2021年10月22日金曜日

イギリス軍のパラシュート大隊員に襲撃されてドイツ軍のフリードリヒ・クーシン将校と運転手は車内で射殺されて、車外に死体が飛び出した。

第二次世界大戦の西部戦線のオランダのアーネム(Arnhem)にて、1944年9月17日の16時から17時の頃に、ドイツ軍のフリードリヒ・クーシン将校と運転手が灰色のシトロエン車に乗車していた。イギリス軍のパラシュート大隊員に襲撃されてフリードリヒ・クーシン将校と運転手は車内で射殺されて、車外に死体が飛び出した。ドイツ軍将校は銃弾で引き裂かれ、バッジと襟章は略奪され、ドアから身を乗り出した死体が放置された。 1944年9月17日にイギリス軍とポーランド軍のパラシュート大隊がアーネムに降下して、ライン川にかかる橋に侵攻したが、その後に増援が続かず撤退した。クーシン将校は、連合軍のパラシュート隊の動向を偵察中に銃殺された。何の前触れもなくクーシン将校が現れたので、分岐点の先頭部隊の兵士が、ステンスやライフルで銃撃して、露出した車の側面を銃撃して車から死体をなぎ倒した。写真は非常に印象的であり、戦争の非常にリアルな恐怖を伝えている。

 連合軍は1944年6月6日のD-Dayにノルマンディに上陸してから数週間後に、フランス、ベルギー、ルクセンブルグ、オランダを侵攻する中、ドイツ軍は一斉に撤退を開始した。しかし、1944年9月になると連合軍は、第二次世界大戦が始まって以来、強固に守られてきたジークフリードラインに沿って、ドイツ軍の手ごわい防衛線に接近していた。連合軍のパラシュート大隊とグライダー大隊がオランダに降下して、ライン川を渡河すめために重要な領土と橋を侵攻した。

 イギリス軍とポーランド大隊のパラーシュート部隊の約1万人のイギリス人とポーランド人の部隊は、アーネムのライン川の最北端の橋を侵攻するために、イギリス軍とポーランド大隊のパラーシュート部隊の約1万人が9月17日に降下したが、アーネムの橋よりも約13kmも離反した。連合軍はライン川を渡河したが、3日以内にドイツ軍の猛烈な攻撃を受けて崩壊した。甚大な犠牲を伴ってライン川を引き渡った。アーネム周辺に上陸した1万人のイギリス空挺部隊のうち、約1,130人が死亡、約6,450人が捕虜となった。それ以外にアメリカ軍の約4,000人と約3,600人のオランダ市民が殺害された。アーネムの戦いで、ドイツ軍兵士は約1,300人が戦死して、約2,000人が戦傷した。戦場の兵士は、銃弾で引き裂かれ、略奪され、放置されるも、連合軍政府もドイツ政府が狂喜乱舞した。



 

2021年10月21日木曜日

満州事変の直後から関東軍が占領した奉天にて、10月17日に奉天郊外で約8人の関東軍将校らが殺害した約1人の中国人兵士の前で、気取ったポーズで写真撮影をした。

1931年9月18日の満州事変(九・一八事変)の直後から関東軍が占領した奉天にて、10月17日に奉天郊外で関東軍の約8人の将校らが殺害した約1人の中国人兵士の前で、日本刀を捧げて気取ったポーズで写真撮影をした。九・一八事変以降に、関東軍は奉天などで放火、殺人、売春、略奪などの戦争犯罪を行った。9月18日の夜に、関東軍は北大営を砲撃し、火薬庫は廃墟と化した。奉天市和平区の住民の多くの家が砲撃され、家が焼失した。被災した住民は、郊外に集まって避難して、家を出て関州に逃げた。奉天(現在の瀋陽)は、東北地方の最大規模の都市であり、東北地方の経済・文化・交通および商業の中心地であった。関東軍は吉林省の紅頂山に侵攻し、戦闘機が兵舎や民家を爆撃し、火の海が広がった。関東軍は、施設、学校、店、家などを焼き払った。

 満州事変は、1931年9月18日22時20分に、関東軍の約7人の日本軍兵士が、柳条湖の南満州鉄道の一部を爆破した。この爆発を合図に、関東軍は、直後に中国の東北軍の駐屯地である北大営に攻撃を開始した。9月19日午前0時20分、関東軍に、東北各地を攻撃する指令を出した。東北地方の関東軍は、素早く集中して瀋陽市を攻撃する命令をした。9月19日午前6時30分に、日本軍は奉天を占領した。9月19日には長春が、9月22日には吉林が陥落した。

 満州事変は、九・一八事変、奉天事変、柳条湖事変とも呼ばれる。1931年9月18日に、日本の関東軍が中国東北部を武力侵攻するために、奉天を突撃した。関東軍が意図的に起こして中国を武力で征服する中国への侵略戦争が勃発した。1932年2月には、中国東北部はすべて関東軍に陥落した。 その後、日本は中国東北部に満州国の傀儡政権を樹立して、約14年間にわたる中国東北部の植民地支配を確立した。中国東北部の約3,000万人以上の中国人は傀儡国家の奴隷としての辛酸をなめた。 

