2024年10月31日木曜日

延辺文化大革命に巻き込まれ、趙永華(趙永华)は、冤罪で殺人犯として公開処刑された。民衆が取り囲んで、抑え込まれ、銃撃された頭部から出血した死体は仰向けに倒れた。

延辺文化大革命に巻き込まれて、趙永華(趙永华)は、冤罪により殺人犯として公開処刑された。多数の民衆が取り囲んで、抑え込まれて、頭部を銃撃された。趙永華の死体は、前頭部から出血して、草原に仰向けに倒れた。中国全国で約402,000件の冤罪が発生した。

 1966年5月から中国全土を揺るがした文化大革命は、辺境の延辺朝鮮族の社会にも1966年8月から深い傷跡を残した。自らの民族性を否定され弾圧された厳しい時代であった。江青女史の指示により、漢族と朝鮮族との葛藤が助長されて、同族同士の殺し合いにまで発展した巧妙に仕組まれた民族抹殺計画であった。中国の吉林省にある豆満江沿いの延辺朝鮮族自治州は、中国政府が1952年に、中国の55少数民族の一つである朝鮮族の自治を認めた。

 毛遠新は、毛沢東の実弟である毛沢民の息子であった。1941年に新疆で生まれ、2歳の時に父親の毛沢民が、少数民族勢力に殺害された。その後、毛沢東は毛遠新を親子のように大切にした。毛遠新は北京清華大学に通って、1964年にハルビン軍事工程学院を卒業した。文化大革命が始まるとすぐに信奉者たちを連れて1966年10月末に延辺へ渡った。

 毛遠新は、毛沢東の妻である江靑の指示を直接に受けた。毛遠新は、延辺朝鮮族自治州で民族紛争を起こし、多くの犠牲者を出した。毛遠新は、東北の太上皇と呼称され、強大な権力を誇った。毛沢東の死後に、四人組と共に逮捕された。懲役17年、政治資格剥奪4年の判決を受けた。1993年に刑期を終えて釈放された。

 韓国の写真家の柳銀珪は、十数年間にわたり、延辺朝鮮族自治州など中国東北部の朝鮮族の移住と定着の歴史を掘り起こした。延辺文化大革命を記録した一人の朝鮮族写真家と出会い、膨大な量のフィルムを入手した。過ぎた時代を生々しく再現する痛恨の「延辺文化大革命」を公表した。中国では未だ発表できない事実が、朝鮮族の文化大革命であった。



















2024年10月30日水曜日

アフガニスタンのチャリカール近郊の空港にて、タリバンの砲撃で死亡したアフガニスタン人の死体を、北部同盟のアフガニスタン人の兵士達が砲弾の跡を取り囲み見詰めた。

アフガニスタンのチャリカール近郊の空港にて、タリバンによる砲撃で死亡したアフガニスタン人の死体を、北部同盟のアフガニスタン人の兵士達が砲弾の跡を取り囲み見詰めた。タリバンの攻撃で破壊された建物からは死傷者を運び出していた。

 アフガニスタン紛争の当時は、アフガ二スタン内情勢の報道はとても少なかった。報道写真家集団の「マグナム」のクリス・スティール=パーキンスは、1994年から国境なき医師団の活動で、アフガニスタンと関わり始めた。1994年から1998年までの約5年間に4回にわたり、当時タリバン政権下のアフガニスタンを記録した貴重な白黒の写真を残した。至近距離でアフガニスタンの日常を見詰めた写真は稀少である。マグナムは、約50年以上にわたり歴史に残る戦場写真を提供し続けた。しかしその50年間で一度も、戦争の勃発を無なくならなかった。

 荒廃したアフガニスタンの国土を戦車や兵士が行き来した。死者と負傷者が、あちこちに溢れた。紛争の緊張のなかで、瓦礫の日常の光景を丹念に象徴した。平和とは何か、世界から孤立すると何かを、問いかける写真である。2007年から2021年の間に推定7万3000人のアフガン軍と警察官が死亡して、数万人のタリバン戦闘員も死亡した。アフガニスタン内戦で約4万7000人の民間アフガニスタン人が死亡し、

 アフガニスタンのタリバンは1990年代初頭に設立されたスンニ派イスラム民族主義者で親パシュトゥーン勢力である。1979年にアフガニスタンに侵攻したソ連軍が、支援した政府が1992年に崩壊した。その後に、タリバンが1996年から2001年10月までアフガニスタンの大部分を支配した。タリバンが政権を取ってから,市民は見捨てられ、冷たい路上に放り出され,物乞いするか,ゴミを漁るか,あるいは死んでいった。孤児院では,就労禁止を拒否され、女性達はタリバン兵に虐待された。2001年9月11日の同時多発テロ後に、アメリカ軍は2001年10月にはテロ組織であるアルカイダを支援するタリバンを撃墜した。しかしその後に、タリバンは2021年8月にアフガ二スタンでの政権を奪還した。
















2024年10月30日  
Japan No War  (JNW)
日本平和市民連盟  
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2024年10月29日火曜日

太平洋戦争末期の沖縄戦にて、1945年8月4日に沖縄戦で親を失ったり、遺棄されたりした日本の孤児たちが、アメリカ軍が解説した沖縄本島中部の孤児収容所であるコザ孤児院でわずかな配給を分け合って食べていた。

太平洋戦争末期の沖縄戦にて、1945年8月4日に沖縄戦で親を失ったり、遺棄されたりした日本の孤児たちが、アメリカ軍が解説した沖縄本島中部の孤児収容所であるコザ孤児院でわずかな配給を分け合って食べていた。コザ孤児院に裸でやせ細った孤児たちが集められた。

 アメリカ軍は4月1日の沖縄本島上陸後、戦場に取り残された孤児への保護施設を造り始め、孤児院11カ所、老人施設9カ所を各避難民の収容所に併設した。孤児は少なくとも1000人以上いるとみられるが、正確な人数は分かっていない。避難民の女性らが保母として世話したが、体力のない年少者の中では栄養失調による衰弱死が相次いだ。アメリカ軍は、沖縄本島に最大で14カ所の孤児院を開設した。多の子が衰弱死したが、全体像は不明であった。沖縄南部で戦闘が終結する6月下旬になると、南部から続々と負傷者や住民が運ばれてきて、多くの子どもたちがおり、コザキャンプ内にコザ孤児院は設立された。コザ孤児院は1945年6月から1949年11月の4年5か月まで開設され、1945年7月時点では収容人数は600人を超えていると記載された。

 アメリカ軍軍政府は1945年4月以降に、戦場をさまよう孤児の間に合あわせの対策として、沖縄本島のあちらこちらの避難地域に孤児院を設けた。孤児院は民家やテントを利用した簡単な造りであった。ひめゆり学徒隊や教育関係者、空手家、「慰安婦」らが孤児たちの世話をした。当時の孤児院に関する資料はとても少なく、全体像は明らかになっていない。コザ孤児院や旧羽地村(現名護市)の田井等孤児院では、多くの子どもが衰え弱って亡くなった。孤児の命と人権は守まもられていなかった。

 沖縄諸島を中心とした沖縄戦の戦いで82日間にわたり、1945年4月1日から6月22日まで続いた。沖縄戦は、戦闘の激しさ、日本軍の守備隊による神風特攻の激しさ、沖縄に上陸した膨大な連合軍の艦船や装甲車両で、太平洋戦争で最も血なまぐさい戦いの一つとなった。1948年の「全国孤児一斉調査」では、戦争孤児は全国で12万人であった。1950年代の琉球政府のまとめでは、沖縄に孤児は約3,000人いたとされた。調査によって数字には幅があり、実際にはもっと多いとみられる。




2024年10月28日月曜日

1982年3月に、エルサルバトル政府軍兵士が首都サン・サン・バトルの貧民街のサン・アントニオ・アバドで銃撃戦で殺害したゲリラの戦闘員の死体をトラックに載せた。

1982年3月に、エルサルバトルの首都サン・サン・バトルの近郊の貧民街のサン・アントニオ・アバドで内戦の銃撃戦が勃発した。政府軍とゲリラ側の双方で約15人が殺害された。エルサルバトル政府軍兵士が、銃撃戦で殺害したゲリラの戦闘員の死体をトラックに載せた。エルサルバドル政府軍兵士は、集めたゲリラの死体を無造作に、まるで荷物のようにトラックに投げ込んだ。死体を引き上げる兵士の手にはするどうナイフが握られ、ヘラヘラ笑っていた。兵士が銃撃を打ち込んだ路地では、兵士が殺害したゲリラの死体を引きずっていた。

 さらにサン・アントニオ・アバドでは、路地の奥には、が胸をナイフでえぐられて殺害された若い女性ゲリラ死体があり、横の水たまりが赤く血で染まった。政府軍兵士は、民家のドアを蹴破り、1組の夫婦を引っ張り出して暴行して尋問した。首都サン・サン・バトルの近郊の貧民街のサン・アントニオ・アバドはの貧民街は、ゲリラの拠点となり、政府軍との内戦に巻き込まれた。

