される前夜には、妻は夫の遺体安置所から離れることを拒否した。妻は最後の一夜を夫の遺体と共に安置所で過ごすことを求めた。妻は簡易ベットに倒れるように寝転んだ。妻は正式には挙げれなかった結婚式の時に、使用した曲を夫の棺がある遺体安置所に流した。妻は戦死した夫の遺体と共に一夜を過ごしながら、イラク戦争を恨み泣きながら、妻は気力も涙も失せてベッドに倒れ込んだ。
2018年8月28日火曜日
ベルギーのマルメディで、ナチス・ドイツ軍親衛隊が捕虜であった72人のアメリカ軍兵士を虐殺した。
マルメディ虐殺は、第二次世界大戦中、ベルギーのマルメディ近郊のバウゲネッツ交差点で、ドイツ軍親衛隊が1944年12月17日に、捕虜であった72人のアメリカ軍兵士を虐殺した。連合軍の反撃により、1945年1月14日にアメリカ軍はバウゲネッツ交差点の虐殺の現場に到達した。1945年1月14日から15日に積雪の牧草地で72人のアメリカ軍兵士の死体が発見された。アメリカ軍兵士は凍った雪で覆われた死体を撮影して、身分証明書や詳細な死体検査のために現場から搬送した。明らかな戦争犯罪の責任者を起訴するために使用できる証拠を文書化した。1945年2月7日と4月15日の間に、牧草地から遠方にさらに12人が発見され、総計で84人にも達した。正午から午後1時の間に、ドイツ軍はマルメディyの南東2マイルにあるバウゲネッツ交差点に近づいた。アメリカ軍の約30台の車両の最初と最後の車両を戦車で停止させた。 武装したアメリカ人はドイツ戦車に降伏した。 突然にドイツ軍親衛隊兵士が約120人のアメリカ軍兵士に対して銃を発射した。捕虜となったアメリカ軍兵士はパニックに陥って、逃げようとしたが、ほとんどの人は立ち上がったところで射殺された。地面に落ちて死んだふりをした兵士も、ドイツ軍親衛隊は死体の上を歩きながら、生きている者も射殺した。終戦後のベルギー軍事裁判で、マルメディ虐殺の容疑者であるドイツ軍親衛隊のヨアヒム・パイパー大佐と10人の隊員は、10年以上の懲役刑の判決され、1950代には釈放された。ヨアヒム・パイパー元大佐は、1976年7月13日にフランス東部のトラベス村で暗殺されていた。
2018年8月27日月曜日
北朝鮮特殊部隊の1人の捕虜が、射殺された28人と巻き添え市民68人の死体を検証した。
北朝鮮の特殊部隊である31人が、韓国に侵入して1968年1月21日の1.21事態が勃発した。青瓦台襲撃と政府要人の暗殺指令を受けて、韓国軍の服装や手榴弾とサブマシンガンで武装して休戦ラインを越えた。夜間を利用して首都圏まで侵入したテロリズム事件となった。韓国軍は非常警戒態勢を確立して、28人を射殺して1人を捕らえた。1人の捕虜である金新朝が、一緒に侵入して射殺された仲間や民間の市民の遺体を確認した。
青瓦台襲撃未遂事件(1.21 事態)は、1968年1月21に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の特殊部隊により大韓民国大統領府「青瓦台」への襲撃未遂事件が勃発した。青瓦台を襲撃して朴正煕大統領と閣僚の暗殺を狙って、北朝鮮特殊部隊の約31人は、韓国軍制服に変装して休戦ラインを突破して韓国領に侵入した。1月21日にソウル市内に入ると、日本製背広に着替え、青瓦台の約800m手前の北漢山まで侵入した。韓国人市民の通報によるゲリラ情報等により韓国当局に検問を受けて、自動小銃を乱射しながら逃亡して突入は阻止された。韓国軍と警察と2週間に及ぶ掃討作戦で、1人の金新朝は逮捕されて28人を射殺した。銃撃戦で韓国側は軍人・警察官と巻き添えの民間人の合計68人が死亡した。捕虜となった金新朝は、北朝鮮の特殊部隊であって、朴正煕の首を取りにやってきたと供述して、その後にはソウル市内の教会で牧師をしている。
2018年8月26日日曜日
台湾の国民党軍とビルマに介入していた3人のアメリカ人がビルマ内戦に巻き込まれて1953年に虐殺された。
台湾の国民党軍とビルマに介入していた3人のアメリカ人が1953年にビルマ内戦に巻き込まれて虐殺された。
アウン・サンが1942年にビルマ独立義勇軍を率いてイギリス軍を駆逐して、1943年にビルマ国を建国した。1945年3月27日に日本軍に蜂起して独立した。 1947年7月19日にアウンサンが暗殺された後、1948年にイギリス連邦から離脱してビルマ連邦は独立した。独立直後からカレン人の独立闘争など、ビルマ政権は当初から不安定な状態にあった。1949年に国共内戦に敗れた台湾の国民党軍がシャン州に侵入してゲリラ闘争を行った。アメリカの中央情報局(CIA)が国民党軍を援助した。ビルマ政権は国連で中華民国と米国の策略に抗議した。ビルマ政権は中華人民共和国と連携して、シャン州に中国人民軍およびビルマ国軍を展開して、1950年代半ばまでに台湾の国民党軍を一掃した。国民党軍や共産党勢力との武力闘争の過程で、ビルマ国軍が徐々に力を獲得し、1962年に軍事政権が支配した。ベトナム戦争が1955年11月から1975年4月30日まで勃発して、軍事政権は瀬戸際の中立政策を保ち、ビルマ連邦を保持した。ビルマ民族のビルマから軍事政権は1989年6月18日に全民族のミャンマー連邦に国名を改名した。軍事政権が2008年5月に新憲法が制定されてから、民主化が改革を始めた。2015年11月8日の総選挙で、アウン・サン・スーチーが国民民主連盟(NLD)政権を樹立した。
2018年8月25日土曜日