 九・一八事変は、中国の対日抵抗戦争の出発点であり、第二次世界大戦の太平洋戦争への起点となった。九・一八事変以降に、中国人民の抵抗戦争は、世界の反ファシズム戦争の初発となった。1931年の九・一八事変以降、国民党は無抵抗政策を続け、深刻な国難と救国の抗日運動が全国で展開された。国民党の指導の下、全国の学生、労働者、農民は、ストライキ、市場ストライキを行った。国民党政府に反対する請願やデモを行って、国民党政府の方針転換を要求した。




2021年10月20日水曜日

チェピエルフの近くの森では、ポーランド軍第74歩兵連隊の約250人以上のポーランド人捕虜を、ドイツ国防軍が大量虐殺した。

チェピエルフ(Ciepielów)の虐殺は、ポーランド侵攻中のドイツ国防軍が、1939年9月8日に捕虜を虐殺した戦争犯罪である。チェピエルフの近くの森では、ポーランド軍の第74歩兵連隊のポーランド人捕虜が、ドイツ国防軍により大量に虐殺された。虐殺された死者の数は約250人以上と推定された。9月1日にドイツ国防軍のポーランド侵攻から第二次世界大戦が勃発して、9月3日にイギリスとフランスが宣戦布告した。

 ポーランド軍がドイツ国防軍の約14人のドイツ軍兵士を待ち伏せして殺害して、ドイツ軍が約450人のポーランド軍兵士が捕らえられた。約250人のポーランド軍兵士に軍服を脱がせて、身分証明書を取り上げて、パルチザンの容疑者とした。兵士ではなくパルチザンとして即刻処刑を正当化した。チェピエルフ近郊のダブロワ村近くの人里離れた場所に強制連行した。約200人を機関銃で銃殺して死体を道路の溝に埋めた。その他の約50人を屋敷に強制収容して装甲車で砲撃された。反ポーランド主義(Antypolonizm)が、ポーランド人とポーランドに対する文化否定、偏見、差別および反動を形成して、第二次世界大戦の残虐行為を正当化した。

 1950年8月に、ミュンヘンのポーランド領事館に匿名の手紙が届いた。ドイツ軍兵士の目撃者のメモと2枚の写真が入っていた。手記を書いた匿名の著者は、銃声を聞いてこの場所に到着し、溝の中に300人ほどの死体を数えたという。同じドイツ軍連隊は、9月8日から数日間、チェピエルフとその周辺で、捕虜やポーランド人、ポーランド系ユダヤ人の民間人など、他にも数十人を殺害したとした。虐殺者数はポーランドの歴史学で広く受け入れられた。最も有名なワルシャワの「無名戦士の墓」にも記録されている。しかし、死体数が必ずしも捕虜の処刑だけでなく、誇張されていると、虐殺事件は近年さらに議論が混乱している。

 その他に、ポーランド人兵士が捕虜となった後に虐殺された事件は、約252人の捕虜が射殺されたシュラトフ、約300人の捕虜が殺されたチェピエルフ、さらに300人の捕虜が殺されたザンブルフなど、数多く存在する。ユダヤ人出身のポーランド人捕虜は日常的に選択されて、その場で射殺された。1942年にナチス・ドイツのヒトラーの命令は、軍服の着用に関わらず、敵の兵士を射殺する正当性を規定した。





2021年10月19日火曜日

ルソン島に上陸したアメリカ軍兵士は、1945年1月26日にフィリピンのジャングルで待ち伏せしていた8人の日本軍兵士を射殺した。

ルソン島に上陸したアメリカ軍兵士は、1945年1月26日にジャングルで待ち伏せしていた8人の日本軍兵士を射殺した。アメリカ軍は、山岳地帯に逃避した日本軍兵士に対して攻撃を続けた。激しい空襲により、日本軍の陣地付近にある森林は焼け野原となった。アメリカ軍はブルドーザーを使って軍道を建設して戦車も侵攻させた。

 アメリカ軍は1945年1月9日にはルソン島の北西部のリンガエン湾に上陸した。ルソン島に上陸するアメリカ軍に対して、日本軍の神風特攻の猛烈な自爆攻撃に遭遇した。護衛空母オマニーベイが神風特攻で破壊され、1月3日から1月13日までに神風特攻により合計約47隻が損傷して、4隻が沈没した。1月23日にクラーク・フィールド飛行場に到達したとき、ルソン島に上陸後に初めて日本軍による猛烈な攻撃に遭遇した。それから約1週間以上、日本軍は侵攻するアメリカ軍に対して頑強な戦いを続けた。アメリカ軍が飛行場を占領したのは2月2日であった。クラークフィールド飛行場は、占領前の数十年間アメリカの飛行場であった。

 太平洋戦争にて、ニューギニア島から南方戦線に、中部太平洋から東方戦線が、交差したフィリピンの戦いが勃発した。アメリカ軍は1944年10月17日にレイテ島に上陸した。日本軍の連合艦隊が10月20日にレイテ沖海戦に突入するも、アメリカ軍の猛攻で10月25日に壊滅した。日本軍は劣勢を挽回するために自爆攻撃である特別攻撃隊(特攻)が編成して10月25日から突入を繰り返した。

 ルソン島に上陸後には、首都マニラに向けて南方に迅速に侵攻した。マニラは掃討と焦土により、日本軍兵士だけでなく多数のマニラ市民が巻き沿いとなり甚大な犠牲を伴った。アメリカ軍は1945年3月4日までにルソン島のすべての重要な拠点を占領した。マニラ以外で生存した日本軍兵士は、北部と南東部の山岳地帯に逃避して補給もなく餓死や病死を伴いながら終戦後まで徘徊して持久戦に耐えた。ルソン島の戦いで、日本軍兵士は約217,000が戦死あるいは戦病死した。アメリカ軍は戦死が約26,310人と戦傷が約29,560人の犠牲を伴った。マニラ攻防により、民間フィリピン人が約150,000人が虐殺された。