 1980年にゲリラ闘争をした5つの左翼グループがファランド・マルチ民族会報戦線(FMLN)を結成した。1981年にFMLN側が攻勢するも、アメリカの後方支援を受けたエルサルバドル政府軍が圧倒的な軍事力でゲリラ掃討を展開した。10年間にわたる内戦で、約50万人が住居と仕事失って、約7万人が死亡した。極右の暗殺部隊によるテロで、改革派を大量虐殺した。1979年10月15日から1992年1月16日にわたる12年間にわたる内戦で、約50万人が住居と仕事失って、約7万人が死亡した。極右の暗殺部隊によるテロで、改革派を大量虐殺した。政府軍は約10,360人が死亡して、FMLM側は約12,274人から20,000人が死亡して、民間人は約65,161人が死亡した。約55万人が国内避難して、約50万人が国外難民となった。1992年1月16日に調印されたチャプルテペック和平協定で、サルバドール内戦が終結した。この条約は、サルバドル政府とFMLNの間の和平を確立して、FMLNは政党として1994年から大統領選挙に参加した。





2024年10月27日日曜日

第10軍団外科医ジョン・R・ホール大佐が1946年1月26日に、顔にやけどを負った女性への原子爆弾の影響を、極東諮問委員会に説明した。

                    非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

                                           SC-241243


























SC-241243

Col. John R. Hall, Surgeon of 10th Corps, describes affects of atomic bomb on a woman with face burns to members of Far dastern Advisory Commission. 1/26/46

Signal Corps Photo APA-46-64690 (Direda), released by BPR 4/1/46. orig. neg.

Lot 13534

Pg


SC-241243

第10軍団外科医ジョン・R・ホール大佐が1946年1月26日に、顔にやけどを負った女性への原子爆弾の影響について、極東諮問委員会のメンバーに説明している。

通信兵部隊撮影 APA-46-64690 (Direda)、1946年4月1日BPRに公開。原本のネガ。

ロット:13534

Pg

2024年10月26日土曜日

イスラエル・パレスチ戦争にて2024年7月3日に、トゥルカレム近郊のヨルダン川西海岸のヌールろシャムス難民キャンプで葬儀が挙行された。7月3日にイスラエルの空爆で4人のパレスチナ人が死亡した。

イスラエル・パレスチナ戦争にて2024年7月3日に、トゥルカレム近郊のヨルダン川西海岸のヌールろシャムス難民キャンプで葬儀が挙行された。7月3日にイスラエルの空爆で4人のパレスチナ人が死亡した。4人は、イスラム聖戦の旗に包まれた弔問客は遺体に祈りを捧げた。イスラエル軍は、爆撃機が難民キャンプで爆発物を仕掛けた武装グループを空爆したと公表した。

 イスラエル軍はヨルダン川西岸地区にて、過去30年以上で最大の土地の接収を承認したと、入植地追跡グループが2024年7月3日に発表した。イスラエル軍がヨルダン川西岸地区にて占領の拡大は、ユダヤ人の入植者がベンヤミン・ネタニヤフ首相政権に強い影響力を反映した。入植地の開発に権限を掌握し、イスラエルの領土支配を強固にして、パレスチナ国家の誕生を阻止して拡大政策を加速させた。

 ヨルダン川西岸地域は、以前から入植者の暴力がパレスチナ人のコミュニティを追放していた。暴力は、2023年10月7日のハマスの攻撃がガザで勃発して以来、急増した。国連は、入植者たちは10月以来、ヨルダン川西岸でパレスチナ人に対して1,000件以上の攻撃を行った。ヨルダン川西岸に住む300万人のパレスチナ人は、イスラエルの軍事支配下にある。 

 ヨルダン西岸の占領地を国有地と宣言して、イスラエル政府は土地をイスラエル人に貸し出して、パレスチナ人の個人所有を禁止した。2024年の土地の接収は連続して、すでに存在する2つの入植地をつなげて、ヨルダンとの国境近くに強固な障壁を形成した。この土地は、国有地と宣言される前に、イスラエル軍は閉鎖区域と宣言していた。














Mourners pray over the bodies wrapped with Islamic Jihad flags, of four Palestinians who were killed by an Israeli airstrike late Tuesday, during their funeral near Tulkarem on July 3, 2024. | (Nasser Nasser/AP)

2024年10月25日金曜日

第二次世界大戦の東部戦線で、1944年7月24日にソ連軍がマジャダネク強制収容所を解放した。その後に、ポーランドのルブリンにあるマジャダネク強制収容所の敷地には、死亡した人間の人骨と頭蓋骨が散乱していた。

第二次世界大戦の東部戦線にて、1944年7月24日にソ連軍によりマジャダネク強制収容所が解放された。その後に、ポーランドのルブリンにあるマジャダネク強制収容所の敷地には、死亡した人間の人骨と頭蓋骨が散乱していた。アウシュビッツに次いでポーランドで2番目に大きな死の収容所となった

 ナチス・ドイツの親衛隊は1944年春に、ほとんどの囚人をさらにマジャダネクから西の強制収容所に避難させた。1944年7月下旬に、ソ連軍がルブリンに近づくと、残っていた収容所のドイツ人職員は、収容所を完全に解体することなく、至急にマジャダネクを放棄した。ソ連軍は7月22日から7月23日の夜に初めてマジャダネクに到着して、7月24日にルブリンを占領した。ほぼ無傷で捕獲されたマジュダネクは、解放された最初の主要な強制収容所であった。ソ連当局はジャーナリストを招いて、収容所と恐怖の証拠を視察させた。

 ドイツ占領下のポーランド、ルブリン郊外にあったマジュダネク強制収容所では、ヨーロッパ各地から約8万人の囚人が死亡した。収容されたユダヤ人、ロマ人、シンティ人、同性愛者、身体障害者、反対運動家はガス室で殺害された。その他に銃殺、殴打、火刑、飢餓、労役で死亡した。ソ連軍は1944年7月7月24日に、現在のウクライナとベラルーシの国境の近隣にあった収容所を解放した。その4年間で、50万人近くの囚人が収容所に入った。 推定36万人がそこで、飢餓、病気、銃殺、ガス室で死亡したと推定された。2005年には、78,000人の犠牲者(そのうち59,000人はユダヤ人)という公式に推定された。





2024年10月24日木曜日

1952年7月21日夜に、ベトナムでフランスのキャップ・サン・ジャック軍事休憩所が襲撃されて、フランス軍の下士官および将校8人、フランス人の子供6人と女性2人、ベトナム人の子供4人が死亡した。

1952年7月21日夜に、ベトナムでフランスのキャップ・サン・ジャック軍事休憩所が襲撃されて、フランス軍の下士官および将校8人、フランス人の子供6人と女性2人、ベトナム人の子供4人が死亡した。ベトナムのバオダイの手前で7月8日から7月10日にかけて開かれた会議で、フランス軍のサラン将軍はベトナムの軍事状況は満足のいくものであると繰り返して、フランス軍隊による「ベトナム化」を加速させたいと述べた。しかし、悪天候にもかかわらず行われたフランス軍の掃討作戦に対して、ベトミン(ベトナム民主共和国)はテロ行為を続けた。第一次インドシナ戦争は、1946年12月19日から1954年7月21日まで、フランスとベトミン(ベトナム民主共和国)および同盟国との間で戦われた。

 ベトミンは、40万人の民間人死者総数のうち、10万人から15万人を暗殺した。ベトミンの戦闘員は、この紛争全体を通じて、組織的な慣行としてテロ攻撃を実行し、しばしばヨーロッパ系およびユーラシア系の民間人を標的にした。ヨーロッパ人に対する最悪の攻撃の一つは、1952年7月21日に、ベトミンの武装勢力が手榴弾、ステンガン、ナタを使って、キャップ・サン・ジャックの軍事病院で、病気休暇中の将校8人、子供6人、ベトナム人使用人4人、女性2人の非武装の20人が虐殺された。ベトミンの捕虜収容所では、フランス連合軍やベトナム国民軍の捕虜の多くが拷問により死亡した。 

 第一次インドシナ戦争中に、フランス軍兵士によるベトナム民間人に対する虐殺強姦事件が数多く発生した。1945年8月のフランス軍のベトナム帰還後に、サイゴンで強盗や殺人事件が発生した。ベトナム北部でも、1948年にベトミンが敗北した後に、フランス軍兵士によってベトナム人女性が強姦された。バオハー、バオイエン郡、フールーなどの地域である。1948年6月にはフランス軍の訓練を受けたベトナム軍兵士400人がベトミンに寝返った。フランス軍により、ベトミン軍が民間人の居住地に身を隠すため、多数のベトナム民間人が殺害された。フランス軍による最大規模の虐殺のひとつは、1947年11月29日に起きたミー・トラック虐殺事件で、フランス兵士が200人以上の女性と子供を殺害した。