広島原子爆弾の熱線で、女性の右顔面と背中から右上肢に着物の柄が焼き付いた火傷を被爆した。
広島原子爆弾の強烈な熱線で、女性は右顔面と背中から右上肢に着物の柄が焼き付いた火傷を被爆した。二次熱傷となり、熱線により焦げた衣服で、その下の皮膚が色調により異なる熱傷を被爆した。衣服は、色の濃い部分が強く熱線を吸収して焼け焦げた。被爆した当日に第一陸軍病院宇品分院に救護された。
広島市で原子爆弾が炸裂した瞬間に、約1秒後には直径が約280mもの火球が、空中に暴発して、約10秒間にわたり発光した。広島市爆心地から原子爆弾の火球から放出された熱線は、炸裂して約0.01秒から約3.0秒間の熱線により、爆心地周辺の地表は約3,000〜4,000℃にも達して、膨大な火災と黒焦げの被爆死が散乱した。強烈なる熱線によって、火傷や火災で甚大な被爆者が焼死した。火傷は熱線に直面していた身体側を中心に被爆して、体内の組織や臓器までも傷害を受けた被爆者は即死あるいは数日で死亡した。爆心地から約600m以内では屋根瓦が熱線で表面が溶解した。約1.8km〜2.0kmでは、着物や衣服にも発火して重篤な火傷を被爆した。約2.5km以内では、木造の人家に発火して炎上により膨大な被爆者が焼死した。約3.0km以内では、木材から樹木まで発火して火災が発生して、一面が黒焦げになった。約3.5km以内では、衣服や衣類の付けない身体側に重度の火傷を被爆した。
2018年8月24日金曜日
アメリカ艦隊は海兵隊を1867年に広城鎮に上陸させた戦闘で、アメリカ軍兵士は約3人と朝鮮軍兵士は約240人が戦死した。
アメリカのアジア艦隊は、1867年6月11日に陥落した直後の広城鎮には、多数の虐殺された李氏朝鮮の兵士ら死体が散乱した。強固な攘夷鎖国であった李氏朝鮮は、1866年に朝鮮住民を殺害したアメリカ商船シャーマン号を撃沈して乗務員を虐殺した。アメリカは1867年1月に、シャーマン号の乗組員の安否を確認する軍艦ワチュセットを派遣した。さらに1868年4月に辛未洋擾の事件究明のために軍艦シェナンドアを派遣した。1871年清国に駐在していたアメリカ公使は、李氏朝鮮に対してシャーマン号事件への謝罪と通商を求めて、アジア艦隊を李氏朝鮮に派遣を命じた。日本の長崎から5月に5隻からなる艦隊を率いて江華島に向かった。アメリカ軍は6月10日に激しい砲撃戦から、アメリカのアジア艦隊は海兵隊を江華島に上陸させた。まず草芝鎮と徳津鎮を、さらに6月11日には広城鎮を制圧した。この戦闘の犠牲者は、アメリカ軍は約3人に対して、朝鮮軍は約240人も戦死した。朝鮮側の攻撃は、ほとんど米艦隊には損害を与えなかった。アメリカ軍は、李氏朝鮮軍かの多数の武器・軍旗を戦利品にして帰国した。アメリカ海軍の勝利であったが、本来の目的の通商は大院君の強硬な開国拒絶により実現せず、朝鮮国は引き続き鎖国を続けた。日本政府は李氏朝鮮に1868年から開国を求めたが、朝鮮王朝の閔妃の閔氏政権は鎖国政策を守り、拒否していた。日本は1875年に軍艦雲揚号が江華島付近で砲撃されたことを理由にして、永宗島に上陸し砲台を占領して、守備兵を虐殺して武器を略奪した。日本側は朝鮮側からの砲撃の責任を追求して、交渉のための開国を迫り、1876年に日朝修好条規が締結されて、朝鮮は開国した。
2018年8月23日木曜日
母親と生後9日目の赤ん坊は難民としてコミラからバングラディッシュの国境をわたる時に射殺された。
母親は1971年に、難民としてコミラからバングラディッシュ国境をわたる時に射殺された。彼女の生後9日目の赤ん坊も死亡した。赤ん坊の死体は祖父が運んで横たった。コミラはバグラディッシュ東部のチッタゴン州の都市で、ダッカから約80kmに位置した。
英領インドは1947年に独立を達成したが、イスラム教地域はインドを挟んで東西パキスタンに分離独立した。経済や文化の面では違いが大きく、国土はインドにて1000km以上も隔て、様々な摩擦を起こした。政治は西側に偏った政策が実施され、1970年12月の選挙で人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟が勝利すると、西パキスタンは1971年3月に軍事介入を行っった。東パキスタンは独立を求めて内乱になり、バングラデシュ独立戦争で、インドが東側パキスタンの独立を支持した。第三次印パ戦争がインドの勝利で終わって、1971年にバングラデシュが独立した。しかし、インドからの独立以前から、イスラム教を旗印とする東パキスタンとチッタゴン丘陵地帯の先住民族との折り合いは緊張状態が続き、バングラデシュが1971年に独立すると悪化した。先住民族は1972年にチッタゴン丘陵人民連帯連合協会(PCJSS) を作った。1972年からバングラデシュ軍とPCJSSとが戦闘状態に入り、内戦や洪水による経済は疲弊により、1975年にバングラデッシュは軍事クーデターが起きて軍事政権となり、さにら戦闘は20年間も続いた。
2018年8月22日水曜日
朝鮮戦争で中共軍が最も南の方まで侵攻した戦闘にて、中共軍兵士の死体が放置されて散乱した。