2021年10月18日月曜日

日清戦争において旅順口の椅子山の要塞で、日本軍の攻撃で第3砲台の周辺に清国軍の兵士の死体と兵器が散乱した。

日清戦争において旅順口の椅子山で、日本軍の攻撃で第3砲台の周辺に清国軍の兵士の死体と兵器が散乱した。日本軍兵士の約15,000人と清国軍の約13,000人が、1894年11月21日早朝から旅順口で戦闘が勃発した。砲兵隊は案子山の砲台へ集中攻撃を加えた。清国軍の砲台も激しく応戦したが、日本軍が突撃して占領した。日本軍は、椅子山、松樹山、二龍山、東鶏冠山の砲台も集中砲火と突撃して翌日に陥落した。日本軍は、11月22日には清国軍の旅順要塞を占領した。

 清国軍は満州人による旧来の軍事組織である八旗を正規軍としていた。日本軍の犠牲は約40人が戦死して、戦傷者は約241人、行方不明は約7人であった。清国軍は、約4,500人が戦死して、捕虜が約600人に及び旅順要塞を撤退した。その後に近代化された日本軍は、終始優勢に侵攻を展開して遼東半島を占領した。1894年7月25日から1895年11月30日の日進戦争にて、日本軍の戦死者は約1,417人、戦病死者は約11,894人、戦傷病者は約3,758人であった。清国軍は戦死傷者が約35,000人に及んだ。

 しかし、タイムズ(1894年11月28日)とニューヨーク・ワールド(1894年12月12日)が、日本軍による旅順虐殺事件を報道した。旅順要塞が陥落した直後の11月23日から11月26日にかけて、日本軍は清国軍兵士の掃討中に、無差別に非戦闘の民間人、女子、幼児などを虐殺した。タイムズは日本軍は約200人の民間人、ニューヨーク・ワールドは約2,000人を虐殺したと報道した。ニューヨーク・ワールドは、「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を虐殺した。無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた。」と「3日間の虐殺によりわずか約36人の中国人のみ生存した」と記者のクリーマンが衝撃的に誇張して、国際世論を扇情する報道をした。国際的な世論は、次第に旅順虐殺事件は戦争ではつきものであって、欧米でも虐殺例があると風に変化した。1895年2月5日にアメリカ上院で不平等条約改正が批准されて、4月17日に下関条約が締結された。




2021年10月17日日曜日

ドイツ国防軍の特殊行動部隊と秘密軍事警察はロストフ・オン・ドンで、ソ連のパルチザンと共産党の幹部とて、約400人を獄中で処刑して虐殺した死体を集積した。

ドイツ国防軍の特殊行動部隊と秘密軍事警察はロストフ・オン・ドンで、ソ連のパルチザンと共産党の幹部であると容疑して、約700人のソ連の民間人を逮捕し、1942年8月2日までに約400人を獄中で処刑して虐殺して死体を集積した。1942年から1943年にかけて、ナチス・ドイツ軍の親衛隊の特殊行動部隊(Einsatzkommando)によって、約27,000人のユダヤ人の民間人が、ロストフ・オン・ドンの渓谷で虐殺された。ユダヤ人が大量虐殺された蛇の渓谷は、ロシア語でズミエフスカヤ・バルカ(Zmievskaya Balka)と呼称された。ズミエフスカヤ・バルカは、ロシアで最大のホロコースト犠牲者の埋葬地となった。

 ドイツ軍はバルバロッサ作戦でロシアに侵攻する最中に、ドイツ国防軍は1941年7月23日にソ連の赤軍から東ヨーロッパ平原南東部のロストフ・オン・ドンを再占領した。ドイツ国防軍の特殊行動部隊と秘密軍事警察は、ソ連のパルチザンと共産党の幹部であると容疑して、約700人のソ連の民間人を逮捕し、1942年8月2日までに約400人を獄中で処刑して虐殺した。

 さらにナチス・ドイツ軍の特殊行動部隊は、残存していた約2,000人のユダヤ人を、1942年8月11日午前8時にロスト・オン・ドンに集結させた。8月11日から8月13日にかけて、ロストフのユダヤ人男性を郊外の谷間にあるズミエフスカヤ・バルカに強制行進させた。アンザックはユダヤ人男性を砂岩の採石場と近くの果樹園で虐殺して、その死体をズミエフスカ・バルカ渓谷の巨大な穴や溝に埋めた。女性・子供・老人は、トラックで強制連行して、毒ガスで処刑して、死体を同じ蛇の渓谷に埋めた。その後にも、少なくとも約15,000人ものユダヤ人が大量虐殺されて、その後も1943年2月までロストフ・オン・ドンで虐殺は継続されて、約27,000人が虐殺された。ロスト・オン・ドンの約53,000人の民間人が強制労働のためにドイツに強制連行された。ロストフ・オン・ドンは1943年2月14日にソ連の赤軍によって解放された。