2024年10月23日水曜日

太平洋戦争末期の沖縄戦にて戦死した日本兵士の死体は、弔う者もなく、そのまま埋葬もされずに放置されていた。沖縄戦の戦闘は激しく、通常は至近距離で行われた。

太平洋戦争末期の沖縄戦にて戦死した日本兵士の死体は、弔う者もなく、そのまま埋葬もされずに放置されていた。(アメリカ軍通信部隊, 米国国立公文書館、NARA-2)アメリカ軍と日本軍の一進一退の砲撃戦は、昼夜を問わず沖縄を揺るがした。アメリカ第10軍は戦闘中に110万発の105ミリ榴弾砲を発射し、戦争中には最大規模の砲撃を行った。沖縄戦の戦闘は激しく、通常は至近距離で行われた。アメリカ軍と日本軍は多くの丘の斜面で交戦し、洞窟、塹壕、壕、ピルボックスなどで対戦した。アメリカ軍は1945年4月1日から6月22日まで、日本本土からわずか約550kmしか離れていない琉球諸島の約1660平方kmを支配するため、沖縄戦で情け容赦ない戦闘を繰り広げた。

 1945年4月1日、米第10軍が沖縄に侵攻して、太平洋戦争の最後の水陸両用上陸作戦が行われた。アメリカ陸軍4個師団とアメリカ海兵隊3個師団からなるアメリカ第10軍は、日本本土への侵攻に備えて、沖縄本島を占領するため、アイスバーグ作戦を実行した。アメリカ軍の兵士と海兵隊員は82日間戦闘をして、大日本帝国軍と戦いながら、途上にて欧州戦線の終結した1945年5月8日の欧州戦勝記念日(VEデイ)を知った。アメリカ軍は1945年6月22日に、ついに沖縄を占領して、ほとんどの日本軍の抵抗勢力を壊滅した。

 沖縄戦は、太平洋戦争で最も激しい戦闘の一つであった。沖縄戦は英語では "typhoon of steel"(鋼鉄の台風)、日本語では"tetsu no ame(鋼鉄の雨)"または"tetsu no bōfū(鋼鉄の暴風)と呼称された。ニックネームは、戦闘の激しさ、日本軍の神風攻撃の激しさ、沖縄島を襲撃した膨大な連合軍の艦船や装甲車を象徴した。

 沖縄戦は、太平洋戦争で最も血なまぐさい戦いの一つで、連合軍5万人以上、日本軍8万4166~11万7000人以上、日本の軍服を着た徴兵防衛隊員を含む約16万人の死傷者を出した。沖縄戦にて、アメリカ軍兵士が7,374人が戦死して、約31,807人が戦傷した。約149,425人の沖縄県民が死亡、自決、行方不明となり、沖縄戦の戦前の推定人口300,000人のおよそ半分を占めた。沖縄戦争の日本人の戦没者数は、日本軍兵士は94,208人、沖縄県民は約94,000人とアメリカ軍は約12,520人と推定された。




2024年10月22日火曜日

1911年12月23日に、黒人男性のフランク・リチャードソン(26歳)は、アラバマ州タスカルーサでの2人の白人男性を殺害した罪に問われ、リンチで残酷な死刑が郡拘置所で執行されて、多くの人々が立ち会った。

1911年12月23日に、黒人男性のフランク・リチャードソン(26歳)は、アラバマ州タスカルーサで2人の白人男性を殺害した罪に問われ、十分な正規の法手続き無しのリンチで、残酷な刑罰の死刑執行で殺害された犠牲者となった。彼は逮捕され、アラバマ州にて絞首刑に処された。リチャードソンは1884年にタスカルーサのノースポートで生まれ、農夫として働いていた。 シャーロット・リチャードソンと6年間結婚し、二人ともタスカルーサのノースポート、クラブ・ロードに住んだ。

 タスカルーサ郡で8年ぶりに死刑が執行され、黒人のリチャードソンが殺人罪で絞首刑に処せられた。絞首刑に処されて、17分後に医師によって死亡が宣告された。処刑は郡拘置所で行われ、多くの人々が立ち会った。1877年から1950年までにアメリカの800の郡で、黒人に対して4,400件のリンチされ、ほとんど加害者は起訴されなかった。

 アラバマ州タスカルーサ郡で、その数週間前に、黒人が白人に鞍を貸すのを拒否して喧嘩の末に白人が射殺された。白人を殺害した黒人は、ウィンチェスター・ライフルで武装して森に逃げ込んだ。警察隊が組織されて、逃亡者の追跡に猟犬が配置された。発砲が交わされ、隊長のブラウン・ホートンが致命傷を負った。その後に、黒人のリチャードソンが捕まった。最初に殺害されたのはトム・クーパーという元副保安官である。リチャードソンは捕まった後に、リンチを防ぐためにバーミンガムに強制送還された。リチャードソンが罪状認否を受けて、ホートン殺害の罪だけで裁かれた。世間は二重殺人で非常に興奮した。

 裁判では世間はリチャードソンに反感を抱くも、裁判の証人たちは、クーパーと揉めるまで、リチャードソンの人柄はおとなしいと証言した。リチャードソンの弁護には裁判所から若い弁護士事務所が任命された。陪審は第一級殺人の評決を下し、リチャードソンの死刑執行日は12月22日の金曜日に決まった。死刑囚の黒人のリチャードソンには多くの同情が寄せられた。彼が暴走する前の善良な性格と最初の殺人の状況が、無期懲役に減刑も強く訴えらた。




2024年10月21日月曜日

ファシストによりイタリアを戦争に引きこんだベニート・ムッソリーニの脳味噌が、1945年4月30日にミラノ中心部のきたないロレート広場の汚泥の上に流れ出た。

ファシストによりイタリアを戦争に引きこんだベニート・ムッソリーニの脳味噌が、1945年4月30日にミラノ中心部のきたないロレート広場の汚泥の上に流れ出た。午後にアメリカ軍は死体を撤去して、銃弾の跡だらけのムッソリーニ等のひどく損傷した死体をミラノの死体安置所に運ぶように命じた。アメリカ軍は、ムッソリーニと愛人クラ・レッタペタッチの死体を互いに並ばせて、不気味なポーズをとらせて撮影した。

 第二次世界大戦にて連合国軍は北アフリカで勝利した後に、1943年夏にシチリア島へ上陸した。イタリア半島を首都ローマへ向かって攻めのぼった。1944年6月5日に首都ローマを解放した。1922年以来に絶対的権力を握ってきたイタリア・ファシスト党の独裁者ベニート・ムッソリーニは、シチリア陥落後政権の座を追われて監禁された。

 1943年後半に、ナチス・ドイツ軍の降下部隊が、アペニン山脈のスキー場に幽閉されたムッソリーニの救出に成功した。ムッソリーニはイタリア全土の権力者に再びに返り咲けなかった。当時イタリア政権はすでに方針を転換して、連合国側で戦っていた。ムッソリーニはヒトラーに命令のままに、北イタリアにイタリア社会共和国を樹立して傀儡の元首におさまった。

 1945年に第二次世界大戦の戦況が、ナチス・ドイツ軍は著しく戦況が不利になるにつれ、ムッソリーニを支える余力はなかった。1945年の4月末に、ムッソリーニの一行はミラノの拠点を脱出した後に、反ファシストのパルチザンがムッソリーニーを追った。極右の指導者たちに対して長年の戦争犯罪を償わせる指令が出された。1945年4月27日にスイス国境近くのコモ湖畔の路上で、ムッソリーニと愛人クラ・レッタペタッチはともにパルチザンに捕まった。翌日の4月28日午後でヒトラーが自殺する2日前に、2人は略式裁判により機関銃で銃殺された。ミラノのロレート広場に運ばれたムッソリーニとペタッチと、14人のファシストの死体は、群衆の暴徒により文字どおり殴る蹴るの暴行を加えられた後に、ロレート広場のガソリンスタンドで逆さ吊りにされた。それは、ナチス・ドイツの親衛隊によりファシストが、8月前に15人のパルチザンを処刑して死体を公開したロレート広場であった。




2024年10月19日土曜日

2024年4月9日に、ウクライナの首都キエフの独立広場で行われた葬儀で、ロシア軍との戦闘で死亡した2人のウクライナ軍兵士に弔意を表する人々が集結した。

2024年4月9日に、ウクライナの首都キエフの独立広場で行われた葬儀で、ロシア軍との戦闘で死亡した2人のウクライナ軍兵士(セルヒイ・コノバルとタラス・ペトルシュン)に弔意を表する人々が集結した。ウクライナのいたるところで、戦死したウクライナ人の死体が毎日故郷に帰った。首都キエフでは、ウクライナ軍兵士の死体を乗せた2つの木製の棺が、2014年のウクライナの民主化デモの中心地である独立広場に厳粛なパレードで運ばれて、弔問客がひざまずく中で、ウクライナ塀の死体の逝去を見送った。

  人口4400万人のウクライナ国が、隣国のロシアによる全面的な侵攻を2年以上の間は防御してきた。議会の内紛で重要なアメリカの援助が滞って、世界の注目が明らかに弱くなり、深刻な戦争疲れ、すべてがウクライナに大きな犠牲を強いた。最前線では、疲弊したウクライナ軍兵士がロシア軍の進撃をかわしながら、軍民の犠牲とともに不安も高まった。2024年4月頃に毎日、私たち兵士は戦死していると、33歳のマルタ・トマキフは、数日前に東部で戦死したウクライナ西部の故郷の友人を悼んだ。

