ナチス・ドイツのダッハウ強制収容所には囚人の逃亡を防ぐために、収容所内には見張りのいる望楼、約3mもの電気柵や有刺鉄線などが設置されて、逃亡ようとした女性囚人が銃殺された。夜は柵が照らされ、囚人が電気柵に近づくとすぐに、親衛隊は警告なしに望楼から射撃した。収容所管理局に登録された少なくとも約32,000人の囚人がダッハウ強制収容所で死亡した。名前がわからない数千人の不明の犠牲者もあり、死者の数は約41,500人以上にのぼると推定された。1933年3月22日から1945年4月29日まで、ナチス政権のほぼすべての約12年間、最も長く運営された強制収容所となった。
1933年3月22日に、バイエルン州の政治警察長であり、ミュンヘンの警察総裁であったハインリッヒ・ヒムラーの命令により、ミュンヘン近郊北西約20kmのダッハウ近郊に、捕虜の強制収容所(KZ)が設立された。1933年6月からは、テオドール・アイク(1892-1943)の管理下に置かれ、火薬工場の跡地にある強制収容所をモデル・プロトタイプ収容所として設置した。設計したダッハウの建物の配置、サービス、収容所の規則、管理、司令官室などの建設見本は、その後のすべての強制収容所のモデルとなった。ダッハウの最初の囚人は、共産主義者、社会民主主義者、労働組合員、時には自由主義や保守主義の政治家など、ナチス政権に抵抗する反対勢力であった。その後は、ユダヤ人、犯罪者、エホバの証人、抵抗キリスト教徒、シンティ・ロマ、同性愛者が収容された。
1938年11月9日、10日のポグロムの夜だけで、シュッツバッフェル(SS)は約1万人のユダヤ人捕虜をダッハウに強制連行した。1939年3月にチェコスロバキアが崩壊した後に、1939年9月に第二次世界大戦が始まると、主に外国人の捕虜がダッハウに強制連行された。1939年10月末から1940年2月中旬まで、ダッハウ強制収容所は親衛隊(SS)部隊の訓練のために閉鎖された。囚人たちはこの期間は、他の強制収容所に分散された。1941年10月からは、約数千人のソ連軍の捕虜がダッハウ強制収容所に強制連行されて、そこで銃殺された。1942年の冬に、ダッハウ強制収容所の親衛隊(SS)医師たちは、囚人を対象とした医学人体実験を始めた。毒薬を試すために人工的に痰を出させ、負圧、高度飛行、低体温などの実験も行われた。1942から1943年に、親衛隊(SS)はダッハウ強制収容所の火葬場に毒ガス室を設置した。ダッハウ収容所内のすべてのユダヤ人囚人は、ヒムラーが親衛隊(SS)総統として出した命令に基づいて、1942年10月5日以降はアウシュビッツ強制収容所に送還された。
ダッハウ強制収容所の約170の支部収容所は、第二次世界大戦の開戦前は、囚人たちは主に親衛隊(SS)が経営する手工業、道路建設、砂利採取、湿原の耕作などに強制労働された。1942年以降は、主に軍需品の生産に強制労働された。ドイツ軍による空爆の増加に伴って、1944年の夏に、ダッハウ強制収容所の監督者は戦闘機の生産を地下に移設した。そのために、東欧の強制収容所からユダヤ人を中心とした約3万人以上の囚人が、ダッハウ強制収容所に強制連行された。バイエルン州東部のランツベルクとミュールドルフにある2つの大規模な支部収容所では、強制収容所の囚人たちが巨大な地下工場の建設を始めた。
連合軍の接近によるダッハウ強制収容所の解放を隠滅するために、収容所の監督者は1945年4月26日に約7,000人の囚人を死の行進で南下させて、2日後には強制収容所を出た。1945年4月29日に、ダッハウ強制収容所はアメリカ軍によって解放された。1933年から1945年の間に、約18,800人以上の人々がダッハウ強制収容所に投獄された。連合軍は解放後に、アメリカ軍は1948年のダッハウ戦争犯罪裁判が終わるまで、親衛隊(SS)隊員を収容した。 その後、元囚人の収容施設は数年間、難民や避難民の避難施設として使用された。1960年に閉鎖されて、旧火葬場の建物に暫定的な博物館が開設され、5年後には博物館付き記念館が開設された。