朝鮮戦争にて、中国軍と北朝鮮の中共軍は、1950年12月に平壌を奪回して、1951年1月4日にはソウルを再占領して、国連軍は漢江の南に退却した。すごく極寒の冬の夜間に、ソウルから南に40キロ離れた西北部の都市である水原付近で、アメリカ軍は合流した。アメリカ軍本部近辺では戦闘の準備しても、兵士らは寝るときにも軍靴を脱げない。1月25日の夜間にも、戦闘が迫っていた。一晩中銃声が聞こえ、アメリカ軍の戦車が重い機械音を出して本部の前を通った。四方から銃声が激しく鳴って、兵士は浮目づかいで夜中を明かすしかなかった。次の日の朝、宿泊した本部の近くにあった街路地に、中国と北朝鮮の中共軍の死体が散乱していた。前日の夜中の激しい戦闘により、中国と北朝鮮が戦死者の死体を放置したまま撤退していた。その夜間は、朝鮮戦争で中国と北朝鮮の共産軍が最も南の方まで侵攻した。朝鮮半島のほとんどの地域では森林が破壊されて、戦場は常に荒廃した地域に変貌した。水原付近で行われた戦闘で、射殺された中国と北朝鮮の共産軍兵士は、アメリカ軍の管轄区域だった。中国軍は日中戦争や国共内戦の実戦と、ソ連が支援した最新兵器や日本軍の残存兵器で、中国軍が1950年10月19日に参戦して優勢だった。、度重なる戦闘で膨大な戦傷者や補給線が乏しく、侵攻が鈍化し始めた。アメリカ軍は最新兵器でようやく反撃して、3月14日にはソウルを再奪回したが、戦況は38度線付近で膠着状態となった。
2018年8月21日火曜日
関東軍の防疫給水部であった第七三一部隊の陸軍軍医学校から、生体実験された人骨が多量に発掘された。
関東軍の防疫給水部であった第七三一部隊の上部機関である陸軍軍医学校から、生体実験された人骨が多量に発掘された。日中戦争にて、日本関東軍は1933年に満州関東防疫班を満州の背陰河に設立して、1939年にハルピン郊外の平房に移設した。1940年に関東防疫給水部の本部とする七三一部隊を設置した。満州鉄道衛生研究所や関東軍軍馬防疫・ハルビン医科大学・満州医科大学も協力した。七三一部隊は、毒ガスや細菌兵器の製造のため、監獄捕虜を「丸太」と呼称して、人体実験の実験と開発で、約3,000人以上を虐殺した。ソ連と中国は、戦争犯罪を指摘したが、アメリカ軍のGHQは東京裁判では訴追しなかった。アメリカ軍は細菌兵器・実験の全資料を独占して、石井四郎中将らの七三一部隊を免責に処した。中国の本部・支部跡・満州医科大学などからは生体実験の遺骨や証言が残存していた。1989年に七三一部隊を管轄した陸軍軍医学校の跡地からも実験の痕跡や多数の人骨が発掘された。アメリカは1983年のサンダース・トランプ調査官の報告書に引続き、1992年に細菌感染の人体実験の資料を押さえた。牡丹江憲兵隊が七三一部隊に送還された夫の名簿から、妻の敬芝蘭が日本政府を告発した。1950年に勃発した朝鮮戦争で、アメリカ軍はペスト・炭疽菌・コレラ菌などの細菌や毒ガスの科学兵器の使用を、中国・北朝鮮は告訴した。国際科学委員会は、アメリカ軍が七三一部隊と類似の細菌化学兵器の空爆を報告した。七三一部隊兵士は免責された上に、北野政次・内藤良一は、輸血とエイズの化学製剤のミドリ十字を創設して、その他は科学研究所や大学教授などの社会的厚遇を受けた。
2018年8月20日月曜日
ドイツ軍の歩兵隊が、ソ連軍の戦車を至近距離で防御して、強烈なる戦闘で虐殺された死体と大破した戦車が荒野に散乱した。
第2次世界大戦の東部戦線で、クルスクの戦いが1943年7月5日朝に勃発した。ドイツ軍の歩兵隊が脆弱な部隊で、ソ連軍の対戦車の軍団を至近距離で防御していたが、強烈なる戦闘で虐殺された死体と大破した戦車が荒野に散乱した。ドイツ軍は1943年2月にスターリングラードの戦いで敗退して、さらに3月にモスクワからも撤退した。劣勢に立たされ始めたドイツ軍に、ソ連軍がクルスク周辺で大きく突起した戦況となった。ドイツ軍は、その戦局を挽回するために、東部戦線の機甲部隊の全てを使ってクルスクの突起部を挟撃した。ドイツ軍兵士は約780,900人に対して、ソ連軍は約1,910,360人が集結した。1943年7月5日朝からドイツ軍とソ連軍がクルスク周辺で総力戦となった。ドイツ軍兵士は多くの戦車が地雷で大破しても、その放棄は厳禁と厳命されて、ロシア軍から砲撃や狙撃により流血して焼きつくされた。ドイツ軍は7月13日にはクルクスの攻撃を中止して敗退をしてた。さらに8月5日にはオリョールも放棄した。ドイツ軍は、クルクスの戦いで約49,822人もも、ソ連軍は約177,847人の戦傷者に達した。ドイツ軍は東部戦線で撤退に陥り2度と大規模な攻撃作戦をとれずに,東部戦線は崩壊をした。
2018年8月19日日曜日
トルコ国境の近隣でシリア北部のアレッポにある射撃場で、フランス軍兵士団が2人のドイツ人をスパイ容疑として公開で銃殺した。
第2次世界大戦にて、1943年9月29日にトルコ国境の近隣でシリア北部のアレッポ付近にある射撃場で、フランス軍兵士団が2人のドイツ人をスパイ容疑として公開で銃殺した。フランス軍の射撃隊員が小銃に実弾を装填して、両手を背中で縛って、支柱に縛り付けた。フランス軍兵士は、セルビア人兵士らに射殺したドイツ人の死体を粗製の棺に詰め込めさせて処理した。第一次世界大戦によるオスマン帝国滅亡後、アレッポはフランス委任統治領シリアの一部となっていた。ドイツ軍に占領されたフランスは亡命政府に転落した。それに対抗して、フランス委任統治であったレバノンとシリアは亡命政府のフランスから独立を果たした。1941年4月1日にイラクが軍事クーデター政権となりドイツに支援を求めた。ドイツ空軍は亡命フランス領のシリアを経由して派遣された。ドイツ軍の侵攻により1940年6月10日にパリが陥落して、6月17日にロンドンに亡命したシャルル・ド・ゴールが、6月23日にフランスの正統な政治勢力である自由フランスをを設立した。 ドイツ軍の侵攻に対抗して、イギリス連邦軍軍と自由フランス軍による連合軍は、7月14日にフランス領であったシリア・レバノンに軍事進攻して、その地域を自由フランスに接収した。