 戦地から何百kmも離れた首都キエフではあるが、戦死した兵士を追悼する青と黄色の旗が戦争の象徴としてはためいた。国連のウクライナ人権監視団によると、ロシア軍の攻撃で、2024年3月には少なくとも604人のウクライナ市民が死傷した。ウクライナの広大な領土がますます脆弱になる中で、東部の町アブディフカは2024年2月にロシア軍に陥落した。ウクライナ政府は、進行中のイスラエルに対する大規模なイランのミサイル攻撃とドローン攻撃を阻止したイスラエルとアメリカの同盟軍に、公の場で沈黙した。

  2022年2月24日からロシア軍の全面侵攻以来最大の501人のウクライナ軍兵士の死体をウクライナに返還した、ウクライナ当局が2024年10月18日に発表した。ウクライナの捕虜待遇調整本部は、死体のほとんどはウクライナ東部のドネツク地方、主にアヴディフカの都市周辺で戦死したと述べた。法執行機関と法医学の専門家が、犠牲者の身元を確認して、遺族に引き渡されて埋葬されるという。



















Warning: People pay their respects to two Ukrainian servicemen killed in a battle with Russian troops during the funeral ceremony in Independence Square in Kyiv on April 9, 2024. (Efrem Lukatsky / Associated Press)

2024年10月18日金曜日

ドイツのライプツィヒの副市長兼市会計であり53歳の夫のエルンスト・クルト・リッソが机で、50歳の妻のレナーテ・ステファニーと20歳の娘のエバートが1945年4月18日に執務室で自殺した。

ドイツのライプツィヒの副市長兼市会計である53歳の夫のエルンスト・クルト・リッソが机で、50歳の妻のレナーテ・ステファニーと20歳の娘のエバートが1945年4月18日に執務室で自殺した。リッソは机で、レナーテとエバートはソファーで毒薬の青酸カリを服用して自殺した。アメリカ軍兵士による捕縛を避けるため、ライプツィヒ新市庁舎で青酸カリによる自殺を遂げた。リッソは、ドイツ赤十字の腕章をつけた。死の写真に、妻のレナーテ・リッソは夫の向かって座り、赤十字の腕章をつけた娘のレジーナがベンチに座っていた。

 アメリカ軍は1945年4月18日にラートハウスを突破して、4月19日朝から攻撃を開始した。 アメリカ軍の戦車は7時30分から9時10分までラートハウスに向けて砲撃を行って、捕虜となったドイツ軍将校が降伏の最後通牒を持ち込んだ。別の部屋で青酸カリで自殺した市長アルフレッド・フライベルクとその妻、娘、前市長でフォルクススツルム大隊長のクルト・ヴァルター・デニッケとその将校数名も新市庁舎で発見された。アメリカ軍はドイツ軍少将1名、下士官175名、ゲシュタポ13名を捕らえた。アメリカ国旗は正午頃に、ラートハウスに掲げられた。リッソの自殺の現場は、ロバート・キャパ、マーガレット・バーク=ホワイト、リー・ミラー、アメリカ陸軍信号隊によって特に広範囲に撮影された。

  ソ連赤軍と西側連合軍がベルリンに迫ってくると、自殺者が増えた。1945年春に、何千人ものドイツ人が、占領や勝者による虐待に避けて自殺した。 ベルリンの戦いでは4月中に約3,881人が自殺したと記録された。動機は「ロシア軍の侵攻への恐怖」だけでなく、連合軍によって解放された地域でも自殺は起きた。アメリカ群は、1945年7月にソ連軍との国境線から占領区域の境界まで撤退した。ライプツィヒはソ連赤軍に引き渡された。ライプツィヒは東ドイツ(ドイツ民主共和国)の主要都市の一つとなった。




2024年10月17日木曜日

ロシア軍は、1905年に奉天会戦でのロシア軍兵士の67人の死体群を集団埋葬地の近くで取り囲んだ。死体群の周囲では、ロシア軍兵士がシャベルで集団墓地を掘った。

ロシア軍は、1905年に奉天会戦でのロシア軍兵士の67人の死体群を集団埋葬地の近くで取り囲んだ。死体群の周囲では、ロシア軍兵士がシャベルで集団墓地を掘った。奉天会戦は、日露戦争の最大の陸上戦の一つであり、最後の終結的な陸上戦闘となった。1905年2月20日、日本軍がロシア軍の左翼を攻撃して勃発した。2月27日、日本軍第4軍が右翼を攻撃し、他の日本軍もロシア軍の前線を攻撃した。同日、日本軍は奉天の北西で広範囲にわたる移動を開始した。1905年2月20日から3月10日にかけて、満州国の奉天(現在の瀋陽)付近で日本軍とロシア軍の間で戦われた。約61万人が参戦して、約16万4000人が戦死傷した。当時の世界史上最大の戦闘でもあった。3月7日までに、クロパトキン将軍は奉天の西側で日本軍から退避するため、奉天会戦から完全撤退し始めた。

 帝政ロシアにてヴィクトル・ブッラは、1904年から05年にかけての日露戦争で、19歳の少尉としてシベリア予備旅団の従軍カメラマンとなった。日露戦争にて、ダリン峠と奉天の戦い、エルダゴウ、ズニオ、サンデプ、ラナファン、プチロフの丘での行動、ミシェンコ将軍の襲撃、その他戦争の重要な事件を撮影した。ヴィクトルの前線レポートは、最も人気のあるイラスト雑誌「ニーヴァ」(戦場)、「イスクリ」(火花)、ロシアの主要新聞に広く掲載され、世界中で再版された。

 ロシアに帰国後に、ロシア皇帝の宮廷、政府、軍事活動の公式写真を独占的に制作する権利を持つカール家の写真代理店に入社した。ヴィクトルは、第一次世界大戦、ロシア革命、内戦の大規模な写真ギャラリーを制作し、事実上、初期のソビエト政府の公式写真家となった。要注意として、1935年までに写真約20万点が政府公文書館に接収された。1938年6月23日には冤罪で逮捕され、拷問によりソ連に対するスパイ活動を自白させられ、1938年10月に銃殺された。ヴィクトルの名前は、1980年代後半のゴルバチョフのペレストロイカまで、すべての公式資料から抹消された。






2024年10月16日水曜日

1945年9月5日にカナダに亡命したウクライナ人のイゴール・グゼンコは、防護服を着用して、カナダで活動するソ連のスパイ・ネットワークを証言して暴露した。

ウクライナ人のイゴール・グゼンコは、防護服を着用して、カナダで活動するスパイ・ネットワークを証言して暴露した。スパイ以外では知ることのできない核兵器の原子力の秘密を盗み出した。カナダのオンタリオ州の首都のオタワ大使館で、暗号担当職員を務めていたウクライナ人のイゴール・グゼンコは、1945年9月5日にカナダに亡命した。ソ連のクレムリン当局は第二次世界大戦直後にかつての第二次世界停戦の同盟国と表面上は友好的な関係を保ちつつ、慎重にスパイ活動を活性化させた。グゼンコ事件はオタワの世論から世界の冷戦が勃発した。

 首都ワシントンのFBIは、アメリカにおけるナンバーワンの赤のスパイとしてゲルハルト・アイスラーを摘発した。彼はポーランドの客船に密航して、イギリスで引きずり降ろされて尋問を受けた。その後にモスクワに送還された。ワシントンFBIはまた、国務省高官であったアルジャー・ヒスを含む数人のアメリカ政府職員を破壊活動家と断定し、ヒスは偽証罪で投獄された。

 エセルとジュリアス・ローゼンバーグ夫妻は、マンハッタンの機械工で、デビット・グリーングラスの義理の兄弟が、ロスアラモスで原子爆弾開発に携わっていた。夫妻は裁判で、有罪判決を受けて、最高裁判所への上告を経て、死刑が確定して電気椅子で処刑された。

 ロシアでは、鉄のカーテンの中でスパイ行為を行ったとして多くの人物を告発し、投獄したり、即決で処刑した。無実の罪で有名な2つの事件は、ハンガリーのヨセフ・ミンデント枢機卿と、プラハにいたAP通信のウィリアム・オアティス特派員がいた。

 ソ連のクレムリンは1946年にアメリカのミズーリ州フルトンで行った有名な演説で、ウィンストン・チャーチルは「鉄のカーテン」と名付けた国境の壁を構築した。バルト海から黒海にわたる新たな国境に沿って延びる構造物を構築した。ソ連の内務人民委員部(MVD)やその他の特殊部隊によって警備され、物理的には、監視塔、サーチライト、地雷、機関銃、警察犬と警備員が配備され、無人の土地に張り巡らされた電流の流れた有刺鉄線が設置された。鉄のカーテンは、西側の思想に対するイデオロギーの障壁でもあった。



2024年10月15日火曜日

1911年9月に、エフライム・ハーンが率いるペルシア帝国軍に敗北して捕らえられた後に、元国王のシャーの有名な将軍アルシャドゥッダウラは反逆者として処刑された。

1911年9月に、エフライム・ハーンが率いるペルシア帝国軍に敗北して捕らえられた後に、元国王のシャーの有名な将軍アルシャドゥッダウラは反逆者として処刑された。銃殺で処刑された直後に、アルシャドゥッダウラの死体の周囲にはペルシア帝国軍兵士が取り囲み見下した。