 ソ連当局は、ウクライナのキエフでのバルビヤール渓谷の大量虐殺は喧伝したが、反ユダヤ主義のためにロストフ・オン・ドンの大量虐殺は秘密裏にされた。戦後、ソ連当局はズミエフスカヤ・バルカをゴミ捨て場にして無視した。1949年に、ユダヤ人コミュニティが行った毎年恒例の追悼式は禁した。1975年5月9日なって、ナチス・ドイツによる犠牲者の記念碑がズミエフスカヤ・バルカに建立された。1990年代から2000年代に、記念碑と博物館は機能せず、小道のアスファルト舗装が崩壊して、永遠の火にガスが供給されなんかった。2009年になり修理と修復作業が始まり、2009年11月末までに復元された。




2021年10月16日土曜日

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれ、半裸で胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれて、半裸のままに胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。被爆者はほとんど全裸のままで、衣服はちぎれて、熱傷をうけた皮膚ははがれて真っ赤な肉芽が露出し、全身がやけこけて、胸部の肋骨が浮き出た。1945年9月23日頃には、窓もなく猛暑の中で、床の上に足の踏み場もない位に被爆者が横たわっていた。消毒薬さえなく海水を汲んできては煮沸して使用した救護に携わった医療関係者が証言した。特設救護病院となった新興善国民学校に重度の原爆症の被爆者を、トラックから降ろしては、担架で病室に運んだ。

 長崎原子爆弾の爆心地から約3kmの新興善国民学校の教室が、直ちに救護所の病室として使用された。被爆直後から救護所となり、8月10日午後に針尾海兵団救護隊約249人が来院して宿舎にした。被爆後に日を追って被爆者が急増して、各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。特設救護病院として10月初旬まで使用されて、10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学の移管決定して10月23日に移設した。

 長崎市内の新興善国民学校(後の新興善小で、1996度末に閉校)は長崎市内でも強固な小学校の一つだった。長崎県庁から市役所へとつながる中心市街の近くの高台に位置した。その一帯は長崎原子爆弾による爆風、熱線など、新興善国民学校はにその直接的被害は避けられた。しかし、長崎原爆により発生した2次火災により広い範囲にわたり類焼するも、同校は鉄筋コンクリートで堅固だったため類焼から免れ、原爆直後から救護所として活用された。教室を診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。

 本格的に救護所として使用することに伴って校舎での授業が一時閉鎖となり、新興善小学校の机や椅子を運び出すために校舎内から運動場に移設された。同校の学童は長崎公園(上西山町)での青空授業から、後には晧台寺(寺町)を教室にして授業が始まった。元の新興善国民学校の校舎で本格的に授業が再開されたのは1951年12月から再開された。1997年3月31日に新興善小学校は、統廃合により閉校した。2008年1月に、新興善小学校の校跡地に長崎市立図書館が開館して、救護所メモリアルを再現した。










2021年10月15日金曜日

アメリカ軍からの砲火により、沖縄住民の母親と子供が大火傷した母親は、必死に疼痛を辛抱して、子供を防御して避難した。

沖縄戦争にて、アメリカ軍が沖縄本島に1945年4月1日午前8時30分に上陸した。上陸したアメリカ軍からの砲火により、沖縄住民の母親と子供が大火傷した。重度の火傷に傷ついた母親は、必死に疼痛を辛抱して、子供を防御して避難した。アメリカ軍に救護されて担架の上で、アメリカ軍第10軍の衛生兵が、母親と子供の火傷の手当を受けた。上陸する6日前から連合軍艦隊は沖縄島に到着し、空と海から砲撃を開始した。沖縄本島への上陸作戦で、アメリカ海軍砲艦は海岸地帯にロケット砲を撃ち込んだ。海岸地帯での日本軍の抵抗を排除するため、上陸に先立って沖合の戦艦や巡洋艦から約45,000発の艦砲射撃を浴びせ、ロケット弾約33,000発、迫撃砲約23,000発を撃ち込んだ。空母から飛び立った艦載機による銃爆撃も行い、鉄の雨を降らせた。

 第10軍は沖縄本島の中央南部を比較的容易に掃討し、上陸から数時間以内に嘉手納と読谷の空軍基地を占領した。日本軍の抵抗が弱いので、沖縄北部の占領直ちに進めた。主な上陸作戦は、4月1日に第24軍は沖縄西海岸の渡具知海岸に上陸した。第2軍は南東海岸の港川海岸にて、日本軍を欺いて予備軍の参戦を遅らす示威活動を行った。アメリカ軍は4月18日までに沖縄北部で日本軍に勝利したが、南部で猛烈な戦闘が続いた。沖縄戦では、沖縄の住民約94,000人、沖縄出身者もふくむ日本軍約94,136人、アメリカ軍約12,520人が戦死した。

 沖縄戦(1945年4月1日から1945年6月22日)は、第二次世界大戦における最後の大規模な戦闘であり、最も血なまぐさい戦闘の一つとなった。1945年4月1日(イースターサンデー)、アメリカ海軍と約18万人以上のアメリカ軍の部隊が、日本本土への最後の攻撃となった太平洋の沖縄島に上陸した。この侵攻は、沖縄を含む琉球列島への侵攻と占領を目的とした。結果的には連合軍の勝利となったが、神風戦闘機や雨天、陸海空での激しい戦闘により、双方と沖縄民間人に多くの犠牲者が出た。

 4月1日に約1,500隻近い艦船と延べ約54万人のアメリカ軍兵士により沖縄本島に上陸を開始した。4月1日の夜明けを迎えると、日本軍の防衛力を弱体化するために、アメリカ軍の第5艦隊が軍隊の上陸を支援するための史上最大の砲撃を開始した。日本軍は、約13万人の兵力で沖縄を防衛して、不特定多数の徴兵された沖縄民間人や非武装の防衛隊も含まれた。




