2024年4月4日木曜日

1943年12月18日に、カッシーノ近郊のパンタノ山岳にて、戦死したドイツ軍兵士が、瓦礫の戦場の沿って横たわった。ドイツ軍兵士の死体が、石垣の谷間に散在して放置された。

第二次世界大戦のイタリア戦線のモンテ・カッシーノの戦いで1943年12月18日に、カッシーノ近郊のパンタノ山岳にて、戦死したドイツ軍兵士が、瓦礫の戦場の沿って横たわった。ドイツ軍兵士の死体が、石垣の谷間に散在して放置されていた。ドイツ軍兵士の死体の中には、皮靴をはがされた兵士も含まれた。

 モンテ・カッシーノの戦いは、連合国軍が、イタリア侵攻中にドイツ軍とファシスト・イタリア軍が保持した陣地に対して4回にわたり攻撃した。連合軍は、両軍の戦死者が散乱する丘を越えて、険しい地形と厳しい天候の中を連合軍は北上した。1943年12月に、雲の上で繰り広げられたモンテ・パンターノの戦いは、苛烈なイタリア作戦のでも最も激しい戦いの一つであった。

 1944年1月17日は、モンテ・カッシーノの戦いの初日となった。連合軍がイタリアの枢軸国防衛線を突破し、ローマまで突破し、第二次世界大戦を終結に向けた大規模な作戦であった。モンテ・カッシーノの前に、連合軍はまずドイツ軍の冬期防衛線の錨であるモンテ・パンターノを攻略した。ドイツ軍は迫撃砲や大砲でパンターノ山を激しく爆撃して、戦闘機でこの地域を空爆した。イタリア軍とドイツ軍による多数の防衛線は、連合軍の首都ローマへの北進を著しく妨げた。4ヶ月間のモンテ・カッシーノの戦いは激戦となり、連合軍に多大な損害を与えた。

 ドイツの防衛線の中心に位置する築1400年のモンテ・カッシーノ教会から戦いの名称となった。戦闘中にアメリカの爆撃機によって、教会は大きな被害を受けた。モンテ・カッシーノの攻撃は、1月、2月、3月、3月の4つの戦闘が展開された。5月16日に、連合軍の砲撃によりついに陥落し、枢軸国軍の防衛線が崩壊した。最終的なローマ占領までに多大な犠牲を伴って、連合軍とドイツ・イタリア軍の全陣営で少なくとも12万5,000人から18万5,000人もの死傷者が出た。