 1911年9月5日火曜日朝11に時、エフライム指揮下のペルシア帝国軍は、アルシャドゥッダウラ率いるトルコ人とペルシャ人の約2,000人からなる約1400人が騎乗した元国王のモハマド・アリー・シャー・カジャールの軍を攻撃した。ペルシア帝国軍は、バクティヤール人約500人、アルメニア人志願兵および憲兵約180人、シュナイダー砲3門、マキシム機関銃1門で構成された。バクティヤール騎兵隊は、他のサルダリ・バハードゥルとサルダリ・ムタシェムの直接指揮下にあった。アミール・ムジャーヒド率いるペルシアペルシア帝国軍は、イマームザーデ・ジャッファル近辺のアルシャドゥード・ダウラと対峙する地点からさらに南に3.2kmの地点にいた。ペルシア帝国軍はバフティアリー兵約400人と数名の憲兵で構成された。正午の午後1時間前に、アルシャドゥード・ダウラは、4門の大砲で守られた約800m四方の丘に陣取った。300人のトルコ人をベラミン村に送り込み、パニックを引き起こした。その朝早く、エフライム率いるペルシア帝国軍がその近辺に到着したとき、アミール・ムジャヒド軍とトルコマン軍の間で銃撃戦が起こった。

 エフライムは、マキシム機関銃とサルダール・イ・バハードゥルと騎兵隊を率いて、アルシャドゥッダウラ軍の右翼の周辺の高台に向かわせた。ペルシア帝国軍は誰にも見つからずに有利な位置に到達して、マキシム機関銃でトルコ人たちに発砲した。後に捕虜となったアルシャドゥッダウラ自身の話では、マキシム機関銃のけたたましい銃声にトルコ人たちはひどく怯え、指揮官たちは混乱に陥った。秩序を回復できず、サルダール・イ・バハードゥル率いるバクティヤール族の騎兵隊が突撃すると、混乱のなかで崩れ去り逃げ出した。アルサドゥッダウラは足を負傷し、逃げることができず、バクティアリーの部隊に捕らえられて処刑された。エフラム・ハーンは1912年5月19日、ケルマンシャーハン州のシュルチェでの戦闘の最中に殺された。




2024年10月14日月曜日

1941年12月5日のソ連軍のジューコフ総司令官の反攻は、ドイツ軍に大打撃を与えた。1941年から1942年の凍てつく寒さと降雪で冬戦争における戦闘地域に死体が散乱した。

ドイツ軍の装備の不備と冬服の不足は、最終的にモスクワの戦いは、ドイツ軍にとって致命的となった。 1941年12月5日のソ連軍のジューコフ総司令官の反攻は、ドイツ軍に大打撃を与えた。1941年から1942年の冬戦争における戦闘地域に死体が散乱した。1941年12月に、凍てつく寒さと降雪でドイツ軍兵士は撤退を余儀なくされた。 

 1941年6月22日にソビエト連邦に侵攻した。ヒトラーは1941年10月にドイツ軍にモスクワへの進撃を命じた。10月7日に初雪が降り、すぐに溶けて道路や空き地が泥沼と化した。泥沼の戦いの後に、厳しい霜がさらなる前進を阻止した。10月15日の夜に、ドイツ軍はモスクワの主要な防衛線を突破した。10月20日にソ連軍の前線を粉砕した。1941年11月には、零下40度にもなる恐ろしいロシアの冬が始まった。冬の戦いにまったく適応していないドイツ軍は、凍傷による大きな損失を被った。極東から投入されたソ連軍の反撃にも苦しめられた。ドイツ軍の攻撃力は、首都モスクワから35~40kmの地点でついに崩壊した。モスクワのドイツ軍戦線は、北部および南部においても撤退を余儀なくされた。1941年12月19日にヒトラーはドイツ軍のブラウヒッチュ将軍を解任して、国防軍を個人的に指揮した。

 ロシアでの戦いでは、双方にとってこれまでにないほどの残酷さで遂行された。多くのロシア人捕虜が輸送中に死亡した。ヒトラーは、とりわけ、ロシアの各部隊に必ず存在する共産主義の政治委員をその場で射殺するように命令した。占領地域では、ドイツの文民当局がロシア人をひどく扱った。1942年1月にドイツ国防軍の公式死傷者日報によると、1941年10月1日から1942年1月10日までの間に、ドイツ中央軍全体の戦死者35,757人、負傷者128,716人、行方不明者9,721人となっている。1941年10月から1942年1月までのソ連軍の死傷者数は653,924人としている。




2024年10月13日日曜日

ロシア軍の捕虜になる前となった後、ウクライナ軍兵士のオレクサンドル・ヒリツィウクの生前は身長180cmで体重は110kgから50kgに衰弱した死体が2024年1月に返還された。

ロシア軍の捕虜になる前となった後、ウクライナ軍兵士のオレクサンドル・ヒリツィウクの生前と身長180cmに対して体重は110kgから50kgに衰弱した死体が2024年1月に返還された。ウクライナ西部のヴォリン州出身のオレクサンドル・ヒリツィウクは、建設業者で働いて、2022年に全面的なロシア軍の侵略と戦うためにウクライナ軍に志願した。2022年4月に、ドネツク州のノボバフムチフカ近くで捕らえられ、ビャズマ収容施設に連行された。2023年11月にロシア軍の捕虜となって死亡し、2024年1月に骨と皮の痩せた死体が返還された。

 ロシア軍は、組織的に餓死、殴打、釘抜きなどで、ウクライナ軍捕虜を死ぬまで拷問していた。ロシア軍と捕虜となっていたウクライナ人の死体を返還された死亡証明書には、通常は死因として結核や心臓発作が記載された。ロシア軍の捕虜となったウクライナ人の死体には拷問や飢餓の兆候が目に見えて、ロシア軍の捕虜生活を生き延びたウクライナ人の目撃証言では、ロシア軍の非人道的な扱いと屈辱を証明した。オレクサンドルは背が高く、ウクライナ西部出身で、ロシア語を話すことを拒否して、最悪の拷問を受けた。ウクライナ人の囚人たちは1日に何度もロシア国歌を聴かされ、過酷な肉体労働を強制され、不十分な食事と定期的な殴打を受けて、多くの者が意識を失った。

 ウクライナの官僚システム内の問題にも焦点をあてて、ウクライナの役人は、ロシア軍の拷問による死因を認める一方で、結核や心臓発作など、ロシア軍が捏造したウクライナ人捕虜の医学診断を受け入れることが多かった。オレクサンドルを見れば、拷問を受けたのは明らかである。ロシア軍の死因を病死とするウクライナ当局に、彼の妻は同意できず、死亡診断書は受け入れないと訴えた。ロシア軍の文書には、オレクサンドルは結核で死亡したと記載され、ウクライナの法医学的検査でも結核が死因とした。ウクライナ人囚人に対する虐待や虐待は、ビャズマ第2拘置所に限らず、ロシアの42の拘置所全体に広がった。
















Warning: Comparison of Oleksandr Hrytsiuk before capture (left) and his deceased body after Russian captivity (right). Photo: Twitter/Special Kherson Cat

2024年10月12日土曜日

広島への原子爆弾投下の犠牲者である被爆者が、1945年9月12日に広島赤十字病院で、 頭部、肩、腕などの火傷の治療を受けている 。

          非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

                                           SC-212341



















SC-212341

A victim of the atomic bomb raid on Hiroshima, Japan

is treated at the Hiroshima Red Cross Hospital 

for burns on head, shoulders and arms. 9/12/1945

Signal Corps Photo WPA-45-33514 (Lt. Camp) 

released by BPR 10/3/1945

orig.neg.  Lot 12495 gef


SC-212341

広島への原子爆弾投下の犠牲者である

被爆者が、1945年9月12日に広島赤十字病院で

頭部、肩、腕などの火傷の治療を受けている。

通信隊撮影 WPA-45-33514(キャンプ中尉)

BPRにより1945年10月3日に公開

原本ネガ  ロット12495 gef


2024年10月11日金曜日

2024年のノーベル平和賞を「核兵器のない世界を実現するための努力と、核兵器が再び使用されてはならないことを証言によって示したこと」を理由に、日本被団協に授与することを2024年11月11日に公表しました。

ノルウェー・ノーベル委員会

2024年のノーベル平和賞を「核兵器のない世界を実現するための努力と、核兵器が再び使用されてはならないことを証言によって示したこと」を理由に、日本被団協に授与することを2024年11月11日に公表しました。

 広島と長崎の被爆者による草の根運動、通称「ヒバクシャ」は、核兵器のない世界を実現するための努力と、二度と核兵器を使用してはならないことを証言によって示したことが評価され、ノーベル平和賞を受賞する。日本被団協をはじめとする被爆者代表の並々ならぬ努力は、核兵器の使用が決して許されないという「核のタブー」の確立に大きく貢献しました。