2018年8月18日土曜日
フィリピンの戦いにて、日本軍に救護室に取り残された傷病兵士は、全員が病室の周辺で自殺をして玉砕をした。
フィリピンの戦いにて、撤退した日本軍に救護室に取り残された傷病兵士は、自らの病室の周辺で、自殺をして玉砕をした。身動きのできない重傷や重病の兵士らは、手榴弾や拳銃などで自爆あるいは自死した。アメリカ軍が1945年6月8日にバヨンボン付近の救護室で日本人兵士の自殺者の死体を検証した。フィリピンの戦いは1944年10月上陸からアメリカ軍に追い込まれた日本軍と在留日本人市民は、最終局面で1945年6月からルソン島の北部のバヨンボン盆地に撤退した。アメリカ軍は6月5日にはアリタオ、6月7日にはバヨンボンを侵略した。6月中旬から下旬にかけて、雨季の豪雨にバンヨンボン盆地を敗走して、さらに北部へと逃避する日本軍兵士や在留日本人市民は膨大な悲惨な犠牲となった。日中はジャグルに潜み、夜間に北部へと逃避した。アメリカ軍に追撃されて、氾濫するラムット河畔では悲惨な虐殺に陥った。アメリカ軍は7月12日にはルソン島北部のキアリガンに侵攻して、日本人兵士と市民はアシン渓谷地帯に迷入した。峡谷と密林に潜伏した日本人兵士と市民には、アメリン軍の迫撃だけでなく飢餓と疫病により、多数の死傷者が続出した。フィリピンの最後の戦いである地獄のアシン峡谷で、1945年8月15日終戦までに北部ルソン島の戦死者は約12,7000人に達して、潜伏した約40,000人の日本人が生き残って日本への復帰を祈念した。
2018年8月18日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視読回数 150,000回
2018年8月17日金曜日
国連軍はナパーム弾によって、全身が黒化した北朝鮮軍兵士の焼死体を散乱させながら進軍した。
朝鮮戦争では、アメリカを初めとする国連軍によって、ナパーム弾が北朝鮮軍と中国軍の攻撃のために投下された。主燃焼材のナフサにナパーム剤の増粘剤を充填した油脂焼夷弾で、高温で広範囲を焼尽と破壊した。 アメリカ軍はナパーム弾によって、全身が黒化した北朝鮮軍兵士の焼死体を散乱させながら進軍した。朝鮮戦争では、B-29爆撃機から約32000トンものナパーム弾を北朝鮮に対して空襲をした。朝鮮戦争では、1950年9月27日から、国連軍は中国と北朝鮮の国境である鴨緑江に向けて侵略した。中国は、10月5日には北朝鮮軍の支援を決定した。10月19日に北朝鮮との国境である鴨緑江を越えて、人民志願軍と呼称した中国軍の大部隊が集結した。1950年11月1日から中国軍が大規模な攻勢を開始した。韓国軍は国境の南90マイルで中国軍に攻撃され壊滅状態となった。11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国軍に対する攻撃を開始に対して、11月25日には中国軍の方が第二次総攻撃を開始した。韓国軍を撃破した膨大な中国軍は山岳地帯から国連軍に襲い掛かった。遂に国連軍には11月29日に前進命令を撤回して退却の許可がなされた。中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら、11月30日から12月1日に「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を犠牲を受けた。国連軍は撤退して壊滅を逃れたが、受けた損害は大きく死傷者数は約12,975人にも上った。
2018年8月16日木曜日
北ビルマのミートキナ戦にて、新編中国軍兵士は全滅した日本軍兵士の死体と悪臭を避けながら侵攻した。
北ビルマのミートキナ戦にて、新編した中国軍兵士は全滅により散乱した日本軍兵士の死体と悪臭を避けながら侵攻した。大東亜戦争において、北ビルマと雲南地域ののミートキナにて日本軍は、アメリカ軍とイギリス軍に支援された新編の中国軍の侵略によって全滅した。北ビルマから昆明を通じて重慶に至る要所を1943年12月24日から1944年7月4日まで攻防戦があった。インパール作戦のために北ビルマの日本軍には補給や連絡網も途絶えて崩壊して退却した。すでに日本軍兵士は約3,200人が戦死して、約1,800人が重戦傷した。重症の兵士には、昇汞水で安楽死させた。司令部は7月10日に持久困難な僅か約1,200人の日本軍に対して最後まで死守する玉砕を厳命した。軍隊は階級社会で、上官の身勝手な命令も兵士は手出しも撤退もできなかった。その日本軍の残兵に対して雲南遠征軍が、日本軍を全滅に追い込んだ。ミートキナ市民の約13,000がほとんど難民となって逃避した。ミートキナの戦後には、約10人の朝鮮人慰安婦が確保された記録と写真が残存した。ミートキナの途上に、1944年3月8日からは日本の大軍は、インドのインパールに侵攻しするも7月10日からは最悪の敗退と犠牲を伴った。
2018年8月15日水曜日
戦争終結の大詔渙発さる、新爆弾の惨害に大御心、帝國,四國宣言を受諾、畏し、萬世の為太平を開く (1945年8月15日正午)
戦争終結の大詔渙発さる
新爆弾の惨害に大御心
帝国、四國宣言を受諾
畏し、萬世の為太平を開く
