2018年8月30日木曜日

アルジェリア戦争でブージー湾付近で約20人のアラブ人がフランス軍により惨殺された。

アルジェリア戦争でブージー湾近くの村であるスーク・エル・ドニヌのはずれで、1959年8月16日にアルジェリアの反乱勢力はフランス側に協力した現地の20人のイスラム系住民を殺害して惨殺された死体が放置された。
 アルジェリア戦争は、1954年から1962年にフランスの支配に抵抗するアルジェリアの独立戦争であった。1830年以降からフランスはアルジェリアを植民地下して、1848年に本国の一部とした。1881年に東隣のチュニジアをオスマン帝国から割譲され、1912年には西隣のモロッコも保護領で支配した。特にアルジェリアは北アフリカの支配の重要な拠点となった。第2次大戦の終結後にアジア民族自決と国家独立の影響を受けて、北アフリカでも独立と抵抗運動が高まった。フランスは1952年1月にチュニジアの民族運動を抑圧した。1954年にジュネーヴ協定によりインドシナ4カ国がフランスから正式に独立した。それに応じてアルジェリア解放戦線と国民解放軍団が発足しました。1956年には両隣のチュニジアとモロッコが独立した。フランス政府のアルジェリア独立運動への弾圧はさらに厳しくなった。1956年からフランス国防省による軍事平定作戦は、1960年代半ばまで最も激しく、アルジェリア民族解放戦線は壊滅状態に追い込まれた。フランス国内の政治情勢も深刻となり、1958年5月13日に第4共和制政権は分裂して崩壊して、9月にシャルル・ド・ゴールが首相に再就任し、新憲法を承認させて、10月から第5共和制政権が発足して、1959年に大統領に就任した。首相よりアルジェリアの民族自決の支持をしたド・ゴールはアルジェリア統治からフランス軍事政権を排除した。フランスは1960年にアフリカの植民地の独立を次々と承認して「アフリカの年」と呼ばれた。サハラ砂漠で核爆発実験の成功させてから、1962年3月18日にアルジェリア独立のエビアン協定を締結して、アルジェリア戦争は終結した。