 日本被団協 ノーベル平和賞 2024 設立:1956年 受賞時の居住地:日本、東京

授賞理由:「核兵器のない世界を実現するための努力と、核兵器は二度と使われてはならないことを証言で示したこと」 賞金:1/1

 証言を通じて、核兵器が二度と使われてはならないことを示したことに対して。

1945年8月に広島と長崎に投下された2発の米国の原子爆弾により、約12万人が死亡した。同数の人々が、やけどや放射線障害により後に死亡した。原爆投下から生き延びた人は65万人と推定されている。これらの生存者は日本語で「被爆者」と呼ばれる。

被爆者の運命は長い間隠蔽され、無視されてきました。1956年、地元の被爆者団体と太平洋核実験の被害者が合同し、日本被団協(にほんひだんきょう)が結成されました。この草の根運動は、すぐに日本最大の被爆者団体となり、最も幅広い被爆者を代表する組織となりました。

 日本被団協には2つの主な目的があります。1つ目は、日本国外に住む被爆者も含む、すべての被爆者の社会権および経済権の促進です。2つ目は、被爆者が経験したような惨禍を二度と誰にも経験させないようにすることです。

日本被団協は、被爆者の証言を通じて、核兵器の使用がもたらす悲惨な人道的影響について広範な啓発活動を実施してきました。「ノーモア・ヒバクシャ」というモットーは、ここから来ています。


The Nobel Peace Prize 2024

A powerful international norm stigmatising nuclear weapons

 The grassroots movement of atomic bomb survivors from Hiroshima and Nagasaki, also known as Hibakusha, is receiving the Nobel Peace Prize for its efforts to achieve a world free of nuclear weapons and for demonstrating through witness testimony that nuclear weapons must never be used again. The extraordinary efforts of Nihon Hidankyo and other representatives of the Hibakusha have contributed greatly to the establishment of a nuclear taboo.

   The Norwegian Nobel Committee has decided to award the Nobel Peace Prize for 2024 to Nihon Hidankyo “for its efforts to achieve a world free of nuclear weapons and for demonstrating through witness testimony that nuclear weapons must never be used again”

Nihon Hidankyo

The Nobel Peace Prize 2024

Founded: 1956

Residence at the time of the award: Tokyo, Japan

   Prize motivation: “for its efforts to achieve a world free of nuclear weapons and for demonstrating through witness testimony that nuclear weapons must never be used again” Prize share: 1/1

   For demonstrating through witness testimony that nuclear weapons must never be used again.

  The two American atomic bombs that were dropped over Hiroshima and Nagasaki in August 1945 killed approximately 120 000 people. A comparable number died later of burn and radiation injuries. It is estimated that 650 000 people survived the attacks. These survivors are known as Hibakusha in Japanese.

 The fate of the survivors was long concealed and ignored. In 1956, local Hibakusha associations along with victims of nuclear weapons tests in the Pacific formed The Japan Confederation of A- and H-Bomb Sufferers Organisations, shortened in Japanese to Nihon Hidankyo. This grassroots movement soon became the largest and most widely representative Hibakusha organisation in Japan.

  Nihon Hidankyo has two main objectives. The first is to promote the social and economic rights of all Hibakusha, including those living outside Japan. The second is to ensure that no one ever again is subjected to the catastrophe that befell the Hibakusha.

  Through personal witness statements, Nihon Hidankyo has carried out extensive educational work on the catastrophic humanitarian consequences of the use of nuclear weapons. Hence the motto “No more Hibakusha”.

2024年10月10日木曜日

ナチス・ドイツの残虐行為を調査する議会委員会の上院議員アルベン・W・バークレーは、1945年4月24日にドイツのワイマール州のブッヘンヴァルト強制収容所で残虐行為の犠牲となった収容者の死体を見詰めた。

ナチス・ドイツの残虐行為を調査する議会委員会のメンバーであるケンタッキー州選出の上院議員アルベン・W・バークレーは、1945年4月24日にドイツのワイマール州のブッヘンヴァルト強制収容所で直接に残虐行為の犠牲となった収容者の死体を見詰めた。死体は、ブッヘンヴァルトの火葬場の中庭に全裸の死体が山のように積み重なった。4月24日に、アメリカの上院と下院の議員10人が、ブッヘンヴァルト強制収容所に到着した。1949年から1953年まで、ハリー・S・トルーマン大統領の下で第35代アメリカ合衆国副大統領を務めた。 

 ブッヘンヴァルトはアメリカ軍が解放した最初の主要な強制収容所であった。1945年4月中旬以降に、アメリカ軍が遭遇した悲惨なナチス・ドイツによる残虐行為を記録した写真やレポートが西側諸国に広まった。連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー将軍の提案で、腐敗した死体を埋葬せずに、大勢のジャーナリスト、政治家、アメリカ軍メンバーにナチス・ドイツのホロコーストを解放した。

 ブッヘンヴァルト強制収容所の記録によると、収容所には少なくとも30カ国から24万人の囚人が収容された。少なくとも10,000人が絶滅収容所に送られ、約43,000人が収容所で死亡した。1945年4月6日に、ブッヘンヴァルト強制収容所から約28,500人の囚人が避難して、死の行軍で4人に1人が死亡した。1945年4月11日に、アメリカ軍(アメリカ第6機甲師団のパトロール隊)が解放する直前に、ドイツ軍の看守と将校は逃げ去って、収容者たちが後を引き継いだ。受刑者たちは、4月11日のうちに解放されたアメリカ軍を出迎えた。アメリカ軍は収容所の管理を引き受けた。まもなく、収容所は赤軍に引き渡された。収容所はソビエトに占領されるドイツの領域内にあった。第2強制収容所と改名されたブッヘンヴァルトは、1945年から1950年の間に、ドイツ人捕虜を収容し、そのうち7,000人が死亡した。




2024年10月9日水曜日

第二次世界大戦の太平洋戦争で、東京大空襲に出動した警防団員が、死亡した東京都民をトラックに収容し公園に集めて仮埋葬した。

第二次世界大戦の太平洋戦争にて、出動した警防団員が東京大空襲にて死亡した東京都民をトラックに収容して仮埋葬した(内外タイムス社の提供写真)。死体の収容と仮埋葬には、各区から人数割りで出勤を命じられた警防団員が当たった。まず死体をトラックに収容して、猿江公園や隅田公園の浅草側と本所側や錦糸公園に集めて、人名住所が明らかと不明者を区別した。近親の捜索に応じて、2から3日後に仮埋葬を行った。日本国民の士気に関わる死体は、早急に路上から人目に触れないように仮埋葬した死体数は、大体しか判明しなかった。

 1944年11月より開始されたアメリカ軍による東京空襲は、最初はその希望が小さかったために、被害は爆弾透過した際に死傷者を出した以外は、焼夷弾による被災者は出ても死者はあまり出なかった。1944年末から焼夷弾による火災地区が増大して、火災による死者が出るようになった。

 死体の収容の問題があったが、最も大規模で悲惨となったのは、1945年3月9日夜から3月10日にかけた東京大空襲であった。江東区から浅草、日本橋の隅田川近くの一帯に膨大な死者が発生した。東京都民には、火災した自宅に留まって防火して、家財を捨てて逃避はあまりしなかた。じゅうたん爆弾が、隅田川をはさんだ下町の一帯は火の海と化し、防火していた多くの東京市民は、殆ど煙にまかれて焼死や窒息した。白髭橋から吾妻橋にかけて道路から川辺に死体があふれて、両隅田公園や明治座に死体が散乱した。






2024年10月8日火曜日

第4次中東戦争にて1973年にイスラエル軍に対抗するパレスチナ人テロリストは、ゴラン高原を越えてイスラエル軍に持ち込んだ爆発物が誤って爆発した際に死亡した。

第4次中東戦争にて1973年にイスラエル軍に対抗するパレスチナ人テロリストは、ゴラン高原を越えてイスラエル軍に持ち込んだ爆発物が誤って爆発した際に死亡した。砂漠上にパレスチナ人の死体が散乱した。1972年の夏に、パレスチナ人のテロリストがミュンヘン・オリンピックに潜入して、11人のイスラエル人選手を殺害した。パレスチナのテロリスト集団が中東以外のイスラエルを標的とした大規模で注目度の高い攻撃力を示した。1970年代から80年代に、1974年のマアロット学校襲撃事件、1978年の海岸道路虐殺事件、1985年のアキレ・ラウロ号ハイジャック事件などが勃発した。

 第4次中東戦争は、ユダヤ教で最も神聖な日であるヨム・キプール(贖罪の日)に1973年10月6日に、イスラエル軍に対して、エジプトとシリアが率いたアラブ諸国連合が奇襲した。イスラエル軍は、1973年10月10日までに北部のシリア軍を撃退し、シナイ半島に駐留するエジプト軍を食い止めた。スエズ運河の橋やシリア・エジプト軍を攻撃する際には、ソ連製ミサイルには脆弱性があったが、イスラエル軍の戦闘機は、当時はエジプト軍とシリア軍の空軍を自由に攻撃できた。シリア軍に対して強力な反攻が開始されて、シリア軍の防衛線は押し戻された。シリアの後援者であるソ連が参戦する懸念があったために、シリアの首都ダマスカスへの脅威は回避された。