大東亜戦争は遂にその目的を達し得ずして終結するのやむなきにいたった。科学史上未曾有の惨虐なる効力を有する原子爆弾とこれに続いて突如として起ったソ連の参戦とは大東亜戦争を決定的な段階まで追ひ込んだ。九日午前に開かれた最高戦争指導者会議とこれに引続いて同日午後二回に亙って開かれた臨時閣議において帝國戦力の徹底的測定と諸般の国際情勢に関する検討とが行はれたのをきっかけとして、大東亜戦争終結の方式は急速なる進捗を見せ、同夜半畏くも天皇陛下の親臨の下、最高戦争指導会議が開かれ、帝國の基本方針ここに決定。帝國政府は、これを中立國を通じて米英支蘇の四箇国に通達したのである。このポツダム宣言に対する帝國政府の通告文の要旨は「日本政府はポツダム宣言が、陛下の國家統治の大権を変更するがごとき如何なる要求をも含まざるものとの諒解の下に同宣言を受諾する用意ある」旨のものであった。これに対する米英支蘇の公式回答は十三日朝帝國政府に到達。我方の通告文とこの四國政府の回答文を縛り閣議を始めとして統師と國務の最高首脳部の間において「國體の護持」といふ最後の一線に関する全く真剣なる議論が重ねられたのであるが、結局十四日の午前会議において添き聖断を拝し、この大御心によって四箇國の回答文を受諾するという方向は一決。ここに大詔は厳かに渙発せられ、大東亜戦争は遂に終結を見ることになったのである。
朝日新聞(昭和20(1945)年8月15日号)
第2次世界大戦の終結から2018年8月15日まで73年間
2018年8月14日火曜日
沖縄戦での日本人兵士の死体の写真を、アメリカ軍の海兵隊が「良いニップ」と説明文に入れて公表した。
沖縄戦での日本人兵士の死体の写真を、アメリカ軍の海兵隊が「良いニップ」と説明文に入れた。日本軍兵士をJapaneseのジャップではなく、Nipponのニップと呼称した。アメリカ軍は沖縄に1945年4月1日に、激しい艦砲射撃後に嘉手納飛行場に面した海岸に上陸した。水際での上陸時に何ら攻撃も少なく、上陸して約一か月間は戦闘も乏しかった。日本軍は敵を引きつけて叩く防御戦により、5月1日から戦闘が勃発した。沖縄に豪雨が降り、ぬかるんだ沼地の大地と、激しい攻撃に双方とも多数の死傷者を出した。アメリカ軍は、圧倒的な武器と物資が優位となり、次第に侵略地域を広げた。5月15日の安里52高地の戦闘は、玉砕した太平洋諸島と匹敵する激しい死闘となった。双方とも死体を後方に連れ戻る余裕もなく、死体は放置された。5月21日から高温多湿で激しい豪雨となり、戦地には耐え難い悪臭が漂った。アメリカ軍は5月29日に日本軍の司令本部がある首里高地に侵攻して、沖縄戦は激しさを増した。6月中旬からの国吉丘陵が最後の厳しい死闘となった。死者が続出しまさに双方の屍と悪臭の沼地の劣悪な戦地となった。アメリカ軍は沖縄戦の収束から、洞窟に潜む日本兵を、火炎放射器で掃討した。6月21日に沖縄の日本軍が降伏して沖縄戦は終結した。沖縄戦でのアメリカ軍の死者・行方不明者は7,613人で、精神病兵士は26,221人にも及んだ。日本軍の戦死者は107,539人で、さらに悲惨なのは民間人の死者が42,000人にも達した。市街地が戦火に巻き込まれた戦場となり、沖縄市民には悲惨で残酷となった。
2018年8月13日月曜日
ドイツのハンブルグは連日の大空襲を受けて廃墟になり、高熱と放熱が継続して黒化した死体が歩道や街路に放置された。
ドイツのハンブルグは、イギリス空軍が主体となり1943年7月24日から、ロンドン空襲を報復させる連日の大空襲を受けて廃墟になった。火災で崩壊した建物や瓦礫や地下室は、高熱と放熱が継続して、処理するまでに死体が黒化した。タライに集積された焼死体が、歩道や街路に放置されていた。時限爆弾も投下されて、36時間、72時間、144時間後に再爆発して、救護も困難となった。ナチス・ドイツ軍は、集合墓穴禁止令で1944年2月になっても、爆撃による市民の死体の収容を、集合墓穴に土葬することを厳しく禁じた。大量虐殺の強制収容所の死体の焼却による抹消の手段に類似された。市民の死体には火葬しか選択肢がなく、ガソリンをかけたり、火炎放射器で焼却した。膨大な墓地の面積の不足によって、虐殺された市民には、自分の墓もなく死後の権利も剥奪された。遺骨も灰となり残骨と混在して、身元の識別は不可能となった。捕虜や囚人が土中の墓穴を掘らされた。都市部では、墓と死後の権利が保持された兵士用墓地も、市民には用意されなかった。
2018年8月12日日曜日
日本軍による重慶の爆撃で、防空壕に避難した膨大な市民が、酸素不足で窒息死した死体が散在した惨状となった。
日本軍は1941年6月5日に重慶を爆撃により、防空壕に避難した膨大な市民が、酸素不足の窒息死した死体が、十八悌大隊道に散在した惨状となった。日中戦争にて、1937年7月7日の北京郊外にて、軍事演習中の日本軍が盧溝橋で中国軍と激突して、日中全面戦争が勃発した。戦災の犠牲は迅速に華北から華中にまで拡大した。中国軍は、国共内戦状態にも陥った全中国に、対日全面抗戦の総動員令を指令した。第2次国共合作により、中国国民党と共産党に救国統一戦線が成立した。日本軍は、1931年の満州事変、1932年の上海事変など次々に中国全土に侵攻した。日本軍は、中国軍が土地を譲って時を稼ぎながら、日中戦争が沿海岸部から内陸部の奥地にまで拡大した。広大な戦域に対して、内陸都の空中爆撃の翼を転換した。南京政府の陥落直前に1937年11月に重慶遷都を宣言した。1938年から重慶に対して市民無差別爆撃を継続した。日本軍は、ドイツ軍が空爆したスペインのゲルマニカの爆弾と焼夷弾を投下した。特に1939年5月3日と4日の重慶被爆により、中心街が炎に囲まれ、細道の石段の市民居住地は阿鼻叫喚に陥った重慶市民に甚大な犠牲を伴った。両日で死者約3,318人、負傷者約1,937人と5000人以上に達した。日本軍は、1941年8月から日米開戦に向けて南方に戦力を回して、約3年間に及んだ重慶に対する連続爆撃が終結した。
