2021年10月2日土曜日

24歳の日本軍兵士は、広島原子爆弾の爆心地から約1kmで被爆し宇品病院で体温約40.3度に上昇し白血球数は約1,300に低下した。

爆心地から約1kmの兵舎で日本軍兵士の沖田博(24歳男性)が被爆して宇品病院に収容された。ほとんど医療は受けれずに検査ばかりが継続された。一時期に約40.3度まで体温が上昇して、白血球数は約1,300まで低下した。その時点で、頭皮や口腔内、歯肉の写真(下記)が撮影された。原子爆弾による早期からの脱毛の一部は軽快して生存できた。口腔内、歯肉からは出血傾向にあった。

 太平洋戦争の終戦直後から、GHQ司令部から約1,300人にも及ぶ大規模な原爆調査団が被爆地に派遣された。ほとんどの被爆者は治療を受けれずに、原爆症の被爆者の実態調査データを徹底的に収集された。原爆調査団は報告書を英語に翻訳して、1945年11月30日に第1東京軍事病院から提出された。約2年間にもわたる膨大な原爆調査記録の181冊が、GHQのアメリカ陸軍・オーターソン大佐が回収した。それらはワシントンにあるアメリカ国立公文書館に保管されていた。約200人の死体からの病理検査データも回収されていた。調査対象者となった被爆者は、約20,000人にも及んだ。被爆者は、動物実験のように人体の影響が無慈悲に調査された。

 最初の原子爆弾の実態調査は、陸軍省医務局が1945年8月8日から旧陸軍宇品病院で、新型爆弾による原爆症の被爆調査を指揮して実施した。その調査結果は、1945年11月30日に「原子爆弾二依ル 廣島戦災醫學的調査報告書」(Medical Report of the Atomic Bombing in Hiroshima)として、陸軍軍醫學校東京第一陸軍病院から報告された。敗戦国の日本は、第二次世界大戦の戦争犯罪から逃れるためにも、GHQから原子爆弾の威力と影響を求められるに先立って提出した。

 アメリカ軍からの原爆調査団は、戦後の約2ケ月後なってから派遣された。その時からアメリカ軍の調査団に、東京帝国大学の放射線医学の都築正男教授など学識者が調査に惨禍した。広島市内の約70箇所にわたる約17,000もの子供に対して原子爆弾が及ぼす原爆症と原爆死を調査した。爆心地から約0.8kmでは560人が全員の子供が死亡して、約1.3kmでは132人中50人の子供が死亡した。