 シリア軍の戦力を減弱化したイスラエル軍は、次にスエズ戦線に向けて全力を傾けた。エジプト軍の戦車部隊は東進し、特にミトラ峠を確保しようとした。イスラエル軍の戦車と戦闘機による大規模な戦車戦でエジプト軍は撃退された。この勝利は、普段は意見が一致しないイスラエル軍の将軍たちを勇気づけ、決定的な反撃を開始させた。その狙いは、ビター湖の地域でスエズ運河を渡り、状況を一変させることだった。いくつかの困難にもかかわらず、スエズ運河の東側で予想外に強力なエジプト軍の抵抗に遭遇したが、橋頭堡を確保し、徐々に拡大していった。その結果、エジプト第3軍はほぼ孤立状態となった。エジプトが全面的な敗北に直面したことを理解したソ連代表団は、アメリカとソ連の支援を受けて、国連安全保障理事会は1973年10月24日に停戦を決定した。

 アラブ諸国は、1973年10月の初期の成功によって正当性を感じた。一方イスラエルは、第4次中東戦争の成果にも関わらず、将来のイスラエル軍による支配の不確実性を認識した。第4次中東戦争の影響からイスラエルとパレスチナの和平プロセスに貢献した。イスラエルがシナイ半島をエジプトに返還した1978年のキャンプ・デービッド合意にから、アラブ諸国として初めてイスラエルを承認したエジプト・イスラエル和平条約につながった。




 

2024年10月7日月曜日

キブンバ難民キャンプの道端にフツ族のルワンダ難民の死体が捨てられた。トラックがきて、死体を積んで行って捨てられた。

キブンバ難民キャンプの道端にフツ族のルワンダ難民の死体が捨てられた。この後にトラックがきて、死体を積んで行って捨てられた。推定で約120万人のルワンダ難民が、自国での内戦勃発後に、ザイール共和国へ避難した。ザイール共和国のキブンバ難民キャンプはゴマから北へ40分ほど、ルワンダとの国境に近く、ルワンダ難民キャンプの廃墟の上に建てられた。約10kmほど離れたルガレや約40kmほど離れたトンゴから難民が集まった。ギブンバ難民キャンプは、難民自身によって運営され、国連やNGOが難民委員会と協定を結び、難民キャンプ内でサービスを提供した。

 ルワンダ共和国にて、16世紀から少数部族のツチ族と多数部族のフツ族が対立した。1990年には、フツ族の政府軍とツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF)で内戦が勃発した。1993年8月に停戦合意したが、1994年4月に、ハビヤリマナ大統領の搭乗機が撃墜されて、内戦が再発して激化した。内戦で発生した大量の難民が、ザイール、タンザニア、ウガンダに流入した。1994年7月にルワンダ新政権が樹立されて、特にザイール共和国のゴマとブカブ地区を中心に約140万人を超えるルワンダ難民が流入した。その結果、ゴマとブカブ地区の難民キャンプは、コレラ、赤痢等が伝染病が流行して、一時は1日に約2,000人近い多数の死者が発生して、悲惨な危機的状況に陥った。

 約80万人を虐殺した側のフツ族側は、ルワンダで敗北したした事実を深く刻んだまま大量の難民が、コンゴ共和国に敗北の中に避難した。ルワンダ共和国内で政権を奪取した勝者のツチ族(RPF)は、殺害された側はフツ族を追及した。フツ族の殺人者たちを求めて深くコンゴ領内へと侵入した。敗者となったフツ族は、追われた祖国のルワンダへの帰還を信じて、コンゴ領内にできた難民キャンプからルワンダへの越境攻撃を仕掛けた。ルワンダ虐殺が1994年から1999年にかけてコンゴ戦争に変貌した。




2024年10月6日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した長崎高等商業学校(長崎経済専門学校, 爆心地から約3km)の中等度の損壊を1946年12月6日に撮影した。

                              非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団

アメリカ国立公文書館 2024年2月22日

(The National Archives College Park, Maryland) 

                                           SC-273263































SC-273263

487

FEC-47-70154

6 DECEMBER 1946

WRECKAGE AT THE COMMERCIAL SCHOOL IN NAGASAKI.

PHOTOGRAPHER: DR. PS. HENSHAW

Atomic Bomb DESTRUCTION DAMAGE 

RELEASED FOR PUBLICATION,BUREAU OF PUBLIC RELATIONS, WAR DEPARTMENT, WASHINGTON

Photograph by Signal Corps US. ARMY

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SC-273263
487
FEC-47-70154
1946年12月6日
長崎原子爆弾に被爆した長崎高等商業学校(長崎経済専門学校, 爆心地から約3km)は中等度に損壊した。
写真家: PS.ヘンショウ博士
原子爆弾による破壊の被害
ワシントン、戦争省報道局、公開用にリリース
写真: 米国陸軍通信隊
14468

追記: 校舎は中破程度の損壊に止まり、被爆者の救護所に充てられた。1945年9月以降は爆心地近くで壊滅的打撃を受けた長崎医科大学(長崎大学医学部の前身)の臨時本部がここに移転された。10月には新興善国民学校に移転された。

2024年10月5日土曜日

イスラエル軍がレバノン南部のエイン・デルブを2024年9月末に空爆した。その週末に多数の死傷者が出て、女性が2024年10月1日に開かれた集団葬儀で慟哭して嘆き悲しんだ。

イスラエル軍がレバノン南部のエイン・デルブを2024年9月末に空爆した。その週末に多数の死者が出たことを受け、女性が2024年10月1日に開かれた集団葬儀で嘆き悲しんだ。レバノン省庁は、9月29日のイスラエルに軍よるアインデレブ攻撃により、死者数が45人に達したと公表した。

 イスラエル軍は2024年10月1日から、国境を越えてレバノン南部に侵攻して、イランに支援されたイスラムシーア派過激派組織ヒズボラに対する地上攻撃を行った。ヒズボラ軍をイスラエル国境から遠ざけることを目的とした。まず、イスラエル国防軍は、レバノン南部のヒズボラ・テロリストの標的とインフラに対する地上空襲を開始した。イランの支援を受けたレバノンの民兵組織で政党であるヒズボラは、2023年10月7日のテロ攻撃以来にイスラエルと戦争状態にあるハマスを支援するため、10月8日にイスラエルへの発砲を開始した。

 イスラエルとレバノンの紛争の歴史は、1978年3月11日に、リタニ作戦でイスラエル軍は、テルアビブ近郊の民間バスを襲撃して35人を殺害、71人を負傷させたパレスチナ解放機構(PLO)の過激派を追ってレバノンに突入した。イスラエル軍兵士はレバノン南部でおよそ1週間を費やし、PLOをレバノンのリタニ川の北に追い出した。1982年に、イスラエル軍はレバノン南部に侵攻し、レバノンを拠点とするPLOを再び追い出した。戦争で派生したヒズボラは1997年以来、アメリカが指定したテロリストで、イランから資金援助を受け、イランの最高指導者ハメネイ師に忠誠を誓った。シーア派民兵組織は1980年代初頭にイスラエル軍に抵抗する目的で結成された。イスラエルは2000年にレバノン南部から撤退して、ヒズボラは人気を博した。2006年8月、両国の間で1ヶ月に及ぶ戦争が行われ、空爆と地上攻撃の両方が勃発した。34日間の紛争で、レバノンでは約1,200人、イスラエルでは43人が死亡した。その後17年間、両国はは国連安全保障理事会決議1701に従い、国境線での敵対行為を最小限に抑えた。















Warning: A woman mourns during a funeral Tuesday for people killed over the weekend in Israeli strikes on Ain Deleb in southern Lebanon. (Amr Abdallah Dalsh / Reuters)

2024年10月4日金曜日

ソ連軍兵士らや市民らが、白ロシア共和国であったベラルーシのモギレフの街の白兵戦で死亡した第27歩兵連隊第1大隊の3人のドイツ軍兵士の死体を横目に無視して通り過ぎた。

ソ連軍兵士たちや市民らが、白ロシア共和国であったベラルーシのモギレフの街角での白兵戦で死亡した第27歩兵連隊第1大隊の3人のドイツ軍兵士の死体を横目に無視して通り過ぎた。この都市は、1944年6月28日にI.D.チェルニアホフスキー少将が率いる第2白ロシア戦線によって解放された。ドイツ軍の第4軍の一部である第39軍団が防御するモギリョフ市は、ソ連軍の大規模な夏季攻勢である「バグラチオン作戦」によって圧倒された。ドイツ軍の中央軍集団は、この作戦で30個師団以上を失い、第二次世界大戦におけるドイツ軍最大の敗北となった。

 モギレフは、ひどく破壊され、すべてが死滅した。主要な通りにはドイツ軍兵士の死体が溢れた。パニックに陥ったドイツ軍兵士たちは、目の前を通り過ぎて後退した。救急車から、ドイツ軍の負傷者の叫び声やうめき声が発した。道路沿いの都市の廃墟で、道路に死体が散乱して、踏みつけられ、絶望的な叫び声が聞こえた。ヒトラーはモギレフを最後の一人まで守り抜くよう命じていた。