2018年8月11日土曜日
日露戦争の沙河会戦で、沙河南岸を防御した日本軍兵士は、犠牲となった戦死者の死体を満州の高地に埋葬した。
日露戦争の沙河会戦で、沙河南岸を防御した日本軍兵士は、南方高地に戦死者の死体を埋葬した。日露戦争にて、遼陽を侵略した日本軍に対して、ロシア軍は態勢を立て直し、奉天から大兵力を南下させた。両軍は1904年10月8日から18日にかけて、沙河付近で沙河会戦が勃発した。双方に大きな人的犠牲がでた。10月8日夜半に本渓湖の日本軍が、ロシア軍の攻撃を受けて沙河会戦が勃発した。日本軍は10月10日には防御から攻撃に転じた。各地で激戦が展開されて、10月12日に日本軍が三塊石山を占領し、ロシア軍は後退した。日本軍は15日に沙河河畔の要地である万宝山を占領した。ロシア軍は翌16日に万宝山を奪回した。日本軍はロシア軍の追撃も困難となり、10月18日に日本軍は沙河南岸に防御を固めた。10月下旬に旅順第2次総攻撃を控えた日本軍は、北部戦線に余力はなかった。北部戦線はこう着状態となり、両軍は沙河をはさんで、1905年春まで対峙した。沙河会戦にて、日本軍の参加兵力は約120,800人で、戦死者約4,099人・戦傷者約16,398人が犠牲となった。ロシア軍は、参加兵力約221,600人で、戦死者約5,084人・戦傷者約30,394人・行方不明者約5,868人の犠牲を出した。
2018年8月10日金曜日
同時多発テロで、火炎と砂煙で救助不可であった礼拝堂の牧師の死体を消防隊員らが苦悶しながら搬送した。
アメリカ合衆国のニューヨークにて、2001年9月11日火曜日に同時多発テロが勃発した。世界貿易センター(WTC)がテロの標的となった。広島原子爆弾などの核爆弾の爆心地の跡地を連想して、グラウンド・ゼロと呼称された。ニューヨーク市消防局の礼拝堂の牧師の死体を消防隊員らが苦悶しながら搬送した。その爆心点は火炎と砂煙で救助するのは不可能となり、牧師はグラウンド・ゼロで礼拝中に爆死した。アメリカン航空11便が午前8時46分にWTC北棟109階、ユナイテッド航空175便が9時3分にWTC南棟109階に突入した。多量のジェット燃料で、火災と黒煙が全階に充満した。WTC南棟は午前9時59分に、WTC北棟が午前10時28分に全崩壊した。同時多発テロ死の犠牲者数は約2,749人で、その内の約412人が消防士、約147人が航空機の乗客であった。衝突時から崩壊までに102分間の猶予により、WTCビル内から約14,000人以上は避難できた。アメリカ政府は捜査の過程から、テロ攻撃がサウジアラビア人のオサマ・ビンラディンをリーダーとするテロ組織「アルカーイダ」が実行した断定した(アルカーイダは否定も肯定もしない)。アフガニスタンのターリバーン政権に引き渡しを要求した。ターリバーン側は、「証拠があれば引き渡す。今の段階ではアルカーイダとは断定できない。」と引き渡しを拒否した。アメリカ合衆国軍はターリバーン政権に対して、アメリカ軍とイギリス軍を主体とした有志連合軍が、10月2日にアフガニスタンに侵攻して、11月13日に首都カブールを征服した。アフガニスタン紛争はソ連軍に引き続いて、アメリカ軍により再燃して、中東紛争が長期間に泥沼化して、いつでもどこまでも中東市民が犠牲者となった。
2018年8月9日木曜日
長崎原子爆弾が炸裂した瞬間からきのこ雲が立ち上るまで、アメリカ軍がは16mmカラー映像を3分50秒間まで撮影した。
長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分から投下しれて炸裂した瞬間からきのこ雲が立ち上るまで、アメリカ軍が16mmカラー映像を3分50秒間まで撮影した。ボックスカーと呼称したB-26爆撃機の窓からレンズの焦点を当てると真赤な火玉が撮影された。長崎市内は、原子爆弾の火玉により反射して一部地域に赤味がかった。やがて白いキノコ雲が出現して、膨張しながら高度を上げて、巨大なきのこ雲に変貌した。ファットマンと呼称されたプルトニウム239型の長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下された。爆心地の長崎市松山町171番地の上空約500mの爆心点で炸裂した。ファットマンは、TNT火薬では約22,000トンに相当した。
2018年8月8日水曜日
アフガニスタン紛争で、ゲリラとの戦闘で黒く焼けただれた政府軍の兵士が白骨化した死体が散乱した。