2021年10月14日木曜日

ダッハウ強制収容所には、望楼、電気柵、約3mの有刺鉄線などが設置されて、逃亡ようとした女性囚人が銃殺された。

ナチス・ドイツのダッハウ強制収容所には囚人の逃亡を防ぐために、収容所内には見張りのいる望楼、約3mもの電気柵や有刺鉄線などが設置されて、逃亡ようとした女性囚人が銃殺された。夜は柵が照らされ、囚人が電気柵に近づくとすぐに、親衛隊は警告なしに望楼から射撃した。収容所管理局に登録された少なくとも約32,000人の囚人がダッハウ強制収容所で死亡した。名前がわからない数千人の不明の犠牲者もあり、死者の数は約41,500人以上にのぼると推定された。1933年3月22日から1945年4月29日まで、ナチス政権のほぼすべての約12年間、最も長く運営された強制収容所となった。

  1933年3月22日に、バイエルン州の政治警察長であり、ミュンヘンの警察総裁であったハインリッヒ・ヒムラーの命令により、ミュンヘン近郊北西約20kmのダッハウ近郊に、捕虜の強制収容所(KZ)が設立された。1933年6月からは、テオドール・アイク(1892-1943)の管理下に置かれ、火薬工場の跡地にある強制収容所をモデル・プロトタイプ収容所として設置した。設計したダッハウの建物の配置、サービス、収容所の規則、管理、司令官室などの建設見本は、その後のすべての強制収容所のモデルとなった。ダッハウの最初の囚人は、共産主義者、社会民主主義者、労働組合員、時には自由主義や保守主義の政治家など、ナチス政権に抵抗する反対勢力であった。その後は、ユダヤ人、犯罪者、エホバの証人、抵抗キリスト教徒、シンティ・ロマ、同性愛者が収容された。

 1938年11月9日、10日のポグロムの夜だけで、シュッツバッフェル(SS)は約1万人のユダヤ人捕虜をダッハウに強制連行した。1939年3月にチェコスロバキアが崩壊した後に、1939年9月に第二次世界大戦が始まると、主に外国人の捕虜がダッハウに強制連行された。1939年10月末から1940年2月中旬まで、ダッハウ強制収容所は親衛隊(SS)部隊の訓練のために閉鎖された。囚人たちはこの期間は、他の強制収容所に分散された。1941年10月からは、約数千人のソ連軍の捕虜がダッハウ強制収容所に強制連行されて、そこで銃殺された。1942年の冬に、ダッハウ強制収容所の親衛隊(SS)医師たちは、囚人を対象とした医学人体実験を始めた。毒薬を試すために人工的に痰を出させ、負圧、高度飛行、低体温などの実験も行われた。1942から1943年に、親衛隊(SS)はダッハウ強制収容所の火葬場に毒ガス室を設置した。ダッハウ収容所内のすべてのユダヤ人囚人は、ヒムラーが親衛隊(SS)総統として出した命令に基づいて、1942年10月5日以降はアウシュビッツ強制収容所に送還された。

 ダッハウ強制収容所の約170の支部収容所は、第二次世界大戦の開戦前は、囚人たちは主に親衛隊(SS)が経営する手工業、道路建設、砂利採取、湿原の耕作などに強制労働された。1942年以降は、主に軍需品の生産に強制労働された。ドイツ軍による空爆の増加に伴って、1944年の夏に、ダッハウ強制収容所の監督者は戦闘機の生産を地下に移設した。そのために、東欧の強制収容所からユダヤ人を中心とした約3万人以上の囚人が、ダッハウ強制収容所に強制連行された。バイエルン州東部のランツベルクとミュールドルフにある2つの大規模な支部収容所では、強制収容所の囚人たちが巨大な地下工場の建設を始めた。

 連合軍の接近によるダッハウ強制収容所の解放を隠滅するために、収容所の監督者は1945年4月26日に約7,000人の囚人を死の行進で南下させて、2日後には強制収容所を出た。1945年4月29日に、ダッハウ強制収容所はアメリカ軍によって解放された。1933年から1945年の間に、約18,800人以上の人々がダッハウ強制収容所に投獄された。連合軍は解放後に、アメリカ軍は1948年のダッハウ戦争犯罪裁判が終わるまで、親衛隊(SS)隊員を収容した。 その後、元囚人の収容施設は数年間、難民や避難民の避難施設として使用された。1960年に閉鎖されて、旧火葬場の建物に暫定的な博物館が開設され、5年後には博物館付き記念館が開設された。




2021年10月13日水曜日

硫黄島の戦いで1945年3月9日にアメリカ軍兵士は、機関銃座が崩壊されて戦死した日本軍兵士の死体のそばで、戦場の狙撃手や潜伏者を慎重に監視した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、1945年3月9日にアメリカ軍により日本軍の機関銃座が崩壊された。アメリカ軍兵士が、火炎放射器により焼き殺されて戦死した日本軍兵士の死体のそばで、硫黄島で日本軍の狙撃手や潜伏者がいないか、慎重に前方の地形を監視した。日本軍兵士は多大な犠牲を伴ってアメリカ軍基地に突撃して、突入した各所で白兵戦が勃発した。