 第二次世界大戦の東部戦線にて、ソ連赤軍のモギレフ攻勢はベラルーシ戦略攻勢の一環であり、バグラチオン作戦と呼称された。ベラルーシのモギレフの都市を占領して、ドイツ第4軍の大部分を圧倒した。モギレフ攻勢は6月23日朝に、ソ連赤軍によるドイツ軍の防衛線に対する激しい砲撃で勃発した。バグラチオン作戦は、1944年にソ連のベラルーシ戦略攻勢作戦のコードネームである。1944年6月22日から8月19日にかけて勃発した。第二次世界大戦の東部戦線のバグラチオン作戦が、西部戦線のノルマンディ上陸作戦から2週間余り後に、ドイツ軍は開戦以来初めて2つの主要戦線を同時に遭遇した。ソ連赤軍はドイツ陸軍集団中央の34個師団のうち28個師団を破壊して、ドイツ軍の前線を完全に粉砕した。全体的な交戦はドイツ軍史上最大の敗北であり、約45万人のドイツ軍死傷者を出した。一方、他の30万のドイツ軍兵はクールランド・ポケットで断絶した。

 1944年6月22日、ソ連赤軍はベラルーシのドイツ陸軍集団中央を攻撃し、その主要構成軍を包囲して破壊して、6月28日までに、ドイツ軍の第4軍は、第3パンツァーと第9軍の大部分とともに崩壊した。ソ連赤軍はドイツ軍前線の崩壊から、ミンスク近辺のドイツ軍陣形をミンスク攻勢で包囲して、ミンスクは7月4日に解放された。ベラルーシにおけるドイツ軍の有効な抵抗が終結して、ソ連赤軍の攻勢は7月から8月にかけてリトアニア、ポーランド、ルーマニアへと続いた。




2024年10月3日木曜日

ローデシアのソールズベリーにて、モザンビークとの国境に近いイニャンガ山脈で活動する民族主義ゲリラは、27人の茶園労働者を1976年12月19日遅くに一網打尽に銃殺した。27人の妻や家族は、親族の亡骸を見詰めた。

アフリカのローデシア戦争におけるテロリストの標的の一つは、白人が所有する農園で働くアフリカ人労働者であった。アフリカ人労働者は裏切り者とみなされて、1976年にはモザンビーク国境近くの紅茶農園で、27人の労働者が一斉に捕らえられて、銃殺された。アフリカ人労働者の家族らは恐怖に震えて見詰めた。ローデシアのソールズベリーにて、モザンビークとの国境に近いイニャンガ山脈で活動する民族主義ゲリラは、27人の茶園労働者を1976年12月19日遅くに一網打尽に銃殺した。無残にも銃殺された27人の妻や家族は、親族の亡骸を見詰めた。ローデシア治安部隊によると、民族主義ゲリラが茶園労働者を別の茶園に連れて行って、そこで殺害した。

 ローデシア・ブッシュ戦争(Rhodesian Bush War)は、1964年7月から1979年12月にかけて、国連の未承認国であるローデシアで起こった内戦である。この内戦では3つの勢力が対立する紛争が勃発した。イアン・スミスが率いるローデシア政府軍、ロバート・ムガベ率いるジンバブエ・アフリカ民族同盟の軍部であるジンバブエ・アフリカ民族解放軍、ジョシュア・ンコモのジンバブエ・アフリカ人民連合のジンバブエ人民革命軍と、3つの勢力が互いに対立して紛争した。この内戦とそれに続く1978年にスミスとムゾレワが調印した内部和解により、1979年6月に普通選挙が実施されて、ローデシアにおける少数派の白人支配は終わりを告げた。黒人多数派政府の下でジンバブエ・ローデシアと改名された。しかし、この新秩序は国際的な承認を得ることができず、内戦は継続した。

 1979年12月、ジンバブエ・ローデシア政府、イギリス政府、ムガベとンコモの統一「愛国戦線」の交渉がロンドンのランカスター・ハウスで行われ、ランカスター・ハウス協定が調印された。一時的にイギリスの支配下に戻り、1980年3月にイギリスと英連邦の監督の下で新たな選挙が行われた。この選挙でジンバブエ・アフリカ民族解放軍(ZANU)が勝利し、ムガベは1980年4月18日にジンバブエの初代首相となり、国際的に承認され独立を達成した。ローデシア政府の統計によると、1964年から1982年の間に、ローデシア軍兵士2,000人以上、ゲリラ15,000人以上、黒人市民10,590人、白人市民1,247人を含む、合計20,000人から30,000人が殺害された。




2024年10月2日水曜日

中国国民党の保安隊は、1948年2月に中国共産党のゲリラ指導者である42歳の丁西山の首を城壁に吊るして公開した。共産党ゲリラの死体の周りに無言の群衆が集まっていた。

中国国民党の保安隊は、1948年2月に中国共産党のゲリラ指導者である42歳の丁西山の首を城壁に吊るす準備をした。保安隊はゲリラのリーダーであった丁西山の首を切り落として、城壁に吊るして公開した。丁西山など共産党ゲリラの死体の周りには無言の群衆が集まっていた。共産ゲリラ部隊の一部が捕らえられて銃殺されて、死体が上海の城壁の外の川の浜辺に公開された。国民党による中国共産党員の処刑を撮影した写真である。

 1948年2月13日に中国人民解放軍は、蘇州・浙江国境地帯のゲリラ隊長の丁西山が60人以上のゲリラを率いて南下した。上海市奉賢県前橋の胡佳ドックに到達した時に、裏切り者の密告により国民党軍に包囲された。丁西山大尉が率いる共産党率いるゲリラ部隊は、上海の松江県庁所在地への武力攻撃に失敗した。ゲリラは捕らえられて、主要メンバーは松江駐屯の保安隊によって死刑で殺害された。リーダーの丁西山は公衆の面前で斬首されて、頭部は城壁に吊るされて公開された。上海解放後に、丁西山の遺骨は上海龍華烈士墓地に埋葬された。

 1927年に、中国国民党の蒋介石は党内掃討の名目でクーデターを起こして、共産党員を追い詰めて殺害し始めた。1940年7月15日には日本軍の傀儡の王景偉政権がクーデターを起こし、共産党との協力体制は完全に崩壊して、両者の長い内戦が始まった。1945年の日本軍に対する抵抗戦争終結後に、中国共産党と再び内戦状態に陥った。相互の敵対期間中に、国民党は何度も中国共産党員を逮捕し、公開処刑して殺害した。中国内戦の中国共産党革命で国民党に勝利した中国人民共和国の毛沢東は1949年10月1日、正式に中華人民共和国を宣言した。




2024年10月1日火曜日

ドイツ軍は、ソ連のピャチゴルスクで約200人のソ連軍の捕虜を射殺した。ドイツ軍は、親族が死体を埋葬に来るようにと、それまでソ連軍の捕虜の死体を寝かせたままにした。

ドイツ軍は、ソ連のピャチゴルスクで約200人のソ連軍の捕虜を射殺した。ドイツ軍は通常に、親族が死体を埋葬に来るようにと、それまでソ連軍の捕虜の死体を寝かせたままにした。ドイツ軍は、ソ連軍がピャチゴルスクに接近した時に、ドイツ軍はドイツに避難させるという口実で捕虜にした数百人のソ連軍兵士や指揮官、民間人を街の外に連れ出して、機関銃で射殺した。

 第二次世界大戦の東部戦線にて、1942年8月9日にドイツ軍は、ロシア南部の北コーカサス地方に位置するピャチゴルスクを占領した。アインザッツグルッペ Dの本部は1942年にピャチゴルスクにあった。ドイツ軍の占領はこの地域の多くのユダヤ人住民の殺害をもたらした。1943年1月11日にソ連軍が、ピャチゴルスクを解放した。

 1942年8月9日、ドイツ軍の第一パンツァー軍は2週間足らずで480km以上侵攻して、コーカサス山脈のふもとのマイコップに到達した。マイコップ近郊の西部油田は8月8日から9日にかけてのコマンド作戦で占領された。ソ連赤軍は、油田を十分に破壊して、修復には約1年を要した。その直後の8月9日に、ピャチゴルスクが占領された。8月12日にはクラスノダールが占領され、ドイツ軍の山岳部隊がコーカサスの最高峰エルブルス山にナチスの旗を掲げた。

 1942年7月末に、ドイツ軍の夏の攻勢の間に、第3軍がドン河下流から南、南東へと侵攻した。第1パンツァー軍がロストフ南方のマイコップまで侵攻する一方で、第4軍と第17軍はピャチゴルスクまで侵攻して、コーカサスまで達した。1942年12月の時点で、ドイツ軍は征服された領土と通行不可能な山岳地帯から撤退した。約13万人のドイツ軍兵と約34万人以上のソ連軍兵士とソ連市民が、恐ろしい攻撃の犠牲になった。行方不明の兵士の多くは、コーカサス山脈での行軍や戦闘で戦死した。