アフガニスタンのクナール川のサウ村にて、周辺の基地のソ連軍と政府軍が、武装ゲリラ集団と1980年8月30日に戦闘をした。周辺の道路には死体が散乱して屍臭が充満した。黒く焼けただれたアフガニスタン政府軍の兵士の死体が白骨化していた。1979年12月以来のソ連軍の侵攻によるアフガニスタン紛争は、中東地域から国際的な混乱を生み出す起点となった。紛争の影響は現在も継続している。大量のアフガニスタン人難民、国内の民族・地域の対立・分裂、主要な勢力となる「ムジャヒディーン」(イスラムを守るための聖戦と訴えた武装ゲリラ集団)、外国人「義勇兵」の参入、周辺や主要国から武装援助の増大による紛争の拡大、地方「軍閥」が台頭した。混乱の起点は、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻から1989年2月の撤退までにある。逆にアメリカが軍事支援していたムシャヒディーンらが、2011年9月11日に同時多発テロを執行して、2001年11月からアメリカ軍のような外国武装勢力がアフガニスタンという破綻した国家に介入して紛争がさらなる混乱に陥った。
2018年8月7日火曜日
サブラー・シャティーラの難民キャンプで、親イスラエルのレバノン軍団が、パレスチナ人市民を大量虐殺した。
サブラー・シャティーラの難民キャンプで、1982年9月16日から18日にレバノンの親イスラエルの民兵組織「レバノン軍団」が、パレスチナ難民を大量虐殺した。1975年から混迷したレバノン内戦に、イスラエル軍が6月6日にパレスチナ開放機構(PLO)を撤退させるためにレバノンに侵攻した。親イスラエルのバシール・ジェマイエル大統領が9月14日に爆弾で暗殺された。PLOの容疑として、レバノン軍団は9月16日午後6時のイスラエル軍の照明弾により、レバノン軍団は一斉にキャンプに侵入して大量虐殺をした。その虐殺は2日間に及び、虐殺者数は約762人以上と推定された。虐殺事件が国際的非難を受けて、12月16日に国連総会は「ジェノサイド」として非難決議は、採決の棄権により反対無しで123か国の賛成多数で可決した。イスラエル国防相のアリエル・シャロンは辞職した。悲劇は、1982年の虐殺だけではなく、サブラー・シャティーラの難民キャンプは1975年から90年までレバノン内戦の間に7回も攻撃された。イスラエル軍だけでなく、85年から87年にはシーア派民兵組織の包囲攻撃も受けた。「サブラ・シャティーラ」は、市民の戦争犠牲の典型例でもある。軍隊や武装勢力の兵士により、市民の人権は虐待と虐殺を受ける。軍事的に衝突するほど、その犠牲者になっているのはいつも市民であった。
2018年8月6日月曜日
広島原子爆弾の無差別な広島市民に対する無差別なきのこ雲と除外された海軍の江田島町や呉市が撮影された。
広島原子爆弾は、エノラ・ゲイと呼称されたアメリカ軍の戦略爆撃機B-29から1945年8月6日8時15分17秒に投下された。機体名称は、機長のポール・ティベットの母親の名前であるエノラ・ゲイ・ティベットに由来した。広島原子爆弾は、投下して約43秒後の8時16分前後に、爆心地は広島市細工町29-2 島病院で、その上空約680mの爆心点で炸裂した。炸裂から約30秒ほど過ぎた時に、きのこ雲が紫かがった灰色の雲がもくもくと塊になって立ち上った。その中心には、赤い芯が閃光を放って、その内部は全てが燃え上がった。機体高度の30,000フィート、約9,144mよりも高く舞い上がり、広島原子爆弾のきのこ雲とその周辺の市町村が撮影された。手前には日本海軍の重要な関連施設がある江田島町や呉市、遠方には厳島が見渡せた。広島原子爆弾は、非戦闘員である広島市民が主に居住している地域で炸裂する無差別爆弾となった。1945年12月末までに、約140,000人もの被爆者が死亡して、広島市民の約40%が死亡した。
2018年8月6日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視読回数 140,000回
2018年8月5日日曜日
第1次世界大戦のソンムの戦いで、イギリス軍はフランス西部戦線の塹壕にて膨大な犠牲者を出して、ビーモント・ハメにおいて塹壕の前には白骨死体が放置された。
第1次世界大戦でソンムの戦いで、イギリス軍はフランス西部戦線の塹壕にて膨大な犠牲者を出して、ビーモント・ハメにおいて塹壕の前には白骨死体が放置された。第1次世界大戦に、フランス北部のソンム川で、連合軍とドイツ軍との戦闘で膨大な犠牲者を出した。1916年7月1日にイギリス軍の歩兵が突撃し、イギリス軍の史上最大となる1日に約19,000人の戦死者と41,000人の戦傷の犠牲者を出した。7月13日にイギリス軍騎兵部隊が史上最後の大規模な騎兵突撃を行なったが、ドイツ軍の機関銃の前に膨大な犠牲を伴った。9月15日にイギリス軍が世界で初めてキャタピラを装備した戦車を投入したが,ドイツ軍戦線の突破にまたも頓挫した。約5ヵ月間の戦闘で連合軍は,イギリス軍が約420,000人、フランス軍が195,000人の戦死傷者を出しても,約10km前進に留まった。ドイツ軍の死傷者は 65万人であった。翌年1918年3月 21日にはドイツ軍が大攻勢に出て,連合軍の戦線が突破されて、たちまちソンム川を渡られた。連合軍は危機に陥ったが、4月5日までにドイツ軍は最深部で約 65kmに達する突出部が阻止され,攻勢が中断した。サカンタンと呼称される翌年の戦闘では、イギリス軍が約163,000人、フランス軍が77,000人を戦死傷者 (うち捕虜は両軍合せて約70,000人) 、ドイツ軍の死傷者は 約240,000万人に達した。
2018年8月4日土曜日
戦地の2人のアメリカ軍兵士が、日本人兵士の死体の頭部を切断して、鍋で煮て組織を取り除き、頭蓋骨だけを抽出した。