 日本軍は地下陣地をトンネルでつなぎ、思わぬ場所から攻撃を仕掛けてアメリカ軍を苦しめた。穴は非常に広いが、日本軍兵士が出入りするために残した地下壕の穴は非常に小さく、日本軍がアメリカ軍に忍び寄るのを容易した。アメリカ軍は地下壕の穴の弱点を突いて、穴に隠れていた日本軍兵士を一掃した。トンネルの建設に使われたコンクリートは、地下壕のトンネルの入口を塞ぐためにも使われた。さらにアメリカ軍は各洞窟の中に、火炎放射器、手榴弾、海水などを流し込み、あるいは大量のガソリンを入れて放火して、最終の仕掛けを始めた。満員になった洞窟に手榴弾が投げ込まれ、洞窟は一瞬にして燃え上がり、残っていた日本軍兵士のほとんどを消し去った。アメリカ軍は砲撃では破壊できないので、地下壕の穴をすべて塞いで、日本軍兵士に空気の流入せずに窒息死したり、物資の支援を受けられずに生きたまま餓死した。

 1945年2月19日から、日本軍とアメリカ軍の間で硫黄島の戦いが勃発した。硫黄島の戦いが始まった5日後の1945年2月23日、6人のアメリカ軍兵士が、摺鉢山の頂上に星条旗を掲げるも、3人は戦いの終結までに戦死した。アメリカでは、毎日学校で国歌を歌ったり、国旗の前で直立したり、忠誠の誓いをすることもある。逆説的に戦争の最中は敵であった人々は、戦争が終わったら、神格化した国旗と国歌に仲間意識と強制迎合が生まれた。戦争により国旗と国歌なども個々人の思想にまで介入し強制して、人民である限り一人の人格を踏みつぶす生命の危険を伴った。1945年3月26日未明に、栗林忠道は自ら約350人の日本軍兵士を率いて、飛行場周辺に駐留したアメリカ軍兵士に最後の全滅する攻撃を仕掛けた。日本軍は捕獲された約1,023人を除いて、散り散りになっても日本軍兵士の中には、全滅するまでより多くのアメリカ兵を殺すためには何でもする日本軍兵士もいた。




2021年10月12日火曜日

イラク軍はアマラーバスラ戦線にて、1984年2月24日にバスラ近郊のバイーダ村を襲撃して、塹壕にいたイラン軍兵士を殺害した。

イラク・イラン戦争にて、イラク軍はアマラーバスラ戦線にて、1984年2月24日にバスラ近郊のバイーダ村を襲撃して、塹壕にいたイラン軍兵士を殺害した。イラン軍は、イラク軍の防衛網を越えて、石油が豊富なマジュヌン島を占領した。バスラ近郊では、イラン軍によって繰り返し攻撃され多くの激しい戦闘が勃発した。イラク軍は1984年3月6日から、マジュヌン諸島で大量の硫黄マスタードと神経ガスの毒ガスを使用して大規模な生物化学攻撃を開始した。それ以降、イラク軍の化学兵器は、イラン軍と一般市民に対して1988年8月20日の終戦まで使用された。

 イラン軍は、1984年2月14日から3月19日までのへイバル作戦(Operation Kheibar)で、イラン・イラク戦争のイラク南部のバスラ近郊の湿地帯の戦い(Battle of the Marshes)にてイラン軍が攻勢した。イラク軍は、イラン軍のバスラへの大攻勢が失敗に終わった後に、ハウィゼ湿原の湖畔に戦線を張り、バスラへの攻撃の場を確保した。イラン軍は経済制裁を受けて、アメリカやイギリス製の軍装備品が深刻に不足して、多くの犠牲者を出した。イラン軍はパスダランとバシジの熱狂的な軍隊を有したが、十分な量の砲兵、航空支援、戦車で後方支援されなかった。

 イラン軍は、1984年2月14日からイラク軍の防衛網をかいくぐり、石油資源の豊富なマジュヌーン島に乗り込んだ。カイバル作戦は、イランにとって初めての戦略的攻勢だった。イラン空軍の戦闘出撃の回数は、1日平均約100回と不十分であった。イランは戦闘機が不足して、戦闘ヘリコプターで部隊を支援した。最終的には、イランはハウィゼ湿地帯を制圧して、イラク軍をマジュヌーン諸島から撤退させて、イラク軍に大きな打撃を与えた。イランは、湿原の戦いの最後の攻勢を開始した。イランは新たな攻撃を開始して、約25万人のイラン軍が、ハウィゼ湿地帯から西のアルクルナ方面から南のバスラ方面に向かって侵攻した。戦闘機の後方援を受けられず、装甲や砲兵も不足した。イラク軍は、イラン軍の非常に弱体化した装甲・機械化部隊による大規模な攻撃を撃退できた。イラク軍はイラン軍をハウィザ湿地帯に封じ込めた。

 最終的に、イランは湿原の戦いで約4万人の犠牲者を出し、イラクには約1万2千人の犠牲者を出した。人口の少ないイラク軍にとっては、1万2千人でも甚大な犠牲者であった。湿地帯の戦いの後に、イランはバドル作戦で、バグダッドとバスラの高速道路を奪おうとしたが、失敗に終わった。湿地帯の戦いでは、イラクは化学兵器による攻撃を併用してマジュヌーン島からイラン軍を追放した。