太平洋戦争中に、1944年5月22日号の『ライフ』雑誌に、恋人のアメリカ軍兵士から贈呈された日本軍兵士の頭蓋骨を興味深く眺めたアメリカ婦人が掲載された。日本人の頭蓋骨を置いた横の机上で、彼に手紙を書いていた。あるアメリカ軍兵士は、日本軍兵士の死体は、森林で狩猟した獲物あるいは動物に過ぎないと認識していた。2人のアメリカ軍兵士が、戦地に転がっている日本人兵士の死体の頭部を切断して、鍋で十分に煮て組織を取り除き、頭蓋骨だけを取り出した。頭蓋骨は約35ドルで転売されていた。特に、マリアナ諸島から返還された多数の死体の中には、切断されて頭部部が喪失していた。日本人の頭蓋骨は、土産や売買品だけでなく、遊び道具にもなった。第2次世界大戦にドイツ軍による強制収容したユダヤ人の大量虐殺にも相当する非道で残虐行為であった。戦時下の非道で残虐行為は、太平洋戦争だけでなく、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク・アフガニスタン戦争など戦時下に潜在していた。
2018年8月3日金曜日
ファレーズで連合軍に包囲された約10,000人以上ものドイツ軍兵士が戦死した死体が散乱して溢れた。
ノルマンディーに上陸した1944年6月6日から進撃してきた連合軍にドイツ軍は包囲された。連合軍のファレーズ・ポケットの隙間からドイツ軍は脱出した。連合軍はセーヌ川西岸のドイツ軍の大半を撃破して、パリからドイツへの進撃路を確保した。ノルマンディー上陸後に、連合軍による迅速な進撃が南方面、南東方面、ブルターニュへと向かった。カーンへの、イギリス軍、カナダ軍、アメリカ軍の進撃にドイツ軍は、1944年8月8日、ドイツ軍を包囲する機会をつかんだ連合軍はファレーズからシャンボワに集結して、イギリス軍とカナダ軍とポーランド軍がドイツ軍を包囲した。ドイツ軍は撤退路の確保のために激しい反撃を加えて、8月17日から撤退した。連合軍は8月19日にシャンボワでドイツ軍の退却路を塞いだ。狭い脱出路を通るためにドイツ軍は地獄の戦場となった。約10,000人以上もの膨大なドイツ軍兵士が戦死した。包囲網の内側には戦車・車輌の残骸、ドイツ軍兵士や民間人市民の死体が散乱して溢れて、夏で腐敗匂がひどく、ウジが湧き、ハエが死体に群がり、川は血で赤く染まった。8月21日までにドイツ軍兵士の約50,000人が完全に包囲された。ドイツ軍の兵力等、軍事的損失は膨大であり、連合軍は決定的な勝利を挙げた。8月25日にパリが解放され、8月30日までにセーヌ川西岸からドイツ軍は完全に撤退した。
2018年8月2日木曜日
ハリコフの最悪の戦場で、膨大なソ連の赤軍兵士は戦死して、ドイツ軍から撤退するため、戦死体を放置して踏みつけて撤退した。
第2次世界大戦の東部戦線では、ハリコフの最悪の戦場では、ドイツ軍により膨大なソ連の赤軍兵士が戦死した。ソ連兵士は、ドイツ軍から撤退するために、戦場の死体を無視して放置しては、死体を踏みつけながらも撤退した。1943年2月から3月まで、工業都市であるハリコフを中心にウクライナで行われたドイツ軍とソ連の赤軍と戦闘が勃発した。スターリングラードにてドイツ軍を包囲している間に、赤軍は南方に対して広範囲で攻撃した。赤軍は1943年2月初旬にドイツ軍の戦線を破って、ハリコフ、クルスク、ベルグラードに加え、イジュームルとルハーンシクの再占領した。ソ連の赤軍はさらなる無理な侵略に対して、ドイツ軍は、2月25日に赤軍に対して突然の反撃した。数ヶ月にも及ぶ戦闘により、ドイツ軍はハリコフ南部の赤軍に対し攻撃をして、包囲して壊滅した。ドイツ軍は、3月11日にはハリコフに直接攻撃を行って、3月15日にハリコフを再占領した。ドイツ軍はさらにベルグラードも再占領した。ドイツ軍は約4,300人の犠牲者に対して、赤軍は約23,000人以上の戦死者を含めて約90,000人もの犠牲者を受けた。ドイツ軍は余勢から、7月からの泥沼のクルスクの戦いに陥った。
2018年8月1日水曜日
日本軍は北側のマレー半島に戻り、1942年3月16日にクアラピラー南西部のカンウェイ村を大虐殺した。
太平洋戦争を1941年12月8日に宣戦して、日本軍は1942年2月5日にはシンガポールを侵略して沼南島と呼称した。シンガポールで華人を数万人も大虐殺してから、日本軍は、北側のマレー半島に戻って、多数のマレーシア人を大虐殺した。マレー半島には、約30ケ所以上に虐殺の遺碑が残存している。日本軍の公文書である陣中日誌では、マレー半島で1942年3月に約3週間に治安粛清として華人約584人を刺殺し、8月にも華人の村で約80人を虐殺したと記録した。特に3月16日にはクアラピラー南西部のカンウェイ村で、全村民を集めて、不偵分子の容疑で156人を刺殺した。カンウェイ村からは、日本軍により虐殺された多数の白骨が発掘された。
<一枚の家族写真>
だから せめて 知ってください。今はないクアラピラー・カンウェイ村を
惨劇から40年後につぎつぎと発掘された 物いわぬ されこうべを ああ たくさんの布袋に 大きな棺に はみだすほどの骨が
1942年3月16日早朝まで ここは 静かな村であったと ゴム園やヤシ林に囲まれ ひとびとは 豊かに 聡明に 生きていたと
なのに 幸せは一夜にして壊され 5人のうち4人は 物いわぬされこうべとなって その父がどれか その母がどれか 永遠に探すすべもない
だから せめて 祈ってください 今はない クアラピラー・カンウェイ村を 心に刻んでください 一枚の幸福な家族写真を
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