 アメリカとイランは、1979年にホメイニが主導する宗教革命が勃発し、イランがパーレビ王朝を倒して反米反西欧国家を樹立して以来、ずっと対立した。イランの台頭は、イランと伝統的に領土や宗教で対立してきたイラクに大きな危機をもたらした。イラクの指導者サダムは、アラブと欧米の両陣営の支援を得れると確信して、イランがまだ革命後の不安定な状態であった1980年に奇襲攻撃をかけた。約8年間もの石油取引が不安定となり過酷なイラン・イラク戦争が勃発した。1980年代の冷戦時代で悲惨なイラン・イラク戦争は、塹壕戦、兵員の戦死傷、毒ガス戦、血の山、特攻など犠牲をもたらした。1980年9月22日から1988年8月20日まで勃発したイラン・イラク戦争にて、イラク軍は約750,000人以上が戦死して、イラク軍側は約375,000人以上が戦死した。




2021年10月11日月曜日

ザールブリュッケン橋頭堡の戦いにて、ランパデンで砲撃されたアメリカ軍の戦車は、装甲に弾穴が残存して戦車の前方に2人のドイツ軍兵士の死体が散乱した。

第二次世界大戦の西部戦線にて、アメリカ軍の戦車が、1945年3月9日にザールブリュッケン橋頭堡の戦いで撃破された。ランパデン都市で砲撃された戦車の装甲の前面シートには砲弾による2つの弾穴が残存した。その戦車の前方に死んだ2人のドイツ軍兵士の死体が散乱していた。その戦車の側面から、アメリカ軍兵士が2人のドイツ軍兵士を狙撃して殺害した。ドイツ軍が要塞化した国境の防衛戦線を突破して、ライン川の下流域に迫った。3月9日にアメリカ軍によるサーブリュッケン橋頭堡の戦いで、戦車が2発の砲弾が貫通して戦車が破壊された。アメリカ軍将校がランパデンの街路の隙間を侵撃した。

 アンダートーン作戦とは、第二次世界大戦中の1945年3月に、連合軍のドイツ侵攻作戦の一環として行われた大規模な攻撃であった。ドイツのザールブリュッケンからフランスのハゲナウ南東の地点までの約75kmの区間を並行して攻撃した。ライン川に沿ってアルザス地方北東端のラウターブールに至る狭い地域であった。主力はカイザースラウテルンの回廊の中央部に設置された。ザール・プファルツ州を占領するだけでなく、マインツとマンハイムの間のライン川に橋頭堡を築いた。アメリカ軍第3軍は、左翼を守るためにモーゼル川を越える陽動攻撃に限定された。

 アメリカ軍第3軍が3月9日にドイツの通信線を蹂躙して、アンダートーン作戦は3月17日からドイツ国防軍の防衛線を突破して、戦線をカールスルーエ周辺のライン川まで押し上げた。アメリカ第3軍の迅速な侵攻により、ドイツ国内のライン川西岸までの連合軍の進撃は完了した。その後に、ライン川を越えてドイツに向かい、ニュルンベルク、そしてミュンヘンを占領した。アンダートーン作戦は3月8日から3月24日まで勃発した。連合軍は、約3,540人が死亡して、約13,680人が戦傷して、ドイツ軍は約22,000人が戦死傷した。



























2021年10月11日  Japan No War NGO  日本平和市民連盟
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2021年10月10日日曜日

韓国人の家族と親族は、朝鮮戦争中の1950年9月から10月に大田の集団墓地から発掘された悲劇の身内の死体を悲しみ探索した。

韓国人の家族と親族は、朝鮮戦争中の1950年9月から10月に大田の集団墓地から発掘された悲劇の身内の死体を泣きながら探索した。韓国軍と警察はの刑務所を空にし、韓国人の収容者を並べて頭を撃ち、死体を急ごしらえの集団墓地に捨て、廃坑や海にも投げ込まれた。アメリカ軍は、韓国軍による大規模な処刑の機密情報の写真を撮影した。大虐殺を撮影した写真は、アングルや構図から虐殺の大きさと細部を捉えた。男性の死体群が平行に横たわっていた。カメラの距離から、撮影者は、カメラのの焦点距離から死体に数メートル以内に近づいた。横たわった死体は、顔面を激しく殴られ、両手を縛られていた。韓国軍と国家警察が背後から歩み寄り、後頭部にライフル銃を向けて発砲した。丘の中腹に散らばった数多くの虐殺された死体が撮影された。浅い溝や急いで掘った集団墓地の中に直立した死体が無残な姿で撮影された。

 朝鮮戦争にて1950年7月初旬に、韓国の中央部に位置する大田で、韓国軍が数千人の政治犯の容疑である韓国人を即決で処刑した。大田の大虐殺により、約1,800人から約7,000人も殺害された。ソウルが北朝鮮軍に陥落した後の1950年7月に、アメリカ軍の監視下で、韓国軍は大田周辺で数千人を虐殺した。犠牲者の多くは、約30万人もの文盲の農民を入会させて、左翼思想に洗脳する全国的な再教育組織である民族指導連盟の会員であった。1950年6月下旬に、北朝鮮軍が首都ソウルを占領し、民族指導連盟の会員を拘束してから、韓国軍による大量処刑が勃発した。アメリカ軍は、国連軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥が共産主義者が行った残虐行為を選択的に強調して、韓国軍が行った虐殺を黙認した。大田を奪還していたアメリカ軍は、1950年9月に北朝鮮軍による右翼思想の政治犯の処刑を公表して、アメリカ軍は北朝鮮軍による虐殺事件に転嫁した。韓国軍の戦争犯罪を写真や証言の報道をアメリカ軍の検閲と糾弾して、保有する証拠記録をすべて機密扱いにした。半世紀の間、アメリカ軍の公式見解は大田の虐殺をすべて北朝鮮の仕業とした。戦後の韓国政府は、遺族や目撃者に恐ろしい事実を隠蔽した。

 2000年初頭になり、AP通信が老斤里でのアメリカ軍による民間人殺害を報じた。アメリカ国立公文書館で機密解除されたアメリカ軍の記録から、韓国が大田で政治犯の容疑者の韓国人を即時処刑したわずかな証拠資料が出てきた。その後10年以上にわたり、韓国真実和解委員会(SKTRC)などによる調査が行われ、韓国政府が行った過剰な無差別殺戮の実態であった。調査委員会は、韓国の人口約2,000万人の内で、少なくとも10万人が処刑されたと推定した。




2021年10月9日土曜日

被爆者の死体は、原子爆弾の影響を調査研究する対象となり、夏日で蝿が回って悪臭が漂う不潔な木造の仮設の小屋で、次々と病理解剖された。

 被爆して救護所で死亡した被爆者の死体は、原子爆弾の影響を調査研究する対象となった。草津国民学校救護所に救護所に臨時病理解剖所が設置された。1945年10月13日に、京都府立医科大学の荒木教授により、夏日で蝿が回って悪臭が漂う不潔な木造の仮設の小屋などで、次々と病理解剖された。死体を仰向けにして、胸部から腹部から下腹部まで切開して、肝臓などの内蔵を包丁などで摘出しは、病理解剖標本を作成した。顔面には、タオルを掛けて表情を伏せた。半強要した回収した約200人を超す死体の病理解剖した結果は14冊の報告書に集積された。被爆者の解剖標本は、ワシントン郊外にあるアメリカ陸軍病理学研究所に、原爆に関する調査資料が収集された。既に病理的調査が終了した病理解剖標本は、その一部が1973年に日本の広島大学医学部と長崎大学医学部に返還されて保管された。

 アメリカ原爆調査団長のフォターソン大佐は、原爆の医学的影響として6冊の報告書を報告した。政治的な配慮から機密解除は遅延した。第6巻に、子供に対する原子爆弾の影響を記録した。日本人の医療関係者が集積した約17,000人もの被爆した子供のデータ(広島と長崎の児童被爆者)が集積された。爆心地からの距離と死亡率を示した死亡率曲線を導いていた。原子爆弾の驚異的な殺傷能力を実証して、極めて重大な軍事機密情報となった。原子爆弾の影響に基づいて、アメリカ軍は原爆攻撃の効果を検証した。モスクワなら約6発、スターリングラードは約5発、ウラジオストックなら約3発の原子爆弾で崩壊すると予想していた。

 東京大学教授の都筑正雄が、世界で初めて原子爆弾症をカルテに1945年8月24日に記載した。文部省学術研究会議の原子爆弾災害調査特別委員会の医学部門長として8月30日に広島に赴任した。GHQは1945年11月から原爆に関する研究報告と情報の共有も禁止した。調査団の調査資料は全てかせアメリカ軍に没収された。被爆者に対する人体実験と生体変化も最大限に実施された。















2021年10月8日金曜日

日本軍は平津作戦後に平津から南進して、日本軍の工兵隊はトーチカを含めて爆破して、1937年9月14日に殺害された中国国民党軍兵士の多数の死体が平津地方に散乱した。

日本軍は日中戦争にて、平津作戦から1937年9月14日に北支那方面軍が、北平(現在の北京)・天津の平津地方からより南進の侵攻を開始して、保定を攻略した。日本軍は平津作戦後に平津から南進して、中国国民党軍を追撃した。中国国民党軍の一部は撤退に遅延して、日本軍の工兵隊によって、トーチカを含めて爆破された。1937年9月14日に殺害された中国国民党軍兵士の多数の死体が平津地方で散乱した。

 日中戦争は、1937年7月7日に、盧溝橋の発砲事件から勃発した。関東軍は、7月11日に華北に派兵を命令された。平津作戦により、日中戦争初期の北支事変にて、日本軍は1937年7月28日から7月30日に中国国民党軍に対して戦闘した。7月30日までに、天津地方を占領して一時的に停戦した。日本軍は盧溝橋事件の停戦協定の締結後に、北支一帯に駐屯する軍隊を増強した。一方の中国国民党軍も小競り合いを繰り返し、両軍に緊張状態が高まった。7月25日に夜に日本軍の一部が廊坊に侵入し、7月26日には廊坊を占領した。1937年7月26日に北平(現在の北京)で広安門事件で、中国国民党軍が日本軍を攻撃を加え、日本軍は総攻撃を決定した。

 平津作戦により、日本軍は直ちに7月28日に北平(現在の北京)を陥落した。1937年7月29日には、北京の西の通州で、支那人部隊が数百人の日本人居留民を虐殺した通州事件が勃発した。平津作戦により、日本軍は北京と天津にわたる平津地方を占領して、次第に本格的な日中戦争が中国にて全面的に勃発した。日本軍は7月28日に北平を、7月30日に天津を占領した。日中戦争が非公式に勃発した1937年には、中華民国の金融・軍事拠点であった都市は北京とは呼称されず、中国語で北の平和である北平の名称であった。